ビッグ7は沈まない 作:ドラフェノク
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各国の情勢
明治末期から始まった日本人の倨傲、政治の堕落と混迷、陸軍の暴走と海軍の無気力。マスコミの迎合や無定見など、昭和の日本は国を挙げて亡国の道へと突き進んだといえる。
では何故このような戦争が起こったのか。
ある人はこの戦争は宿命だったといい、ある人はまたこれはやむを得なかったのだ、という。
しかし、このような戦争が宿命だった、とかはやむを得なかったのだ、とか。そんな言葉で片を付けられるほど甘いものではなかったのだと思うし、してはならないことなのだと思う。やはり我々後世の者たちにできることはこの戦争が起こった原因を真剣に考え、このような戦争を二度と起こさないことが大事なのだろう。
しかもこれはよくよく見れば避けることのできた戦争なのだ。様々な救いの手を差し伸べられたにも拘らず、見事なまでに払い続けてきたのが昭和の日本の政治の失態であり、俗にいうところの軍部の暴走だった。政治が纏まりを見せたと思えば軍部がその成果を叩き潰し、軍部が沈静化したと思えば政界が振動する。あちらが立ったと思いきやこちらが立たず、外国からの信任を亡失していく。もう本当にどうしようもない状態だったが、どこかで何かが違えば変わったはずのことだった。
ここではその原因を詳しく見ていきたいと思う。
日本人、という民族が新たに産声を上げたのが、日露戦争のあとである。
いや、これはあるいは「新生日本人」が誕生したと言ったほうがよいかもしれない。
国の生存を天秤にかけた国民戦争である日露戦争を綿密な計算と明確な指標をもって開戦した日本は、満州の野で連勝を続けた。日本の全新聞が勝ち戦を報じたのはもちろんだが、同盟国イギリスの「ロンドンタイムズ」、「ロイター通信」なども日本の勝利を全世界に喧伝してくれていた。
このことで日本は戦時国債の売り上げを伸ばすことが可能となり、その戦時財政に果てしなく優位に働いたのは間違いがないのだが、その大々的な報道が同時に日本人たちの心に倨傲の種を蒔いてしまったこともまた、事実だろう。
明治三十八年三月、日本陸軍は満州奉天にてロシア軍から辛くも勝利をもぎ取った。文字通り力の限りをふりしぼった辛勝だったのである。
この「勝ち」を受けて満州軍総司令官大山巌も、その参謀総長の児玉源太郎もこう判断した。
「これ以上の戦闘の継続は不可能である。ここいらが潮だ」と。
今後の作戦の要は政略と戦略の一致にあり。昭和の日本では誰も言いそうにない当たり前のこのことを、昭和の日本では終ぞ聞くことのできなかったこのことを、明治の日本は総司令官と参謀総長自らが口にだし、それを完璧にやってのけたのである。
だがこの時点では,講和は纏まらなかった。まだロシアには無傷の第二・第三太平洋艦隊が残っており、これらが日本の連合艦隊を打ち破ってしまえば在満の日本陸軍全軍は本土からの補給が途絶えてしまうこととなり、今まで積み重ねてきた勝利はどこへやらと言わんばかりに一瞬で逆転を許してしまう。故に陸で一方的に(内情は極めて苦しいものがあるが戦績的には)勝っているとはいっても、海軍が最後に勝たなければ全てが水泡に帰してしまうのだ。
国際社会において、日本の地位とか評判とかいったものは決して高くはない。むしろこの当時の日本は半ば未開国の野蛮な国であり、アジアの中にいるなんだかよくわからない、不気味な国としかみられていなかった。その軍事力もたいしたことはなく、おもな産業と言っても紡績業くらいなもので、到底ヨーロッパの先進国にかなうわけなどないと、そういうような蔑視と僅かな警戒の目を向けられているだけだったのである。
だがその評価はこの一戦を経て大きく変わることとなる。
日本海軍は、大勝したのである。それも完全と言っていいような勝利であった。
この日本海での海戦は、遂にロシア皇帝ニコライ二世に自らの帝国の敗北を認めさせたのである。
日露戦争を必死の思いで戦い抜き、存亡をかけた戦争に終止符を打たんとばかりにポーツマスでウィッテ(ロシア帝国元大蔵大臣)・小村寿太郎(外務大臣)が会見を開くと、日本国内では有志の知識人たちの手で様々な和平条約案が作成された。国民たちは度重なる勝利に沸き立ち、理性を失っていた。あたかもまだまだ日本に戦える余力があるかのような口調で、彼らは調子のいいことを声高に叫び続けた。
賠償金支払いと領土割譲をしなければウラジオストックやハルピンまで行き、遠く露都ペテルブルクまで攻め込むのだ!
自分の国の軍隊が今やなにもしなくとも倒れてしまいそうなほどボロボロだというのに、そんなこともしらないであろう無知蒙昧な国民は気が狂ったかのように叫び続けた。そしてそれは、ポーツマス条約の内容が正式に決まったときに爆発した。
ロシアは賠償金を払わなかったのだ。
これに対し、当時の帝大七教授は「このような条約は破棄し、戦争を継続すべし」と言い、国民もこれに同調した。自分たちの要求が入れられていないことを悟った国民の一部は暴徒と化し、せっかくこの交渉をまとめてくれた小村寿太郎に脅迫文を送り、果ては仲裁に立ってくれたアメリカの大使館すら標敵にし、教会すらも焼き打った。
この自称知識人たちとそれに乗せられた国民の馬鹿さと言ったら、どうだろうか。一度自ら条約を破棄しておいて、いかにして決着をつける気だったのか。仲介に立ってくれたアメリカの面目をつぶしてしまっていいと本気で考えていたのか。国民生活が破綻寸前だったことは明白なのに、なぜ今更声高らかに継戦をさけべるのか。
思えばこのあたりから後世の日本の持つ暗いイメージの元凶はできあがっていたのかもしれない。これは言い過ぎだとしても、少なくともこの事件でアメリカに悪感情を持たれたことは確かだろう。
まあ、なにはともあれ日露の激突は終わり、日本は建国以来最大の国難から免れた。
次の大戦争の舞台は、ヨーロッパへと移転することになる。
第一次世界大戦と称されるヨーロッパで発生した戦争は、参戦国が多いこともあって日本人には少し構造が分かりにくいが、少し乱暴に整理すればドイツ対英仏露の三カ国(のちに英仏米の三カ国になる)による東西欧州戦争とオーストリア・ロシア・トルコ(オスマン)の三帝国からなるトライアングルとその内側にあるバルカン半島の中小国(セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・ブルガリア・ギリシャ)による「第三次バルカン戦争」の二つに切り分けることができる。
そもそもこの戦争は第二次モロッコ危機のような戦争に至りかねない事態を外交でのみたびたび切り抜けてきたという実績がほとんどであったばかりに戦争の危険性を軽視する共通意識がヨーロッパに蔓延していたことが大きな原因をなしている。
だがこの頼みの綱の外交ブレーキが1914年の7月にオーストリアとセルビアの関係が一触即発の状態となった時、突如として作動しなくなり、当事国間の関係は回復の兆しを見せないまま急速に悪化していった。
そして、長い時間をかけて積み重なった遺恨と相互不信を抱えるヨーロッパの国々の中で連鎖的な大動員と宣戦布告を招き、ついには欧州全土を戦火と毒ガスで覆い尽くす大戦争に発展したのである。
それではなぜヨーロッパ諸国間の紛争拡大を何度も防止する役目を果たしていた外交ブレーキはなぜこの時に完全にその機能を停止したのだろうか。そして欧州各国はいかなる思惑をもってこの大戦争へと参戦する道を選んだのか。
ここでは詳しい理由は省くが、その大本の原因はロシアが引き起こした大動員令にある。
ではなぜロシアが大動員令を出したかと言えば第二次バルカン戦争後のオーストリアとセルビアの関係にある拭いがたい不信感について触れずにはいられない。
第二次バルカン戦争とはその名の通りバルカン諸国が引き起こした半島における戦争の第二回戦である。第一回戦と呼べる第一次バルカン戦争はバルカン半島の諸民族から反感を買っていたオスマントルコ帝国にセルビア・ブルガリア・ギリシャ・モンテネグロら独立を達成していた国々がオスマントルコがイタリアと戦争していた隙をついて一斉に攻め込んだ。
ロシアを仲介にして結んだ大同盟・「バルカン同盟」の四か国の軍の進撃はすさまじく、イスタンブールまで40キロにまで迫ったが、1912年の12月になると一転膠着状態となり、この月の間に休戦条約(ロンドン条約)を結ぼうとする意志が各国に見られ始めた。
戦争に参加した各国の思惑通りに第一次バルカン戦争は12月には休戦に入り、ロンドン講和会議が開かれたが、会議は紛糾し、途中戦争が再開される局面もあったものの、1913年の4月の末には妥結し(ロンドン条約)、オスマン帝国はエーゲ海のエノスから黒海のミディアを結ぶ線以西のバルカン半島とクレタ島の領有を放棄した。
しかしオスマントルコの敗北受諾宣言とともに、勝利したはずの同盟国間で不協和音が発生していた。そしてその背後にはバルカン半島の情勢を自国の都合のよいものにしたいという列強の思惑が介在していた。彼ら列強諸国はバルカン同盟との戦いでオスマントルコが列強から見て必要以上に弱体化することを恐れたとはいっても、その欲望を収めたわけではなかったのである。
バルカン同盟諸国で獲得した領土の国境をめぐり新たな対立が生まれる。コンスタンチノープルとその周辺におけるオーストリアの干渉でアルバニアが独立、自治権を得たためにセルビアはアドリア海への出口を失うが、中部マケドニアの領有を主張した。マケドニアにはギリシャとブルガリアも領有を主張し対立。さらにこの両国はエーゲ海沿岸の国境をめぐっても対立していた。このように各国の利害が激しく対立し、ついに行き詰まりを見せる中、第二次バルカン戦争がはじまった。
1913年6月29日にブルガリアは軍事的緊張状態にあったギリシャとセルビアに侵攻し、テッサロニキ、マケドニアを攻撃した。しかし、すでに対ブルガリアでギリシャとセルビアが秘密同盟を結んでおり、すぐに反撃する。それに乗じてシュコーデルを列強の干渉によって取り損ねたモンテネグロ、ブルガリアの南ドブルジアを自国に併合することを望むルーマニア、トラキアの大部分を奪われた恨みを持つオスマン帝国もブルガリアに宣戦布告した。
この結果、ブルガリアがバルカン諸国全てを敵にまわし孤立無援となった。7月30日にはブルガリアは休戦を求め8月にはブカレスト講和会議が開催された。
ブカレスト条約によってブルガリアはマケドニアの大半を喪失しさらに南ドブルジャをルーマニアへ割譲、エディルネをオスマン帝国に返還しマケドニア北東部と、エーゲ海への出口となる西トラキアを辛うじて確保するにとどまった。一方で、セルビアは北・中マケドニアおよびノヴィ=パザル地方を獲得。モンテネグロはセルビアと共にコソボ地方を分割した。ギリシアは南マケドニアとテッサリアなどエーゲ海沿岸を獲得した。
この時点でオスマントルコはバルカン半島に持っていた65350平方マイルの内、実に90%近くを失い、セルビア(23%)・ブルガリア(19%)・ギリシャ(26%)・モンテネグロ(3%)・アルバニア(17%)によって分割された。
約一か月間の第二次バルカン戦争の後、第一次バルカン戦争で獲得した領土の大半を失ったブルガリアはこの第二次バルカン戦争で敵国となったセルビアとその後援者であるロシアを深く恨むようになり、同様にセルビアとロシアを敵視するオーストリアとの関係を重視する外交方針を取り始めた。
しかし二度のバルカン戦争の勝者であるはずののセルビアもまた、手放しで喜べる状況ではなかった。セルビアが望んでいたアドリア海沿岸の要地・アルバニアへの進出がオーストリアの強硬な反対により実現できずに終わったからである。
そしてルーマニア・ギリシャ・モンテネグロ・オスマントルコもまた、この第二次バルカン戦争の結果に満足したわけではなく、これらのバルカン戦争参加国すべての国民は「今回の戦争で取り損ねたものすべてを次の第三次では必ず手に入れて見せる」との決意を固めていた。
とりわけオスマントルコは二度のバルカン戦争の講和会議でバルカン同盟側の態度を見せ続けた英仏露の「協商国」に対する恨みを忘れておらず,それまで以上にドイツとの軍事的協力を深めることととなった。
これによりオスマントルコは来るべき第一次世界大戦においてドイツ側に立って参戦する道を選ぶこととなる。
いずれにせよ第二次モロッコ危機を境に連鎖的に発生したこれらの紛争はすべて「限定戦争」の域に留まり、最終的には「外交交渉と各国の譲歩により解決が図られる」という形式に落ち着いた。イタリアのトリポリ併合も1912年10月15日の講和条約でオスマントルコにも承認され、二度にわたるバルカン戦争も列強の大使会議による事態の収拾で決着が付けられた。
だがこれらの実績は各国の政府首脳に対し、軍事力による威嚇や限定戦争が「国際問題の解決手段として一定の効果を持つ」という認識を強く植え付けてしまう結果となった。
そしてオーストリアの皇太子フランツ・フェルデナンド夫妻をセルビア系ボスニア人の学生ガブリロ・プリンツィプがボスニアの首都サラエボで暗殺されるという「サラエボ事件」が起きると、1913年以前に形成された国家間の対立や怨恨はまるで気化したガソリンに火花が引火するかのように、新たな「大戦争」を激しく炎上させる燃料となってしまう。
セルビアはこの時二度にわたるバルカン戦争で疲弊しており、新たな戦争を行える状態ではなかった。だがセルビアとオーストリアの緊迫した関係がこれを作為的なものだと思い込ませた。
ドイツの後押しを受けて強気になったオーストリアは「セルビアを懲らしめる」という目的で第三次バルカン戦争を行う決意を固めていったのである。
このオーストリアが目論んだ第三次バルカン戦争は、当時の各国の軍隊における動員令の硬直性もあってあたかも山の急斜面を大きな岩が転がり落ちるようにして凄惨な第一次世界大戦へと発展していくこととなる。
事務処理と情報伝達の速度が今とは比べ物にならないほど遅かったこの時代には100万人を超える兵士の召集から人員の特定地点への配置、そして戦略開進にいたる行動に膨大な時間を浪費するため、いったん作成された動員計画は容易に内容を変更できないほど緻密に、綿密に作られていた。
ある国の軍隊が本格的な戦争の開始に備えるには、早い段階で兵士の動員を開始する必要があったが、当時の事務管理能力の限界から、特定の状況に応じた「部分動員」や、いったん動き始めた動員の「途中解除」のような柔軟な方策をとることが不可能だった。国内の軍隊組織のすべてを大混乱に陥らせるリスクを避けるにはあらかじめ決められた大動員令を完璧にこなすしかなかったのである。
また勿論のことながら、ある国が開始した「動員」は隣国から見れば「自国に対する戦争準備」とも取れるため、一国の動員が連鎖的にほかの国々の動員を引き起こす可能性も当然のことながら持っていた。
当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあり、列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。1914年6月、オーストリアのセルビアによる宣戦布告を受けたセルビアの後見人役ともいえるロシアが「軍事的威嚇」として出した総動員令を出した。
ところがこれに対してドイツは「ロシアはドイツとの戦争準備を始めた」と解釈、8月1日にロシアに宣戦布告することを決めると同時に、フランス攻撃のための動員を開始したのである。
ドイツ陸軍の参謀長アルフレート・フォン・シュリーフェンの考案したシュリーフェン・プラン(対フランスの東西に正面作戦)ではロシアが動員完了に要する時間を四ないし六週間と見積もっていた。それによるとまず最初に六週間かけてフランスを攻略し、東部正面にはロシアに対応できるだけの小兵力を配置、フランスに完全勝利した後で主力を東部へと転換、ロシアへの全面攻撃に移行するという段取りになっていた。
したがって、ドイツ軍が対仏戦の着手に遅れれば遅れるほど東部正面のドイツ軍は不利な状況に陥ることとなり、ロシアの動員令を察知すると同時に戦争準備を整えて、フランス方面に対する軍事侵攻を一刻も早く開始する必要に迫られていた。
こうしてドイツはあらかじめ準備していた東西二正面作戦に基づく軍事行動(シュリーフェン・プラン)を開始し、そのまま東西欧州戦争へと雪崩れ込んでいったのである。
この第一次世界大戦当時は限定戦争や地域紛争、小規模な蜂起、武力による威嚇などが絶え間なく繰り返されたが、何時しか政治指導者や国民もこの緊張状態に慣れてしまい、一度の戦争が終わると各国の世論というものはあたかもスポーツの試合の結果に一喜一憂するように「今回取れなかったものを次回は取り返す」という認識が人々の間に日常的に語られるようになった。
そして欧州列強や中小国の指導者は特定地域の力関係を自国の有利なものに変えるために武力による恐喝や人為的な緊張感の創り出すといった方策を多用することとなる。
これには政治家が創り出した各国の緊張感が外交でコントロールできない状況へと暴走するリスクについてはどこの国でも全く考えられていなかった。
第一次世界大戦とは各国のコミニケーション不足と疑心暗鬼、地域紛争、大戦争へと発展するかもしれないというリスクの過小評価が招いた人災であったのと同時に、当時の外交交渉の限界とその陥穽が招いた社会現象でもあったのである。
これは平和などではない。たかだか20年の停戦だ(Ce n'est pas une paix, c’est un armistice de vingt ans.)」
スペインとの国境に近い南西部のタルブに生まれ、志願兵として普仏戦争に従軍している。1895年からフォンテーヌブロー砲兵学校で戦略戦術論を教授し、「戦争の原則」、「戦時統帥論」などを著した。
1918年3月26日のドゥラーズ会議において連合国軍総司令官に就任、同年8月にはフランス元帥の称号を受けながら連合国を勝利に導いた軍人として賞賛を受け、1919年にはイギリス陸軍元帥、1923年にはポーランド元帥にも叙せられたフェルディナン・フォッシュの言葉である。
彼の先見性がよく表れているこの予言の通り、この「休戦」は一時的なものでしかなかった。
彼の言うこの約20年後、世界は再び戦火に包まれることとなる。