クリスマスを一週間後に控えたこの時期、トレセン学園という閉鎖空間は、一種の集団ヒステリー状態に陥る。街全体が赤と緑の警告色(アラート・カラー)に染まり、聴覚を蹂躙するジングルベルの無限ループ、そして「誰かと過ごさなければ人権を剥奪する」という無言の全体主義的圧力。この時期の寒風には、独り身の精神を蝕み、自意識を肥大化させる未知のウイルスが混入しているに違いない。
特に、発情期を迎えた男子生徒たちの挙動は目に余る。彼らは「クリスマスマジック」という名の集団催眠に掛かり、普段なら絶対に話しかけないような高嶺の花(ウマ娘)に対しても、無謀な特攻(バンザイ・アタック)を繰り返す。玉砕覚悟と言えば聞こえはいいが、要はただの生存本能の暴走だ。
そんな狂騒の最中、俺のスマホが短く振動し、一通の業務連絡が表示された。
『至急、第3会議室へ。敵勢力、予想以上に強大なり。援軍を求む』
送信者はクロ。
文面から察するに、あいつは今、人生最大の「モテ期」という名の激甚災害に見舞われているらしい。やれやれ、持つ者は辛いね。
◇ ◇ ◇
放課後の第3会議室。
扉を開けた瞬間、俺は回れ右をして帰りたくなった。そこは、愛と欲望と勘違いが煮詰められた、産業廃棄物の集積所だったからだ。
「……おい。なんだこの山は。年末の大掃除で出た燃えるゴミか?」
俺が部屋に入ると、長机の上には、色とりどりの封筒や小箱が地層のように積み上げられていた。その質量は、物理的な圧迫感すら伴っている。その向こう側で、クロが深海魚のような死んだ目をして座り込んでいた。美少女の皮を被っているが、中身の魂(ソウル)は完全に枯渇している。
「……よぉ、カズユキ。見ての通りだ。オレの下駄箱とロッカーが、この『好意の塊』で埋め尽くされてたんだよ」
クロが手近な封筒を一つ、汚物でも摘むように指先で弾く。
パステルカラーの封筒には、ハートのシールが厳重に貼られている。
中身が炭疽菌でないことを祈るばかりだ。
「クラスの女子いわく、『キタちゃんモテモテだね! 全部読んで返事書かなきゃ!』だとさ。……正気か? これ全部に返事書いてたら、オレの寿命と腱鞘炎がマッハで尽きるぞ。労働基準法違反だろ」
「なるほど。これは『モテ期』じゃなくて『DDoS攻撃』だな。処理能力の限界を超えるリクエストを送りつけ、サーバー(お前)をダウンさせるサイバーテロの一種だ」
俺はパイプ椅子を引き寄せ、クロの対面に座った。この状況下で平然としていられるのは、俺の神経が図太いからではなく、単に他人事だからだ。
「で、俺への依頼は?」
「検閲(フィルタリング)だ。オレ一人じゃSAN値が削りきれて発狂する。お前のそのひねくれた性格と歪んだ視点で、この愛の言葉たちをバッサバッサと切り捨ててくれ」
「人聞きが悪いな。俺はただ、物事を客観的かつシニカルに分析しているだけだ。……まぁいい。やるか、恋文の解剖学(プロファイリング)を」
俺たちは精神衛生上の防護服(見えない壁)をまとい、作業を開始した。
「エントリーナンバー1。2年C組、サッカー部からの刺客だ」
俺が封筒を開け、中身を読み上げる。
『キタサンブラックさんへ。君の走る姿は、まるで草原を駆ける一陣の風のようだ。僕のハートというゴールネットを揺らしてくれ』
「……審判(ジャッジ)、どうだ?」
「有罪(ギルティ)。サッカーの例えが絶妙に滑ってるし、オレは風じゃなくてウマ娘だ。生物学的分類すら間違ってる。そもそもゴールネットを揺らされたら痛ぇだろ」
「処理方法は?」
「シュレッダー直行。次」
「エントリーナンバー2。1年A組、図書委員」
『拝啓。遠くから見つめることしかできない僕ですが、もしよろしければ、一緒に図書館で勉強しませんか? P.S. 得意科目は物理です』
「……ふむ。これは文体が丁寧な分、多少マシか?」
「いや、減刑なしだ。P.S.で自分語りをする奴にろくなのはいない。それに『物理』でオレを釣ろうとする魂胆が気に入らねぇ。俺は勉強がしたいんじゃなくて、速く走りたいんだよ。ニーズの不一致だ」
「もっともだ。恋愛市場において、自分語りは需要のない供給でしかない。次」
「エントリーナンバー3。……なんだこれ、箱か?」
クロが小さな箱を手に取る。中には、手作りのクッキーと、一枚の写真が入っていた。写真には、上半身裸でサイドチェストのポーズを決める男子生徒が写っている。
「……うわっ」
クロが反射的に箱を取り落とした。
その反応速度は、スタートダッシュよりも鋭かった。
「テロだ! 視覚テロだ! なんだこの筋肉アピールは! オレの方がいい筋肉してるわ!」
「『僕の肉体美を召し上がれ』というメタファーか。……衛生管理上の問題および公然わいせつ罪で却下だな。保健所に通報レベルだ」
次から次へと開封される「愛の告白」。
だが、そのどれもがクロにとっては「ノイズ」でしかなかった。
美辞麗句が並べば並ぶほど、そこにある「キタサンブラック」という作られた偶像と、実際の「北島黒」との乖離(ギャップ)に、あいつは深く傷つき、そして呆れているのだ。彼らが愛しているのは、クロの「ガワ」であって、中身の薄汚れた男子中学生ではない。その事実は、どんな辛辣な言葉よりも残酷だ。
「……はぁ。疲れた。男ってのは、どうしてこう、文字にするとポエムになるんだ? 読んでるこっちが恥ずか死ぬわ」
クロが机に突っ伏す。
その背中には、全人類の男を代表して謝罪したくなるような哀愁が漂っていた。
「お前も中身は男だろ。同族嫌悪だ」
「いーや、オレならもっとマシな文章書くね。……『肉食いに行こうぜ。金は出す』。これだけで十分だろ。シンプル・イズ・ベストだ」
「それ、ただのパパ活の誘い文句だぞ」
◇ ◇ ◇
ゴミ袋が二つ満杯になった頃、ようやく机の上が片付いた。だが、問題は「在庫処分」だけではない。供給源を断たなければ、このイタチごっこは終わらない。
「……カズユキ。ここからが本題だ」
クロが真剣な眼差しで俺を見る。
レース前よりも真剣かもしれない。
「手紙は捨てればいい。だが、直接アタックしてくる特攻野郎(カミカゼ・ボーイズ)たちが後を絶たねぇんだ。……明日から、オレの『マネージャー』をやれ」
「マネージャー? トレーナーじゃなくてか?」
「あぁ。オレへの接触を全て遮断する、鉄壁の防波堤(ファイアウォール)になれ」
「お断りだ。俺はそこまで安くないぞ。プライベートな時間を割いてまで、他人の恋愛事情という泥沼に首を突っ込む趣味はない。リスクとリターンが釣り合ってない」
俺が席を立とうとすると、クロがニヤリと笑った。
悪魔的取引を持ちかける詐欺師の顔だ。
「……報酬は、駅裏にある『天下一本』の特製チャーシュー麺だ。もちろん、大盛りで、煮卵トッピング付き」
俺の足がピタリと止まる。
あそこのチャーシュー麺は、一杯1200円もする高級品だ。男子中学生にとっては石油王の食事に等しい。それを提示してくるとは、足元を見られている。
「……煮卵は、半熟か?」
「黄身がとろけ出す、完璧な半熟だ」
「……交渉成立(ディール)だな。俺の対人スキルの低さをナメるなよ。人を不快にさせて論理的に追い返すことに関しては、右に出る者はいない」
◇ ◇ ◇
翌日。
休み時間のたびに、ウマ娘校舎とトレーナー校舎の境界線、通称「嘆きの壁」の前に、一人の男(俺)が仁王立ちすることになった。俺の役割は、愛に狂った暴徒たちを鎮圧する機動隊であり、同時に融通の利かない役所の窓口係だ。
【第1の波:純情な1年生】
「あ、あの! キタサンさんにこれ、渡したいんですけど!」
最初にやってきたのは、いかにも純朴そうな1年生男子だ。手にはファンシーな紙袋。まだ現実を知らない子羊のようだ。
「申し訳ありません。現在、キタサンブラックはレースに向けた『超・集中モード(ゾーン)』に入っております。ドーパミン以外の物質を受け取ると、自律神経に深刻なエラーをきたす恐れがあります」
「えっ……そ、そうなんですか?」
「ええ。彼女に必要なのは愛の言葉ではなく、高純度のプロテインと絶対的な静寂だけです。あなたのその紙袋の中身が、G1勝利に直結する科学的根拠(エビデンス)があるなら通しますが? なければ、それはただの妨害工作です」
「い、いや、ただのクッキーで……」
「では、お引き取りを。彼女の血糖値を乱す行為は、トレーナー法第9条違反で逮捕されますよ」
「ヒィッ! す、すみませんでした!」
少年は脱兎のごとく逃げ出した。
チョロい。だが、これはほんの前哨戦に過ぎなかった。
【第2の波:勘違いナルシスト】
「よう。俺の作った『愛のバラード』のデモテープ、キタサンに渡してくれよ。聴けば飛ぶぜ?」
次に現れたのは、ギターケースを背負った軽音部の2年生。
前髪が目にかかっていて視界が悪そうだ。
「却下です。現在、彼女の聴覚はスタートゲートが開く音と、風切り音以外を『ノイズ』として処理する設定になっています」
「はぁ? 俺の美声がノイズだってのか?」
「ええ。あなたの歌声に含まれる特定の周波数は、競走馬の本能を逆なでし、暴走を引き起こす危険性があります。音響兵器を持ち込むのは止めていただけますか?」
「なっ……! 俺の歌は兵器じゃねぇ!」
「では、騒音規制法に基づき排除します。お帰りはあちらです」
【第3の波:成金ボンボン】
「ふん、貧乏くさい門番だね。……これ、キタサンちゃんに。100本の薔薇の花束だよ。花言葉は『100%の愛』さ」
キザな3年生が現れた。
抱えきれないほどの真紅の薔薇。
視覚的にうるさい。
「受け取り拒否です。現在、彼女の生活空間における植物の持ち込みは、酸素濃度の管理上、厳しく制限されています」
「なんだと? これは最高級の薔薇だぞ!」
「植物の呼吸による二酸化炭素の排出が、彼女の有酸素運動の効率を0.01%低下させるリスクがあります。その責任、あなたの実家の資産で賠償できますか?」
「そ、そんな馬鹿な……!」
「それに、薔薇の棘で怪我でもしたらどうするんです? 彼女の脚には数十億の保険金が掛かってるんですよ。過失致傷で訴えられたくなければ、その薔薇はサラダにして自分で食ってください」
【第4の波:粘着質ストーカー予備軍】
「……あの。手紙だけでも。……せめて、一目だけでも……」
最後は、一番厄介なタイプ。目が笑っていない、粘着質の男子生徒だ。
「現在、面会予約は300年待ちとなっております」
「……待てます。僕の愛は永遠なので」
「素晴らしい心がけですが、物理的に彼女が寿命を迎えています。来世で予約を取り直してください。なお、整理券の配布は行っていません」
「……チッ」
男は舌打ちを残して去っていった。
……一番肝が冷えた案件だった。
チャイムが鳴り、ようやく昼休みという名の防衛戦が終了した。
俺は眼鏡(伊達)の位置を直すフリをして、物陰から様子を伺っていたクロにハンドサインを送る。
『害虫駆除完了(クリア)。殲滅数、2桁』。
クロは呆れたように、しかし心底安堵した表情で、柱の陰から小さくサムズアップを返してきた。俺たちは、青春という名の病魔から、お互いの平穏を――そして俺のチャーシュー麺(大盛り)を、鉄壁の守りで勝ち取ったのだ。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
俺たちは駅裏のラーメン屋『天下一本』のカウンターに並んで座っていた。
目の前には、丼を覆い尽くすほどの肉厚なチャーシューと、黄金色に輝く煮卵が鎮座している。その神々しさは、どんなイルミネーションよりも美しい。
「……いただきます」
「おう、食え食え。オレの『聖域(サンクチュアリ)』を守ってくれた報酬だ」
俺たちは無言で麺を啜った。
濃厚な豚骨醤油のスープが、冷えた身体と荒んだ心に染み渡っていく。
店内は疲れたサラリーマンや空腹の学生たちの熱気で満ちており、ここには「愛」も「恋」も「クリスマス」も存在しない。あるのは「食欲」という、最も原始的で、嘘のない誠実な欲望だけだ。
「……ふぅ。生き返るな」
クロがレンゲを置き、ふと呟いた。
「なぁ、カズユキ。あの山のような手紙の中にさ、一通もなかったな。『北島黒』宛ての手紙」
クロの声は、湯気の向こうで少しだけ寂しげに響いた。
何百通ものラブレター。その全てが「美少女ウマ娘・キタサンブラック」という虚像に向けられたものであり、中身の「彼」という実像を見て書かれたものは一つもなかった。それは孤独かもしれない。だが、見方を変えれば、これほど贅沢なことはない。
「……当たり前だろ。お前の中身を知ってるのは、世界中で俺だけだ」
俺はチャーシューを噛み締めながら答えた。
クロは一瞬きょとんとして、それから、丼の湯気に顔を隠すようにして笑った。
「……そっか。そうだよな。……なら、いいか。量より質ってやつだな」
クロは再び箸を取り、残りの麺を勢いよく啜り込んだ。
世界中からの称賛なんていらない。
隣で同じラーメンを啜り「美味い」と言い合えるたった一人の共犯者がいれば、それで十分だ。
立ち昇る白い湯気が、俺とクロの顔を柔らかく包み込む。
その向こう側にある笑顔は、作られたアイドルのそれではなく、ただの「北島黒」としての、無防備で、少し情けないほど温かいものだった。