第1話:トレセン学園入学
「……ついに、この門をくぐったな」
目の前に広がるのは、憧れのトレセン学園の広大な敷地だ。あの日、あの夕焼けの教室で、受験票をゴミ箱に放り込んでまで交わした無謀な約束が、いま現実の景色になって俺たちの目の前にある。
けれど、門をくぐった瞬間、俺たちの間には見えない境界線が引かれた。クロは「ウマ娘課」の生徒として、最強の走りを目指すストイックな日々。俺は「トレーナー課」でプロのトレーナーを目指す学生として、彼女を支えるための知識を地獄のように叩き込まれる日々。
ふと横を見ると、クロは真新しい制服に身を包んで、緊張のせいか尻尾をそわそわと、まるで落ち着きのない蛇みたいに(実際、生えてるんだから仕方ないが)動かしている。
「……なぁ。ここからは、別のクラスなんだな。……なんかさ、この前まで隣の席だったのに、急に『ウマ娘』と『トレーナーの卵』って感じがして、変な気分だよ」
そう言って笑うクロの瞳には、かつての「黒」の面影を残しつつも、アスリートとしての、そして一人の可憐な少女としての強い光が宿っている。……正直、その横顔に見惚れて思考が停止しそうになるのを必死に堪えて、俺はいつもの幼馴染のノリで声をかけた。
「何言ってんだよ、クロ。お前がウマ娘課でサボってないか、俺がトレーナー課の窓からしっかり監視してやるからな。高性能の双眼鏡でも新調してやろうか?」
すると彼女は、期待通りに頬をぷくーっと膨らませて、俺を睨みつける。
「っ、うるせー! オレがサボるわけないだろ! お前こそ、居眠りして単位落として、『担当にしてくださーい』なんて泣きついてきても、門前払いだからな! べーっ!」
なんて、子どもみたいに言い返してくる。……でも、その直後だった。彼女は俺の制服の袖を、ほんの少しだけ、頼りなげにギュッと握ったんだ。
「……でもさ。……絶対に、合格しろよ。トレーナー試験。……他の誰でもない、お前に隣にいてほしいんだから」
人混みの中、他の新入生たちには絶対に聞こえないような小さな声。その破壊力は、G1レースのファンファーレより重く、俺の心臓のど真ん中に突き刺さった。
◇ ◇ ◇
寮生活が始まっても、俺たちの絆は変わらない。……というか、むしろ「秘密」を共有している分だけ、加速している気がする。クロは自分が「元男」だったことを、周囲に徹底的に隠している。無理もない。ウマ娘はほぼ100%が女の子の中から選ばれるんだ。性別が変わったなんて、俺が知る限り、クロと、あの威風堂々とした生徒会長・シンボリルドルフさんくらいのものだ。
というか、あのアクの強い「皇帝」も、クロと同じ数奇な運命を辿った一人なのか……。それを知っているのが学園内でも極わずかだってことを考えると、この事実は俺とクロ、そして会長だけの、笑っちゃうくらい大真面目な「超弩級の国家機密(トップシークレット)」ってわけだ。
ただ、一つだけ誤算……というか、じれったい「お預け」がある。トレセン学園じゃ、特定のウマ娘と専属契約を結んで「担当」になれるのは高等部からっていう鉄の掟があるんだ。中等部のうちは、トレーナーといってもあくまで「陸上競技の科目ごとの担当教官」のことを指す。つまり、今の俺はまだあいつの「トレーナー」じゃないし、あいつが授業で指導を受けるのも、俺じゃなくて強面のベテラン教官たちってわけだ。
昼間、学園の廊下ですれ違う時のあいつは、まさに完璧な「キタサンブラック」だ。教官たちを見かけると、「あ、トレーナーさん! 今日も良い天気ですね。精一杯頑張りましょう!」なんて、あの明るくて礼儀正しい、皆に慕われるウマ娘の顔で挨拶してくる。腰が低くて、誰に対しても真っ直ぐで。あのスカート捲りしてた悪ガキの面影なんて、微塵も感じさせないお淑やかな振る舞い。
……でも、夜の裏庭で二人きりになると、あいつは一気に「黒」に戻る。
夜、消灯時間を少し過ぎた頃。学園裏の大きな桜の下。
「……お、遅いぞ! 待ちくたびれて、尻尾の毛が逆立ちそうだったんだからな!」
暗闇の中、ラフな私服に着替えたクロが、不機嫌そうに、でも嬉しそうに耳を動かして待っている。月明かりに照らされた彼女は、昼間よりもずっと神秘的で、毒気が抜かれたみたいに綺麗で……。
「……ふい〜、疲れたぁ……。なぁカズユキ、いつまであのお嬢様みたいな喋り方続けなきゃいけないんだよ。肩凝っちまって死にそうだぜ」
そう言って、椿油の香りがする髪をガシガシとかきむしる。
「さっきもさ、寮の女子たちに『キタサンちゃんって、本当に仕草が綺麗よね』なんて言われちゃってさ。……笑えるだろ? 昔は泥だらけでサッカーばっかしてたオレに向かってさ」
自嘲気味に笑うその横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。完璧な「美少女ウマ娘」を演じ続ける彼女の、張り詰めた糸を解いてやれるのは、世界中で俺しかいない。
「いいんじゃねーか? どんなに周りが『キタサンブラック』としてもてはやしても、俺の前ではお前は『クロ』のままでいいんだからな」
俺が隣に腰を下ろしてそう言うと、クロは一瞬目を見開いて。
それから、俺の肩にコテン、と頭を預けてきた。
「……サンキュ。……お前さ、やっぱりほんとはオレのこと好きだろ?」
上目遣いで、ニヤニヤとした表情でそう尋ねてくるクロ。内心ドキリとしながら「アホか」と俺は一蹴する。
鼻の奥がツンとする。
同時に、俺しか知らないこの「クロ」が、どんどん壊れ物のように、そして何よりも貴重なものになっていくのを、俺は誇らしさと恐ろしさが混ざったような気持ちで感じていた。