それから数日がたち、体調が回復した後、クロは「死ぬ気でやる」と宣言した。
「……倍だ。今日からメニューを倍にするぞ、クロ」
俺が提示した、中1のウマ娘がこなすにはあまりに過酷な練習表を見て、あいつはニヤリと不敵に笑った。
「……へっ、上等だ。お前がその気なら、オレが音を上げるわけねーだろ」
生理の痛みから回復した後のクロは、何かに取り憑かれたようだった。
学園中に流れる「候補生との不純な噂」も、ダイヤちゃんの冷たい視線も、すべてを振り払うようにアスファルトを蹴った。
俺たち中等部の候補生ペアに、学園の恵まれたターフ(芝)の使用が許されるのは、金曜日の放課後だけだ。
それ以外の六日間は、朝5時から夜の門限ギリギリまで、ただひたすらに府中の街中を走るしかない。親友として、トレーナーとして、俺はあいつの「男のプライド」に応えたかった。ここで甘やかすことが、あいつを一番傷つけると分かっていたから。
だが、現実は残酷だった。「男の根性」で物理法則は捻じ曲げられない。
俺が倍に増やしたメニューは、クッションのない硬いアスファルトの上で、成長期のあいつの脚を確実に、内側から蝕んでいたのだ。
初レースを2週間後に控えたの雨の日。
金曜日じゃない、ただの平日。
濡れて滑りやすくなった硬い路上で、クロの右脚がついに悲鳴を上げた。
「……あ、…………っが!!」
ダッシュの最中、鋭い破裂音のような音が響き、クロが激しく転倒した。
慌てて駆け寄った俺が見たのは、冷たい泥水にまみれて悶絶する、一人の小さなウマ娘の姿だった。
「クロ!! 足を見せろ!!」
「……触るな! 大丈夫だ……まだ、走れる……っ!」
強がるあいつを無理やり押さえつけて確認すると、右足首の上部が異常に腫れ上がっている。……シンスプリントの悪化か、あるいは疲労骨折か。俺が課したメニューと、容赦のないアスファルトの硬さが、あいつの身体を破壊してしまったんだ。
「……今すぐ病院行くぞ。折れてるかもしれない」
「……嘘だろ。……おい、カズユキ……。冗談だよな……?」
クロの瞳から、みるみるうちに光が消えていく。
雨に打たれながら、あいつは自分の動かない脚を、震える手で何度も叩いた。
「……デビュー戦まで、あと少しなんだぞ……! ダイヤちゃんに勝たなきゃいけないんだ……! なんで……なんで俺の身体は、こんなに……っ、弱ぇんだよ!!」
あいつは泥水を跳ね上げながら、地面を殴りつけた。
「男」の意志に「女」の身体が、そして「子供」の骨格がついてこなかった。俺が信じたあいつの根性が、皮肉にもあいつ自身を壊してしまった。
◇ ◇ ◇
夜、医務室。
包帯でガチガチに固められた脚をベッドから投げ出し、クロは無言で天井を見つめていた。医師の診断は「全治一ヶ月」。デビュー戦に出るには、絶望的な数字だ。
「……悪い。……カズユキ」
掠れた声で、クロが呟いた。
「……お前が信じてくれたのに。……オレ、……結局、ただの『出来損ない』だったわ。……お前のキャリアにも、傷つけちまったな」
自嘲気味に笑うその顔は、もう怒る元気すら残っていない。
「……俺のせいだ。ターフも使えない環境で、メニューを組んだ俺が、お前を壊した。……すまなかった、クロ」
絞り出すような俺の声が、無機質な医務室に響いた。
悔しくて、申し訳なくて、握りしめた拳が震える。中1の俺に、あいつの「男の意地」を受け止めるだけの器量も、知識もなかったんだ。
「……謝るなよ。決めたのはオレだ」
クロは天井を見つめたまま、力なく笑った。
「カズユキ……。オレさ、心のどこかで『ウマ娘』の身体を舐めてたんだな。男の根性さえあれば、どんな無理でも効くって。……でも、実際は血は出るし、骨は悲鳴を上げる。……情けねぇよ。お前のせいにさせてくれれば楽なのに、お前に謝られるのが一番きつい……」
その時だった。
コンコン、と控えめな、けれど拒絶を許さないほど硬い音がドアを叩いた。
「失礼します」
入ってきたのは、サトノダイヤモンドだった。
その手には、お見舞い用の立派な果物かごではなく、一冊の分厚いファイルが握られている。
「……ダイヤちゃん」
クロが気まずそうに顔を背ける。あの日、あんなに冷たく突き放した手前、今の無様な姿を見られるのは耐え難いんだろう。
けれど、ダイヤちゃんはそんなクロの様子を無視して、俺の前に歩み寄った。
「カズユキさん。あなたがメニューを倍にしたと聞いたとき、いつかこうなると思っていました。……あなたは、キタちゃんの『心』は見ても、『身体』を見ようとしませんでしたね」
彼女の言葉は、鋭いナイフのように俺の胸に刺さった。
「ですが、それはキタちゃんも同じ。……二人して、なんて無茶な。……これを見てください」
彼女が机に置いたファイルには、リハビリテーションの専門的なメニューと、水中で行えるウマ娘用のトレーニングプランが詳細に記されていた。
「……これ、サトノの専属チームが作ったやつか?」
俺が尋ねると、ダイヤちゃんは静かに頷いた。
「今のキタちゃんの足に負担をかけず、けれどデビュー戦を諦めないための唯一の道です。……カズユキさん、あなたがこのメニューを管理してください。……キタちゃんを『ランナー』として立たせることができるのは、私ではなく……結局、あなたしかいないようですから」
ダイヤちゃんは、ベッドの上のクロを見つめた。
その瞳には、学園でできた新たな友人への慈しみと、そして「いつか必ずターフで屈服させる」というライバルとしての炎が混ざり合っていた。
「……キタちゃん。私、デビュー戦で、あなたがいないゴールを駆け抜けても、ちっとも嬉しくありませんから。……必ず、戻ってきてくださいね」
ダイヤちゃんが部屋を出ていった後、室内には重苦しい沈黙と、差し出された「希望」が残された。
◇ ◇ ◇
数日後。
学園の屋内プール。
クロはサトノ家が用意した機能性重視の競泳水着に身を包み、腰まで水に浸かって歩行訓練を始めた。
「……浮力がある分、マシだけどよ。やっぱり、なんか落ち着かねぇな」
脚に負担をかけないための水中トレーニング。だが、ここはターフ以上に「ウマ娘の身体」を意識せざるを得ない場所だ。濡れて肌に張り付く水着、しなやかな曲線を描くアスリートとしての肉体。そして何より、周囲の視線が最悪だった。
「……見て、あの二人。怪我したって聞いたけど、結局プールでもずっと一緒なのね」
「あの候補生、怪我をさせた責任を取るふりして、ずっとキタサンブラックにべったりじゃない」
「水着姿まで独り占めして……本当、何を考えてるんだか」
プールの壁際に集まるウマ娘たちの間で、あの「不潔な噂」はさらに尾ひれがついて広がっていた。
「…………ッ」
クロが水面下で拳を握り、肩を震わせる。ターフの上なら「走りの速さ」で見返せた。だが、今はまともに歩くことすらおぼつかない。言い返す気力さえ削り取られそうな、陰湿な空気。
「……ふぅーっ」
突然、クロが大きく息を吐いたかと思うと、バシャッ! と音を立てて、水面の中に勢いよく顔を突っ込んだ。
ブクブク、ボコボコ……。
水面から、大量の気泡が湧き上がってくる。
それはまるで、行き場のない怒号や、罵詈雑言や、やるせない感情が、言葉になる前に空気の塊となって吐き出されているようだった。
黒髪が水中でゆらゆらと広がり、美しい顔を覆い隠す。端から見れば「顔つけの練習」か、あるいは溺れかけているように見えるかもしれないが、俺には分かる。あいつは今、水の中で叫んでいるんだ。誰にも聞こえない声で、理不尽な世界に対して。
――数秒後。
ザバァッ! と盛大に水しぶきを上げて、クロが顔を上げた。濡れた前髪が顔にべったりと張り付き、長いまつ毛から滴る雫が、涙なのかプールの水なのか、判別がつかない。ただ、熱くなっていた頬の赤みだけは、冷たい水で少しだけ引いていた。
「……カズユキ、悪い。俺のせいで、お前まであんな言われ方して……」
クロは下を向いたまま、小さな声でこぼした
「……もしさ。もしあいつらの言う通り、オレが『ただの普通な女の子』だったら……お前、オレを捨ててたか?」
冗談めかそうとして、失敗した声。
中1の男子が抱くにはあまりに脆い、自分自身への不信感。
「…………」
俺は無言で水に入り、クロの隣に並んだ。そして、周囲のウマ娘たちを睨みつけるわけでもなく、ただあいつの肩に手を置いた。
「……捨てねーよ。お前がにんじん食ってた頃からの相棒だろ」
「……カズユキ」
「噂なんて言わせておけ。……ほら、次のメニューだ。ダイヤちゃんがくれたプラン、全部こなすぞ。あいつに『お情けで助けて損した』って言わせてやるんだ」
クロは一瞬、驚いたように俺を見たが、すぐにフッと短く笑った。
「……へっ、違げーねぇ。……そうだな。オレは、オレなんだ」
クロは顔を上げ、周囲の視線を跳ね返すような、力強い目つきを取り戻した。不自由な脚で、力強く水を蹴る。
その時だった。
「……随分と、熱心なリハビリだね」
不意に上から降ってきた声に、俺とクロは同時に顔を上げた。
プールの縁に立っていたのは、俺たちより少し年上の、大学生くらいの男。胸元にはトレセン学園公認トレーナーのライセンス証が揺れている。
――担当ウマ娘:「シンボリルドルフ」
「会長の……トレーナー?」
クロが水の中から、警戒と驚きが混ざった声を上げる。
「やぁ。君が今、学園で噂の『暴れ馬』……キタサンブラックだね。そして君が、無茶苦茶なメニューで彼女を壊し、今は必死に繋ぎ止めようとしている候補生、か」
男の言葉は淡々としていたが、否定できない事実が俺の胸に刺さる。
「……お説教でもしに来たのか。俺はこいつをデビュー戦に戻さなきゃならないんだ」
「説教? 違うよ。ただ、君たちの目があまりに必死だったからね。……かつての僕と、ルドルフみたいに」
大学生トレーナーは膝をつき、水面に指を触れた。
「候補生。君は今、彼女を『元に戻そう』としてリハビリさせていないか? 男のプライド、怪我をする前の身体。それを取り戻そうと必死なんじゃないか?」
「……それが悪いのかよ」
クロが噛みつくように言った。
「悪いわけじゃない。でも、それじゃルドルフには……本当の『強さ』には届かない。……怪我をして、身体の変化を受け入れ、絶望を知った。それは『欠け』じゃない。新しい自分に生まれ変わるための、脱皮なんだよ」
男は俺を真っ直ぐに見つめた。
「彼女はもう、君の知っている『北島黒』には戻れない。……だが、それを嘆く暇があるなら、今の、この『ボロボロで美しいキタサンブラック』だけができる走りを、君がデザインしてやるんだ」
男は一通の封筒を俺に差し出した。
「ルドルフが骨折から戻ってきた時の、水中トレーニングのデータと、筋肉の動かし方の理論だ。……君のその『倍の根性』に、少しの『理屈』を混ぜてみなよ。そうすれば、その子は数多のライバルたちを追い抜く……いや、世界を驚かせるウマ娘になる」
嵐のようなアドバイスを残して、男は「ルドルフが待ってるから」と爽やかに去っていった。
「……カズユキ」
クロが、男からもらった封筒と、俺の顔を交互に見た。
「……あいつ、何だったんだよ。……でも、なんか……腹が立つくらい、今の言葉……効いたわ」
クロは水の中で、自分の細い腕をじっと見つめた。
「俺は……『クロ』じゃなくなって、……『キタサンブラック』として、生まれ変わらなきゃいけないのか」
その言葉は、もう過去への未練ではなく、未来への痛みを伴う覚悟のように聞こえた。