プロローグ
それは何年も前のこと。この時期は雪など降らないオラリオにおいて、異様な光景から始まった。北西の路地裏。そこには、真夏にもかかわらず『氷漬け』になった一角が出来ていた。
壁も地面も、そして襲い掛かろうとしたであろう下衆な冒険者数人も、すべてが白く硬い結晶に閉じ込められている。
その中心で、黒髪の男、
「……なんだい、これは…。掃除が大変そうじゃないか」
重厚な足音と共に現れたのは、ミア・グランドだ。
並の人間なら腰を抜かす惨状を前にして、彼女はただ面倒そうに鼻を鳴らしただけである。
シンは力なく視線を上げると、そこにはかつての船にいた化け物たちにも引けを取らない圧倒的な『強者』の器を持った女が立っている状況だ。
「……悪いな。制御が、上手くいかなくてよ……」
「アンタ、見ない顔だね。神の恩恵を受けているようには見えないが、…その力、魔法にしちゃあ理屈が通ってないよ」
ミアは鋭い眼光でシンを射抜く。シンは、自分がどこから来たのか、何者なのかを語る気力もその気も無い状態だ。
ゴッドバレーで全てが崩壊し、気づけばこの見知らぬ空の下にいた。喪失感と、悪魔の実の暴走。
「……殺すなら、今のうちだぜ。オレは……自分が何者かも、よく分からなくなっている状態なんだ……情けねぇ事にな…」
掴みどころのない、死人のような笑みを浮かべるシン。
そんな彼にミアはその大きな手で、無造作に彼の襟首を掴み上げた。
「死にたいならよそで死ぬんだね。あいにく、アタシの目の前で野垂れ死ぬのは許可してないんだ!!」
「……手厳しいな、あんた」
「フン。アンタ、体は冷え切っているみたいだね。しかも、腹を空かしているだろ?行くあてがないならウチに来な。働かせてやるよ。……もっとも、食いぶち以上に働けなきゃ、ダンジョンの入り口にでも放り出すけどね」
それが、シンとミアの始まりだった。ミアはシンの正体を深く問わない。ただ、彼が理由の分からない世界からこぼれ落ちた事。そして、その手にある力がこの街にとっては強力である事を何となく理解していた。
そして、現在のシンはというと……酒場の日常を楽しんでいる。
「あの時が、ミアとオレの最初の出会いだったよな。中々情熱的かつ冷めた出会いにも思える出来事だった」
カウンターでエールを煽りながら、シンは昔を懐かしむように目を細めた。そんな彼を見て、厨房で包丁を振るっているミアが手を休めず、声を荒らげる。
「あんた、いつまで昔の話をしてるんだい!!手が空いてるなら、そこの酒樽を運んじまいな!!!」
「へいへい。……リュー。あんまり根を詰めるなよ。お前のその真面目さは、見ているこっちが凍えそうになる」
注文を捌いていたリュー・リオンが、シンに冷ややかな、しかし、どこか困惑の混じった視線を向ける。
「……シン。私は自分の責務を果たしているだけです。それと、私の背後で勝手に気温を下げるのはやめてください。他のお客様が寒がっています」
「ははっ!!バレたか!!」
シンは肩をすくめ、氷のように冷たい手で空のジョッキを持ち上げた。
ミアはそんなやり取りを横目で見ながら、鼻を鳴らす。
(……あの時よりは、少しはマシな顔になったね、シン)
正体不明の迷子。ミアだけが、彼の氷の底に眠る『熱』の残滓を、かすかに感じ取っていた。
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