米国太平洋安全保障史及び現状に関するレポート:前
太平洋戦略の出発点
─アメリカが太平洋地域に深く関与するようになったのは、20世紀直前、1898年のことでした。
この年、我が国は米西戦争に勝利し、スペインの植民地であったフィリピン諸島、グアム、ハワイ、サモア諸島の一部という広大な領土を獲得し、他の列強から遅ればせながら植民地を持つ帝国主義国家になりあがることになったのです。同時に、アメリカは北米大陸から遠く離れた島嶼を他国から防衛するという、有史以来直面したことのない課題を抱え込むことになります。
ただ…直面した課題に対する政治家や国民の態度は冷ややかでした。アメリカ国民の大多数は1800年代からの伝統的外交方針である
本土から11,000㎞も離れたフィリピン諸島の防衛が限られた予算で万全にできるはずもなく、その防衛計画は早々のうちからルソン島マニラ市街、マニラ湾、コレヒドール島など湾口部に位置する島嶼に限られるなど消極的な計画となりました。
「カラープラン」
さて、時は進んで1904年4月。このとき極東は日露戦争の真っただ中、日本陸海軍が共同で朝鮮半島西岸への上陸作戦を成功させ、鴨緑江の渡河を達成した頃でした。この事実はアメリカ陸海軍に二つの議題を投げかけます。すなわち陸海共同での軍事計画策定と、対日防衛計画策定です。日本の軍事的成功は、もはや現代の戦争は陸軍と海軍の協力なしに実行できないという事実と、日本は陸海共同作戦をロシア相手に成功させるほど卓越した軍隊を持っており、フィリピンの防衛は極めて危ぶまれているという焦燥を我々にもたらしたというわけです。
こうして、後に「カラープラン」として知られることになる一連の戦争計画が生まれました。これらの計画はそれぞれ、関係する仮想敵国のコードネームに対応する色で指定された特定の緊急事態に対処するように設計されています。イギリスが「レッド」、ドイツが「ブラック」、メキシコが「グリーン」、そして…
日本が、「オレンジ」。
これらの計画はあくまで現状の国際情勢から大幅に逸脱した抽象的机上演習にすぎませんでしたが、オレンジプランは例外でした。こちらは後述するよう、
また、太平洋地域における主要な艦隊拠点をどこに置くかについても1907年ごろから開始されました。最重要拠点であるが、日本に近すぎるフィリピンか、それとも安全が保障されているものの防衛目標であるフィリピンから遠すぎるハワイか。結論は、フィリピンは日本に近すぎ、拠点を整備しても開戦初頭で壊滅する恐れがあるという懸念からハワイが選択されることになります。
こうして、フィリピンを救出する海軍の拠点はハワイに据え置かれ、開戦と同時にハワイが奇襲攻撃を受けないことが前提とされながら、今後の太平洋における戦略が練られることになりました。もっともその前提は、今次大戦勃発の瞬間にもろくも崩れ去ったわけですが…
第一次大戦後の太平洋戦略
さて、第一次世界大戦が勃発するとアメリカの関心は太平洋から大西洋・欧州方面にむかい、オレンジプランの検討はしばらく放置されることになりました。あくまでアメリカの関心は欧州に向いていたのです。
しかし大戦終結後、アメリカは欧州重視から太平洋重視に再度方針を転換します。
欧州平和最大の脅威とされたドイツは帝政解体、ロシアは革命真っただ中の大混乱状態にあり、イギリスも経済的疲弊によりアメリカに歯向かうことは当面なさそうなのに対し、日本は全く無傷なうえに大戦後に結ばれた諸条約によってその地位をさらに強化したのですから…。
日本の委任統治領獲得
日本の太平洋における地位を増強した原因の一つが、ヴェルサイユ条約の決定事項である中部太平洋委任統治領が日本の手に渡ったことです。
これでアメリカはハワイからフィリピンに至る航路・通信路を日本に遮断されることになり、オレンジプランの根本的改訂を要求されます。当時の計画策定担当者はこう振り返ります。
「かつて海軍省は、開戦時にフィリピンに艦隊を派遣する計画を立てていた。しかし、現時点ではこれは実行されないだろう…フィリピン、そしてそこに展開するいかなる戦力も、いずれは占領されることは確実である」
ワシントン条約の衝撃
さらに重大な問題をもたらしたのは、ワシントン海軍軍縮条約でした。このとき、日本が全権として3人の男を派遣します。
のちに対中融和外交を主導する外交官、キジューロウ・シデハラ。
そして、日露戦争でアドミラル・トーゴーの参謀長として連合艦隊を指揮し、対馬沖にて歴史上類を見ないジャイアントキリングを演出した大提督にして、長期間にわたって海軍大臣を歴任し、本会議においても政治的センスを遺憾なく発揮した「アドミラル・ステーツマン」。
この男は1905年5月におけるロシアに対する勝利に続いて、1922年にもアメリカ合衆国にも"
その名もトモサブロウ・カトー。
カトーは会議で議論紛糾となった主力艦保有割合を対米6割で妥協し、海軍の論理にとらわれず、会議全体の成功、国家大計を重んじる方針をとったことで称賛されることになりました。
─問題はそのあとです。太平洋地域における防備問題において、彼は以下の通り主張します。
「主力艦問題で譲歩してやったのだから、今度はアメリカが譲歩する番だ。太平洋における島嶼防備については各国"現状維持"、つまりこれ以上の要塞化の一切を厳禁としていただく。あとついでに戦艦陸奥の建艦計画も復活させてね」
アメリカは痛いところを突かれました。フィリピン・ルソン島とマニラ湾口島嶼の防備強化はまだ途上にあり、さらにフィリピンにほど近く、日本領中部太平洋を突破した先の連絡地点としてのグアム島要塞化計画が立ち上がり始めていた当時において、この提案を飲むことは太平洋戦略の瓦解を意味します。そういうわけで、会議前の事前確認でアメリカから太平洋防備問題について一切議題に出さないことを確認していましたが…カトーはそれを知ってか知らぬか、主力艦問題の妥協条件として突きつけてきたのです。
当然、アメリカはこの提案に激烈に抵抗、当時外交専門家であるシデハラが腎臓結石で臥せっていたこと、日本全権団の海軍と外務省が主力艦問題をめぐって対立していたことから一気に議論を押し切ろうとしましたが…恐るべきことにカトーはこの状況下で要求を押し切り、ハワイ以西島嶼に限定(当然、ハワイはこれに含まれない)するという条件付きでこれが認められたのです。太平洋戦略の計画担当は下記の通り絶叫します。
「フィリピン防衛の可能性とアメリカの政策に対する軍事的制裁の可能性はすべて失われた」
オレンジプラン改訂のはじまり
こうして、オレンジプランは改訂を余儀なくされます。フィリピン守備隊の役割は島の守備から時間稼ぎに変更され、艦隊はフィリピンに直行するのではなく日本の所有する中部太平洋(マーシャル諸島、カロリン諸島)を攻略しつつゆっくり西に向かう方針でおおむね一致しました。
しかし1930年代、ヒトラーとムッソリーニに代表されるファシズムがヨーロッパで台頭するとアメリカの関心は再び欧州に向き始め、太平洋方面に振り分けていた戦力は徐々に大西洋に配置転換され、弱体化の一途をたどります。1935年、コーデル・ハル国務長官は太平洋におけるアメリカの地位について下記のように書き留めています。
「過去20年間の累積的な発展の結果、対日軍事的地位はきわめて弱体化しており、極東における我々の地位は、戦争に巻き込まれるだけでなく、その成功裏の遂行を不可能にするような条件下で戦わなければならない戦争に巻き込まれる可能性がある」
36年5月、オレンジプランは再改訂され、フィリピン守備隊の任務対象からマニラ市街地が除外され、ハワイ防衛の強化が新方針として盛り込まれます。この改訂で、『防衛の成功は「敵に完全に不意を突かれないこと」に「ほぼ全面的に」依存し、「ハワイ諸島のみならず他の場所でも効率的な情報活動」を必要とする』と指摘されました。今の有様を見れば、あまりに示唆的です。
1937年、日中戦争が勃発し、日本が太平洋方面への野望を一切隠さなくなったことでオレンジプランはまたも改訂されることになりました。ここでは欧州方面を重視する陸軍と、日本海軍の撃滅を至上命題としてきた海軍が対立、日本に対して攻勢に出るか、守勢一辺倒とすべきかが課題に持ち上がりますが、以前からの方針が根本から変わることは結局ありませんでした。
その一方、フィリピンへの艦隊到着時期に関する記載が削除され、必ず防衛すべき海域を「アラスカ・オアフ・パナマを結ぶ戦略的三角形地域」とするなど、ハワイ重視の方向性がより一層強化されました。さらに、アメリカは開戦後実施される戦闘態勢の初期準備が完了すれば、すぐさま日本の委任統治領に攻撃を開始できるという認識が計画に盛り込まれます。あれ…?
グアム武装化の問題
同年、グアムの航空・海軍基地化がワシントン条約締結以後初めて提案されました。1934年にフィリピン独立法が可決され、その独立が46年に確定したことでフィリピンに代わる新たな海軍拠点整備が課題となっていたことから、フィリピンへの連絡拠点であったグアム自体を主要拠点化しようという構想でした。─グアムの武装化を禁じたワシントン条約は、ロンドン海軍軍縮条約で規定されたエスカレーター条項の発動により、既に失効していたのです。
しかしこの島は日本の保有するマリアナ諸島の南端に露出する形で位置しており、その場所を武装化することで日本の対米警戒を増幅させるという議会側の懸念が反映され、グアムは事実上無防備な状態で放置されることとなりました。
─1938年までの米国の太平洋戦略は、以下の時期に区分することができます。
フィリピン防衛を重視し続けた、第一次大戦以前までの期間。
第一次世界大戦後に締結された諸条約と、1930年代に始まった欧州ファシズム台頭に起因する欧州方面へのリソース集中に制約され、ほとんど無為に過ごしてきた期間。
そして、1938年以降からはじまる、これまでの怠慢を「挽回」しようと図る最後の3年間の期間。
現況が示す通り、3年間でこれまでの約20年におよぶ無為無策を克服することはできませんでした。それではこの時期、アメリカは何をしていたのでしょうか?
「ふう…」
タイプライターを前に肩をこわばらせていた、金髪ショートの艦娘はキーボードから手をはなし、腕を天井にむけて大きく背伸びをする。補給のため久々に真珠湾に寄港した彼女は、任務艦隊旗艦としての素質検査という名目で講義を受けさせられ、そのレポートを作成させられていた。
「こんなことしなくても旗艦は務まりますよ~…こんな時間なの…?」
窓を覗くとすでにあたりは真っ暗。着手した時はまだ真っ青だったはずなのに、と自分の集中力に感心すると同時に明日提出の期限まで時間が迫っていることに焦り始める。
しかし焦ってもしょうがない、気晴らしに真珠湾の光景を覗いてみることにした。真珠湾奇襲後のここを眺めるのは初めてのことである。
転覆して上下逆さまになり、
そのほか…奇襲の爪痕を負い、それぞれの表情を浮かべながら湾内に横たわる艦娘たち。
損傷の苦痛に耐える苦悶の表情、いつか来る復旧・戦列復帰の日を待ち望む希望の表情。応急措置を施されているもののもう助からないことを察し、虚ろな目で首をうなだれ海面を見つめ続ける艦娘がいれば、激しい損傷ですでに艦娘としての機能を喪失し、もはや周囲の働きかけに一切の反応を示さない艦娘もいる。
あらゆる感情が交錯し、一種グロテスクともいえる湾内を一瞥した彼女はすぐに顔を背けた。その先には、まだ書きかけのレポート紙が挟まったタイプライター。再開するか…と、力を抜いてぶらぶらしていた手を再びキーボードに載せ、黙々とレポート作成作業を始める。
「まだ3年分残っているのか…」