その夜。いつもの裏庭。
闇の中から飛び出してきた影が、俺の胸倉をむんずと掴み上げた。
「……おい! ダイヤちゃんと何話してたんだよ!」
月明かりの下、クロは気が気じゃないという顔で俺を揺さぶる。その力強さは、可憐なウマ娘のものというより、かつてのガキ大将そのままだ。
「お前、変なこと言ってねーだろうな!? オレが昔、隣町のボスとタイマン張って勝った武勇伝とか、実は女子の格好すんのが死ぬほど恥ずかしいとか……バラしてねーだろうな!」
顔を林檎みたいに真っ赤にして、俺をシャカシャカチキンばりにシェイクするクロ。ダイヤちゃんへの「恋心(と本人は錯覚しているもの)」で脳内メモリがいっぱいのコイツは、自分がどれだけ彼女を不安にさせているか、これっぽっちも気づいていない。青春とは、自意識過剰と鈍感さのハイブリッドだとつくづく思う。
「……なぁ、カズユキ。ダイヤちゃん、なんて言ってたんだよ。……オレのこと、嫌いになったりしてないよな?」
縋るような上目遣い。俺は少し考えた。事実をありのまま伝えても、コイツの単細胞な脳みそじゃ処理しきれないだろう。だから、限りなく事実に近い要約を投げつけることにした。
「……ダイヤちゃん、多分だけど嫉妬してたぞ」
正確に言うと、嫉妬と憧れ、そして「私だけが知らないキタサンの素顔」に対する独占欲が入り混じった、極めて湿度が高い感情だ。俺がわざと淡々と言うと、俺の襟を掴んでいたクロの手が、嘘みたいにピタリと止まった。
「……は? ……しっ、しっと……?」
クロは、まるで聞いたこともない外国語――たとえば古代ルーン文字でも耳にしたみたいに、目をパチクリさせて固まっている。そして数秒後、言葉の意味がニューロンを駆け巡り、脳幹に到達した瞬間。
ボッ!!
幻聴ではない。確かに音がした。
あいつの顔が、湯気を上げて真っ赤に染まったのだ。
「な、ななな、何言ってんだお前!! ダイヤちゃんがオレに!? 逆だろ! 私があいつの眩しさに、こう、男として嫉妬……いや、憧れてるだけであって……!」
「いや、マジだよ。お前が俺に見せる『素の顔』が羨ましいんだってさ」
俺がそう追撃すると、クロはもう制御不能だ。耳はヘリコプターのローターみたいにぐるぐる回っているし、尻尾は地面をバッタンバッタンと激しく叩いて土煙を上げている。校庭整備かよ。
「う、羨ましい……? オレの、この……ガサツなところがか? ……ってことは、何だ? ダイヤちゃんは、オレのことを……それだけ、特別に思ってくれてるってことか……?」
クロは拳を握りしめ、凱旋門賞で1着を獲ったウマ娘ばりに天を仰いだ。その表情は、完全に「マドンナに脈アリだと知らされた男子中学生(童貞)」のそれだ。
「……よっしゃあ!! 聞いたか今の! 嫉妬だぞ、嫉妬! つまり、オレの『男気』が、あいつの心の壁をぶち破り始めてるってことだよな!
……訂正しよう。男子中学生ですらない。小学生レベルの読解力だ。ダイヤちゃんはお前の中に「女の子同士の深い精神的な繋がり」を求めていて、それを普段俺には見せるのに、彼女には見せないから、俺という異物に嫉妬しているのだ。お前の勘違いしている「男気」に惚れているわけじゃない。むしろ、その「男気」とやらが、ダイヤちゃんからは「飾らない自然体の魅力(ギャップ萌え)」として誤変換されている可能性が高い。
これは、致命的なシステムエラーだ。互いに見ているものが違うのに、なぜか好感度だけが上がっていくという、バグ技みたいな現象が起きている。
だが、そんな俺の冷めた分析など知る由もなく、コイツは鼻息を荒くしてアクセルをベタ踏みした。
「よし決めた! 次のトレーニングの時、もっとグイグイ行ってやる! ダイヤちゃんがさらに惚れ直すくらい、最高に『かっこいいオレ』を見せてやるからな!」
はあ。
「……おい。お前もトレーナー(仮)なら、もっとオレをかっこよく見せる演出とか考えろよ! なぁ!」
キラキラした目で同意を求めてくる暴君。
「ぜってーダイヤちゃん惚れさせるから! 見とけよカズユキ!」
俺は、深い溜息を一つついてから、これ以上ないくらいやる気のない声で返した。
「……あぁ、やってみろよ(棒読み)。期待してるぜ」
俺の温度差なんてお構いなしに、クロは「応よッ!」と威勢よく拳を突き上げた。
「見てろよ……! 明日の合同トレーニング、ダイヤちゃんを惚れ直させてやるからな! 男・クロ、いやウマ娘・キタサンブラックの真髄、見せてやるぜ!」
そう言って、あいつは寮の方へ駆けていった。
夜の静寂に残されたのは、あいつが口ずさむ鼻歌だけ。
『〜♪ まつりだ〜まつりだ〜〜♪』
……なぜ演歌なんだ。しかも、こぶしが効きすぎている。あんな可憐な美少女の後ろ姿から、大御所演歌歌手のオーラが見えるのは俺の幻覚か?
俺は切り株に座り直し、夜空を見上げた。あいつの勘違いが解ける日は来るんだろうか。いや、解けた時こそが、あいつの「初恋」が終わる時なのかもしれない。そう思うと、少しだけ胸が痛むような、それでいて清々しいような、複雑な気分になった。
「……ま、せいぜい頑張れよ。お祭り娘」
俺の呟きは、夜風にさらわれて消えた。