ロキ・ファミリアの幹部たちは、まるで嵐が過ぎ去った後のような静寂な姿で店を後にしていく。
その中のただ一人、ロキ・ファミリア幹部【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインだけは、店の出入り口で足を止めていた。
彼女が見つめる先には先程少し暴れた男シンの姿が映っている。シンはカウンターの奥に引っ込んでいく。
(……風が…何もかもが凍りつきそうになっていた…彼は…何者なの?あの力は一体…)
アイズの瞳には言葉に出来ない好奇心と警戒心が混ざり合っていた。興味と危険。2つの気持ちが強まるのを彼女は感じている。
■
その日の深夜。営業を終えた従業員たちは与えられた部屋の自室に戻る。無論、シンも一日の仕事の終わりを喜んで自室へ入っていく。部屋に入った彼は窓の外に広がる月を眺めていた。
彼の手元にはベートから巻き上げた金と安酒がある。金を丁寧に数えながら、安酒をガブガブと飲み続けていく。
そんな時、部屋の薄い木で作られたドアが控えめに叩かれた。
「シン、起きていますか。リューです」
「……鍵は開いてるぞ。用があるなら入ってこい」
部屋の扉が開き、リューが入ってくる。彼女はまだ仕事着のままで、どこか落ち着かない様子で部屋を見渡す。
「夜分にすみません。今日の……あなたの言動について、少し聞きたいことが」
「犬コロを凍らせた件か?あれはミアに叱られただろう。もう勘弁してくれ。今は酒に酔いたい気分なんだ」
シンはベッドに座り、掴みどころのない笑みを浮かべる。
そんな彼をリューは真っ直ぐに見つめ、意を決したように口を開いた。
「酔うのは私の話の後でお願いします。……あなたの心の底は何なのですか?」
「さぁな、と普段ならしらを切るが、お前になら一つだけ答えよう。オレの心の底の一つは弱者を見下すだ。犬コロの件は結果的にあのガキを庇う形にはなったが、あのガキが雑魚であり、見下すべき弱者だとはオレも思っている。だからこそ、ムカついた。オレより弱い奴が偉そうにしているのが…」
シンは天井を見上げ、ふっと息を吐く。その息は白い霧となって、部屋の温度を一段下げるのであった。
「あなたも悪党ですね。それに嘘つきだ…」
「嘘つきとは心外だ。オレは単なる悪党。強者になるために藻掻いた…最強の海賊団の一人だ…」
その時のシンは何処か遠くを見ていた。
まるでこの世界ではない別の何処かを見るように…。
「あなたの過去はどのようなものだったのですか?」
リューが純粋な疑問をぶつける。その隙をシンは見逃さなかった。彼はふらりと立ち上がり、音もなくリューの至近距離まで歩み寄る。
「……なんだ、リュー。そんなに俺の過去が気になるのか?」
「ッ!!??…シ、シン! 近いです!!」
リューは後ずさりしようとするが、シンは彼女の背後の壁に、ひんやりとした手を置いた。
いわゆる壁ドンという形となり、至近距離でシンの顔がリューの視界を占拠する。
「お前は真面目すぎるんだよ、リュー。そんなにオレを観察してると…オレの氷が移って、お前まで冷たい女になるぞ?」
シンは意地悪な笑みを浮かべ、彼女の尖った耳のすぐ傍で、わざと冷たい吐息を吹きかけた。
それを受けたリューは顔を真っ赤にしている。
「もしかして、オレという男に興味が湧いたか?」
「なッ!!!!!? べ、別に、わ、私は、…そ、そのような……!!!?」
リューの顔がますます赤くなっていく。それはまさしく林檎のように赤く染まっていた。潔癖で知られるリューにとって、これほど異性と接近するのは全く知らない未知の領域だ。
彼女は動揺のあまり、腰に下げた小太刀に手をかけようとするが、指先が震えてうまく力が入らない。
「顔が赤いな。熱でもあるんじゃないか? オレが冷やしてやろうか?お前の熱を全部受け止めてやるよ」
シンの指先が、リューの頬に触れるか触れないかの距離で動きを止める。
そこから伝わる絶対零度の冷気がリューにかかった瞬間、リューは勢いよく立ち上がる。
「し、失礼しますッ!!!!」
耐えきれなくなったリューは、刹那の如く部屋を飛び出して行った。バタンッ!!と乱暴に閉まったドアの音を聞きながら、シンは楽しそうに肩を揺らす。
「……ははっ、やっぱりあの反応は癖になる。揶揄いがいがあるな」
シンは再び窓の見える場所に座り、安酒を飲み干す。冷え切った空気を新鮮だと思いつつ、彼は思い出に浸る。
(ロックス、お前は底が見えなかった。もう一度、お前と勝負したいものだな。強者は大好きだ…。この世は強者こそが…)
■
翌朝の豊穣の女主人では、開店前の清掃を店員たちが行っていた。しかし、店内の空気は昨日とは全く違っている。
その原因はシンとリューである。
「リュー。そこ、もう三回は拭いてるぞ」
シンが声をかけると、テーブルを無心で拭いていたリューの肩が、びくんッと跳ねた。彼女はシンの方を一切見ようとせず、機械的な動作で手を動かし続ける。
「せ、清掃に妥協は許されません。そ、それだけです」
その横顔は、昨夜の火照りが消えていないのかと思えるほど赤くなっている。シンが一歩近づこうとすると、リューは目にも止まらぬ速さで数十歩下がり、間合いを取った。
(……露骨に避けられてるな。昨日、からかい過ぎたか…)
シンが苦笑いしながら頭をかいていると、背後から爆発するような怒声が響いた。
「あんたたち!!さっきから何なんだい、その変な空気は!!」
仁王立ちで現れたミアが、手にした巨大な伝票の束をカウンターに叩きつける。彼女の鋭い眼光は、挙動不審なリューとヘラヘラと掴みどころのないシンを交互に見るのであった。
「リュー、あんたはさっきから同じ場所を磨きすぎて、テーブルの塗装が剥げかかってるよ!!壊す気かい!!…シン!あんたはあんたで、雑巾を持ったまま一歩も動いてないじゃないか!!」
「いやぁ、リューがどうも、俺をバイキンか何かだと思ってるみたいでね。悲しくて、棒立ちしてたんだよ」
「……ッ!?ち、違います!!わ、私はただ、その……」
「言い訳はいらないよ!アンタたちがそんなんじゃ仕事にならない。……ほら、これを持っていきな!!」
ミアが二人に押し付けたのは、大量の食材が記された買い物リストと、その分のお金が入った袋。
「市場へ行って、今日の分の仕入れをしてきな。全部揃うまで店には入れないよ。二人で、しっかり頭を冷やしてくるんだね。分かったかい?」
「……へいへい。追い出されちまったか」
シンは肩をすくめて歩き出す。リューはしばらく硬直していたが、ミアの喝を受け、シンの三歩後ろをついていく事になった。
オラリオのメイン通り。活気に溢れる市場を歩きながらも、二人の間には奇妙な沈黙が流れていた。リューの前を歩くシンの背中は、相変わらずどこか浮世離れしていて、昨日ベートを圧倒した怪物と同じ男とは思えない程、のんびりとしている。
「……シン」
微妙な空気に耐えかねたリューが小さな声で呼びかけた。
「なんだ、リュー?また壁に追い詰められたいのか?お前ならオレはいつでもオッケーだ」
「か、揶揄わないでください!! ……昨日のあれは……」
「ふっ…悪かったな。お前が面白いくらいに真面目だから、ついイタズラ心が疼いた。ロックスの船にも、お前みたいにそこまで真っ直ぐな奴はいなかったからな」
シンは立ち止まり、振り返って笑う。その笑顔に裏表は無いように見えるが、やはり彼の本心をリューは掴めない。
「お前は復讐だなんだと殺伐とした世界にいた。少しはこういう冷えていない、単なる温かい日常のバカげたやり取りにも慣れろよ」
「…な、慣れるわけがないでしょう!!」
「練習が必要ならいつでもオレのところへ来い。お前ならオレは歓迎するぞ。まぁ、他に相手がいるならそっちに任せるが」
「いませんよ!!あ、あなた以外にいるわけないでしょう!!!!あんな事をするのは!!」
リューは歩幅を早めてシンの先を歩いていく。まだ顔には赤みが残っているが、先ほどのような拒絶の気配は消えていた。
「全く!早く今日の仕入れを終わらせますよ。それと、…昨日の罰です。荷物持ちは任せます」
「それは手厳しいな」
シンは笑いながら、ミアから預かったリストを眺めた。
オラリオの陽光の下、冷気を纏った男と誇り高き妖精の少女。
2人の影が石畳の上で重なり、少しずつ昨夜の気まずさが溶けていく。