ある日の昼休み。学食の喧騒の中で、俺は少し離れた席から「彼ら」を見ていた。クロが、新しくできた友人――サトノダイヤモンドと話している。通称ダイヤちゃん、か。あいつ、いつの間にかあんな正真正銘のお嬢様と仲良くなってたんだな。
遠くから見ていると、今のクロは本当に完璧だ。お互いの夢を語り合ってるのか、ダイヤちゃんの言葉に、キタサンブラックとして『ええ、一緒に頑張りましょう!』なんて、爽やかで眩しい笑顔で返してる。あんなに上品に笑って、しなやかに尻尾を揺らして……。
周りの生徒たちも、『さすがキタサンブラックさんね』なんて羨望の眼差しを向けてる。誰も、あの輪の中にいる美少女が、かつて俺とドロドロになって取っ組み合いの喧嘩をしてた『黒』だなんて、夢にも思わないだろう。
……でも、な。よく見ると、あいつ、ちょっとだけ左の耳が外側に向いてるだろ? あれ、緊張を隠して無理して愛想振りまいてる時の、あいつの癖なんだよな。ダイヤちゃんみたいな本物のお嬢様を前にして、ボロが出ないように必死に『女の子』を演じてる証拠だ。
(……ふん。お前らには見えないだろうけど、俺には分かる)
あいつの背中、あんなにシュッとしてるけど、中身は今にも『あー、もう、疲れたー!』って叫びたがってるぜ。隣にいるダイヤちゃんは、クロのそんな苦労も知らずに、本当に嬉しそうに彼女の手を握ってる。……正直、ちょっとだけ、今のあいつが遠くに見える。世界中があいつを『最高のウマ娘』として認め始めてるからだ。
でも、あいつが本当に自分をさらけ出せるのは、あんな綺麗な輪の中じゃなくて、夜の裏庭で待ってる俺の前だけなんだ。
……ん? あいつ、こっちに気づいたみたいだぞ。ダイヤちゃんと喋りながら、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、こっちをチラッと見た。
……おい、見たか今の? 一瞬だけ、キタサンブラックの仮面が剥がれて、昔の『黒』みたいな、助けてくれって言わんばかりの困り眉になりやがった。ダイヤちゃんのキラキラした瞳に圧倒されながら、こっちを『おい、なんとかしてくれよ! 連れ出してくれ!』って目で見てきやがった。
(……ふっ、今は気づかないふりだ。あいつが必死に『キタサンブラック』をやってるのを邪魔しちゃ悪いからな)
俺はわざと視線を外して、スマホをいじるふりをした。その瞬間、視界の端で、あいつの耳が絶望で一瞬ピーンと直立するのが見えた。
……ククク、あいつ、今頃心の中で俺のことをボロクソに罵ってるだろうな。『この薄情者が! 後で覚えてろよ!』ってな。
◇ ◇ ◇
その日の夜。いつもの桜の木の下。
「……ほらよ、これでも食って落ち着けよ。キタサンブラック『お嬢様』?」
俺はバッグから、あえてスーパーで売れ残っていたような、土がついたままの不格好なニンジンを一本、ひょいと差し出してやった。
それを見たクロの顔、動画で撮ってみんなに見せたかったな。一瞬、キラキラした目で「あ、ニンジン……」ってウマ娘としての本能が出そうになったのに、俺の「お嬢様」っていう煽りを聞いた途端、耳を思いっきり伏せて、噛みつくみたいな勢いで俺を睨んできたんだ。
「……お前、マジで喧嘩売ってんのか!? 今のオレは、そんな泥付きのニンジンなんて……」
そう言いかけながらも、鼻先をピクピクさせて、ニンジンの匂いに抗えてない。頬を赤くして、必死に『女の子』としてのプライドを守ろうとしてるけど、尻尾は正直にパタパタ振れちゃってる。理性と本能のハザマで揺れるその顔は、傑作以外のなにものでもない。
「……っ、ああもう! 分かったよ、食えばいいんだろ、食えば!!」
こいつは俺の手からひったくるようにニンジンを奪うと、ガリッ、ボリボリと豪快に齧りついた。その食べ方は、ダイヤちゃんが見たら白目を剥いて倒れるくらい、昔の『黒』そのものだ。
「……ふん。……土の味がする。……でも、なんか落ち着くわ」
口いっぱいにニンジンを詰め込んで、少しだけ毒気が抜けた顔で笑うクロ。口の端にちょっと土がついてるのを、こいつは気づいてない。俺はそれを指で拭ってやりたい衝動を、ポケットの中で握りこぶしを作って堪えた。
「……なぁ。お前さ……」
ニンジンを噛む手を止めて、クロがボソッと聞いてきた。さっきまでの煽り合いが嘘みたいに、真剣で、少しだけ怯えたような声。
「もし私が、本当にこのまま、中身まで完璧な『キタサンブラック』になっちまったら、お前、どうするんだ?」
夜風が、こいつの長い黒髪を揺らす。その問いかけは、俺たちが蓋をしていた「いつか来るかもしれない未来」の音をしていた。
俺は少しだけ考えるふりをして、それから、できるだけ何でもないことのように答えた。
「……姿だけじゃなくてさ、中身も変わっちまっても、お前はお前だろ。たぶん、支えるよ。いつまでも」
言いながら、俺は自然に手を伸ばした。口の端についたままだった黒い土を、親指の腹でそっと拭ってやる。その瞬間、クロは息を止めたみたいに固まった。ポリポリと小気味よくニンジンを噛んでいた音が止まって、静寂が落ちる。クロの大きな瞳が、さらに限界まで大きく見開かれた。
「……っ、なっ……!」
次の瞬間、クロの顔が沸騰した。今日一番の赤さだ。さっきの「お嬢様」呼ばわりで赤くなった時なんて比じゃない。耳の先まで真っ赤に染まって、湯気が出そうな勢いだ。
「……バカかお前は! 恥ずかしいことサラッと言ってんじゃねーよ! しかも人が、ニンジン食ってる時に……!」
あいつは誤魔化すように、残りのニンジンを「んぐっ!」と勢いよく口に押し込んだ。リスみたいに頬を膨らませて咀嚼しているが、隠しきれない尻尾が、夜の地面をパタパタパタパタと激しく叩いている。まるでドラムロールだ。口ほどに物を言うとはこのことか。
「……んぐ、ごっくん。……支える、か。プロのトレーナーになるってのも、本気なんだな」
ようやくニンジンを飲み込んで、クロは膝を抱えるようにして丸くなった。少しだけ小さく見えるその背中は、さっきまでのヤンチャな『黒』でも、皆が憧れる凛とした『キタサンブラック』でもない。ただの、将来に不安を抱える等身大の女の子のそれだった。
「……約束だぞ。カズユキ」
膝に顔を埋めたまま、くぐもった声が届く。
「もしオレが、重圧で潰れそうになったり、自分が誰だか分からなくなったりしたら……その時は、今日みたいに泥臭いニンジン持って、オレを笑わせに来い。……そんなこと、世界中でお前にしか、できないんだからな」
クロはそう呟くと、俺の肩に、今度はさっきよりも少しだけ強く、全体重を預けるように頭を乗せてきた。服越しに伝わる体温と、微かな土の匂い。そして、甘い花の香り。
「……ありがとな。……相棒」
俺たちの夜は、こうして更けていく。泥付きのニンジン一本で繋ぎ止められる絆なんて、世界広しといえど、きっと俺たちだけだ。そう思ったら、少しだけ笑えて、そして泣きたくなった。