翌日の昼休み。
昨日あれだけ全身へ水を浴びたというのに、東京の空気は反省というものを知らないらしく、朝から肌へまとわりつくような湿気が学園全体を包んでいた。窓の外には梅雨の切れ間から青空が覗いているくせに、廊下へ一歩出ればシャツの内側にはじっとりと汗が滲み、昨日ゴールドシップ先輩の高圧放水によって強制的に洗浄された身体が早くも再汚染されていく。
夏という季節を爽やかな青空と白い入道雲だけで表現する連中は、たぶん冷房の効いた部屋からしか外を眺めたことがない。
現実の六月下旬というものは、もっと湿っていて、生温くて、脇の下に不快感を抱えている。
そして俺の財布の中には、そんな季節の不快指数を一時的にゼロへ戻す切り札が入っていた。
三枚の学食無料券。
昨日のプール清掃で獲得した、泥と筋肉痛の結晶である。
「持ってるよな?」
「何を」
「何をじゃねーよ。食券だよ、食券。昨日もらったやつ」
「あるよ」
「見せろ」
「信用なさすぎないか?」
「お前、前にスーパーの五十円引きクーポンを制服ごと洗っただろ」
「あれは事故だ」
「自分で洗濯機に入れたやつを事故とは呼ばねーんだよ」
昼休み開始のチャイムが鳴るなりトレーナー科の教室まで押しかけてきたクロは、財布を差し出せと言わんばかりに右手を伸ばしている。
仕方なく札入れの奥から三枚を取り出して見せると、黒い耳がピンと立った。
「よし」
「なんでお前が債権者みたいな顔してんだ」
「半分オレのだろ」
「三枚あるんだが」
「じゃあ一・五枚」
「真ん中から切った瞬間に価値がゼロになる金融資産だぞ」
「じゃあ二枚オレ」
「増えたな」
「昨日一番泥掻いたのオレだし」
「途中から五百円しか探してなかった奴が何を言ってるんだ」
クロの顔から光が消えた。
「…………五百円」
「思い出すな。傷が開く」
「絶対あったと思うんだよな……」
「忘れろ。人は失敗を乗り越えて成長する生き物だ」
「お前、最後なんか光ってるの見てなかった?」
「気のせいだ」
「ほんとか?」
「夢の残骸だよ」
「なんだよ、その急に文学かぶれみたいな言い方」
「昨日の俺に言え」
実際、プールの底で何かが光ったのは見た。
だが、もう確かめる気力はなかったのだ。
泥水の中を這い回り、ゲームセンターのメダルに希望を打ち砕かれ、最後はホースで洗車される中古車のように吹き飛ばされた後である。あの状態の俺にもう一度プールへ戻れと言うのは、遭難者へ下山直後に「山頂に財布を忘れてますよ」と教えるようなものだ。
人間、諦めが肝心である。
「で」
クロが無料券から視線を外し、ニヤリと笑った。
「昨日から決めてたよな?」
「ああ」
「特製」
「カツカレー」
「トリプル盛り」
「大盛り可」
「ルー多め」
「それは書いてない」
「交渉しろよ」
「無料券を持った途端に態度がデカくなるな。成金か」
「昨日までパンの耳食ってた人間が、今日だけは貴族になれるんだぞ。もっと誇り持てよ」
「貴族は無料券握りしめて学食に急行しねえよ」
「走ってねーし」
「じゃあその競歩選手みたいな歩き方やめろ」
クロはすでに俺の三歩先を歩いていた。
制服姿のウマ娘が本気で急げば、こちらが小走りになったところで追いつけるはずもない。にもかかわらず本人はあくまで歩いているつもりらしく、廊下を蹴るローファーの音だけが妙に速い。
「早くしろって! カツなくなるだろ!」
「声を抑えろ。キタサンブラックが昼飯目当てに学食へ突撃してるところを見られたらどうする」
「別にいいだろ、飯くらい食わせろよ」
「明日の見出しは『期待の新星、カツを求めて驀進』だな」
「平和なニュースだな」
「その下に『食費高騰、関係者悲鳴』」
「誰が関係者だよ」
「俺」
「お前かよ」
そんな馬鹿なことを言いながら渡り廊下を抜ける。
昼前まで雲に隠れていた太陽がちょうど顔を出したところらしく、窓から差し込む白い光が床へ長く伸びていた。遠くのグラウンドからは掛け声が聞こえ、湿気を含んだ風が開け放たれた窓から入り込んでは、廊下に貼られた夏合宿の案内をパタパタと揺らしている。
もうすぐ夏だ。
もっとも、俺たちにとって夏とは海でも花火でもなく、走り込みと合宿と食費増大の季節になる予定だが。
青春という言葉には、いつだって当事者に不利な条件が小さな文字で併記されている。
◇◇◇
昼休みの学食は、人間とウマ娘が理性を失わないギリギリの密度で混雑していた。
空席を求めて彷徨う者。
友人の分までトレーを抱える者。
食事を終えそうな上級生の背後で無言の圧力をかける者。
ただ飯を食うだけの空間で、ここまで高度な生存競争が自然発生するのだから、文明社会などというものは腹が満たされている時間帯にだけ成立する幻想なのかもしれない。
「カズユキ、席!」
「お前が取れ! 俺は注文する!」
「窓側な!」
「選り好みするな!」
「カツ多めって言っとけ!」
「無料券の権限を過大評価するな!」
人混みの中で役割分担は瞬時に決まった。
クロが空席を探して消える。
俺は二枚の無料券を握りしめたままカウンターの列へ並んだ。
狙うは当然、昨日あれだけ俺たちを労働へ駆り立てた特製カツカレー。
トリプル盛り。
大盛り可。
泥の底で何度も思い浮かべた救済の文字列。
労働の対価。
我ら貧民十字軍のエルサレム。
いや、たかが学食のカツカレーを聖地扱いする時点で、宗教観より先に食生活を見直した方がいいのかもしれない。
「はい、次」
「特製カツカレー、トリプル盛り二つお願いします」
「二つとも大盛りでいいの?」
「はい」
一瞬の迷いもなかった。
昨日の俺たちへの供養である。
学食のおばちゃんが笑いながら、通常サイズとは明らかに規格の違う皿へ白米を盛り始める。
一杯。
二杯。
三杯。
まだいく。
「…………」
少し不安になってきた。
写真より明らかに多い。
一般的に食品サンプルとは実物を多少盛って見せることで購買意欲を刺激するものだと思っていたが、どうやらトレセン学園の食堂に景品表示法という概念は存在しないらしい。
逆方向に。
「お兄ちゃんも食べ盛りだねぇ」
「いや、俺はウマ娘じゃないんですが」
「若いから平気平気」
「その理論で処理できる量ですか、これ」
白米の山へ巨大なカツが載せられ、その上から茶色いルーが容赦なく流し込まれていく。
重い。
トレーを持った腕に明確な負荷がかかる。
俺が筋力トレーニングを注文した記憶はない。
「お待ち」
「……ありがとうございます」
両手に一皿ずつ。
落とせない。
ここで転べば昨日の数時間が床のシミへと変換される。
そんな青春だけは御免だった。
「カズユキ! こっち!」
窓際の四人掛け。
クロが小さく手を振っていた。
向かいの席へどうにかトレーを置くと、今まで威勢のよかったクロまで皿を見て一瞬黙った。
「でかくね?」
「お前がトリプルって言ったんだろ」
「写真と違うじゃん」
「普通逆なんだけどな」
「……食えるかな」
「お前五分前までカツ多めにしろって言ってたぞ」
「戦況が変わった」
「撤退判断が早すぎるだろ」
「まあいい。食えば減る」
「食事という行為の本質を極限まで単純化したな」
両手を合わせる。
「いただきます!」
「いただきます」
最初の一口だけは、会話が途切れた。
スプーンでカツを切ると、ザクッと衣が小さな音を立てる。まだ熱い肉と、ルーを吸った米をまとめて口へ押し込めば、塩気と油と炭水化物が舌の上へ一気に広がった。
上品さなどない。
繊細さもない。
美食家が目を閉じて産地を当てるような高尚な味でもない。
炭水化物。
脂質。
肉。
塩分。
育ち盛りの胃袋が要求するものを全部一皿に集めて鈍器で殴りつけてくるような味だ。
だが、今の俺たちにはそれでいい。
むしろそれがいい。
昨日、冷たい水を浴びながら震えていた身体の奥へ、カロリーという名の暴力が染み込んでくる。
「……うめぇ」
「ああ」
「生きててよかった」
「昨日死にかけたのホースの時だけだろ」
「お前『ぶべらっ』って言ってたよな」
「忘れろ」
「人生で初めて聞いたぞ、リアルぶべらっ」
「人間は限界を超えると既存の日本語を捨てるんだよ」
「何その新説」
クロが笑いながらカツを頬張る。
すでに口元へカレーがついている。
「右」
「あ?」
「口」
「どこ」
「右」
クロが左を拭った。
「逆」
「分かんねーよ」
「鏡見ろ」
「飯食うのに鏡なんか持ってくるか」
「女子力低いな」
「お前がそれ言う?」
「俺は男だから免除される」
「便利だな、その制度」
紙ナプキンを一枚放ると、クロはぞんざいに口元を拭った。
こういうところは昔から変わらない。
黙って座っていれば、その辺の男子が三度くらい振り返りそうな顔をしているくせに、飯を食わせれば五分で化けの皮が剥がれる。
伸びた黒髪も。
細くなった輪郭も。
制服の胸元に以前とは違う線を作る身体も。
もう見慣れたと言えば嘘になる。
むしろ成長するたびに勝手に仕様変更されるせいで、こっちの認識が追いついた頃には次の更新が始まっている始末だ。
それでも、口の端にカレーをつけて笑っているこいつを見れば、北島黒を見失うことだけはない。
たぶん。
「なんだよ」
「何が」
「さっきから見てる」
「カレーついてないか確認してただけだ」
「もう拭いただろ」
「まだついてる」
「マジ?」
「嘘」
「殺す」
「食事中に物騒なこと言うな」
クロが俺の皿からカツを奪おうとスプーンを伸ばしてくる。
「おい」
「嘘ついた罰」
「自分の山を処理してから来い」
「人の皿のカツはカロリーゼロなんだよ」
「窃盗犯特有の理論だな」
「あの……こちら、空いていますか?」
頭の上の耳がピクリと動いた。
クロのスプーンが俺のカツへ到達する寸前で止まる。
「ダイヤちゃん」
聞き慣れた柔らかい声。
顔を上げると、サトノダイヤモンドがトレーを手に立っていた。
焼き魚。
味噌汁。
小鉢。
白米。
目の前にある二つのカツカレー山脈と比べると、同じ食堂から供給された食事とは思えないほど秩序がある。
「もちろんです。どうぞ」
一秒。
本当に一秒だった。
さっきまで俺のカツを強奪しようとしていた人間の声から濁点が消え、背筋が伸び、口元には柔らかな微笑みまで浮かぶ。
トレセン学園に入学してから一年と少し。
こいつも随分と変身速度が上がったものである。
昔なら仮面を装着するまで三秒は必要だった。
成長とは恐ろしい。
「あ、荷物を……」
「ありがとうございます」
クロが隣の椅子に置いていた鞄を慌てて引き寄せる。
ダイヤちゃんがそこへ腰を下ろした。
四人掛けのテーブル。
俺の正面にクロ。
その隣にダイヤちゃん。
一席だけ空いている。
別に珍しい光景ではない。
食堂で友人と相席する。
ただそれだけだ。
「すごいですね、そのカレー」
「昨日のプール清掃の報酬なんです」
「まあ。お二人とも参加されていたんですね」
「ええ。多少大変でしたけれど、おかげで今日は――」
「多少じゃねーだろ。最後なんか殺人未遂だったぞ」
「お前は黙ってろ!」
クロがこっちを睨む。
そして。
止まった。
「…………」
自分で気づいたらしい。
スプーンを握ったまま固まっている。
ダイヤちゃんが瞬きをする。
「…………」
周囲では食器の音が鳴っている。
隣のテーブルから誰かの笑い声が聞こえ、厨房では追加の揚げ物を油へ落としたらしい乾いた音がした。
窓から入り込んだ光が、ダイヤちゃんの黒い髪の縁だけを細く照らしている。
「……今のは」
「はい」
「その……いつもの癖っていうか」
「はい」
「別に普段からこんなんじゃなくて」
「そうなのですか?」
それは無理がある。
俺は黙ってカレーを口へ運んだ。
救援要請は受けていない。
「ずるいですね」
ダイヤちゃんが味噌汁の椀へ手を伸ばしながら言った。
「……何が?」
「またカズユキさんだけです」
「俺?」
思わぬ方向から流れ弾が飛んできた。
「どうして俺が」
「だって、キタちゃん。カズユキさんとお話ししている時は、いつも今みたいなのでしょう?」
「いつもじゃねーよ」
即答。
もう戻っている。
「あ」
また自分で気づく。
遅い。
ダイヤちゃんの口元がほんの少し緩んだ。
「やっぱり」
「いや」
「私には、まだよそ行きなんですね」
「よそ行きって……別に、そういうつもりじゃ」
「では、私にも同じようにしてください」
「同じようにって何を」
「今のように」
「今のようにって」
「『お前は黙ってろ』」
「言うわけねーだろ!」
「残念です」
「なんでだよ!」
ダイヤちゃんが小さく笑った。
声は穏やかだった。
いつも通り品もある。
なのに、なぜか俺の背中には以前にも覚えのある冷たいものが走った。
サトノダイヤモンドという少女は基本的には優しい。
礼儀正しく、育ちもよく、他人への気遣いもできる。
ただし、自分が欲しいと思ったものに関してだけは、時々その育ちの良さを刃物の鞘として利用する節がある。
「今のキタちゃんの方が、楽しそうですから」
「…………」
クロが止まった。
今度は、さっきとは少し違う止まり方だった。
ダイヤちゃんはそれ以上何も言わず、焼き魚の身を箸で丁寧に外している。
骨一本まで綺麗に避けるその指先だけ見ていれば、つい数秒前に人の領域へ土足で一歩踏み込んできた人間とは思えない。
「……そんな大したもんじゃねーぞ」
「何がですか?」
「こっちのオレ」
「そうでしょうか」
「口悪いし」
「知っています」
「……知ってんの?」
「時々聞こえますので」
ダイヤちゃんが自分の耳を指差した。
「…………」
俺とクロは同時にそれを見た。
耳。
ウマ娘の。
人間より遥かに高性能な。
「カズユキ」
「なんだ」
「小声なら聞こえねーって言ったよな、お前」
「言った記憶はない」
「言った」
「科学には常に新しい発見がつきものだ」
「逃げるな!」
「だから今のも聞こえています」
ダイヤちゃんが笑う。
「…………最悪だ」
クロが頭を抱えた。
「オレ、今まで何回やらかした?」
「そうですね……」
「数えるな! いい! 聞きたくねー!」
「では秘密にしておきます」
「そうしてくれ……」
「私とキタちゃんだけの」
クロの手が止まった。
俺のスプーンも、皿の上で一度だけ止まった。
ダイヤちゃんは何事もなかったように味噌汁を飲んでいる。
「そういう言い方やめろよ」
「どうしてです?」
「なんか……ずりぃだろ」
「何がでしょう」
「知らねーよ」
クロは逃げるようにカツを口へ放り込んだ。
耳の先が少し赤い。
ダイヤちゃんは満足そうに笑っている。
なんだこれ。
長年俺一人しか取り扱っていなかった不採算事業に、いきなりサトノ資本が参入してきたような気分だ。
それも現経営者への事前通告なしで。
いや、誰が経営者だ。
そもそも北島黒という人間は俺の所有物ではないし、仮に株式を発行していたとしても将来性の不透明さと維持費の高さから上場審査で弾かれる可能性が高い。
「カズユキ」
「何だ」
「お前、さっきから全然食ってなくね?」
「食ってる」
「減ってねーぞ」
「トリプルが多すぎて錯覚してるだけだ」
「じゃあカツもらう」
「それは別問題だ」
「ケチ」
「人の資産へ勝手に手を伸ばすな」
「カツ一枚で資産とか言ってる時点で悲しくなってくるな、オレたち」
「今さら気づいたか」
いつもの調子でクロが笑う。
その隣でダイヤちゃんも小さく笑った。
さっきまで二人しかいなかったテーブルに、笑い声が一つ増えただけだった。
それだけだ。
俺は冷める前にカレーを食うことにした。
◇◇◇
「おーおー、いるいる」
聞こえた瞬間、条件反射で嫌な予感がした。
人間の危機察知能力というものは、野生動物ほど優秀ではない。
だが同じ災害に何度も遭遇していれば学習くらいはする。
「昨日の泥人形一号と二号じゃねーか。今日は茶色い泥食ってんのか?」
ゴールドシップ。
長い芦毛を揺らしながら、昨日俺たちを地獄へ叩き落とした張本人が学食へ入ってくる。
「誰が泥人形ですか」
「俺は二号なんですか」
「そこ気にする?」
「序列は重要です」
「お前ら仲いいな」
「どこを見てそう判断したんですか」
ゴルシ先輩の右手にはパンがあった。
ただのパンではない。
分厚いカツ。
千切りキャベツ。
濃いソース。
見覚えがある。
「…………」
「…………」
俺とクロの視線が吸い寄せられる。
「おっ」
ゴルシ先輩がニヤリとした。
「分かるか?」
「スペシャルカツサンド……」
「正解」
クロが立ち上がりかけた。
「ジャンケン」
「あ?」
「前に言ったろ! 次会ったらそれ賭けてジャンケンだって!」
「したぞ」
「誰と!」
「購買のおばちゃん」
「なんでだよ!」
「グーで勝った」
「相手は何出したんだよ!」
「レシート」
「ジャンケン成立してねーだろ!」
「まあまあ。勝負の世界は結果がすべてだ」
「今すぐそのカツサンド床に置け!」
「犬かお前は」
「食わせろって言ってんだよ!」
「キタちゃん」
クロが固まった。
隣にダイヤちゃんがいることを思い出したらしい。
「…………」
ダイヤちゃんは口元を押さえている。
「笑ってる?」
「笑っていません」
「こっち見ろ」
「少し待ってください」
「笑ってんじゃねーか!」
「いやぁ、青春だねぇ」
ゴルシ先輩がカツサンドを齧った。
クロの目が殺人犯のそれになる。
「それで思い出した」
「何を」
「昨日のプール」
嫌な予感がした。
今度は本当に。
「お前ら帰った後さ、底になんか光ってたろ?」
「…………」
クロがゆっくり俺を見る。
「カズユキ」
「見るな」
「見てたんじゃねーか」
「まだ何も言ってない」
「で?」
ゴルシ先輩はカツサンドを咀嚼する。
やけに美味そうな音がする。
「拾ってみたら五百円だった」
静寂。
食堂全体が静まったわけではない。
周囲では変わらず話し声が飛び交い、食器が鳴り、厨房からは換気扇の低い音が聞こえている。
なのに俺たちのテーブルの周りだけ、そこから切り取られたように音が遠くなった。
「カズユキ」
「違う」
「何が」
「まだ責められてない」
「なんで拾わなかった」
「やっぱり責めるのかよ」
「五百円だぞ!」
「お前だって見てなかっただろ!」
「オレは濡れた靴が気持ち悪くて下向いてたんだよ!」
「知らねえよ!」
「三日分だぞ! 三日分!」
「その換算方法やめろ!」
「いやー、助かったわ」
ゴルシ先輩が残りのカツサンドを掲げた。
「ちょうど財布に五百円足りなくてよ」
クロの顔から表情が消えた。
「……先輩」
「ん?」
「それ」
「美味いぞ」
「いくらした」
「五百円」
椅子が鳴った。
クロが立った。
「てめえええええええええええええええ!!」
学食中の耳がこっちを向いた。
本当に。
一斉に。
「やっぱあったんじゃねえかあああああああ!!」
「うるせぇ! 食事中だぞ!」
「誰のせいだ! 返せ!」
「もう食った!」
「吐け!」
「食堂で一番言っちゃいけない単語出たぞ!」
「オレたちが泥の中這い回って探した五百円でカツ食ってんじゃねえ!」
「金は天下の回り物だ!」
「オレのところ回ってきてねーだろうが!」
「キタちゃん」
ダイヤちゃんの声。
「何だよ!」
「皆さん、見ています」
クロの身体が止まる。
ゆっくり。
首だけで周囲を見る。
大量の視線。
ウマ娘の耳。
箸を止めた生徒。
そして俺を見る。
「…………」
「俺を見るな」
「殺してくれ」
「五百円のために人生終わらせるな」
「今のオレの方が価値ねーよ……」
クロが椅子へ沈み込んだ。
耳まで真っ赤だ。
「ダイヤちゃん……」
「はい」
「忘れて」
「難しいお願いですね」
「頼むから」
「でも」
ダイヤちゃんの肩がまだ少し震えている。
「先ほどより、ずっと自然でした」
「慰めになってねーよ……」
「私は嬉しかったです」
「何が」
「私がいることまで忘れてくださったので」
クロが顔を上げる。
ダイヤちゃんは笑っていた。
からかうような笑みでもなく、学園で誰にでも見せる綺麗な微笑みとも少し違う。
「なんだよ、それ」
「そのままの意味です」
「意味分かんねー」
「では、分からないままで結構です」
「ずりぃ……」
クロはそう呟いて、残ったカレーを乱暴に口へ運んだ。
直さなかった。
話し方を。
「じゃあな、貧民トリオ!」
「誰がトリオだ」
思わず口から出た。
ゴルシ先輩が振り返る。
「三人いるじゃん」
「サトノさんを一緒にするな。平均資産額が壊れる」
「そこですか、カズユキさん」
「重要です」
「格差社会だなぁ!」
「五百円返せ!」
「もう胃袋だっつーの!」
嵐は笑い声だけ残して去っていった。
「……絶対いつか殺す」
「殺人の動機が五百円だと裁判官も困るぞ」
「じゃあカツサンド一個」
「罪が軽くなったな」
「カズユキさん」
「はい?」
「お二人はいつもこうなのですか?」
ダイヤちゃんが訊く。
俺とクロは顔を見合わせた。
「違います」
「違うぞ」
「息だけはぴったりですね」
「気のせいです」
「気のせいだ」
ダイヤちゃんが笑った。
また揃った。
最悪だ。
◇◇◇
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る頃には、あれだけ巨大に見えた皿もどうにか空になっていた。
「食った……」
クロが椅子の背へ身体を預け、膨れた腹をさすっている。
「午後走れるのか」
「無理」
「トレーナーとして言っておくが、食後すぐ走るな」
「分かってるよ」
「じゃあ何でトリプル食った」
「昨日のオレに聞け」
「昨日から決めてたのお前だろ」
「過去の自分とは和解できないこともある」
「食いすぎただけで人生みたいなこと言うな」
返却口へトレーを戻す。
財布を出したついでに中を確認すると、無料券が一枚残っていた。
三枚。
二枚使った。
一枚。
当然である。
算数の問題にする価値すらない。
「それ、明日どうする?」
クロが俺の手元を覗き込む。
「一枚しかないからな。何か大盛り頼んで半分にするか」
「カツ丼」
「お前、まだ肉の話できるのか」
「明日のオレは別人だから」
「ゴルシ理論に染まってきたな」
「あの」
少し先を歩いていたダイヤちゃんが振り返った。
「もしご迷惑でなければ、明日もご一緒していいですか?」
「え」
一瞬。
クロが俺を見た。
ほんの一瞬だけだった。
「いいぞ」
「本当ですか?」
「別に昼飯くらい。なあ、カズユキ」
「……好きにすれば」
「なんだその言い方」
「普通だろ」
「では、決まりですね」
ダイヤちゃんが笑う。
「明日は何を召し上がります?」
「カツ丼」
「まだ言ってんのか」
「お前は何がいいんだよ」
「安くて量が多いやつ」
「夢がねーな」
「無料券一枚を三人で使おうとしてる時点で夢より算数を優先しろ」
「では私がお二人にご馳走します」
「それは駄目」
クロが即答した。
「でも」
「いいって。そういうのじゃねーから」
声が戻っている。
いや。
戻った、というのも少し違う。
さっきまでダイヤちゃんの前で使っていた柔らかな声に戻そうとして、途中でやめたような、どっちつかずの話し方だった。
「じゃあ一枚で三人食えるメニュー探そうぜ」
「そんな夢の食べ物あるか?」
「探せばある」
「学食に聖杯を求めるな」
「大丈夫です。私も探します」
「サトノの財力を使わない縛りな」
「難しい条件ですね」
「難しくない」
二人が並んで歩き始める。
午後の授業。
夏合宿。
どうでもいい話。
クロの言葉遣いは、もう最初ほど綺麗ではなかった。
ダイヤちゃんもそれを指摘しない。
俺は二人の少し後ろを歩きながら、財布へ残った無料券を戻した。
昨日はあれほどありがたかった紙切れだ。
泥まみれになって手に入れた。
カツカレーへ交換できる。
財布の中の現金よりよほど頼りになる。
そのはずなのに、妙に収まりが悪くて、結局もう一度取り出して胸ポケットへ突っ込んだ。
「カズユキ!」
「何だよ」
「遅ぇぞ! 予鈴鳴ってんだろ!」
「聞こえてるよ」
「置いてくぞ!」
「先行け」
「お前午後寝るだろ!」
「寝ねえよ」
「昨日の筋肉痛とか言って絶対寝る」
「では私も起こしに行きますね」
「なんでサトノさんまで参加するんですか」
「連帯責任です」
「何の責任だよ」
仕方なく歩調を速める。
窓の外では、朝よりも大きくなった白い雲が夏の手前の空に浮かんでいた。
開け放たれた窓から入る風は生温く、汗ばんだシャツを乾かすには少しばかり頼りない。
胸ポケットの中で、残った一枚の食券の角だけが、歩くたびに何度も同じ場所へ当たっていた。