『00:00:00』
視界が暗転する。 ……はずだった。
「――っ!?」
肺に流れ込んできたのは、重機が吐き出す排気ガスではなく、噎せ返るほどに濃密な、「本物の」樹木の香りだった。 肌に触れる空気の質感、足元から伝わる土の冷たさ。 そして、何よりも――。
「……アイリッツ様? いかがなさいましたか。」
すぐ隣から聞こえた、透き通るような、しかし無機質な声。 弾かれたように顔を上げると、そこには、今まで「置物」だと思っていたはずの影――アストラル種族のNPCが、意思の宿った瞳で自分を覗き込んでいた。
(……え? なんだ、これ。声……? こいつ、喋って……?)
周囲を見渡す。そこは確かに、自分が作り上げた世界樹の最上階だった。 だが、窓の外に広がるのはユグドラシルの見慣れた背景データではない。見たこともない険しい山脈と、どこまでも続く深い緑の海。
心臓が、現実のものとして激しく鼓動を打つ。
(……落ち着け。落ち着け、私。……今の、何? バグ? じゃない。この匂い、この感覚……。……まさか、これ、本物……?)
パニックになりそうな脳を、数年間の夜職で培った理性で強引に押さえつける。 相手は、自分が作った、壁役の前衛「ミストワンダラー」。 だが、彼は気づいてしまった。
(待って。こいつ、どんな性格にしたっけ……。……設定……思い出せない。マスターのことばっかり考えてて、この子達のの細かいところ……全部忘れた……!)
自分を信奉する、レベル100に迫る異形の化け物。 それが、自分に視線を向けている。 その「忠誠」が本物なのか、それとも、機嫌を損ねれば即座に首を撥ねられる類のものなのか。今の彼には判別がつかない。
「…あ、いえ…すみません。少し、考え事をしていただけですから」
無意識に口をついて出たのは、最も得意な「丁寧な鎧」。 足立藍良、あるいはアイリッツは、冷や汗を飲み込み、震える指先を隠しながら、最悪の「転移」を自覚した。
「……少し、一人にしてもらえますか? 状況を確認したいので」
「御意」
音もなく消え去るアストラルの影。 一人残された玉座の間で、広気は、もう誰も座っていない隣の席を見て、震える声で呟いた。
「……これは、一体・・? 何かが起きてることは確かなのだけど……」
静まり返った『エブリイズ』の最上階。玉座に沈み込んだアイリッツは、自身の指先を見つめていた。 先ほどまで感じていた、脳を直接揺さぶるような情報の奔流は収まっている。だが、代わりに残されたのは、圧倒的な「肉体」の質感だった。 渇いた喉が、唾液を飲み込む音を鮮明に鼓動へ伝える。
(……これが、本当にあたしの体なのかな)
藍良は、確認するように掌を握り、開いた。 ゲーム画面では一瞬で完了した「動作」に、今は筋肉が収縮し、骨が軋む微かな抵抗が伴う。 彼は集中し、かつての感覚を頼りに意識を編み上げた。
この姿は藍良が16歳の頃に自分の姿を模ったものだ。 いやほんのお気持ち程度顔を短くして頭蓋の形も綺麗にしたかもしれない‥
(……触った感じは、確かに自分の肌だけど)
指先が頬をなぞる。 20歳を迎え、夜職の不摂生とストレスで荒れ始めていた現実の肌とは違う。指先に吸い付くような、しかしどこか人間離れした滑らかさ。 鏡を見るまでもなくわかる。そこに宿っているのは、幼さと完成度が同居した、性別という枠組みが曖昧な「16歳の藍良」の全盛期だ。
ユグドラシル時代、彼にとって『着せ替え』は数少ない、そして最大の娯楽だった。 スペック重視の無骨な鎧も持ってはいたが、拠点名に『エブリイズ(日常)』と名付けるくらいだ。彼は戦うこと以上に、この世界で「過ごす」ことを愛していた。
「今日は、あの白い司祭服にしようかな。……それとも、あっちの動きやすいスカウト風のやつに……」
そんなふうに、メニュー画面でアバターの装備をカチカチと変えて楽しんでいた時間は、何物にも代えがたい「日常」だった。 マスターに「アイラは本当にお洒落さんだね」と笑われた時の、鼻の奥がツンとするような記憶。
(……あの時、あたしは確かに、この体で生きてたんだ)
今の自分の姿は、性別すらも曖昧に見える。 もともと華奢で、男とも女ともつかない中性的な顔立ちは、16歳の自分をベースにしたことでより強調されている。 水商売で自己を確立してた彼にとって年々歳を取って劣化していく事は死活問題であり、今のこの「固定された美しさ」は青天の霹靂 救いであった。
「……あ、そうだ。……あれ、どうなってるのかな」
藍良はふと思いつき、法衣の隙間から自分の首筋、そして胸元に触れた。 そこには、ユグドラシル時代にこだわり抜いて設定した「質感」が、文字通り血の通った皮膚として存在している。
(……細かいところまで、全部。……あたしが選んだ通りだ)
「……すごいな。この金属糸、一本一本の重みが分かる。……なのに、全然苦じゃない。見た目は優美な布地だが、その実態は物理防御と魔法抵抗を極限まで高めた高位の防具だ。本来なら相応の重量があるはずの金属糸の重なりも、レベル100の筋力とステータス補正の前では、まるで羽毛を纏っているかのように軽い。腕を振れば、布地が空気を切り、編み込まれた金属が微かに、しかし澄んだ音を立てる」
戦いだけが全てではない、ここでの何気ない時間を大切にしたい。そんな願いが込められた場所。藍良にとって、この法衣の揺らめきも、編み込まれた金属糸が奏でる繊細な音色も、すべてはメンバー達と共に過ごした穏やかな日常の記憶と結びついていた。
「……あたし、本当にこれを着て、あの頃を過ごしてたんだ」
ふと、自分の手の甲を見る。 細く、しかし確かな力が宿った指先。 レベル100という、この世界の理を塗り替えかねない圧倒的なステータス。 重いはずの金属糸がこれほどまでに軽いのは、今の自分が「神官戦士」としての完成形にあるからだ。
(……安心した。……装備も、体も、あたしが知ってる設定のままだ。……気にしすぎだったかな)
次回から長文