お祭り当日。
府中本町駅前の人混み。俺は帽子を目深に被り、スパイ映画のエキストラみたいな気分で二人の後を追った。
待ち合わせ場所に現れたクロを見て、俺は思わず吹き出しそうになった。あいつなりに「男らしく」決めたつもりなんだろう。選んだのは、紺地の落ち着いた渋い浴衣。……だが、それが皮肉にも、キタサンブラックの凛とした美しさと白い肌を、これ以上ないほど引き立ててしまっている。「極道の妻」の若かりし頃か、あるいは時代劇の美しき女剣士か。どっちにしろ「男」には見えない。
「お、お待たせしま……した、じゃねぇ! 待たせたな、ダイヤちゃん!」
第一声から噛んでいる。片手を上げて、わざとガサツに、男友達に声をかけるようなノリで現れたクロ。だが、語尾に染みついた「良い子」がダダ漏れだ。
対するダイヤちゃんは、淡いピンクの可憐な浴衣に身を包み、まさに「守ってあげたい深窓の令嬢」そのものの姿で、頬を赤らめて立っていた。
「……キタちゃん、とっても素敵です。その浴衣、すごく大人っぽくて……」
「へへっ、そ、そうですか……いや、だろ? まぁ、こんくらいビシッと決めないと、お前と歩くのに釣り合いませんから……ね、じゃなくて! 釣り合わねーからな!」
胸を張るオレ(クロ)。 敬語をタメ口で上書き保存しようとして、データが破損している。 ……だが、現実は残酷だ。歩き出した途端、周りの男たちの視線が、クロに突き刺さる。
「おい、あのウマ娘たち、めちゃくちゃ美人じゃねーか……」
「モデルか何かか? あの和装、似合いすぎだろ」
クロはそんな視線に気づかず(あるいは無視して)、人混みの中でダイヤちゃんを守ろうと必死だ。
「おい、ダイヤちゃん。はぐれませんように……ッ、離れるなよ! 人が多いですから……じゃなくて、多いからな! 俺……私の背中に、ついてきてください! ……だぜ!」
「ついてきてくださいだぜ」ってなんだよ。新しい語尾か。そう言って、クロが「男らしく」ダイヤちゃんの肩を抱き寄せようとした、その時だった。
「わっ……!」
横から来た酔っ払いの集団に押され、ダイヤちゃんではなく、クロの方がバランスを崩してよろけた。
「あ、危ない……!」
咄嗟にダイヤちゃんが、クロの細い腰を支えるように抱きとめる形になる。
「……あ」
人混みの中で、二人が密着する。クロの背中が、ダイヤちゃんの柔らかな胸元にすっぽりと収まり、見上げる形になったダイヤちゃんの瞳が、至近距離でクロを射抜いた。
「……キタちゃん。……あなたの体、やっぱり、すごく華奢で……いい匂いがします」
ダイヤちゃんの吐息が耳元にかかり、クロの全身に電流が走ったのが遠目からでもわかった。「男」として守るはずが、完全に「女の子」として抱きしめられている。クロの耳が、真っ直ぐ後ろに倒れて伏せられた。それは、あいつが最高にパニックになった時のサインだ。
さて、物陰から見守る俺のスマホに、バイブ音が響く。
クロからのSOSだ。
『おい!!!!! 助けろ!!!!! 今すぐ!!!!! ダイヤちゃんが……ダイヤちゃんが、なんか怖い!!!!!』
恐怖と動揺で「!」の数がバグっている。
俺は心の中で合掌した。南無三。
◇ ◇ ◇
人混みの中。
「キタちゃん、大丈夫ですか?」
ダイヤちゃんに抱きとめられ、クロは完全に硬直していた。今のあいつの脳内は、「うわあああ! 男の俺が女の子に抱き寄せられてる! しかもめちゃくちゃ柔らかいし、いい匂いするし、どうなってんだこれ!!」という絶叫で埋め尽くされているはずだ。しかし、表向きは必死に「キタサンブラック」という仮面を維持している。
「あ……あはは、申し訳あり……ごめんね、ダイヤちゃん。ちょっと、足元が滑ってしまいまして……滑っちまってさ。……ありがとうござい……サンキュ、な!」
頬を真っ赤に染めながら、なんとか男言葉に着地しようとするクロ。だが、その声は裏返り、体はダイヤちゃんの腕の中で小刻みに震えている。生まれたての子鹿かよ。
「ううん。キタちゃん、意外と……いえ、やっぱりすごく、女の子らしい体をされているのね。もっとしっかり支えてあげなくちゃ」
ダイヤちゃんは、慈しむような、それでいてどこか「独占欲」の混じった瞳でクロを見つめている。 彼女の中では、いつぞや俺にぶつけた「あなたへの嫉妬」が、目の前の「守ってあげたい可憐でおっちょこちょいなキタちゃん」への強い情愛に化学変化を起こしているようだ。
「……あ、あの、ダイヤちゃん? もう大丈夫ですので……大丈夫だから、その……手を離していただけると……離してくれよ……?」
「いいえ。危ないですから、こうしていましょう?」
ダイヤちゃんに優しく、でも逃げられないように腕を絡められ、クロは完全に「されるがまま」の美少女として人混みを連行されていく。
「……? キタちゃん、どうかしましたか? お顔がさらに赤くなっていますけれど……」
ダイヤちゃんが心配そうに、さらに顔を近づけて覗き込む。
「あ、あはは……! なんでもありませんよ……ないよ、ダイヤちゃん! ちょっと……さっき食べたリンゴ飴が、思ったより甘酸っぱかったと言いますか……っていうか……!」
必死に裏返った声で誤魔化すクロ。だが、その視線は殺気立って周囲をキョロキョロと見回している。俺の潜伏場所を探しているんだろうが、あいにくこっちはプロの「モブキャラ」だ。背景に同化するスキルなら誰にも負けない。
「……そう。それならいいのですけれど。あ、見てください、キタちゃん。もうすぐ花火が始まりますよ」
ダイヤちゃんは、絡めた腕をさらにギュッと強めた。クロの細い二の腕に、彼女の柔らかな感触が容赦なく押し付けられる。
「……あ」
クロが、天を仰いだ。「男」として彼女を守り、かっこよくエスコートするはずだった一夜。現実は、大好きな女の子の腕の中で、なすすべもなく「変な敬語混じりの可愛らしい女の子」として扱われ、親友(俺)からは指をさして笑われている。
あいつの「男のプライド」が、花火が上がる前にパリン……と音を立てて砕け散ったのが、遠くからでも見えた気がした。
◇ ◇ ◇
「うわっ、見て見ろよ! あれ、キタサンブラックじゃね!?」
「マジだ! この前のウマ娘特集で見たぜ。実物はもっと可愛いじゃん!」
最悪のタイミングで、酒の入ったガラの悪い野次馬たちがクロを見つけた。あっという間に数人の男たちがニヤニヤしながら二人を囲む。
「なぁなぁ、キタサンちゃん。写真撮らせてくれよ!」
「お祭りなんだし、いいだろ? 連れの子もべっぴんさんだなぁ」
いつもなら「あぁ!? 誰に口聞いてんだ、てめぇら!」とドスを利かせて一蹴するはずのクロだが、今は最悪の状況だ。隣には大好きなダイヤちゃん。そして自分は今、全国に知られた「キタサンブラック」という清純なウマ娘。
「あ……あの、今はプライベートのお時間ですので……その、どいていただけませんか……じゃねえ、どけよコラ……」
最後の方、声が震えて消え入っている。クロは必死に「キタサンブラック」の仮面を被って、戸惑う美少女を演じている。だが、中身の「男」の部分が、野次馬たちの下品な視線に猛烈に反応していた。
「(……こいつら、ダイヤちゃんをそんな目で見てんじゃねえ! ぶっ飛ばしてやる、この……!)」
とでも思っているのか。
拳を固め、怒りで肩を震わせるクロ。だが、その震えは周りからは「怖がっている可愛い女の子」にしか見えない。
「おっ、震えてるよ。可愛いなぁ、守ってやりたくなっちゃうぜ」
男の一人が、ニヤつきながらクロの肩に手を伸ばそうとした、その時。
「……あの、失礼ですけれど」
ダイヤちゃんの一歩前に出る気配。彼女の瞳はいつもの優しさが消え、冷徹な「サトノ」の令嬢としての威圧感を放っていた。
「……『私の可愛いキタちゃん』に、汚い手で触れないでいただけますか?」
その冷たい声に、野次馬たちが一瞬ひるむ。……だが、そんな「女同士」のやり取りを物陰から見ていた俺は、クロの精神状態がもう限界なのが分かった。
スマホに届く、泣き言のようなダイレクトメッセージ。
『おれ もう むり こいつら なぐる でも ダイヤちゃんのまえで ばれる たすけて だれでもいいから たすけて』
「男」として彼女を守りたい。でも「男」として振る舞えば、ダイヤちゃんを騙している自分も、今の「キタサンブラック」という立場も全部壊れる。そんな矛盾に挟まれて、クロの瞳にはうっすらと涙……いや、屈辱の光が浮かんでいた。
……ちっ、仕方ねえな。
「おーい、キタサン! どこ行ったのかと思えば、こんなところで何やってんだ!」
俺はわざとらしく声を張り上げ、人混みを割ってズカズカと輪の中に割って入った。
「あ……!」
俺の姿を見た瞬間、クロの顔に浮かんだのは、安堵なんて綺麗なもんじゃない。「うわああ、来やがった! 助かったけど、一番見られたくない無様なところを見られた!」という、屈辱と情けなさがごちゃ混ぜになった、これ以上ないほど「情けない顔」だ。
俺は野次馬たちの前に立ちはだかり、少しだけ声を低くして言った。
「悪いな、こいつのトレーナーだ。今から大事なミーティングがあるもんでね。……行くぞ、キタサン、サトノさん」
「トレーナー」という単語と、俺の(わざと作った)威圧感に、野次馬たちは「ちっ、なんだよ……」と毒づきながら去っていった。
「……あ、ありがとうございます、トレーナーさん。キタちゃんを助けてくださって」
ダイヤちゃんはホッとしたように胸をなでおろし、俺に丁寧に頭を下げた。だが、その隣にいるクロはといえば……。
「……おう。……助かりました……助かったよ、トレーナーさん」
消え入るような声。顔は俯き、耳は完全にしょぼんと垂れ下がっている。さっきまで「俺の背中を見てろ」なんて豪語していた「男・クロ」の影はどこにもない。ダイヤちゃんに守られ、さらに最悪なタイミングで、一番見下していたはずの俺に助け出された自分。その「かっこ悪さ」に、あいつは今、人生最大の絶望を味わっている。
花火が打ち上がる夜空の下で。
「……それじゃあ、俺はこれで。サトノさん、キタサンを寮まで送っていくから、君も気をつけて帰ってくれ」
「はい。キタちゃん、また明日……学園で」
実家のリムジンに乗るダイヤちゃんが名残惜しそうに去っていくのを、クロはただ黙って見送っていた。彼女の姿が人混みから消えた瞬間、クロはその場にガクッ、と膝をついた。
夜空に大輪の花火が咲く。
「……なぁ、カズユキ。……笑うなよ。絶対笑うなよ……」
膝をついたまま、クロが震える声で呟いた。俯いた顔から、ポタ、ポタと地面に雫が落ちる。悔し涙か、それとも恐怖からの解放か。
「……ダイヤちゃんの腕……すげぇ頼り甲斐があった……。いい匂いした……。怖くて震えてるオレを、あいつ……『大丈夫』って……頭、撫でてくれたんだ……」
クロは自分の二の腕を、浴衣の上からギュッと抱きしめた。そこにはまだ、ダイヤちゃんに守られた時の熱が残っているらしい。
「……ちくしょう……! なんでだよ……! 俺が守るはずだったのに……! カッコよく『離れんな』って言うはずだったのに……!」
あいつは顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を俺に向けた。鼻を赤くして、耳をペタンと伏せて、この世の終わりみたいに泣きじゃくるその顔は、皮肉にも、どんな計算された演技よりも庇護欲をそそる「女の子」そのものだった。
「なんで……なんで、オレのほうが『守られてキュンとしちゃって』んだよぉ……!! バカ野郎ぉ……!!」
その叫びは、夜空に打ち上がった最後の大玉花火の音にかき消された。それは、あいつの「初恋」と「男としてのプライド」への、あまりにも派手な弔砲(とむらい)みたいに聞こえた。