束の間の休日。
今週の土曜日は完全休息日(レスト)のため、俺はリハビリ中のクロを連れ出すことにした。
「……ったく、こんなヒラヒラしたもん、落ち着かねーよ。スカスカして、なんか……大事なとこが守られてねー気分だ」
土曜日の朝。駅の待ち合わせ場所に現れたクロは、いつもの制服やジャージ姿じゃなく、少し大人びた私服――それも、清楚なフレアスカートに身を包んでいた。
寮長たちから「休日は女の子らしくしなさい」とでも言われたのか、それともダイヤちゃんに選ばされたのか。慣れないスカートの裾を気にしながら、クロは顔を真っ赤にして俺を睨みつける。
「おいカズユキ、笑ったら承知しねーからな。……怪我人の気晴らしに付き合うって言ったのはお前だろ」
「笑ってねーよ。似合ってる……とは言わねぇけど、新鮮だな」
嘘だ。
本当は似合いすぎてて直視できない。
中身がガキ大将だと知っていても、網膜に映る映像は「初デートに緊張している美少女」そのものだ。脳の処理が追いつかない。こういうのを認知的不協和音というのだろうか。俺の青春、バグだらけじゃないか。
俺たちは、リハビリの喧騒や学園の嫌な噂を忘れるために、少し離れた隣町のカフェまで足を伸ばした。
足首の怪我は順調に回復しているが、まだ長距離を歩くのは厳禁だ。俺はあいつの歩調に合わせ、ゆっくりと街を歩く。中1の男子二人組……だったはずの俺たちは、今やどこからどう見ても、少し不器用な距離感の「少年と少女のデート」に見えているに違いない。すれ違うカップルの視線が痛い。
こらそこ。「いい雰囲気だね」とか勝手に解釈すんな。
こちとらリハビリ中だ。
◇ ◇ ◇
街角のカフェにて。
「……ふぅ。甘ぇ……けど、悪くねーな」
テラス席でイチゴパフェを突っつきながら、クロがようやく息を吐いた。周囲の視線も、ここではただの「可愛いウマ娘」に向けられる好奇心程度だ。あのアスファルトの熱気も、血の匂いも、陰湿なヒソヒソ声もここにはない。スプーンでクリームを掬うその仕草だけ見れば、あいつはどこにでもいる幸せな中学生に見える。
「なぁ、カズユキ。……オレ、最近たまに思うんだ。……走ってない時のオレって、一体何なんだろうな、って」
パフェのクリームをスプーンでいじりながら、クロがぽつりと呟いた。
「カブトムシ捕まえて、蟻の巣花火で焼いて、お前と泥だらけになって……。あの頃は、自分が男だとか女だとか、そんなの考えもしなかった。……でも、身体が変わって、怪我して、会長さんのトレーナーに『脱皮しろ』なんて言われて……」
クロは自分の細い指先を見つめた。
爪には、ダイヤちゃんに塗られたのか、薄い桜色のマニキュアが光っている。
「オレがオレじゃなくなっていくのが、本当は……めちゃくちゃ怖いんだ。……デビュー戦のゲートが開いた時、オレは一体、誰として走ればいい?」
あいつの瞳に、休日の陽光が反射して揺れる。強気な「クロ」と、戸惑う「ウマ娘」の狭間で、あいつは必死に自分という存在を繋ぎ止めようとしていた。
アイデンティティの喪失。
教科書で読めばただの単語だが、目の前のあいつが抱えているのは、もっと生々しい「自分という輪郭が溶けていく恐怖」だ。
俺に気の利いた答えなんて出せるわけがない。
だから、俺はいつもの「相棒」としての解だけを出す。
「……誰として走るかなんて、ゲートが開けば忘れるさ。それより、今はそのパフェを楽しめよ。溶けてるぞ」
俺がそう言ってパフェを指さすと、クロは一瞬きょとんとした後、「……それもそうだな」と自嘲気味に笑った。
「難しく考えすぎんのは、オレの性分じゃねーわな。サンキュ、カズユキ」
そう言って再びスプーンを動かそうとした時、クロのポケットでスマホが短く、重く震えた。
ブブブッ、ブブブッ……。
テーブルに置かれた振動音。
画面を見た瞬間、あいつの顔からさっきの柔らかな色がスッと消えた。
表示されているのは「母親」の文字。
クロの家の事情は、幼馴染の俺も少しは知っている。
小汚い団地の一室。夜の街で働く母親。
あいつがウマ娘として覚醒した時、母親が真っ先に考えたのは「娘の将来」ではなく「いくら稼げるか」だった。小学生の娘を夜の店に立たせようとしたあの日の諍いを、俺は今でも覚えている。
学園の全額公費負担という制度がなければ、クロは今頃ターフではなく、酒と香水の匂いがする場所で、誰かの慰みものとして擦り切れていただろう。
「…………」
クロは通話ボタンを押さず、ただ画面を見つめている。バイブレーションの音が、楽しいはずのカフェの空気を泥のように汚していく。パフェを彩る鮮やかな赤色が、急に毒々しく見えてくる。
「……出なくていいのか?」
俺の問いに、クロは震える指で画面を伏せ、テーブルに置いた。
「……いいんだよ。どうせ、また『金が足りない』とか、そんな話だ。……あいつにとって、オレは『男』でも『女』でもねぇ。ただの、金を生む『ウマ娘』なんだよ」
クロの拳が、膝の上で白くなるほど握りしめられた。
せっかくスカートを履いて、少しだけ「普通のウマ娘」の休日を楽しもうとしていたのに、現実は容赦なくクロを元の暗い井戸の底へ引き戻そうとする。
親ガチャなんて言葉じゃ片付けられない、血の呪縛。
「……カズユキ。オレ、やっぱり早く勝ちてぇわ」
顔を上げたクロの瞳は、パフェの甘さに浸っていたそれではなく、飢えた野良犬のような鋭さを取り戻していた。
「勝って、沢山賞金稼いで……。あいつに叩きつけて、オレの人生から完全に切り離してやる。……そのためなら、この身体が『女』だろうが何だろうが、利用できるもんは全部利用してやるよ」
クロはそう吐き捨てると、溶けかけたパフェを強引に口に放り込んだ。甘いはずのクリームを、砂利でも噛むように飲み込む。
「だったら、なおさら足の怪我、しっかり治さねーとな」
俺が努めて冷静にそう言うと、クロは毒気を抜かれたように、一瞬だけ呆然とした顔をした。それから、「……へっ、お前は本当、情緒がねーな」と、いつもの意地っ張りな笑みを浮かべた。
「わかってるよ。走れなきゃ、自由も何も手に入らねーからな。……あいつに、オレが『女として売られる』ようなタマじゃねーってことを、レースの結果で分からせてやる」
クロはテーブルに置いたスマホを、今度は迷いなくバッグの奥底へ押し込んだ。通知の振動を、自分の中の「燃料」に変えるように。
「帰るぞ、カズユキ。パフェも食ったし、休みはこれで十分だ。……明日から、あの大学生トレーナーのメニュー、もっとキツくしてくれ」
そう言って立ち上がったクロの背中は、さっきまでの「迷える少女」ではなく、自分の足で地獄を駆け抜けようとする「キタサンブラック」のそれだった。ヒラヒラしたスカートが風に揺れる。その姿は、皮肉にも、どんな勝負服よりも強く、美しく見えた。
デートの締めくくりが「地獄への決意表明」とはな。
だが、それでこそ俺の相棒だ。甘いパフェよりも、泥臭い勝利への渇望の方が、あいつには似合ってる。
俺は伝票を掴み、席を立った。
……もちろん、支払いは俺持ちだ。これも「先行投資」ってやつにしておいてやるよ。