幕間1:休日のデパートと残響の不協和音
デビュー戦から一週間。
あの激闘で悲鳴を上げたクロの右脚は、幸いにも大事には至らなかったものの、トレーナー(仮)としての俺の心労は計り知れない。今日はリハビリにおける「完全休息日」だ。その字面から漂う「必殺技」のような響きとは裏腹に、俺たちは学園指定の外出届を提出し、少し離れた街の大型デパートへと足を運んでいた。
「……ふわぁ、人多すぎだろ。週末のデパートなんて来るもんじゃねーな。酸素濃度が薄いぜ」
隣を歩くクロは、だぶだぶのパーカーにハーフパンツという、一見すると「深夜のコンビニに行く大学生」のような出で立ちだ。動きやすさ重視といえば聞こえはいいが、要するに「俺はまだ男だ、フリルなんて死んでも着ないぞ」という無言のシュプレヒコールである。
……だが、悲しいかな。
そのスラリと伸びた脚や、整いすぎた顔立ちは、パーカーのフードを深く被れば被るほど、「お忍びで買い物に来た深窓の令嬢」感を加速させている。
周囲の視線が「あれ、モデルかな?」「いや、ウマ娘だろ」とヒソヒソ突き刺さるたび、クロは居心地が悪そうにフードをさらに深く被り直す。自意識過剰な思春期男子の魂が、美少女の器(ガワ)に閉じ込められている。神様がプログラマーなら、間違いなくデバッグ不足のバグ案件だ。
「文句言うな。新しいサポーターと、ダイヤちゃんへのお礼の品を買うんだろ。ミッションを完遂しろ」
「わかってるよ……。ったく、あいつにはライブであんな世話になったからな。適当なもん贈ったら、またどんな重い……いや、丁寧なお返しが来るか分かったもんじゃねーからな」
「お前、それを『愛』と呼ぶには少々ビビリすぎじゃないか?」
「うるせー! 愛とかじゃねーよ、仁義だ仁義!」
「仁義ねぇ。まあ、お前が『指詰め』じゃなくて『品詰め』で済ませようとしてるだけ成長したと見るべきか」
「誰が極道だ、誰が!」
クロは鼻を鳴らしながらも、心なしか足取りは軽い。俺たちは4階のスポーツ用品売り場を目指してエスカレーターに乗った。階を上がるごとに、一階の化粧品売り場の甘ったるい香りから、家族連れの賑やかな喧騒へと空気が変わっていく。
◇ ◇ ◇
4階のスポーツ用品売り場。
機能性を重視したサポーターが並ぶ一角で、俺とクロは議論を戦わせていた。
「これなんかどうだ。圧迫感が強すぎないし、リハビリ後のアイシング代わりにもなるだろ」
「……デザインが女子向けすぎねーか? もっとこう、真っ黒でゴツいのはねーのかよ」
クロは並んでいる商品のカラーバリエーションを見ながら、不満げに眉を寄せている。相変わらず、可愛らしいピンクや白のラインが入ったものは、汚いものでも見るかのような目で避けたがる。
そこへ、親切そうな店員が歩み寄ってきた。
「何かお探しですか? ……あぁ、そちらのサポーターですね。お連れの彼女さんにですか?」
その言葉が出た瞬間、クロの空気が変わった。
隣にいる俺にまで伝わるほどの、刺すような拒絶の気配。
クロは店員に対し、言葉を返すことすらしなかった。
ただ、唇をこれ以上ないほど薄く結び、相手を射殺さんばかりの鋭い目で睨みつけている。その表情は、ナンパをあしらう少女のそれではなく、縄張りを侵された野犬に近い。
「……あー、いや、こいつ、そういうのじゃないんで」
俺が慌ててフォローを入れると、店員は「あ、失礼いたしました!」と、気圧されたように苦笑いして下がっていった。
「……ケッ。……これにするわ」
クロは一番地味な、飾り気のない黒のサポーターを掴んで、苛立ちを隠さずにレジへ歩き出した。カツカツと床を鳴らす足音からは、自分を女として扱った世界への、激しい苛立ちが透けて見える。
だが、本当の異変が起きたのはその直後だった。
レジを済ませて、3階へ降りるエスカレーター。
下りのステップに乗った俺たちの目の前に、それはあった。
おもちゃ売り場の入り口。そこには、一人の幼い男の子と、その手を引く高校生くらいのウマ娘。そして、後ろから二人を穏やかな目で見守る両親の姿があった。
「ねぇ、お姉ちゃん! 誕生日、これがいい! これ買って!」
「もう、まだ早いでしょ。パパとママに聞いてからにしなさい」
どこにでもある、幸せのテンプレートのような光景。
CMならここで企業ロゴが入るような、非の打ち所がない完璧な家族像。だが、クロの背中から、すっと温度が消えたのが分かった。
「…………」
さっきまで「仁義」だなんだと元気に動いていた耳が、力なく伏せられる。クロの手が、無意識に自分のパーカーの裾を、白くなるほど強く握りしめた。それは単に「子供が嫌い」という反応じゃない。もっと根源的な、自分の存在そのものが揺らぐような、深い拒絶反応に見えた。
「クロ? どうした。欲しいおもちゃでもあったか?」
俺が努めて軽く声をかけると、クロは一瞬だけ、虚空を見つめるような「空っぽな目」をした。焦点が合っていない。目の前の家族を見ているようで、その実、もっと遠くの、あるいはもっと深い場所にある「何か」を見ている目だ。
だが、俺と目が合った瞬間、あいつはハッとしたように瞬きし、無理やり口角を上げていつもの不敵な笑みを作ってみせた。
「……あ? ああ、いや。……ガキがうるせーな、って思ってただけだよ。行こうぜ、カズユキ。早くしねーと日が暮れる」
あいつは足早にエスカレーターを降り、歩き出す。
だが、その足取りはどこかぎこちない。
逃げるように、あるいは何かを振り払うように。
『キーン――……』
その時だった。
俺の耳の奥で、小さな、けれど不快な金属音のような耳鳴りが鳴り響いたのは。
(……なんだ、今の。……耳鳴りか?)
脳を直接、細い針で刺されるような感覚。
俺は思わず立ち止まり、こめかみを押さえた。
何かが、自分の中で疼いている。
古い記憶の蓋が、ほんの少しだけズレて、そこから冷たい風が吹き込んでくるような感覚。まるで金属が擦れ合う音のような不快感。
……いや、気のせいだと即座に心の両耳を塞ぐ。
今はそれどころじゃない。
「……おい、カズユキ! 何やってんだ! さっさと来いよ! 置いてくぞ!」
出口の方角から、クロの叫び声が聞こえる。いつも通りの、乱暴で快活な声。けれど、その声の端々には、まだ微かな震えが残っているようにも聞こえた。
◇ ◇ ◇
「……悪かった。少し急ぎすぎたな」
用事を済ませてデパートを出ると、外はすでにオレンジ色の夕景から群青色の夜へと溶け込み始めていた。冷たい夜風が、デパートの中の熱気と、あの不快な耳鳴りを一緒にさらっていく。
「…………」
クロは何も答えなかった。
ただ、夜風にパーカーのフードをなびかせながら、駅から学園へと続く道を黙々と歩いている。 街灯が点り始め、光と影が交互にあいつの横顔を照らす。さっきのスポーツ用品売り場で店員を睨みつけたような猛々しさはもうない。
かといって、俺が知っている「ガキ大将」のクロでもなかった。
クロは時折、自分の右手を左手で強く握りしめている。
まるで、震えを無理やり抑え込んでいるかのように。
「……なぁ、カズユキ」
不意に、クロが足を止めた。街灯の光が届かない、暗い植え込みの横。
まるで舞台照明が落ちたような暗がりだ。
「あ?」
「……お前、……さっき、オレの顔、見てたよな」
クロは顔を上げない。
足元の、アスファルトの亀裂をじっと見つめている。
「……変だって、思ったか? ……オレが、急に……情けねー顔したから……」
その声は、夜の静寂に溶けてしまいそうなほど細かった。
自分の「弱さ」や「不可解な反応」を、一番見られたくない相手に見られてしまった羞恥心。そして、それ以上に深い、自分でも正体のわからない不安があいつを苛んでいる。
俺の耳の奥では、さっきの鋭い耳鳴りの余韻が、鈍い頭痛に変わっていた。あいつが何に怯えていたのか。そして、なぜ俺があんな音を聞いたのか。答えはまだ、暗闇の中で霧に包まれている。だが、今ここで俺がすべきなのは、名探偵のようにその霧を暴くことじゃない。
「……いいや。別に、そんなこと思っちゃいねーよ」
俺は一歩踏み出し、クロの少し前で立ち止まった。
「お前が『ガキがうるせー』って思ったんなら、俺にとってもそこはうるさい場所だった。それだけだろ。俺たちは共犯者だからな」
俺がそう言うと、クロはゆっくりと顔を上げた。暗がりのせいで、その瞳の奥の色までは読み取れない。けれど、握りしめられていたあいつの手から、わずかに力が抜けるのが分かった。
「……ふん。……お前、たまには良いこと言うじゃねーか。相棒の鑑だな」
クロは自嘲気味に笑い、鼻をすすった。いつもの調子に戻そうと必死に足掻いている。その不器用な「武装」が、今はひどく人間臭く、そして危うく見えた。
「……腹、減ったな。……帰りに、どっかで牛丼でも食ってくか。当然、お前の奢りで」
ここぞとばかりに切り替えてくる。
俺はため息まじりに即答した。
「だめだ。牛丼は脂質が多すぎる。リハビリ中のアスリートが食うもんじゃない」
「いいんだよ! 今日は『完全休息日』っつったのは、カズユキだろ! 休息日ってのは、カロリー計算からも休息する日なんだよ!」
「なんだその都合のいい理論は……」
そう言われると俺も弱い。完全休息日という言葉の定義について、俺たちはまだ議論の余地を残しているらしい。
「……へいへい。大盛りに生卵もつけてやるよ。ただし、つゆだくは禁止だ」
「ケチくせーな! そこは特盛だろ! 男ならドーンといけよ!」
いつもの軽口。いつものプロレス。けれど、二人の間には、デパートへ行く前にはなかった、薄い氷の上を歩くような緊張感が静かに横たわっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、学園の寮にて。
俺は自室で、古いアルバムを広げていた。
3歳までの記憶は、ほとんどない。
けれど、アルバムの片隅にある、顔もはっきり思い出せない「姉」が、ひどく楽しそうに笑いながら、幼い自分を抱きかかえている写真。
その写真の端が、少しだけ焦げたように変色している。
(……なんで、あんな音が聞こえたんだ……)
トラックの急ブレーキ。
金属が擦れ合う、悲鳴のような音。
一度も思い出したことがなかったはずのその音が、クロの怯えた顔を見た瞬間に、なぜあんなに鮮明に響いたのか。
指先が、無意識に、写真の中の姉の「脚」をなぞっていた。窓の外では、秋の風が少しだけ冷たく、不吉な音を立てて吹き荒れていた。