5月中旬。
トレセン学園の空気は、湿った憂鬱に支配されていた。
原因は明白。来週に迫った「中間考査」である。
学生の本分は学業である、と大人は言う。
だが、俺に言わせれば学生の本分とは「理不尽な評価システムへの適応」だ。
点数という単一の指標で人間の価値を可視化し、序列を作る。
この残酷な選別作業において、持たざる者が生き残る術は一つしかない。
「……カズユキ。これ、本当に売れるのか?」
放課後の空き教室。
クロが不安げな顔で、手にしたルーズリーフの束を見つめている。
「売れる。断言してもいい」
俺は窓枠に腰掛け、不敵に笑った。
「テスト前における『赤点回避』の需要は、砂漠における水の価値に等しい。特に、脳みその容量をすべて脚力に振ったウマ娘たちにとって、俺が徹夜で作成したこの『
「……お前、本当に性格悪いな」
「なんとでも言え。俺たちは今、資本主義の最前線にいるんだ。知識を金に変えろ。でなけりゃ、明日の昼飯はまたパンの耳だぞ」
パンの耳。
そのパワーワードに、クロの喉が鳴った。
成長期真っ只中のウマ娘にとって、空腹は死に等しい。背に腹は代えられない。
「……分かった。やるよ。営業担当はオレだな?」
「ああ。ターゲットは『勉強が苦手』かつ『金払いが良さそう』で、なおかつ『深く物事を考えない』バカだ。心当たりは?」
クロは少し考え、パチンと指を鳴らした。
「一人、心当たりがある。……というか、さっき廊下で叫んでた」
◇ ◇ ◇
廊下の突き当たり。
そこに、青いツインテールを振り乱し、頭を抱えて唸る小柄なウマ娘がいた。
「うあー! わかんない! これなに!? 『Xを求めよ』って、Xはここにあるじゃん! なんで探さなきゃいけないのー!?」
ツインターボ。
常にエンジン全開、思考回路はショート寸前。
本能だけで生きる、愛すべき野生児だ。
「……完璧なカモだ」
「……罪悪感がすごいんだけど」
俺たちは目配せをし、作戦を開始した。
クロがスッと優等生モードの仮面を被り、優雅に歩み寄る。
「こんにちは、ツインターボさん。ずいぶんと悩んでいらっしゃるようですね」
「あ! キタサンブラック! 聞いてよこれ! 数学の先生、絶対ターボのこと嫌いなんだよ! こんな呪文みたいな問題出しやがって!」
ターボが涙目で教科書を突きつけてくる。
そこにあるのは、中学1年生レベルの方程式だ。
彼女は確か、俺たちの先輩だった気がするが……まあ、深くは考えまい。
「……まあ、それは大変。このままでは、来週のテストが心配ですね」
「そーなんだよ! 今回赤点とったら、夏合宿の参加禁止って言われてて……うぅ、どうしよぉ……」
ターボががっくりと項垂れる。
今だ。俺はクロの背後から、ぬらりと姿を現した。
「お困りのようですね、お嬢様方」
「だ、誰!?」
「通りすがりのコンサルタント、カズユキです」
俺は怪しさ満点の自己紹介をしつつ、懐から「虎の巻」を取り出した。
「実はここに、とある高名な学者が開発した『奇跡の学習シート』があります。これを読むだけで、どんな難問もスラスラ解けるようになる……という噂の代物でして」
「えっ!? 読むだけ!? 勉強しなくていいの!?」
ターボが食いついた。
チョロい。
チョロすぎる。
「ええ。要点のみを抽出し、脳に直接インストールする画期的なメソッドが採用されています。通常価格5000円のところ、今なら特別モニター価格、1000円で提供させていただきますが……」
1000円。
今の俺たちにとっては、数日分の食費。
ターボにとっては、おそらくガチャ数回分。
Win-Winの取引だ。
詐欺ではない。
中身は俺が真面目に作った要点まとめなのだから。
「買う! ターボ買うもん!」
ターボがジャージのポケットをごそごそと探る。
勝利確信。
俺とクロは心の中でガッツポーズをした。
しかし。
「……あれ?」
ターボの手から出てきたのは、クシャクシャになった千円札……ではなく。
100円玉が2枚と、10円玉が数枚。
そして、何かのキャラメルのおまけシールだった。
「……250円しかない」
沈黙。
廊下に、放課後のチャイムが虚しく響き渡る。
「あ、あれぇ? おかしいな、昨日お小遣いもらったばっかなのに……あ! そういえば新作のチョコエッグ箱買いしちゃったんだ!」
ターボがテヘペロと舌を出す。
俺は天を仰いだ。
バカだ。
ここまでのバカには、計算高い悪徳商法も通用しない。
「……でも、これ欲しい! ねぇ、250円じゃダメ!? あと、この激レアなシールつけるから!」
ターボが必死な目で俺たちを見上げる。
その瞳は、一点の曇りもなく澄んでいる。
疑うことを知らない、純粋無垢な「知能の欠落」。
それを見ていたクロが、ふと視線を逸らした。
「……カズユキ」
「……なんだ」
「……オレ、無理だわ」
クロが小声で言った。
「こいつ、バカすぎて可哀想になってきた。こんな純粋なバカから全財産巻き上げたら、オレたち地獄に落ちるぞ」
「俺たちはとっくに地獄の住人だ。心を鬼にしろ。250円でもパンの耳よりはマシなものが食える」
「でもよぉ……!」
クロが葛藤する。
その時、ターボが俺の手にあるノートに飛びつこうとした。
「お願い! これがないとターボ、夏合宿行けないの! みんなと走りたいの!」
その言葉が、クロの琴線に触れたらしい。
──走りたい。
そのシンプルな願いは、同じウマ娘であるクロにとって、何よりも重い言葉だった。
「……はぁ」
クロが大きなため息をついた。
そして、俺の手からノートをひったくると、それをターボの胸に押し付けた。
「……持っていってください。ターボさん」
「えっ!? いいの!?」
「ええ。ただし、お金はいりません。その代わり……」
クロは俺を睨みつけ「諦めろ」という目で合図を送ってから、ターボに向き直った。
「これを使って勉強する間、わたしたちが監視……いえ、サポートします!」
「本当!? キタサンブラック、いいやつだなー! ありがとう!」
こうして、俺たちの「知識ビジネス」はあえなく破綻した。
それどころか、その後2時間、俺たちは「Xとは何か」という根源的な問いと格闘する羽目になったのだ。
◇ ◇ ◇
夕暮れ時。
ターボを解放し、疲労困憊で図書室の学習コーナーに移動した俺たちを待っていたのは、静寂と、耐え難い「飢餓」だった。
「……腹減った」
クロが机に突っ伏し、死にかけの虫のような声を出した。
「脳を使ったせいで、カロリー消費がいつもの3倍だ。……おいカズユキ、なんか持ってないのか」
「あるわけないだろ。俺の予定では、今頃ターボから巻き上げた1000円で、コンビニのホットスナックを堪能しているはずだったんだ」
「うぅ……唐揚げ棒……Lチキ……」
クロが妄想上の肉を食べて空腹を紛らわせようとしている。
末期だ。
俺も限界だった。
思考が鈍り、視界が霞む。
このままでは餓死する。
トレセン学園の図書室で、男子生徒とウマ娘が餓死体で発見されるなど、前代未聞の不祥事だ。
その時だった。
鼻孔をくすぐる、甘く、香ばしい匂い。
シュガーと小麦と油が奏でる、背徳の三重奏。
「……匂うぞ、カズユキ」
「ああ。3時の方向、閲覧席だ」
俺たちは野生動物のような嗅覚で顔を上げた。
そこにいたのは、一人のウマ娘だった。
芦毛の髪。涼しげな顔立ち。
学園の有名人、オグリキャップ先輩だ。
だが、問題なのは彼女の美貌ではない。
彼女の目の前に積み上げられた、エベレストのごとき「ドーナツの山」だ。
「……なんだあれ。パーティーか?」
「いや、ソロ活動だ。オグリキャップ先輩の胃袋はブラックホールだという噂を聞いたことがある」
オグリキャップは、難しい顔で参考書を睨みつけながら、機械的な動作でドーナツを口に運んでいる。
問題を見る。
唸る。
ドーナツを食べる。
問題を見る。
唸る。
食べる。
そのサイクルが早すぎる。
参考書のページは一向に進んでいないが、ドーナツの山は確実に標高を下げていた。
「……おい、見ろカズユキ。あの参考書」
「ん?」
俺は目を凝らした。
彼女が開いているのは『基礎からわかる物理』。
だが、彼女の手は最初のページで止まっている。
そして、回答用紙は白紙だ。
「……困ってる。明らかに勉強に行き詰まっている」
「……だな」
俺とクロは顔を見合わせた。
言葉はいらない。
俺たちの思考は完全にリンクしていた。
需要と供給。
俺たちには「
彼女には「
これはビジネスチャンスではない。
生存競争サバイバルだ。
「……行くぞ」
俺たちは席を立ち、音もなくオグリキャップの背後へ忍び寄った。
クロが優等生スマイルを装填する。
「おひさしぶりです、オグリキャップ先輩。勉強が捗っていらっしゃらないようですね」
「ん……?」
オグリが顔を上げた。
口の周りに白い砂糖がついている。
可愛いが、その目は獲物を狙う猛獣のように鋭い。
「……なんだ、キタサンブラックか。すまないが、今は取り込み中だ。この『慣性の法則』という奴が、どうしても理解できなくてな」
「慣性の法則。……物体がその運動状態を保とうとする性質のことですね」
俺が横から口を挟む。
「失礼します。僕は通りすがりの家庭教師、カズユキです」
「家庭教師……?」
「ええ。見る限り、先輩は物理の迷宮に迷い込んでいるご様子。そこで提案なのですが」
俺はオグリの参考書と、ドーナツの山を交互に指差した。
「僕たちがその問題を解きます。分かりやすく解説もし、宿題も終わらせます」
「……ほう?」
「その対価として──我々に、そのドーナツを分けていただけないでしょうか」
直球勝負。
オグリはきょとんとして、それから自分のドーナツを見た。
「……これをか?」
「はい。我々は今、深刻なエネルギー不足に陥っておりまして」
「……ふむ」
オグリは少し考え、真剣な顔で頷いた。
「いいだろう。知識と食料の等価交換……悪くない取引だ。ただし」
オグリの目が光った。
「私がこの山を食べ尽くす前に、課題を終わらせること。それが条件だ」
「……はい?」
俺が聞き返す間もなく、オグリはドーナツを二つ同時に口に放り込んだ。
速い。
咀嚼から嚥下までのプロセスが、生物として最適化されすぎている。
「急げカズユキ! このペースだと3分で山が消滅するぞ!」
「マジかよ! 物理の問題10問だぞ!? タイムアタックにも程がある!」
俺は慌ててペンを取り、オグリのノートを奪い取った。
クロも横から覗き込む。
「問1! 摩擦係数がどうのこうの!」
「式は立てられる! 計算は任せた!」
「よし、答えは4.2だ! 次!」
俺が猛スピードで数式を書き殴る横で、オグリは淡々と、しかし猛烈な勢いでドーナツを吸引していく。
パクッ。
モグモグ。
ゴクン。
パクッ。
モグモグ。
ゴクン。
そのリズムは、死へのカウントダウンのように正確だ。
「ちょ、先輩! ペース早すぎます! 味わってください!」
「味わっているぞ。……うむ、このフレンチクルーラー、空気の層が絶妙だ」
言いながら、オグリはフレンチクルーラーを一口で消滅させた。
「残り5個! カズユキ、急げ!」
「分かってる! あと3問……くそっ、なんでここだけ応用問題なんだ!」
「オレがやる! ……あーもう、文字がゲシュタルト崩壊してきた!」
極限の空腹と焦りで、俺たちの脳味噌は沸騰寸前だ。
だが、目の前で減っていくドーナツが、俺たちを突き動かす。
あれはただの砂糖の塊ではない。
命の灯火だ。
「ラスト1問! 答えは……9.8m/s2乗!」
俺が最後の数字を書き殴ったのと同時に、オグリの手が最後の一個──チョコレートがたっぷりかかったオールドファッションに伸びた。
「終わりました!!」
俺とクロが同時に叫んだ。
オグリの手が、ドーナツの数センチ手前でピタリと止まる。
──静寂。
俺たちの荒い息遣いだけが響く。
「……ふむ」
オグリはノートを確認した。
全問正解。
完璧な回答だ。
彼女は満足げに頷き、その最後のドーナツを手に取った。
そして。
「……約束だ。半分ずつやる」
パキッ。
オグリはオールドファッションを綺麗に二つに割り、俺とクロに差し出した。
「え、先輩の分は?」
「私はもう十分食べた。……それに、頑張った者には報酬が必要だろう?」
オグリが微笑む。
それは、学園のアイドルの名に恥じない、聖母のような笑顔だった。
俺たちは震える手で、その半分のドーナツを受け取った。
「……いただき、ます」
パクッ。
口の中に広がる、強烈な甘さと脂質。
脳が歓喜の声を上げる。萎縮していた胃袋が、生きる活力を取り戻していく。
「……うめぇ……」
「……生きててよかった……」
俺とクロは、図書室の片隅で、涙が出るほど美味いドーナツを噛み締めた。
たった半分のドーナツ。
だが、それは俺たちの知恵と労働の結晶であり、勝利の味だった。
「……また分からなくなったら頼むぞ。次はメロンパンを用意しておく」
オグリが荷物をまとめて立ち去っていく。
俺たちは、その後ろ姿を拝むように見送った。
「……カズユキ」
「なんだ」
「……勉強って、役に立つんだな」
「ああ。物理法則を知らなくても生きていけるが、物理を知っていればドーナツが食える」
俺たちは顔を見合わせ、力なく笑った。
財布の中身は相変わらず
中間テストまであと一週間。
俺たちの生存戦略は、まだ始まったばかりだ。