ニューギニア・珊瑚海
1942年某日、呉鎮守府。
その日、瀬戸内海はやけに凪いでいた。嵐の前の静けさ、という言葉を知らぬ者はいないが、しかし人は往々にして、静けさの只中にいるときにはそれと気づかない。
連合艦隊司令部(以後、連合艦隊は「GF」で省略する)では連日第二弾作戦、つまり現在実施されている東南アジアをはじめとした南方資源地帯における作戦行動の次に実施する軍事活動について研究が行われており、この日は次作戦候補地の兵要地誌研究が実施される。
参謀たちが会議室に続々入室し、思い思いにたばこをくゆらせる。大きな円卓にところどころ配置されている灰皿には、すでに数本の吸い殻が見受けられる。紫煙が天井に向かって昇り、たちまち部屋は煙と、快進撃に沸く幕僚たちの熱気で満たされた。次はどこに向かう、米豪遮断か、真珠湾強襲か──。その様子を会議室正面左側に置かれた椅子に座る戦艦大和、その右隣に水上機母艦千代田が立って眺めている。
「な、慣れませんね、この匂いは」
「えぇ、殿方はこんなにお吸いに…」
二人とも、仕事最中の野郎が集う部屋にまだ慣れない様子で、千代田は我慢できず鼻をつまんでしまっている。会議室後ろに控える工作艦・明石は苦笑いして二人を見ている。
「わたしはまあ、煙いのは慣れているしねえ」
活況も大本営海軍部の高級将校が入室するとともに一旦鳴りを潜め、みな起立して二人を敬礼で迎え入れる。二人も答礼し、少将の階級章をつけた将校が無言のままドカンと着席すると、みなそれに続いて席に着いた。
「えーそれでは、本日の兵要地誌研究会を開始したいと思います」
最後に入室した大佐が、薄紙一枚のプログラムをもって司会を務める。
─兵要地誌研究会、といえば仰々しく聞こえるが、実際は一枚の大判地図の概説を行って終了である。皆ある程度の地理情報は頭に入っているためいまさら地図をもう一度見ている暇などない、自分の管掌部署の計画考究にすぐ戻りたいというのが本音だった。多くの参謀たちにとって、地誌研究は開始前後に行われる他部署将校との雑談交流が主目的である。破竹の快進撃を支える幕僚にはおおよそ似つかわしくない緩んだ空気が、そこにはあった。
「それでは、解説を大和くんにお願いします」
すっと立ち上がり、原稿を取り出して解説を始める。その後ろで、千代田が地図を黒板に張り付け始めた。千代田は参謀たちの様子を何気なく観察していた。原稿に目を落としている者、窓の外を眺めている者、隣と小声で話し込んでいる者。地図を真剣に見つめている者は、数えるほどしかいない。
「─それでは、ニューギニア島の兵要地誌研究について、始めさせていただきます」
「東京から南におよそ4000㎞、まさしく南の果てにあるのが、今回の研究対象であるニューギニア島です。面積は約78万㎢、地球上の島では2番目の面積を誇ります」
「同島はオーストラリア大陸のすぐ北、南端は南緯10度ほどと赤道にほど近い位置にあります。そのため島全体は現在でも全島人口の把握が困難なほどの熱帯雨林に覆われており、オーエンスタンレー山脈をはじめとした険しい山々が島の中央部を東西に走っており、島を南北に分け隔てています」
「そんな南方のジャングルが生い茂る島になぜ今回注目しているか。それは同島が連合国にとってオーストラリア防衛の重要拠点であるからに他なりません」
淡々と原稿を読み上げながら、大和は参謀たちの様子を窺っていた。彼らの目は地図ではなく、隣の将校との私語に向いている。本当に聞いているのかしら──。
──そうだ。大本営幕僚の一人が相槌を打つと、GFの参謀連中がそちらの方をぎろりと見つめる。やや空気がぴりついたが、かまわず大和は解説を続け、
「ニューギニア島を重要拠点たらしめているのが、同島南東部に位置するポートモレスビーの存在です。この町の起源は先住民族の交易拠点にさかのぼることができ、英領植民地になってから緩やかに都市化が進み、現在は飛行場も整備されるほどのオーストラリア方面防衛の一大拠点となったわけです。そこから発進するB-17爆撃機は我々が占領し飛行場を整備しているラバウルに飛来し、爆撃を繰り返しています」
「その通り。であるから次の作戦目的は絶対にニューギニア方面でなくてはならない。ラバウルを安全たらしめるのみならず、連合軍の反攻拠点であるオーストラリアをアメリカから遮断するため、何としてもポートモレスビーを攻略しなければならん!」
大本営参謀の一人が突然大きな口を開けて演説を始めると、傍のGF参謀が食って掛かった。
「なんだと?そんな極地のラバウルの安全だとか、米豪遮断とかそんなまどろっこしい作戦を練っている場合ではない!大体、ラバウル占領の位置づけはトラックの前進防衛拠点形成だ、豪州方面の連合軍をくぎ付けにできていて意図の達成はすでに為っているのだからそのままでいいではないか。我々がやるべきはただ一つ、アメリカ太平洋艦隊の捕捉・撃破。つまりは敵根拠地ハワイ再攻撃あるのみ!」
「重要拠点であることはハワイもオーストラリアも変わらん、ハワイは米海軍、オーストラリアは米陸軍の拠点だ!ポートモレスビーを攻略する意図を見せればその防衛のため、アメリカの艦隊も出てくるだろう。米豪遮断と同時に艦隊決戦をすれば解決するではないか」
「あのような南の果ての地域、アメリカが重視しているわけがない!彼らは絶対にハワイを攻撃しなければ決戦に応じない!やはりハワイ作戦だ!」
さすがの大和もこの威勢の間に割って入って再開する胆力を持っていなかった。
「本研究会は地誌の研究であって作戦可否の検討会ではない!双方控えよ!」
中央に鎮座する少将の大本営高級将校の注意お構いなしに二人は応酬を続ける。各所で大本営の幕僚とGF参謀の間で論争の火の手が上がり始める。
「ちょ、双方控え─」
もうこうなっては抑えようがない。結局お互い引っ込みがつかなくなって研究会の終了時刻となり、肝心の地誌研究は全く行われず散会となった。突如始まった、ポートモレスビーかハワイかを巡る論争も無論決着はつかなかった。両者譲らずの姿勢が以前よりも強まった感すらある。
あきれ顔の千代田は目を細め、
「地図の話はどこいっちゃったんですかねえ」
「まー、ここ最近はあの調子ですからねぇ、東京と現場の間というのは」
明石もやはりあきれ笑顔で千代田に答える。
「けれども、東京と現場の意見が乖離するってのはまぁあるとしてですよ?あまりにまとまりを欠いているというか、同じ組織の中でいがみ合いすぎじゃないです?」
「うーん、まるで"南方作戦以降の作戦は全く考えてなくて~、今急ぎで案を練ってまーす!すり合わせをする余裕もないので本番ぶっつけで提案して~、結果話がこじれにこじれてまーす!"みたいな──」
「開戦前は次段階作戦について全く話し合われていなかったと小耳にはさんだことがあります。南方作戦が想定より早く終わりそうだから、その前に次の作戦を確定させるため巻きで話を進めているということでしょうか」
「うまくいって時短になった分、それだけ次どうするか考える時間を奪ってるってこと??なんだかそれって、本末転倒?怪我の功名??うれしい誤算???」
多分最初のが正しそうですね、と明石が突っ込むと、3人とも何とも言えぬ表情を浮かべる。ここで千代田がはっと気付いたように
「というか、本題は"地図の話全然でなかったよ!?"だよね、大丈夫なのかなあ…」
「私はまだ経験が浅いもので、すぐには判断がつきかねますが…明石さんは何かおわかりになります?」
「私もみんなについて行って機械いじったり修理してるだけですからねぇ」
にへにへしながら地図を見つめると、何か気付いたようである。浅瀬が多く、やたら環礁が目立つ。
「─こう見ると、ソロモン海って岩礁が結構多い海域だったりします?喫水の深い子は苦労しそうですねぇ。珊瑚礁で船底やられたら、私の出番が増えちゃいますよ」
「私のような大型艦となると航行できる娘は限られるのかも…」
「となるとよ?この海域ってみんなが同じルートを通れないってことにならないかしら?どこかで艦隊が分離して別行動をとらなきゃいけなくなるかも」
「分散、ですかあ…」
明石は地図をにらみつけてぽつりとつぶやく。つづけて、
「嫌だなあ、この辺ってポートモレスビーから発進してくるB-17の行動半径内ですよね」
「ルートが限られるってことは、潜水艦の待ち伏せにもいい環境ってことじゃん!水上機母艦の面目躍如じゃない!」
千代田がぱああ、とにこやかに喜ぶと、明石が突っ込むように、
「ところでこの海域、天候ってどんな感じなんですかね?」
「読まなかった原稿によれば、基本的に曇天が多く、時期によっては発達した雨雲が多発することがある、とのことですね」
「まーそりゃ、赤道に近い熱帯ですもんねえ。スコールとか」
「がーん!全然活躍できないかも!」
今度は顔を真っ青にしたかと思えば首を横にぶんぶん振って続ける。
「いや、"全然"はちょっと盛っちゃいましたよ?盛ったけども、天気が荒れやすいんでしょ?だから海も荒れやすいってことじゃない?水偵が安定して使えないかも…」
「カタパルトから発進するんじゃないんですか?」
「みんながみんな持ってるわけじゃないよ、クレーンで釣り上げて海に着水させてから発進させるときもあるし、回収するときは必ず着水してからになるから水偵運用で天候ってとっても大事なのよ?波が高いってだけですぐ事故っちゃうの。結構デリケートなんだからね、水偵って…」
なにか達観したような顔でうむうむと頷く千代田。ふと、地図に描かれた珊瑚の海が、なぜかひどく冷たいもののように思えた。
そして3人とも心の中でこう思っていた。
「「「やっぱり兵要地誌研究、ちゃんとやった方が良かったのでは…」」」
岩礁による航路制限、珊瑚海海域の天候、それに起因する索敵の困難。そのすべてがこの日、作戦目標をめぐる場外乱闘によって遮られた原稿に記されていた。その原稿は誰に見られるでもなく、大和の手中で静かに眠っている。
しかし、こうも思っていた。
「「「まあ、大丈夫か…また第一機動部隊がやってくれるよね…」」」
皆、第一機動部隊の活躍に心酔していた。いまだに真珠湾の奇跡に魅せられていたのである。あれほどの戦果を見せてくれたんだ、次もきっと同程度の、いやそれ以上のミラクルを見せてくれるはず…。
しかし、奇跡なんてものはめったに起こらないから奇跡と呼ばれるのだ。それにすがるのはもはや驕りの域に足を踏み入れている。
不安と確信をいだきつつ、大激論で散らかった研究会場の片づけを終えた3人はそれぞれ部屋を後にし、持ち場に戻っていく。
灰皿には吸い殻が山と積まれていた。議論の熱量だけは、確かにそこにあった。しかし灰皿の中身と同じで、それは何も生み出していない。燃え尽き、灰になっただけ。
それを無言で片付けながら、皆、何とも言えぬ感情に襲われていた。
「まあ戦争はすぐ終わるかー、そしたら工廠のみんなで町工場でも作って、機械いじりも続けて──」
工作艦・明石。戦争は長期化し、太平洋の泊地を回っては艦娘の修理に明け暮れ、東奔西走することになるとはこのときつゆとも思っていない。
「航空機、ですか…連合艦隊旗艦の内は後方配置になりそうですし、縁はなさそうですね」
戦艦・大和。戦争末期、絶望的戦力差の中敢然と立ち向かい、1,000機以上の艦載機の集中攻撃を受けての、ドラマチックで象徴的な、しかし軍事作戦上ではあまりに無意味な最期を迎えることになる。
「空母っていいなぁ~、水上機も悪くないんだけど、やっぱりしゃしゃっと発艦できる艦載機を見ちゃうと、どうもうらやましーくなっちゃうのよね」
水上機母艦・千代田。この3人の中では最も今後の戦局に翻弄された艦娘だったかもしれない。彼女は帝国海軍保有空母激減の煽りを受けて航空母艦に改装され、機動艦隊の重要戦力の一翼を担うことになる。
3人とも、これから帝国海軍が坂を転げ落ちるように凋落を迎えることなどみじんも考えていなかった。
いや、そんなことを考えること自体許されていなかった。勝利の美酒は目を曇らせ、そしてその曇った目では足元の陥穽に気付きようがない。
帝国海軍は確かに「最強」であった。
しかし「無敵」ではない。似て非なるものである。
─この研究会が開かれた同年の6月、それはあまりに突然で、猛烈な衝撃を伴いながら彼女らを襲う。
ミッドウェー海戦。一航戦・二航戦全滅。
赤城・加賀・蒼龍・飛龍。四隻の正規空母、そのすべての喪失。
比喩や判定上の表現ではなく、文字通りの全滅。
奇跡を起こしてくれるはずの、第一航空艦隊の壊滅。
何の前触れもなく、それは起こったように、彼女たちには見えた。彼女たちには。
誰しもが、あまりに成功体験に魅せられ、視野狭窄に陥っていた。そこら中に前触れがあった。そしてその前触れは、これから珊瑚海上で展開される一連の戦闘を通して盛大に見せつけられていた。その作戦方針からして、既に示唆的である。
1942年4月10日、「第二弾作戦に向けた兵力部署転換」下令。
帝国海軍は次作戦の方針を下記のとおりとした。
・ポートモレスビー侵攻作戦は5月発動。
・ハワイ方面作戦は6月発動。
・ポートモレスビー侵攻作戦には五航戦を、ハワイ方面作戦には一航戦・二航戦を投入する。
・佐世保で修理完了している加賀に関しては、ポートモレスビー投入を見送りハワイ作戦に投入する。
海軍は二兎を追うことにした。しかも、ここで第一航空艦隊をポートモレスビーとハワイに分散投入することとしたのである。戦力として行動可能な加賀を投入しないあたり、ポートモレスビーを僻地と断言して譲らないGF司令部の意見が反映されたようである。
第一航空艦隊を最強たらしめていた、空母集中運用という利点をどういうわけか海軍はここで放棄してしまった。
珊瑚海の波は、静かに時を待つ。
誰にも顧みられなかった地図の上で、その海域は青く、冷たく、恐ろしいほどの沈黙を守っている─