いつものように学校へ着いたが、教室に向かう途中で楓の声がした。
何となく聞き耳を立てていると、何やら不穏な空気。個人の問題に介入しても良いものかと悩んだが、聞いている内に無性に腹が立ってきた。
大勢で寄ってたかって一人を糾弾するなど、本当にあるとは思っていなかった。ラノベでよく見る悪役令嬢とその取り巻きのような光景。
気がつくと、身体が勝手に歩き出し、女子連中に食ってかかっていた。
結局、その場が収まったのは千夏のおかげで、俺は何も出来ていなかったのだが。
それでも楓は姿を消してしまった。やはり堪えたのだろうか。
慌てて追いかけようと階段を下ると、白栞と目が合った。何か言いたげな表情を浮かべているが、今はそれよりも楓を追いかけなければ。
俺は白栞の横を通り過ぎようとした。
「結翔!」
しかし、俺の手を掴んだ白栞に止められる。
今は一刻を争う。こんな時に引き留める白栞を、一瞬煩わしく感じてしまう。
「ちょっと行ってくる!」
「ダメ!」
白栞は、頑なに俺を引き留めようとする。
「離せよ!」
思わず声を荒げると、白栞は驚いた様子で手を離した。少し申し訳ないが、急を要する事態だ。
「悪い、後でまた話すから」
そう言い残して、幼馴染の横を駆け抜けていく。
傷付いた想い人の元へ、一秒でも早く駆け付けつために。
ホームルーム開始を告げる鐘が鳴った頃。俺はようやく、中庭で楓を発見した。
楓はベンチに座り、俯いている。
「よ。探したぜ」
なるべく平静を装って声をかける。だが、楓はこちらに見向きもしない。
明確に無視されているという事実に、少しだけ心が痛んだ。もしや、ここはそっとしておくのが正解だったのだろうか。朝からトラブルがあった後だ、一人になりたいと思っていても不思議はない。
だが、ここまで来てすごすごと帰る方が悪手だろう。今は自分の行動が正しかった事を信じるしかない。
覚悟を決めて、楓の隣に座る。
「もう授業始まるぜ。こんなとこでサボってたら、後で先生にドヤされる」
もっと気の利いたことを言うべきだっただろうか。しかし、蒸し返すのも悪い気がして、当たり障りない事を口走ってしまった。
沈黙が流れる。一瞬かもしれないし、もう数分はこのままでいたかもしれない。時間の感覚が曖昧になっていく。
ようやく楓が、こちらをチラりと見た。
見たことのない、少しだけ弱った表情。
「どうして来たの」
第一声が、拒絶なのか純粋な疑問なのか判断に迷う問いかけ。なんと返事をするのが良いのかと悩むが、ここまで来たら飾ったようなことを言うのは不誠実だ。きっと、本音で話す必要があるのだろう。
「心配だったから来た。あんなことがあっちゃ、教室に戻るのは気まずいかもしれないけど……教室なら千夏や白栞もいるし、俺だっている。だから大丈夫だ」
根本的な解決には至っていないが、少なくとも教室内でまた因縁をつけてくることは無いだろう。先ほど千夏に凄まれたばかりなのだ、少なくとも千夏がいる限りは面と向かって攻撃を仕掛けてくることは無いだろうと考えていた。
自分の無力さが恨めしい。
「……そう。でも、先に戻っていていいよ」
「そうもいかない。一緒に戻ろうぜ」
そう言うと、楓は困ったような顔をした。
「さっきの、聞いてたんだろう?」
さっきの、というのは女子たちとの会話のことだろう。
「最後の方だけ、少し」
実際、途中からしか聞いてないのだ。会話の全貌は分からない。
楓はこちらに顔を向けた。
「僕が男を誑かしている、って話だよ。どうやら、先ほど話していた子の彼氏が、僕にお熱みたいでね。男に媚びているんだと、そういう話さ」
「それは、何の根拠も無い言いがかりだろ」
「かもね。勝手に惚れた男と、それをやっかむ女。いい迷惑だ」
その言葉に、心臓がドキリとした。悪い意味でだ。
勝手に惚れた男。それは、俺にも当てはまるのではないか。
この気持ちが楓に知られたら、迷惑だと断じられるのだろうか。
「僕の家庭はちょっと複雑なんだ」
何の脈絡もなく、突然楓が話を始めた。
「……何の話だよ。別に無理に話さなくてもいいぜ」
俺としては気になる話ではあるが、だからといって無理に話を聞こうとは思っていなかった。誰にだって、話したくない事情はあるだろう。
だが、楓はすでに俺に話すと決めたようだ。俺の提案に対し、首を横に振った。
「僕の両親は離婚していてね。きっかけは父の不倫だった。当時の母はそれはもう怒り狂って、同時に悲しんで、泣き叫んでいた」
「何日そんな様子だったかは覚えてない。何せ、十年近く前の話だからね。ただ、ある日突然ケロっとした顔でキッチンに立っていたんだ」
「幼心に、ホッとしたのを覚えているよ。でも、母は立ち直った訳ではなかった。挨拶をした僕に、いきなり平手打ちを食らわせて来てね」
「まあ、端的に言えば壊れてしまっていたんだ。打たれた原因? この話し方だよ。当時から、僕はこういう話し方だったんだ。父と兄の影響だね」
「そんな男みたいな話し方じゃ結婚できない、仮に出来ても外に女を作られて捨てられると言われてね。以来、話し方を矯正されてきたんだ。小学校六年間は、学校でもその話し方を徹底していた」
楓の言う話し方とは、先ほどの女子たちがふざけて使っていた口調のことなのだろう。普段の楓とはまるで違うし、イメージも沸かないが。
「男に好かれる女たれと育てられてきた訳だ。中学への進学を機に、外では楽な話し方をしていたけどね。それまでの様子は周囲の反応も良くなかったし。引っ越して僕の事を知らない学校に行けたから、良い機会だろうと思った」
「まあ、そんな訳で。彼女たちの言ってることはあながち間違っていないのさ。僕は、男に媚びて好かれるよう教育を受け続けてきたんだから」
淡々と語られた過去は、要所を端折っているのであろう。さもなんて事の無いように並べられた事象は、その重さをすぐには感じられなかった。
ここで語られなかった多くの苦難があったのだろうが、それは一切見せてはくれなかった。
今の話から分かったことは、桂木楓という女の子は、人格や生き方を縛られて今まで生きてきたのだということ。
そして、助けを求めるつもりはないのだということだ。
「さて、話は終わりだ。聞いてくれてありがとう、もう教室に戻るといい」
それだけ言うと、楓はベンチから立ち上がる。
話は終わりだと言った。あまりにも一方的な過去な過去の羅列。
話して楽になったという風でも無い。これは、ただの情報の開示だった。
トラブルに巻き込んでしまったから、それが義理だとでも言うのだろうか。
「まてよ、楓」
今、楓を引き止めなければ。もう今までの関係には戻れない気がした。
「君はもう、僕に関わらない方がいい。クラスメイトとの関係を、わざわざ悪くすることも無いだろう」
突き放すような物言いだが、こちらを気遣ってのものなのだろう。
あえて孤独になろうとする目の前の女の子に手を差し伸べないという選択肢は、俺には存在しなかった。
「俺は、楓の力になりたい」
「……僕は、君の思っているような人間じゃないよ。助ける価値は無い。ここで僕を見捨てる、というより見て見ぬフリをするだけで、平穏な学生生活に戻れるんだ。この時期にクラスメイトからの印象を悪くすれば、今後に大きく関わるよ」
確かに、まだ入学して三ヶ月弱という期間でトラブルを起こせば、一年生の残り数ヶ月、下手すれば高校生活の三年間で腫れ物扱いされる可能性だってあるだろう。
だが、それがどうしたと言うのだ。
周りの顔色を伺って、好きな女の子に手を差し伸べられなかった。そんな後悔を一生背負って生きていく方が、よほど辛いに違いない。
それに。
「俺は、楓を一人にはさせない」
好きな女の子の前でくらい、かっこつけてもいいじゃないか。
後先考えず、無茶やってでもその子に良いところを見せようとするなんて、思春期の男子の特権だろ?
「後悔するかもしれないよ。今日、ここで僕の手を取ったことを」
「するもんか。俺は俺のしたいことをしたんだ」
「……君はもっと鈍くて事なかれ主義なのだと思っていたけれど。そうか……これは、想定していなかったな」
「嫌か?」
「まさか。嬉しい誤算だよ」
俺が差し出した右手を、楓がそっと取る。
その手は少し冷えてしまっている。
「ホームルームにはもう間に合わないし。授業に間に合うように行けばいいだろ」
俺の右手の体温が楓に移るまでの間だけでも、こうしていようと思った。
「うん。……ありがとう、結翔くん」
今この瞬間、俺の目には楓しか映っていない。楓の目にも、俺だけしか映っていないと良い。
閉じられた世界だとしても、それでいいと思った。二人だけの世界に浸っていることが心地良かった。
だから、その様子を陰から白栞が見ていたということには、ついぞ気づかなかった。