六月下旬。
梅雨の末期。
空はどんよりと重い無彩色の雲に覆われ、湿度は飽和状態を超えて、世界が丸ごと腐った蒸し器の中に閉じ込められたような有様だった。
この季節、世間一般の「青春」を謳歌する連中は「もうすぐ夏休みだね」だの「プール開きが楽しみ」だのといった、脳内お花畑な会話に興じていることだろう。
だが、俺に言わせれば、プールとは塩素の匂いが鼻を突く巨大な滅菌槽であり、青春とはそれ自体が一種の集団感染病に他ならない。
そんな皮肉を吐き捨てながら、俺とクロは、水を抜かれた屋外プールの底に立っていた。足元に広がるのは、一年分の泥と、日光を浴びて無秩序に増殖した緑色の藻──。
それはまさに、夢と希望が腐敗した後に残る「現実」という名のヘドロだった。
湿気というのは、ある種の平等だ。金持ちの肌も貧乏人の肌も、等しくベタつかせる。だが、その後の『ケア』に決定的な格差が出る。サトノのような連中は高級な除湿機と冷房に守られ、俺たちは扇風機の生温い風に絶望する。このプールのヘドロは、いわば俺たちの生活そのものの沈殿物だ。
「……なあ、カズユキ。これ、本当に人間がやるべき作業なのか? オレ、前世で何か大罪でも犯したっけ?」
ジャージの裾を限界まで捲り上げたクロが、虚無を宿した瞳で、広大な緑の深淵を見つめていた。
その手には、毛先の開いた無惨なデッキブラシ。
「前世のことは知らんが、現世での罪なら明白だ。俺たちは『貧乏』という名の免れぬ原罪を背負っている」
俺は鼻をすする。
湿気を含んだ風が、ヘドロの腐敗臭を運んでくる。
「見ろ、このチラシを。プール清掃ボランティアの対価は、学食の無料券三枚だ。しかも『大盛り可』という、資本主義のバグを突いたような特約付きだぞ」
「カズユキ、これは労働じゃない。搾取だ。あるいは、カロリーの先物取引だ」
「いいやクロ。これは『聖戦』であり『巡礼』だ。カツカレーという名のエルサレムを目指す、我ら貧民十字軍の行進だよ」
「……その十字軍、武器がデッキブラシ一本なんだけど。せめて石弓くらい支給してくれよ」
ガクリとうなだれるクロ。
だが、チラシに移る豪華な学食を見て、クロの喉が、ゴクリと鳴った。
「……『特製カツカレー・トリプル盛り』あるいは『スタミナ丼・肉マシマシ』……分かった。もはやこれは清掃じゃない。やはり聖戦だ」
空腹は、優等生の仮面を容易く食い破る。
こいつにとって、プライドとは胃袋を満たすための一時的な通貨に過ぎないのだ。
「「やるぞ!!」」
俺たちは雄叫びと共に、ヘドロの荒野へ突撃を開始した。
だが。
運命という名の脚本家は、常に俺たちの期待を裏切る。
「──おーおー。やってるねぇ、泥んこブラザーズ。それは新手の修行か? それとも地球の地殻を削る作業か?」
頭上から、鼓膜を直接揺さぶるような、不吉なほど明るい声が降ってきた。
プールサイド。
逆光の中に立つ、長い芦毛をなびかせたウマ娘。
制服のまま、デッキブラシを三叉の矛のように構えたその姿は、海神ポセイドンというよりは、単なる攪乱工作員だった。
「……出た。歩く自然災害」
「……ゴールドシップ先輩。冷やかしなら、他所でやってください。俺たちは今、カツカレーという名の真理を追い求めている最中なんです」
俺が牽制すると、ゴルシはプールサイドから軽やかに飛び降り、バシャリと汚泥の中に着地した。
「冷やかし? 心外だな。オレ様も探し物があってな。……なあ、知ってるか? 去年の夏、この底には『伝説』が沈んだんだよ」
「伝説?」
クロが警戒しながらも、オウム返しに問う。
「おうよ。正真正銘、金色の輝きを放つ、令和の聖遺物……五百円玉がな!」
一瞬、空気が凍りついた。
五百円。
それは今の俺たちにとって、三日分の延命を約束するプラチナチケットに等しい。
「……先輩。それは、どのあたりに?」
クロの声が、一オクターブ低くなった。
目が、捕食者のそれに変わる。
「さあて。排水溝の近くだったか、あるいは誰かの未練が溜まったプールの角だったか……。見つけた奴は、そのまま持って帰っていいぜ? 宝探し部の部長であるオレ様が許可してやる!」
その瞬間、俺とクロの脳内から「ボランティア」という文字が消滅した。
学食の券? それは確定報酬だ。
だが、五百円玉は臨時ボーナスだ。
俺たちはデッキブラシを投げ捨て、四足歩行の勢いでヘドロの中へダイブした。
◇ ◇ ◇
そこからは、言葉を失った獣たちの宴だった。
泥を掻き分け、藻を剥ぎ取り、排水溝に指を突っ込む。
「ない! ここには『誰かの眼鏡』のレンズしかない!」
「こっちは『消しゴムの死骸』だ! カズユキ、もっと深く掘れ!」
お嬢様という設定も、潔癖症という理性も、すべては緑色の泥の中に溶けて消えた。
俺たちのジャージは泥まみれで、顔にはヘドロのシミがつき、まるで泥沼から這い出した新種のUMAのようだった。
「はっはっは! いいぞ、そのハングリー精神! 泥を啜ってでも生きようとする姿、嫌いじゃねぇ!」
ゴルシはプールサイドに座り、どこから出したのかメロンパンを優雅に齧りながら、俺たちを高みの見物と洒落込んでいる。
完全に遊ばれている。
それは理解している。
だが、五百円という名のニンジンをぶら下げられた馬に、止まるという選択肢はない。
「……あった!!」
クロが叫んだ。
泥の中から、円形の、金属質の物体を摘み上げたのだ。
「でかしたクロ! それは──!」
「……『府中ゲームセンター』って書いてある」
虚脱。
俺たちは泥の中に膝をついた。
カラスがアホ、アホ、と鳴いて飛び去っていく。
「……先輩。五百円玉、本当に落としたんですか?」
クロが、低い、地を這うような声でゴルシを射抜く。
「ん? ああ、落としたぜ。……いや、待てよ。あれは五百円玉じゃなくて、五百円分の価値がある『夢』だったかもしれねぇな」
「「………………殺す」」
俺たちの殺意が、物理的な熱量を持って大気を震わせた。
クロが泥まみれのデッキブラシを握りしめ、獲物を狙うチーターのように身構える。
「おっと、目がマジだな。……でも安心しろ。労働の後には、ちゃんと『ご褒美』が用意されてるんだよ」
ゴルシはニヤリと笑うと、プールサイドの散水用ホースを掴んだ。
そして、蛇口を全力で回した。
「汚物は消毒だー!!」
バシャアアアアア!!
暴力的な水圧が、俺たちの正面から直撃した。
「ぶべらっ!?」
「ひゃああっ!?」
冷たい。
痛い。
そして圧倒的に冷たい。
泥ごと身体が吹き飛ばされそうになる。
「はーっはっは! 泥を流して、心も身体もピュアになれ! これぞゴルシちゃん特製・ウォーターパラダイスだ!」
「ふざけんな! リフレッシュじゃなくてリンチだろうが!」
「溺れる! 陸上で窒息する!」
ゴルシは狂ったようにホースを振り回す。
西日に照らされた水飛沫が、無駄に綺麗な虹を描いた。
俺たちは泥だらけのまま、ただ逃げ惑うしかなかった。
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
戦いは終わり、プールは見違えるほど綺麗になった。
いや、ゴルシの放水によって、汚れが力技で排水溝へと押し流されただけだが。
「……寒い」
「……死ぬ」
俺とクロは、プールサイドで体育座りをしていた。
全身ずぶ濡れ。
ジャージは水を吸って鉛のように重く、髪からはポタポタと水が滴っている。
五百円玉は見つからなかった。
あったのは、ただの徒労と筋肉痛だけだ。
「ほらよ。お疲れさん」
ゴルシが、俺たちの前に何かを差し出した。
学食の無料券、三枚。
そして、自販機の温かいココアが二本。
「……これ」
「先生から預かってたんだよ。お前らが真面目に掃除したら渡してくれってな。ま、最後はオレが掃除したようなもんだけど、参加賞だ」
ゴルシはニカっと笑った。
「五百円より価値のあるモン、手に入れたろ? ……『泥だらけの思い出』ってやつをよ!」
言うだけ言って、ゴルシは嵐のように去っていった。
本当に、何しに来たんだあの人は。
「……最低な思い出だわ」
クロがため息をつきながら、ココアのプルタブを開けた。
プシュ、という音と共に、温かい湯気が立ち上がる。
クロはそれを一口飲み、ふう、と長い息を吐いた。
夕日に照らされたその横顔は、泥だらけだったが、不思議と晴れやかだった。
「カツカレー大盛り。……明日が楽しみだわ」
「ああ。労働の果てに掴み取る炭水化物こそ、この世の唯一の正解だ」
俺もココアを啜る。
チープな甘さが、冷え切った身体に染み渡っていく。
ふと見ると、洗い流されたプールの底で、何かがキラリと光った気がした。
だが、もう確かめる気力はない。
どうせまた、誰かの無くしたガラクタか、ゴルシの言った「夢の残骸」だろう。
夢は俺たちの手でこれから掴めばいい。
誰かの夢の残骸に振り回されるのはもう、こりごりだ。
「帰ってトレーニングでもすっかな」
「そうだな。それがいい」
俺たちは濡れた靴を引きずりながら、オレンジ色に染まった校舎を後にした。
夏はまだ、始まったばかりだ。