吐瀉物に愛を込めて   作:マウスブン

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覚醒

二〇〇七年、八月。蝉時雨は遠く、アスファルトを焦がす熱気だけが、いつまでも肌にへばりついていた。あの夏の日、五条悟は最強に成り、私は取り残された。いや、違う。彼は空の果てまで飛んでいき、私は地上で泥を啜る役割に固定されたのだ。それは強者の責務。弱きを助け、強きを挫く。その行いが正しいと信じていた頃の輝きは、今や磨耗し、ただの義務という名の枷となっていた。

 

また任務が終わる。目の前には祓われた呪霊の残穢。そして掌に残る黒い球体。呪霊操術。降伏した呪霊を取り込み、自在に操る術式。数多ある術式の中でも稀有にして強力な力。だがそのプロセスを知る者は私しかいない。――吐瀉物を処理した雑巾を、丸呑みするような味。誰かがそう表現したのではない。私が、私の魂がそう定義した味覚の暴力。一日二回、あるいは三回。この一年、その頻度は劇的に増した。悟が一人で任務をこなすように、私もまた、一人でこの不快な球体を嚥下し続ける。喉を通る異物感。胃の腑に落ちる際の寒気。精神を削り取る不浄の味。誰も知らない。誰も理解しない。悟でさえも、この「味」だけは共有できない。

「……は」

乾いた笑いが漏れる。誰のために?非術師(サル)のためか?それとも、もう背中も見えない親友のためか?思考は堂々巡りを繰り返し、答えの出ない問いだけが澱のように積もっていく。

 

その夜も、眠りは浅かった。高専の寮、自室の静寂が耳に痛い。真夜中の二時。丑三つ時などという言葉が陳腐に思えるほど、現代の夜は明るく、そして孤独だ。何気なくつけたテレビ。画面の向こうでは、バラエティ番組が垂れ流されていた。深夜特有の、タガの外れたテンション。企画の内容は『世界のゲテモノ料理』。昆虫、両生類、爬虫類。生理的嫌悪を催す生物たちが、皿の上に鎮座している。

「……平和なものだ」

我々が命を削り、汚泥を啜っている間、彼らは安全圏で「気持ち悪い」と笑い合っている。その対比に苛立ちを覚えるよりも先に、私はある種の諦観を抱いていた。だが。画面の中の料理人が、巨大なカエルを捌きながら語った言葉が、私の鼓膜を震わせた。

 

『どんな食材もね、下処理が大事なんですよ。内臓の臭み、皮のぬめり、毒のある部位。これを取り除いて、適切な火入れと香辛料を使えば――ほら、極上の淡白な鶏肉のような味になる』

 

――下処理。――適切な、調理。

 

電流が走った、という陳腐な表現では足りない。それはコペルニクス的転回であり、世界構造の再定義だった。私は、呪霊をどうしていた?呪いを祓い、球体に変え、そのまま呑み込んでいた。つまり、「素材」を「生」のまま、「丸ごと」だ。魚を鱗も内臓も取らずに踊り食いすれば、それは不味いに決まっている。泥のついた野菜をそのまま齧れば、腹を壊すのは道理だ。呪霊の味=吐瀉物の雑巾。それは呪霊そのものの味なのか?それとも、私が「調理」という工程(プロセス)を放棄していたが故の、必然の不味さだったのではないか?

 

「……盲点、だったな」

呟きは熱を帯びていた。私は真面目すぎたのだ。術式の行使を、儀式として神聖視しすぎていた。呪霊といえど、私の肉体に取り込まれる以上、それは栄養素であり、エネルギーであり、広義における「食材」であるはずだ。ならば、料理の理屈(ロジック)が適用できる。不快な要素(マイナス)を消し、本質的な力(プラス)のみを抽出する。あるいは、味覚という幻影を、別の概念(スパイス)で上書きする。もしあの地獄のような味が、多少なりともマシになるとしたら?それは救済だ。この終わりのないマラソンを走り続けるための、唯一の水場になり得る。

 

私は即座に行動を開始した。ノートパソコンを開き、検索窓に言葉を打ち込む。

『ジビエ下処理』『臭み消しハーブ』『毒抜き方法』

画面の光が、私の顔を青白く照らす。試験勉強に取り組む学生のように、あるいは禁忌の魔導書を紐解く魔術師のように、私は真剣だった。呪霊の組成は霊的なものだが、それを球体(物質)として認識し、嚥下するのは私の肉体だ。ならば、物理的な干渉――加熱、香草によるマスキング、あるいは化学的分解――が、味覚情報に干渉する余地はある。一時間後。私の机の上には、幾つかの「仮説」と、深夜のコンビニエンスストアで調達した「機材」が並んでいた。簡易コンロ。鍋。オリーブオイル、生姜、大蒜(にんにく)、数種類のハーブ、そして強烈な度数の蒸留酒。

 

キッチンへと移動する。寮の共用キッチンは、真夜中の冷気で満たされていた。換気扇を回す。低い駆動音が、これから行われる儀式の開始を告げるベルのように響く。ポケットから取り出したのは、昼間の任務で調伏した四級呪霊の球体。黒く、禍々しく、そして見るだけで胃液がせり上がるような、あの玉。いつもなら、これを水で流し込むだけの苦行。だが今夜は違う。

 

「……始めようか」

 

私はまるで解剖医がメスを握るような手つきで、包丁を手に取った。相手は概念上の汚物。しかし今、私の眼にはそれが「調理されるべき食材」として映っている。まな板の上に、黒い球体を置く。ぬらり、とした質感。まずは物理的な切断による、構造の解明。そして火入れによる変質の確認。これが冒涜か、それとも革新か。そんなことはどうでもいい。私はただ、明日を生きるために、この「雑巾」を「料理」に変える。コンロの火をつけた。青い炎が揺らめき、私の瞳に宿る狂気のような希望を映し出した。

 

 

 

 

結論から言えば、世界はそう劇的には変わらない。キッチンに立つ時間は増えた。スパイスの調合、圧力鍋による加圧、あるいは低温調理によるタンパク質の変性。あらゆる手段を講じ、私は「それ」を食材としてのカテゴリーに押し込めようと試みた。結果、どうなったか。吐瀉物を拭いた雑巾の味は、吐瀉物を拭いた雑巾にレモンを絞った味になった。あるいは吐瀉物を拭いた雑巾の唐揚げ。吐瀉物を拭いた雑巾のムニエル。マイナス百の不快指数が、マイナス八十程度には軽減されたかもしれない。だが本質的な「不味さ」は、呪いの味そのものだ。魂を逆撫でする、生理的な拒絶反応。調理という物理干渉では、霊的な不快感を完全には払拭できないという事実。それが一ヶ月に及ぶ私の研究成果だった。

 

そしてもう一つの絶望。単純な、質量保存の法則。私の胃袋は一つ。一日に摂取できるカロリーと質量には限界がある。対して世界から湧き出る呪霊の数は無限だ。春になれば虫が湧くように、人の心がある限り、澱は積もる。祓う。調理する。食べる。祓う。調理する。食べる。追いつかない。私が一匹の呪霊を咀嚼している間に、日本のどこかで新たな呪霊が十体生まれている。この不毛なイタチごっこ。賽の河原で石を積むどころか、積んだ石を自分で食べているような徒労感。私はこの味を、死ぬまで?この終わりのないマラソンを、独りで?

 

「夏油さん!お疲れ様です!」

 

思考の深淵に沈みかけていた私を、底抜けに明るい声が引き上げた。高専のベンチ。気がつけば、隣には灰原雄が座っていた。後輩。屈託のない笑顔。呪術師という過酷な因果に身を置きながら、彼からは「呪い」の湿っぽさを感じない。彼は夏油に買わせたコーラを飲みながら、汗を拭う。

「今日も暑いですね。でも、任務が終わった後のこの一杯が最高なんです」

「……そうか。それは何よりだ」

「はい!自分にできることを精いっぱい頑張るのは、気持ちが良いですから!」

 

――自分にできることを、精いっぱい。

 

その言葉は純粋すぎるが故に、鋭利な刃物となって私の精神を抉った。私は精一杯やっている。誰よりも。吐き気を殺し、味覚を殺し、人間としての尊厳をすり減らしながら。それでも、世界は綺麗にならない。私の胃袋が満たされるだけで、世の穢れは減らない。眩しいな、と私は思った。彼の無垢さ、正しさですら、今の私には猛毒だ。

 

「どんな女が好み(タイプ)かな?」

 

灰原と話していると不意に世界にノイズが走った。灰原の光とは違う、もっと強烈で、異質な存在感。顔を上げれば、長身の女性が立っていた。ラフな格好に、自信に満ちた立ち振る舞い。九十九由基。特級呪術師でありながら、任務を受けずに海外を放浪しているという、高専きってのろくでなし。私と彼女は初対面だ。だが彼女が発する「格」のようなものが、只者ではないことを雄弁に語っていた。

「……九十九さん、ですか」

「おや、知られていたか。光栄だね」

彼女は私の隣、灰原がいつの間にか去って空席になった場所に、どかりと腰を下ろした。彼女は私の顔色を見ても、何も言わなかった。目の下の隈も、痩けた頬も、彼女にとっては些末なことなのだろうか。あるいはそれすらも「術師の業」として肯定しているのか。

 

「それで?君たちは優秀だと聞くけれど。今の現状に満足しているかい?」

唐突な問いかけ。彼女は私の返答を待たず、空を見上げて語り出した。彼女の目的は「対症療法」ではなく「原因療法」であること。高専が、そして私たちが日々行っている「呪霊を狩る」という行為は、単なる対症療法に過ぎない。原因を取り除かない限り、呪いは永遠に湧き続ける。

「私が作りたいのはね、呪霊の生まれない世界さ」

彼女の言葉は、乾ききった私の心に、奇妙な形で染み渡った。呪霊の生まれない世界。そんなものが有り得るのか。

「原因は人間だ。人間から漏れ出る呪力が澱となって呪霊になる。なら、人類全員から呪力を無くすか、あるいは人類全員が呪力をコントロールできるようになればいい」

人類の進化。非術師(サル)が、術師へと成る世界。それは壮大すぎる絵空事だ。だが今の私に必要なのは、現実的な慰めではなく、世界そのものを覆すような劇薬だった。

 

思考が加速する。私の悩み。呪霊の多さと、処理能力(胃袋)の欠如。彼女の提案。全人類の術師化。二つの異なるピースが、私の脳内で「調理」という接着剤によって、歪に、しかし強固に結合した。

 

「……九十九さん」

「ん?」

「それなら非呪術師(かれら)にも、呪霊を消費させればいいじゃないですか」

 

九十九由基の動きが止まった。彼女は怪訝そうに眉をひそめ、私を見る。

「消費?どうやって。呪霊は見えないし、触れない。そもそも一般人には呪いに対する耐性がない」

「ええ。ですが、それは『そのまま』ならの話です」

私は淡々と、しかし熱を込めて語り始めた。まるで新しいレシピを思いついたシェフのように。

「私の術式で取り込み、球体にする。あるいは、適切な『調理』を施し、物質的な食材へと還元する。もし呪霊が……この世で最も美味な食材に生まれ変わったとしたら?」

「は……?」

「人間は貪欲だ。美味いとなれば、彼らは競ってそれを求めるでしょう。希少部位を奪い合い、養殖さえ試みるかもしれない。供給過多?いいえ、人類六十億人の食欲があれば、呪霊の発生速度(生産)など、消費速度(実食)が上回る」

食べることは生きること。呪いを取り込み、消化し、血肉に変える。それは生物として最も原始的で、強力な適応手段だ。

 

「呪力が漏れるから呪霊が生まれる。ならば、生まれた呪霊を再び体内に取り戻し、エネルギーとして循環させる。……これこそ、究極のエコシステムではないですか?」

 

沈黙が落ちた。蝉の声だけが、やけに煩く響く。九十九由基は、口を半開きにして私を見ていた。特級術師である彼女をして、今の私の発言は理解の範疇を超えていたらしい。彼女は腕を組み、長いこと考え込んだ。倫理?道徳?そんなものはとうに摩耗している。彼女が計算しているのは、その「可能性(リアリティ)」だけだ。

 

「……君、頭のネジが数本、いや、全部飛んでるね」

彼女は呆れたように、けれどどこか楽しげに言った。

「でも、理論上は……アリだ。鳥が空を飛ぶために翼を得たように。環境が、あるいは『食性』が種を進化させることはある」

毒を食らわば皿まで。呪いを常食する種へと、人類を進化させる。それは彼女が提唱した「全人類の術師化」への、最も醜悪で、最も確実な近道かもしれなかった。

「進化を促す、か。……強制的な適応。食欲という欲求(エンジン)を使った、生存競争の加速」

九十九はぶつぶつと呟く夏油を凝視した。その瞳に映っていたのは、もはや期待の後輩ではない。何か、触れてはいけない危険物を見るような目だ。彼女の野生の勘が告げたのだろう。この男の近くにいると、試食(テスト)させられる、と。

 

「……うん。まあ、頑張りたまえ。私はその、別の用事を思い出したよ」

「おや、もう行かれるんですか?少し見て頂きたいものがあるのですが…」

「遠慮しておく!君のソレは、ちょっと私の胃には重そうだ!」

特級術師の逃げ足は速かった。彼女は風のように立ち去っていった。おそらく二度と夏油に「どんな女が好みか」なんて聞かないだろう。何が出てくるか分かったものじゃない。

 

再び、ベンチには私一人が残された。静寂。しかし以前のような孤独感はなかった。一時間前までの私は、出口のない迷宮にいた。だが今は違う。地図がある。目的地がある。私はゆっくりと立ち上がった。ふと、先ほどの灰原の言葉が蘇る。

 

――自分にできることを精いっぱい頑張るのは、気持ちが良いです。

 

「ああ、そうだな。灰原」

独り言が口をついて出る。口角が、自然と吊り上がった。私にできること。私にしかできないこと。最強の悟にはできない、私だけの救済(レシピ)。脳内には、既に幾つものアイデアが浮かんでいた。大衆向けのファストフード的な呪霊加工。富裕層向けの高級呪霊コース。呪力の低い一般人でも摂取可能な、希釈と熟成のプロセス。それらを完成させるには、膨大な実験が必要だ。被検体は?ああ、いくらでもいるではないか。街を歩けば、そこら中に。何も知らず、のうのうと呪いを垂れ流し、私に汚物を掃除させていた「猿」たちが。

 

彼らにも手伝ってもらおう。自分たちの尻拭いを。美味しく、残さず、頂くために。

 

私はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。打ち込んだタイトルは『吐瀉物に愛を込めて』。二〇〇七年の夏。私の青い春は終わりを告げ、代わりに極彩色のフルコースが幕を開けようとしていた。

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