お待たせ。ほんとうはもっと早く出せればよかったのですが……。
湿り気たっぷりです。
アビドスを加湿していけぇ……砂漠なんだから乾燥してるんだ。
「此処だけは……あの時のままだね」
アビドス分校の音楽室。
ツキノがポツリと零した言葉に同じように教室を眺めていたボクは頷いた。
変わっていない。……1年前から時を止めたように。
隣でその言葉を聞いたシロコちゃんの耳がピクリと動いて、何かモゴモゴと言葉にしようとして……なにも出てこなかった。
もしかしたら変わっているのかもしれない。此処がアビドスの心臓部なのだから。
それでも、意識しなければ2年前に戻されそうな錯覚を覚える。
時計の針はまだ動いていないんじゃないかって。──そんな事はないのに。
「…………」
板張りの床をツキノは感傷を噛みしめながら無言で踏みしめた。
思い出の残り香を探し求めている。貴女の証がまだ此処に残っているんじゃないかって希望が湧き出てしまったから。
そうして辿り着いたのは教室の黒板側に配置されたドラムの前。
”ユメ先輩……”
まだ貴女が残した
だけど、椅子の高さ。ペダルの配置が記憶のソレと合致しない。
”どうして? ”
ツキノが首を傾げる。──ボクは思い出した。
”わたしが……私がユメ先輩の後を継ぐから。お姉ちゃん……ブレーメンを、まだブレーメンを──”
病室でボクに縋って零していたノノミの言葉。
そういえば、ノノミがドラムを継いだんだった。
ソレを思い出したんだ。
時計は進んでいる。ソレが胸に切ないほどの寒さを吹き込ませる。
記憶の中に焼き付いたドラムはもう、そこにはない。
そのことにどうしようもない寂寥感を覚えて、泣きたくなった。
涙なんてとうに枯れ果てた筈なのに。
ぐるぐるする。ぐちゃぐちゃする。あぁ……なんで此処に戻って来てしまったんだろう。
ツキノとボクの感情がミキサーに掛けれる。
”まだ……一つになるわけにはいかない”
折角戻って来たのに精神病棟に出戻りなんて未練が残って死に切れない。
蓋をする。蓋を。蓋を。蓋を。
見るな。見るな。見るな。
その感傷を。此処に空いた穴を。
感情を振り切って、次にツキノが目指したのは窓際の席だった。
机上に散らばった譜面。仕舞うことを忘れた様に置かれた椅子。
誰かが使った形跡が確かに此処には残っている。
誰が使っていたなんて分かり切っていること。
これは確認だ。
祈るような思いでツキノが散らばった譜面を整理して──新しい譜面の中に紛れた古ぼけた一枚のソレを見て手が止まる。
「そんなのってないでしょう? ……ホシノ」
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!!!!
──ボクをアビドスから突き放したのは君じゃないか!!!
振り上げた足が机を弾き飛ばす。
けたたましい音と共にピンボールの様に辺りの机を巻き込んで転がっていく。
譜面が宙を舞う。
「ツキノ!?」
ボク達の突然の奇行に驚く先生の声。
ソレを顧みることもせず、地面に散らばる譜面の上を踏みしめて、ツキノは歩き出す。
毛布が掛けられて大切に保管されている物体。
ボクが使っていたキーボードだ。
この毛布も当時からホシノが愛用していたモノだ。ソレが埃も被らずに手入れされている。
あぁ……ダメだ。その事実はボク達にとって今は劇物でしかない。
「拘るなよ……捨て去れよ……縋るなよ!!」
衝動だ。
胸を掻きむしる程の衝動。
振り上げた拳をそのまま振り降ろす。
あぁ、そうだ。1年前のあの時に全部壊してしまえば良かったんだ。
「せ、先生……?」
「ダメだよ、ツキノ。ソレだけは……話なら、私が聞くから」
ツキノの手首を先生が掴んで制止する。
途端に熱が冷めた。
振り切っていた感情を落ち着き、先生越しに立ち尽くすシロコちゃんの姿が目に入る。
「ぁ……私は……」
零れ落ちそうな二色の眼と視線を合わせて──ボク達はまたこの子を傷付けてしまったことを今更の様に確認して、二歩、三歩後ろに下がって背後の机に腰かける。
あの時と一緒だった。
深い悲しみを浮かべたシロコちゃんとノノミ。
感情を殺し過ぎた末に無表情のまま、ボクを抑えるホシノ。
二度とあんな思いはごめんだ。そう思っていた光景がフラッシュバックする。
「……ごめんなさい」
辛うじて絞り出した言葉は聞き苦しく掠れていた。
逃げる様にツキノは教室を飛び出す。
一人になりたかった。思い出が多すぎる此処以外の場所で。
「ツキノ先輩!」
「お願い……一人にさせて」
背後から追いすがる様に掛けられた言葉。
私の返答を意気消沈したように”分かった”と呟いたのを聞いて、止まりかけた足を動かして当てもなく駆けていく。
なにもかも吹き飛んでしまえば良いのに。
ぐちゃぐちゃになって苦しい程張り詰めた感情。
その吐き出し方をボク達は分からなかった。
紙を捲る音。綴られた歌詞を眼で追う。
此処にはあったのだ。かつて重なり合っていたモノ。
――ユメ先輩、ホシノ、そして……ボク。三人の
「何を間違ったんだろうね……」
ひぐらしの鳴く声がする。
茜色に差す光が一人ぼっちの私を晒す。
「ホシノ、いらっしゃい。どうしたの?」
静かに開いたドアの音。ホシノが部屋の入り口に立っている。
さっさと中に入ればいいのに……。
立ち尽くす彼女の眼の中に揺れる感情の色。
あぁ……足の踏み場もなかったね。
「ごめんね、今片付けるから」
散らばった紙面を適当に纏めて、隅へ追いやる。
アビドスの借金を返済する譜面達。
雲を掴むような話しかもしれないけど、
だけど、今はホシノが座れるスペースがあればいい。
乱雑に扱われた譜面を複雑な感情を乗せた視線を送っていた彼女が此方に向き直る。
「ツキノ、ノノミが心配してたよ」
花瓶に差された花。いつの間にか枯れていた。
しおしおに干乾びた花。
「ノノミが? そう……」
そういえば、ノノミ来てたんだっけか……。
あの時はまだ枯れていなかった気がする。
「何日も外に出てないよね?」
「うん」
あの花は外に出かけた時に摘んだモノだった。
「ごはんも食べてないって」
「うん」
食事も水も喉を通る気がしなかった。
「ツキノ?」
「うん」
「……」
ホシノの手が私の手から大切な譜面を奪い去った。
クシャって握られて皺が寄っている。
あぁ……怒ってるんだね、ホシノ。
「もう……全部諦めようツキノ」
「どうして? これはわたし達の夢でしょ」
ユメ先輩とホシノ、そして私、三人の将来の展望を綴ったアビドスの歌。
まだ合わせも迎えていないソレ。
途中までしか描かれていない軌跡。
先輩が居なくなった後もこの夢に一番拘っていたのはホシノだったのに。
夢に縋っていたのはホシノも同じ筈なのに。
「わたし達の夢があの子達の未来を縛っているからだよ」
ノノミとシロコ。
ホシノの言葉でたった二人の後輩の姿が瞼の裏に浮かんだ。
……。
……ホシノは。
ホシノは、変われたんだね。
ボクはまだ此処にいるのに。
この夢がなければ前を見れないというのに。
「ごめんね! ツキノ」
ペコリと下げられた頭。垂れる髪の毛。
どうしてホシノが謝っているの?
悪いのは変われなかった私。
「わたしがもっと早くこの決断を出来ていたら……ツキノも苦しまなくて良かったのに」
描いた夢を。求めていた未来を捨てることが苦しいことなのに。
どうしてホシノはコレを捨てれるの?
これから先を描いた
立ち止まった私。前を歩くホシノ。
ホシノはどうして歩けるの?
同じ暗闇の中を歩いている筈なのに。暗闇を照らす光は何処にあるの?
ねぇ……ホシノ、教えてよ。
「ボクは……どうすればいいの」
「外に出よう、ツキノ。大丈夫、きっとなんとかなるよ」
その言葉がボクには苦し紛れの言い訳に聞こえたんだ。
「……ツキノ」
「ホシノ」
今だけは。今だけは顔を合わせたくなかった。
だけど、運命とは皮肉なモノで。咎人であるボク達には女神なんて微笑んでくれる筈もない。
寄越すのは試練ばかりで、きっとコレもそういう巡り合わせなんだろう。
現実を
電車の中で悶々と何を話せば良いのか考えていたのに……。
ぐしゃぐしゃに顔を濡らして、突き出したの目一杯に握った拳で。
退院明けで貧弱なソレを払うなり、避けるなりすれば良い。
だけど、ホシノはソレが当然の様に受けるべき報いであるように受け入れた。
鳩尾を穿った筈なのにビクともしない。
弱い。弱過ぎる。ボク達にはもうホシノを動かす力も無いのか……。
「馬鹿だよ……こんな、こんな……なんて様だ」
一年見ないうちに随分と見るに堪えない姿へと変貌してしまった親友に吐き出してしまったのは、思ってもいない言葉で。
「……ごめんね、ツキノ」
ソレを受け取った彼女が傷ついた感情を浮かべるモノだから、”あぁ……また、やってしまった”と、さっきと同じ轍を踏んでしまった後悔が胸を埋め尽くす。
ボロボロと溢れる涙が止まらない。
こんな、こんな形を求めていなかった。
一年経ってもボク達は変われないままで。
ただ、それだけで周りを傷付けて不幸を振りまく厄病神だ。
これ以上、誰も傷付けたくないのに。
「一人にさせて」
「……うん」
増えてしまった罪を。大事な親友の有様から目を逸らす様に横を通り過ぎてトボトボとツキノは歩く。
ホシノは追って来なかった。
だけど、ソレで良い。
何も抱えたくない。ツキノの抱いた感情はボクと同じだ。
目に入った保健室の扉を開けて、真っ白な枕に顔を埋めてツキノは目を閉じる。
「ねぇ……先生」
”私、帰ってきて良かったの?”
描いていた未来とは真逆の結末に不安と後悔が圧し掛かる。
逃げる様に彼女は世界を閉じていく。
何も。何もない場所へ。そこは苦しみもない場所だから。
薄れていく認知領域にボクはほぅと息を吐きながら、祈った。
願わくば、目を覚ました世界が二年前のあの時でありますように。
何度だって祈る。
ソレがボクの願いなのだから。
ブレーメン >>かつて、アビドス生徒会が立ち上げた学生バンド。
そこには確かに学生らしい青春があった。