コーラルリーフ1942 -珊瑚海海戦-   作:りゅーぜん

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プロローグ
憂鬱の加賀


 1942年(昭和17年)4月10日夜半、佐世保鎮守府。

 その一角を占める大型船渠(ろてんぶろ)から、一筋の湯気が立っている。一人の艦娘が、浴槽に肩まで浸かっているようだ。

 

 航空母艦・加賀。大日本帝国海軍連合艦隊の主力にして世界最高峰の打撃力を誇る、第一航空艦隊の象徴的存在。その第一航空艦隊の中でも、航空母艦・赤城とタッグを組む第一航空戦隊に所属する、まさしく帝国海軍の空母の中の空母ともいうべき艦娘であった。

 しかし、その表情はどこか不平、不服、不満の表情が認められるようだった。おおよそ、明治の代から整備されてきた大鎮守府の船渠で悠々くつろぐ艦娘の表情とは思えない。

 

「─不甲斐ないわね」

 

 目を閉じ、はぁ、ため息をついてからそう独り言ちる。船渠に浮かぶ石に肘をつき頬杖をついて目を薄く開く。かつては戦艦として設計された巨体に見合う乳房が、肘をつくしぐさとともに湯船に浮かぶ。

 

「まさか、自分が座礁するなんて」

 

 二か月前に実施されていたインドネシア侵攻における作戦行動に際し、加賀はパラオ泊地で座礁事故を起こしていた。彼女は船底(あし)に怪我を負い、航行に支障なしとされていたが、翌月になって佐世保への回航と入渠命令が下った。これまで問題なく作戦行動に帯同できた、足手まといにはならないと食って下がったが、

 

 「再調査したが、修理が必要な程度の損傷だったんだ。お前、相当無理してたんじゃないか」

 

 思い当たる節ばかりで、閉口するほかない。次はインド洋に向かうと噂に聞いていたため、これからも根性で痛みに我慢できるか不安がないわけでもなかった。

 

 「次の相手はロイヤルネイビーだ、一航戦のクールビューティーを手負いのまま戦わせるわけにはいかん」

 

 頬を膨らませ、クールビューティーは余計ですとぴしゃり。

 

 「とにかく、本土でいったんゆっくり休め。インドの次はまた太平洋に出る構想もあるんだ、船底をしっかり治して、そっちに参加できるようにしておいてくれ。去年末からずっと酷使してきた搭乗員の疲労も心配だしな。」

 

 艦隊司令から直々にここまで言われては、もはや抵抗の甲斐無し、万事休すだった。加賀はしぶしぶ、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一からの回航命令を受領して一路佐世保に向かい──今に至るわけである。

 

 しかし、入渠からすでに一か月近くが経過しており、問題の船底修理はとうに完了した。次の出撃命令はなく、特段やることもないため無為に船渠で時間をつぶしているのが現状である。インド洋作戦が始まってしばらくが経過し、もうじき次の作戦が始まってもおかしくない時期である。作戦中は無線封止が徹底されるため、状況把握のしようがないが。

 座礁を起こした不甲斐なさ、インド洋作戦に参加できなかった後悔、次作戦への懇望。そんな感情が入り混じってのあの表情であった。

 

 「─いや…」

 

 それ以外にも、加賀の表情を曇らせる材料はあった。次作戦の話である。頬をついていた手を眉間にうつし、親指と人差し指で挟む。

 これまで帝国陸海軍は、まさしく破竹の勢いで東南アジア各地の連合軍を破ってきた。開戦前の兵棋演習と比べて順調、いや危険すぎるほど順調すぎる。そんな直感が、自ら戦っている中、そして早巻きになるタイムテーブルに対応しようと躍起になる幕僚を見る中で働くようになってきていた。拙速の”拙”がそろそろ顕在化してくるのではないか、と。

 

 インド洋の次は太平洋に出る、なんて一件を南雲司令から聞いたのも、今思い返してみれば疑問符の浮かぶ話だ。そんな構想、開戦前はおろか開戦後も一度たりとも聞いたことがない。もし本当であれば、何か月もの立案期間が必要なはずである。真珠湾に対する攻撃も、猛烈な訓練と緻密な計画の上に成り立っていたことは、加賀にだってわかり切っている。話にすら聞いてない以上、作戦方針の決定も未着手であろうことは容易に想像がつく。そもそも、太平洋のどこに出ていくのかすら不明である。ミッドウェーか?ジョンストンか?アリューシャンか?オーストラリアか?サモアか?どれも太平洋だ。

 

 大体、これ以上島々を占領してどうするつもりかよくわからなかった。おそらく、これ以上の太平洋方面侵攻に、陸軍が賛同するようには思えない。南方作戦中、インドネシア上陸に従事する際に、揚陸艦・あきつ丸と交わした会話を思い出す。

「多分、小官の出番はここあたりで終わりかもしれませんなぁ」

「資源地帯確保の次目標は事変解決でありますから…仕事がなくなりそうであります」

 現場の艦娘が口にするほど、陸軍では共通認識なのだろう。陸軍は南方作戦がひと段落ついたら、支那事変解決を期して戦力を大陸に集中する。海軍だけで戦いきれるのか?

 機動艦隊の艦娘の疲労も心配だ。自分は今こうして内地で久々に集中休暇をとっているが、ほかの娘たちは南方のインド洋で作戦行動中である。開戦以降、ろくな休養をとっていない。さすがの一航戦も、疲労で練度に綻びが出てくる頃合だ。五航戦の娘たちに至っては─。まさか、インド洋作戦が完了してから間髪入れず次作戦に移行するつもりなのだろうか。それはさすがに無理がある。

 

 休暇もそうだし、開戦以降の戦訓整理と、その教訓のシステム化すらままならない。現状、第一航空艦隊は無敗敵無し、それほど痛い目にも合っていないような気がするのでそれほど抽出可能な教訓はない…ような気がするが、こういうものは洗い出せば出すほど見つかるものである。インド洋に展開するイギリス東洋艦隊には空母が含まれているとの前情報を聞いた覚えがある。空母対空母の戦闘は古参たる私も経験したことがない、全員未経験だ。何かしら教訓は得られたはずだが、それを見つけ出す作業すら、全く実施していない。勝って兜の緒を締めよとはよく言うが、現状兜の緒は緩み切っている。いつかとんでもない致命傷を受けることになるのでは…なんとなく、そんな予感がするのだ。

 

「─やめにしましょう」

 

 自分たちは無敗無敵の第一航空艦隊である。こうまでして弱気でどうする。これは慢心ではない、明確な根拠のある自信である。大丈夫だ。

 

 

 太平洋に出ようとする意図はよくわかる。アメリカ太平洋艦隊に決戦を仕掛けるためだ。

 資源に乏しい我々ははなから長期戦など不可能である。だから、短期決戦を期して艦隊決戦の能力に極振りし、敵を一挙に撃滅して講和の席に着かせる。すべての能力を平均的伸ばしたところでアメリカには勝てないのだから、一芸だけ伸ばす。対米戦を意識し始めてからの基本方針ではないか。戦線拡大を恐れて敵に決戦を強いる機会を失しては本末転倒である。決戦能力を伸ばすためおざなりにしてきた兵站を気にして、決戦をしないなど。その方針の象徴こそ第一航空艦隊(わたしたち)ではないか。真珠湾で敵空母を撃攘できなかった以上、なおさら敵を求めるべきなのだ。止まっては、負ける。

 いつしか眉間から手を放し、湯船に顔を鼻先までうずめて口から空気をぶくぶくと吹き出していた加賀は顔を水面から放して、つぶやいた。

 

「鎧袖一しょ──」

 

 これまであまりに悩みすぎたため断言するには少々ためらわれたが、数刻して「一触、ね」と付け足して勢いよく立ち上がり、船渠を後にした。湯船は巨体に揺られ、波紋と水飛沫を挙げる。

彼女に限らず、慢心は連合艦隊の各所に渦巻いていた。

 そして彼女の危惧の一つは既に的中していた。

 1942年4月10日、戦艦大和に配置された連合艦隊司令部から「第二弾作戦に向けた兵力部署転換」が下令された。あらゆる面で準備不足が目立つ中、連合艦隊は新局面に歩みを進めた。

 その先は栄えある聖戦勝利が、破滅への第一歩か。

 

 

 その先は誰にも…いや、この時の連合艦隊はみな()()を確信していた。

 

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