ある夏の某日。山間部の集落は、腐った果実のような甘い腐臭と、排他的な静寂に包まれていた。任務は完了した。村を脅かしていた一級相当の呪霊は、私の胃袋――ではなく、保存用の格納庫へと収められた。だがこの村の空気は少しも清浄化されていない。原因は明確だ。眼前の牢、その格子の向こうにうずくまる、二つの小さな影。傷だらけの少女たち。その身に宿した微弱な呪力ゆえに迫害され、汚物のように扱われた同胞。
「こいつらが元凶だ!化け物はこいつらが呼んだんだ!」
「殺せ!今すぐに殺してくれ!」
「赤子の頃から気味の悪いガキだったんだ、やっぱり生かしておくべきじゃなかった!」
村人たちの罵声が、驟雨(しゅうう)のように降り注ぐ。彼らの眼球は濁り、恐怖と加虐心が入り混じったドス黒い感情を垂れ流している。私は努めて冷静に、事実を陳列した。
「原因となった呪霊は既に祓った。彼女たちはただ呪いが見えるだけだ。事件とは無関係だ」
だが言葉は通じない。彼らは聞く耳を持たない。彼らにとっての真実とは「自分たちが不快であるか否か」だけであり、論理的整合性などどうでもいいのだ。人間(サル)とは、ここまで愚かになれる生き物だったか。かつてなら私はここで歯を食いしばり、「それでも彼らを守るのが強者の責務だ」と自分を殺していただろう。だが今の私は違う。視界の端で、世界が冷たく、しかし鮮明に色を変えていく。
――思考の加速。脳裏をよぎるのは、数日前の高専での光景だ。医務室のベッド。青白い顔で横たわる灰原雄。『すみません、夏油さん……せっかくの、料理だったのに……』
彼は笑おうとして、苦痛に顔を歪めた。私の開発した「呪霊料理(メニュー)」の試食。毒性は極限まで抜いたはずだった。味覚的な不快感も、香辛料と呪術的な処理で軽減したはずだった。だが結果は失敗。灰原は激しい拒絶反応を起こし、衰弱した。人体実験――いや臨床試験のデータ不足。絶対的なサンプル数の欠如。術師の体はデリケートだ。呪いという劇薬を摂取するには、より安全でより確実な処理(レシピ)の確立が必要不可欠。そのためには何が必要か?実験体だ。未完成の料理を、毒見し、その身をもってデータの礎となる数多くのモルモット。灰原のような尊い術師を、これ以上危険に晒すわけにはいかない。ならば誰がその代わりを務める?
ふ、と視線を戻す。目の前には、少女たちを殺せと喚き散らす村人たち。老人、男、女。その数、百十余名。彼らは呪術を知らない。呪いを生み出すだけの非術師。だが人間の構造としては同じだ。消化器官があり、神経があり、痛みを感じる脳がある。何より私は非術師も呪霊を食べられるよう改良済みだ。そして何より彼らは今、私に対して「殺せ」と願った。命の選別を、私に委ねたのだ。
「……そうか」
得心がいった。パズルが嵌まる音がした。これは天啓である。なぜ私がこの村に来たのか。なぜ灰原が倒れたのか。すべての因果が、今この瞬間のために収束している。ここは処分場ではない。ここは、厨房だ。そして彼らは、私の料理を評価し、改善点を見出すための、貴重な被検体たち。
「いいだろう」
私は穏やかに微笑んだ。聖職者のような慈悲を浮かべて。
「君たちの望み通り、この件を根本から解決しよう」
村人たちが歓喜の声を上げる。彼らは私が少女たちを殺すと思ったのだ。愚かな。私が手をかざすと、空間が歪み、どす黒い影が溢れ出した。それは先ほど調伏したばかりの呪霊ではない。高専の忌庫から持ち出した、私のストック。試作段階の、味付け済みの下級呪霊たち。吐瀉物味のゼリー。雑巾の煮込み風。腐った魚のムニエル仕立て。一般人には視認できない「料理」たちが、村人たちの周りを取り囲む。
「あ……?なんだ、寒気が……」
「おい、坊主、何をして……」
「食事の時間だ。呪いを消す協力をさせてあげよう」
私は宣言する。
「君たちが生み出し、君たちが育てた呪いだ。責任を持って、残さず食べてもらう」
その後の光景は、地獄絵図というよりは、狂気的な宴だった。私は術式で呪霊を細分化し、村人たちの口へと強引にねじ込んだ。見えない何かに口をこじ開けられ、異物を流し込まれる恐怖。喉を通る際の、魂を削られるような激痛と悪寒。胃袋の中で暴れ回る呪いの感触。
「あがッ、ぐ、げぇぇぇぇッ!!」
「いやだ、いやだぁぁ!何か入っ、たすけ……!」
「不味い!痛い!熱い!苦しい!」
悲鳴。嘔吐。絶叫。それは私にとって、極上のレビュー(感想)だった。
「ほう、加熱処理した検体Cは、胃壁へのダメージが大きいか」
「生食に近い検体Aは、気絶までの速度が速いな」
「非術師は呪いへの耐性がない分、反応が顕著だ。これはいいデータが取れる」
私は手帳を取り出し、ペンを走らせる。村人たちの苦悶の声は、BGMのように夜空に吸い込まれていく。牢の中の少女たちが、呆然と私を見ていた。怯えているのではない。彼女たちの瞳には虐待者たちが苦しむ様に対する、暗い快哉と、私への崇拝の色が宿っていた。私は牢の鍵を壊し、彼女たちに手を差し伸べる。
「行こうか。ここは少し、騒がしすぎる」
二人の少女、美々子と菜々子は、震える手で私の衣服を掴んだ。彼女たちには、まだ私の「料理」は早すぎる。いつかもっと美味しく、安全なものが完成した暁には、一番に振る舞ってあげよう。
夜が更けていく。村の家々の明かりはついているが、人の気配はない。ただ広場からは絶え間なく、獣のような、あるいは亡者のような呻き声が響き続けている。許容量を超えた呪いを摂取した非術師がどうなるか。死ぬか、廃人になるか、あるいは――進化の過程で歪に折れ曲がるか。どちらにせよ、結果が出るのは朝だ。
私は少女たちを連れて村を出る。背後で響く絶叫は、私への断罪の声ではない。それは人類という種が、新たなステージへ進むための、産声なのだ。灰原、君の苦しみは無駄にはしない。この百人の犠牲の上に、きっと君も笑顔になれる「究極の一皿」を完成させてみせるから。
月は高く、冷たく、私の背中を照らしていた。その光は決定的におぞましい色を帯びていた。
東京都立呪術高等専門学校。無機質な教室には、重苦しい沈黙と、場違いなほどの陽光が満ちていた。黒板に焼き付いたチョークの跡。遠くで響くグラウンドの喧騒。日常の象徴が、これほどまでに残酷に感じられる日はなかった。
「は?」
五条悟の口から漏れたのは、言葉というよりは、空気が抜けるような音だった。サングラスの奥にある六眼は、目の前の夜蛾を捉えている。だが脳はその情報を処理することを拒絶していた。
「何度も言わせるな。傑が集落の人間百十二名に呪霊を経口摂取させ、集団食中毒を発生させた」
「……聞こえてますよ。だから、は?っつったんだ」
五条の声は乾いていた。食中毒。呪殺ではない。虐殺でもない。特級呪術師が起こした事件の病名が、食中毒?
「村人は全員、重度の胃腸障害と精神錯乱を起こしているが、命に別状はない。……問題はそこではない」
夜蛾は苦渋に満ちた顔で、一枚の報告書をデスクに叩きつけた。
「傑の両親もだ。昨夜、実家のリビングで泡を吹いて倒れているところを発見された。搬送先の病院での胃洗浄……その内容物と残穢から、断定された」
「……」
「恐らく、傑は両親にも『料理』として呪霊を振る舞っている。試食か、あるいは彼なりの親孝行のつもりだったのか……」
「んなわけ、ねぇだろ」
五条の言葉が、悲鳴のように跳ねた。傑が。あの優等生の、「弱者生存」を説いていた傑が。親に呪いを食わせる?理解の範疇を超えている。善悪の彼岸すら通り越して、意味不明な次元に到達している。
「悟。俺も……何がなんだか分からんのだ」
夜蛾の弱音。担任としての、そして父親代わりとしての苦悩。
「ーーーーっ!!」
五条は机を蹴り上げた。パイプ椅子が派手な音を立てて転がる。最強ゆえの万能感。それが今、足元から崩れ去っていく音がした。傑、お前は一体、どこへ行こうとしている。
新宿。人波がごった返す雑踏の中、その男はいた。喧騒の中にありながら、彼だけが真空の静寂を纏っている。呪術師としての資格を一時凍結され、謹慎中の身。だというのに、夏油傑の表情は憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「説明しろ、傑」
背後から声をかける。五条悟の殺気にも、夏油は動じない。ゆっくりと振り返り、親友に向けた笑顔は、高専時代と何ら変わらない――いや、その瞳に宿る光の質だけが変質していた。狂信者のそれではない。未知の食材に出会った、探求者の眼だ。
「やあ、悟。早かったね。もう少しで『秘伝のタレ』の配合が決まるところだったんだが」
「ふざけんな。村の連中、それに親父さんたちに何をした」
「食事を振る舞ったのさ。まだ開発途中だったからね、少し体に障ったようだ。……灰原の時と同じ過ちだ。反省しているよ。次はもっと下処理を徹底しないと」
平然と。まるで失敗したクッキーの話でもするように、夏油は言った。五条の中で、何かが切れた。
「呪霊を、皆が食べられるように美味しくする」
夏油は空を仰ぎ、両手を広げる。
「それが私の結論だ。非術師も術師も、等しく呪いを消費する世界。食物連鎖のピラミッドに、呪霊という新たな階層を組み込む。……意味はある。意義もね。それに大義ですらある」
「ねぇよ!!」
五条の怒号が、新宿の雑踏を一瞬だけ切り裂いた。周囲の非術師たちが怪訝な顔で彼らを見るが、五条は構わずに叫ぶ。
「呪霊を皆に食わせて平和な世界を作る?無理に決まってんだろ!人間の味覚なめんじゃねぇ!できもしねぇことをやんのを、意味ねぇっつーんだよ!!」
不可能だ。生理的嫌悪。本能的拒絶。人間は、汚物を食べるようには創られていない。
「傲慢だな」
冷ややかな声が、五条の激情に水を差した。
「……あ?」
「君にならできるだろう。悟」
夏油は、五条の蒼い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「君なら、無理やりでも皆に食べさせられる。その六眼と無下限呪術があれば、全人類の口をこじ開け、胃袋に直接転送することも可能だ」
「…………」
「術式順転『蒼』。あの引力を使えば、呪霊を極限まで圧縮し、錠剤のように加工することもできるんじゃないか?喉越し良く、味も感じさせずに」
夏油は一歩、五条に近づく。その距離は物理的には近しいが、精神的には数光年の彼方だった。
「自分にできることを、他人には『できやしない』と言い聞かせるのか?それは強者の驕りだ。君は『最強』だから、私の苦労も、工夫も、必要ないだけだ」
言葉が出なかった。論点がずれている。五条が言っているのは「倫理」や「常識」の話だ。だが、夏油が語っているのは「方法論」と「可能性」の話だった。彼は本気だ。本気で、全人類に呪いを「美味しく」食べさせようとしている。殺すためではない。生かすために。
「何が、いいてぇんだよ……」
「生き方は決めた、ということさ」
夏油はくるりと背を向けた。その背中は、かつて共に並んで歩いた時よりも、一回り小さく、しかし鋼のように強固に見えた。彼はもう五条の方を振り返らない。彼の視線は、まだ見ぬレシピの向こう側にある、理想郷だけを見据えている。
「後は、自分にできることを精一杯やるさ。……今の私には、料理しかないからね」
雑踏に消えていく親友。その右手に握りしめられていたのは、特級呪具でも、封印指定の呪物でもない。分厚く、付箋だらけの参考書。
――『一発合格!調理師免許試験完全攻略ガイド』。
五条悟はただ立ち尽くすしかなかった。最強の術師である彼にも、その背中を止める術式はなかった。