決戦前夜。
秋の気配が混じり始めた夜風が、トレセン学園の渡り廊下を吹き抜けていく。
リハビリと、大学生トレーナー直伝の理論武装。そして、自分を縛るすべてへの怒り。それらをごちゃ混ぜにして煮込んだスープを飲み干して、クロの足はどうにか間に合った。いや、脚の寿命という名のツケ払いで、無理やり帳尻を合わせただけかもしれない。
静まり返った寮のロビー。
消毒液と湿布の匂いが微かに漂うクロの身体と、俺は向き合っていた。
「……なぁ、カズユキ。明日、もしオレが負けたら……」
クロが珍しく、弱気な言葉を吐き出しそうになった。
無理もない。中身は意地っ張りな中1男子でも、器は傷ついた少女だ。
夜の静寂は、人の心の隙間に泥水のように入り込んでくる。
だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
暗がりの向こうから、硬質で、冷ややかな蹄の音が響いたからだ。
「負けることなど、考えてはいけません」
現れたのは、サトノダイヤモンド。最終調整のため明日の勝負服を身に纏った彼女は、月光を背負い、まるで戦場に赴く女神のような威圧感を放っていた。その美しさは、俺たちのような「泥臭い雑草」を根絶やしにするための凶器に見えた。
「キタちゃん。あなたの事情も、その怪我も、私には関係ありません。……明日のデビュー戦、私は全力であなたを叩き潰します。それが、あの日私を救ってくれた『お兄様』への、私なりの礼儀ですから」
ダイヤちゃんはオレを一度だけ、射貫くような目で見つめた。
それは、「あなたの育てたキタサンブラックを、私が終わらせてあげる」という、残酷なまでの愛の宣言であり、訣別の言葉だった。
……参ったな。
あのお嬢様、完全に「修羅」の顔をしてやがる。
少なくとも俺の知ってる箱入り娘は、もうそこにはいない。
ここにいるのは、頂点を喰らう捕食者だ。
青春の1ページにしちゃあ、インクが黒すぎて読めやしない。
ダイヤちゃんが去った後、重苦しい沈黙がロビーを包んだ。
クロの細い肩が、小刻みに震えているのが分かる。
恐怖か、武者震いか、それとも古傷が痛むのか。
「……行ってこい。俺がついてる」
俺は、震えるキタサンブラックの背中を、ありったけの力を込めてバチン!! と叩いた。乾いた音が、夜のロビーに痛々しく響き渡る。
「っ……いってぇな! カズユキ、お前……!」
クロは肩をすくめて振り返り、痛そうに顔を歪めたが、その目は笑っていた。 昨日までの不安や、家庭の澱んだ空気、身体の違和感。そのすべてが、俺が叩いたその一撃の痛みによって、一瞬だけ彼方へ吹き飛んだように見えた。痛みでしか繋がれないなんて、俺たちはどこまで不器用なんだろう。
「へっ、当たり前だろ。お前をここまで壊して、直して、磨き上げたのは俺なんだ。……最後まで見届けさせろよ」
「……あぁ。分かってるよ。見てろ、カズユキ。オレが……『キタサンブラック』が、どんな走りをするか。……ダイヤちゃん、お前もだ」
クロは暗闇に向かって、見えないライバルを真っ向から見据えた。
あの日、生理の血を見て震えていた少女も、泥水を殴っていたガキも、もうそこにはいない。ただ、ヒリヒリするような闘争心だけが二人の胸に残っていた。
◇ ◇ ◇
中山競馬場・第5レース 芝2000m。
空は高く、どこまでも澄み渡っていた。そんな爽やかな秋晴れが、これから始まる泥臭い殺し合いには不釣り合いで、俺は少しだけ眩暈を覚えた。
「ゲート入りが完了しました。秋の陽光を浴びて、今、スタートです!」
ガシャン! という乾いた金属音と共に、18頭のウマ娘が飛び出した。
クロのスタートは完璧だった。
あの陰湿な視線に晒されたプールで培った、抵抗を推進力に変えるしなやかなフォーム。鮮やかな赤と黒の勝負服が、ターフの上を滑るように駆けていく。
「見事なフォームだ! キタサンブラック、故障明けの不安を微塵も感じさせない、なんと伸びやかなストライド! 以前のようなパワー任せの荒々しさは影を潜め、まるで水面を滑るような……そう、気品すら感じさせる『深窓の令嬢』のような走りです!」
実況のアナウンサーが、興奮気味に声を張り上げる。
……『深窓の令嬢』だ?
笑わせるな。もし今のあいつに余裕があったら、そのマイクを奪い取って「オレは男だ!」って怒鳴り散らしてるところだ。あんたたちに見えているその「気品」は、作法教室で習ったもんじゃない。自分の身体が壊れる恐怖と、プールで浴びた侮蔑の視線、それら全部を推進力に変えるために削ぎ落とされた、ギリギリの「生存本能」だ。 優雅に見える白鳥が、水面下で必死に泥水を蹴ってるのと同じ。あいつは今、必死に「キタサンブラック」という美しい皮を被って、泥臭い魂を燃やしてるだけなんだよ。
俺は何もわかってないとばかりに心の底から実況内容に毒づく。
(いけっクロ……!)
だが、第3コーナーを過ぎたあたりだった。
双眼鏡を握りしめていた俺の目には、はっきりと見えた。
クロの走りに、わずかな、けれど致命的な「歪み」が生じたのを。
それは、本当に一瞬の出来事だった。
右足がターフを捉え、蹴り出そうとしたその刹那、膝がカクンと内側に折れたのだ。滑らかだったストライドの回転に、ガラスの破片が混入したような、異質なノイズ。クロの顔が引き攣り、無意識に重心が左へと逃げる。それは観客から見れば「わずかなつまずき」程度かもしれない。けれど、俺には分かった。あいつの身体の中で、何かが「パリン」と乾いた音を立てて砕けたのだ。
……あぁ、やっぱりかよ。
神様ってやつは、とことん性格が悪いらしい。
リハビリで誤魔化し続けた古傷が、本番の極限負荷に耐えきれず、悲鳴を上げ始めたんだ。まるで、錆びついた自転車のチェーンが切れる寸前のような、嫌な予感。
「キタサンブラック、先頭集団から離されない! しかし、外からサトノダイヤモンドが並びかける! おっと、キタサンブラックの脚取りが少し乱れたか!?」
実況の声に、心臓が雑巾のように絞り上げられる。遠目からでもわかる。クロの顔が苦痛に歪んでいる。一歩踏み込むたびに、足首に焼けた鉄棒を突き刺されるような激痛が走っているはずだ。普通の神経なら、とっくに止まっている。いや、止まるべきだ。
「……っ、あああああ!!」
クロの叫びが、風に乗ってスタンドまで届いた気がした。あいつは痛む脚を庇うどころか、さらに強く、壊れてもいいと言わんばかりに地面に叩きつけた。
男としての意地、ダイヤちゃんへの劣等感、そして何より、昨夜俺が背中に叩き込んだ熱。それがあいつを突き動かす燃料だ。
「サトノダイヤモンド、前に出る! 強い、圧倒的な末脚だ! ……いや、内からキタサンブラックが差し返す! 根性だ! 執念だ! 足を引きずりながらも、キタサンブラックが食らいつく!!」
最後の直線。
ダイヤちゃんの洗練された「優雅な走り」と、泥臭く、形振り構わず手足を振り回すクロの「無様な走り」。
俺の口からは半ば叫び声に近い呼び声が自ずと漏れ出す。
「……行けえええええ!! クロ!! そのまま突き抜けろ!!」
対照的な二人は並んだまま、火花を散らしてゴール板へ飛び込んだ。
ズドン。
ハナ差。
写真判定の結果、掲示板の一番上に表示されたのは「13番」――キタサンブラックの番号だった。
◇ ◇ ◇
レース後、検量室前。
歓声が遠くに聞こえる中、俺は関係者エリアを全力で走り抜け、クロのもとへ向かった。あいつは、係員に両脇を抱えられるようにして戻ってきた。
「クロ!!」
俺が呼びかけると、あいつは係員の手を借りてなんとか顔を上げた。右足は地面につけず、宙に浮かせたまま小刻みに震えている。アドレナリンが切れかけ、激痛が脳髄を直接殴り始めている証拠だ。汗と泥にまみれた前髪が、額にべったりと張り付いている。
「……ハァ、……ハァ、……カズユキ……。見たかよ……」
クロは激痛に耐えるように、唇を白くなるほど強く噛みしめた。
あまりの痛みに、瞳の端には涙が滲んでいる。
それでも、あいつは俺の顔を見るなり、強張った頬の筋肉を無理やり緩めた。
「……勝った。……オレ、……勝ったぞ……」
それは、いつもの「ガキ大将」みたいな不敵な笑みじゃなかった。
痛みと、達成感と、そして「褒めてくれ」と言わんばかりの幼さが混ざり合った、最高にぎこちない「はにかみ」だった。少女のようでもあり、傷だらけの戦士のようでもあるその笑顔は、俺が今まで見たどんな生き物よりも美しかった。
「……バカ野郎。……あんな走り方しやがって」
俺が支えようと手を伸ばすと、クロはその手に自分の全体重を預け、痛みに耐えながらへらりと笑った。
「……だって、……お前が……見てたからな……」
その直後。
糸が切れた操り人形のように、クロの身体から力が抜けた。
「おい、クロ!?」
俺は咄嗟に、倒れ込むあいつの身体を受け止めた。
そのまま、あいつの膝裏と背中に腕を回し、ひょいと持ち上げる。いわゆる「お姫様抱っこ」の形だ。
……軽い。
中1の男子の平均体重よりも遥かに軽い。この数週間、こいつがどれだけ自分を削り、食事を制限し、身体を絞り込んできたかが、腕を通じて痛いほど伝わってくる。その軽さが、俺の心には鉛のようにズシリと重かった。
「……あ、カズユキ……お前、また……」
クロは薄く目を開け、自分が抱きかかえられていることに気づくと、耳まで真っ赤にして抗議しようとした。
「……降ろせよ、恥ずかしい……。みんな、見てる……」
「暴れるな。足、壊れてんだぞ」
「……うぅ……」
クロは抵抗を諦め、小さく呻いて俺の胸に顔を埋めた。その仕草は「男」としての敗北宣言であり、同時に「相棒」への絶対的な信頼の証でもあった。
「……よかった……。オレ……ちゃんと……走れた……よな……」
シャツ越しに伝わるあいつの心臓の音は、まだ早鐘のように打っている。俺の胸元をギュッと掴んだまま、あいつは痛みと疲労の波に飲み込まれ、気絶するように意識を手放した。
「……無茶しやがって」
俺はクロを落とさないよう、さらに強く腕の力を込めた。
周りでは観客のどよめきや、関係者の慌ただしい声が響いている。だが、俺の腕の中にあるこの温かさだけが、今この瞬間、俺たちの戦いが報われた唯一の証明だった。
……まったく、世話の焼ける「暴れ馬」だ。
こんなボロボロになるまで走って、最後は気絶かよ。これじゃあ、勝利のウィニングライブはお預けだな。でも、いいさ。あいつが一番欲しかったのは、スポットライトじゃなくて、自分の足で掴み取った「証明」だったんだから。
「……後は任せろ、相棒」
俺は腕の中の「キタサンブラック」を抱え直し、医務室へと歩き出した。その背後。 少し離れた場所で、サトノダイヤモンドが立ち尽くしているのが気配でわかった。彼女は近づこうとはせず、ただ静かに、俺の腕の中で眠るクロを見つめていた。その瞳に宿るのが、敗北の悔しさなのか、それとも「聖域」を見せつけられた絶望なのか、俺には確かめる術もなかった。
夕暮れの中山競馬場。
スタンドの影が長く伸びて、俺たちの足元を黒く塗りつぶしていく。
俺たちの長い長い中1の夏が、ようやく終わりを告げようとしていた。
この痛みも、熱も、すべてを過去のページに押し込んで、俺たちはまた、少しだけ大人になっていくのだろう。