Silver star lite   作:LARK10mg

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Prologue 前編

 Chapter 0

 薄暗い路地裏を、一人の青年が走っている。

 湿った石畳が靴底に吸い付くたび、脚は重くなり、肺の奥がひりついた。壁に近すぎる。空が見えない。高く積み上げられた建物の影が、路地を細く切り取っている。夜は静かすぎた。だからこそ、足音がやけに大きく響く。

 振り向く。

 何も見えない。

 それでも、見られている気がした。

 再び走る。喉が鳴る。呼吸が浅くなる。胸の奥に溜まった空気が、出口を失って暴れる。逃げている――その事実だけが、頭の中を満たしていた。理由はもう思い出せない。ただ、止まったら終わる。それだけが分かる。

 角を曲がる。

 ――直後、乾いた音。

 火花が散り、壁に何かが跳ね返った。石が砕け、粉塵が舞う。遅れて、耳鳴り。青年はそれを銃声だと理解できなかった。理解する余裕がなかった。恐怖は、意味を選ばない。

 さらに走る。

 また角を曲がる。

 そして、行き止まり。

 濡れた壁が、逃げ場を塞いでいた。ひび割れた煉瓦。剥がれた塗装。低い配管が、行く手を断つ。空気が、急に重くなる。背後で、靴音が止まる。

 間があった。

 その一瞬が、やけに長かった。

 小銃の発砲音が、夜を裂く。

 衝撃。

 熱。

 視界が白く弾ける。

 青年の胸から、赤が飛び散った。壁に、地面に、夜に。血は暗く、重く、音もなく落ちていく。膝が崩れ、背中が壁にぶつかる。息が、うまく吸えない。

 それでも、彼は振り返った。

 そこに立っていたのは――

 忘れようとしても、決して忘れられない顔だった。

 見慣れた輪郭。

 静かな目。

 何度も並んで歩いた背中。

 その人物は、銃を構えたまま、何も言わない。ただ、淡々とこちらを見ている。敵意も、憎しみもない。あるのは、冷たいほどの落ち着きだけだ。

「……どうして」

 声にならない声が、喉の奥で崩れた。

 答えはない。

 銃口が、わずかに下がる。

 次の瞬間、再び光。

 世界が、音を失う。

 青年は、倒れながら思う。

 ――違う。

 ――こんなはずじゃ、なかった。

 だが、その否定は、闇に吸い込まれていく。

 最後に見えたのは、血に濡れた路地と、親友の姿をした“何か”の、静かな横顔だった。

 そして、夜は何事もなかったかのように、元の静けさを取り戻した。

 

 

 

 Chapter 1

 目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。

 心臓が乱暴に跳ね、鼓動が肺を内側から押し潰す。息を吸おうとしても空気が入らず、喉の奥がひりつく。全身が細かく震え、指先にまで力が入らない。仰向けのままでは耐えきれず、体を捻ってうつ伏せになり、胸元を押さえた。

 ――夢だ。

 その理解が、遅れてやって来る。

 だが安堵は一瞬で、代わりに叫びだしてしまいそうなほどの罪悪感が、胃の奥からせり上がってきた。吐き気に似た感覚が込み上げ、思考が乱れる。

 この頭を、銃で撃ち抜いてしまえば楽になれるのではないか。

 そう思い、反射的に枕の下へ手を伸ばす。

 指先が空を掴んだところで、はっとする。先日、同じことをしようとしたのを知人に目撃され、銃はベッドから手の届かない場所に移されたのだった。その記憶だけは、妙に鮮明だった。

 ここは自宅の一室だ。

 戦場ではない。

 さっきまで見ていたのは夢で、現実ではない。

 頭の中で、必死に言い聞かせる。

 

 ――取り乱した時は、自身の置かれた状況を客観的に分析することが重要だ。

 

 誰に教えられた言葉だっただろう。

 そんな記憶は、ない。

 ……いや、今はどうでもいい。

 少しずつ、呼吸が整ってくる。引きつった息は収まりつつあるが、手の震えはまだ止まらない。心臓も、痛いほど強く脈打っている。一瞬でも目を閉じれば、再び悪夢に引きずり戻される気がして、ウェイベルはベッドを降りた。

 暗闇の中、手探りでベッドサイドを探り、腕輪型のライトを点灯させる。

 青白い光が放射状に広がり、無機質な室内を淡く照らし出した。

 換装体から吸収したトリオンを利用して灯るこのライトは、必要最低限のトリオン供給で国家を維持しなければならないガロプラにおいて、ごく当たり前に使われている節約術の1つだ。光は弱く、影は濃い。それでも、闇よりはましだった。

 起床には明らかに早い時間だろう。だが、もう一度横になる気にはなれない。部屋の隅に置かれた椅子に腰を下ろし、そのまま朝を待つことにした。

 もっとも――ガロプラの空に、太陽は昇らない。

 七年前、軍事国家アフトクラトルの侵攻によって、ガロプラは(マザー)トリガーを奪われた。

 母トリガーは、近界(ネイバーフッド)に存在する惑星国家および乱星国家の生命線とも言うべき存在で、それを失えば国家は存続できない。母トリガーを失った国に残される道は2つ。強国に従属するか、歴史の中に消え去るか。

 アフトクラトルの属国であるガロプラは、言わば母トリガーを人質に取られている状態だった。

 窓越しに、変わることのない暗い大空を見上げる。首元に張り付いた汗を拭いながら、ウェイベルはふと、最近髪を切っていないことに気づいた。

 肩に触れるほどに伸びた銀髪。

 祖国では特別珍しい色ではなかったが、ガロプラではこうした髪色の人間は少ない。初めて訪れた頃は、怪訝な視線を向けられることも多かった。

 もっとも、遠征部隊に所属しているレギンデッツという同い年の青年も、同じように明るい髪色をしていた気がする。

 だが、ガロプラに限らず、近界の国々は総じて閉鎖的だ。街中を見知らぬ顔立ちの人間が歩いていれば、髪色に関係なく警戒されるのが普通だろう。そう考えると、初対面で躊躇いもなく自国へ招き入れ、衣食住の手配まで手際よく済ませてしまったラタリコフという青年は、やはり少し異常だった。

「……不謹慎だが、静かな(ところ)だ」

 呟いた声は、部屋の中に吸い込まれて消える。

 以前、誰かがこんな暮らしを望んでいた気がした。

 穏やかで、戦いから切り離された生活。

 それを今、自分が享受している。

(俺に、そんな資格はないのにな……)

 暗い空を見つめたまま、ウェイベルは目を伏せた。

 

 

 

 Chapter 2

 ウェイベルは、待ち合わせ場所に着くなり、真っ先に頭を下げなければならなかった。

 相手は既にそこにいた。それも、最低でも十分前には到着していたであろう佇まいで。通りから差し込む光を背に、壁にもたれかかりながら静かに待っている。その様子からは、時間を無駄にされた苛立ちも、遅刻を咎める気配も感じられない。

「かまわないよ。忙しいだろうに、時間を割いてくれてありがとう」

 そう言って微笑んだ青年――ラタリコフは、遅れてきたウェイベルを咎めることなく迎え入れた。

(嫌味じゃない)

 初めて会った頃は測りかねていたが、何度か言葉を交わすうちに分かってきた。彼のこの言い回しは、本心からの感謝なのだ。

 通りを行き交う人々の声が、路地裏に薄く流れ込む。昼間であっても、ここは光が弱い。建物に挟まれた狭い空間は、外界と切り離されたような静けさを保っている。

 ラタリコフが軍の機密に関わる話を持ち出す時、必ず指定してくるのがこの場所だった。

「それで、用件は?」

「今回はどんな人助けを?」

 正面の壁に背を預けたまま、ウェイベルを真っ直ぐ見つめる。さきほどよりも、わずかに楽しげな笑みを浮かべて。

 ウェイベルが約束の時間に遅れるのは、これが初めてではなかった。

 親とはぐれて泣きじゃくる子ども。突然倒れた老人。強盗に襲われた露天商。

 元々他人に甘い性分というのもある。一度目にしてしまうと、どうしても放っておけない。どれほど時間に追われていようと、()()手を貸してしまう。

 そして待たされる側のラタリコフは、怒るどころか、今度はどんな「人助け」をしてきたのかと興味深そうに話を聞くのだった。

「若い女が、暴漢に襲われそうになってたんだ」

「それは……」

 ウェイベルの住まいは、本人の希望で街から少し離れた場所にある。アフトクラトルの侵攻で破壊された家屋が放置され、人気のほとんどない区域だ。

 帰路の途中、半壊した家屋の影から微かな女性の声が聞こえた。足を止め、耳を澄まし、駆けつけた先で見たのは――大柄な男が、若い女性の腕を掴み、抵抗するのもかまわず放置された建物の一つに引きずり込もうとしている光景だった。

 判断は早かった。

 二人の間に割り込み女を男から引き離す。相手が向かってくるようなら少しひねり上げようと持ったが、男は舌打ちをするだけでその場を後にした。

 その後、落ち着きを取り戻した女性を人の目がある通りまで送り届けた。それが、顛末だ。

 話を終えると、ウェイベルはどこか気まずそうに視線を逸らした。

 ラタリコフはしばらく俯き、何かを考えるように黙り込んだ後、顔を上げて言った。

「そうだったのか。ありがとう、彼女を助けてくれて」

「……お前に感謝される筋合いはないと思うんだが?」

「この国を守る軍人として、国民を助けてくれた君に感謝してるんだよ」

 ラタリコフは時折、ガロプラの住民を“自分のもの”であるかのように語る。そういう時、ウェイベルの胸の奥に、言葉にできない違和感が生じる。

 ――遠い。

 理由は分からない。ただ、本能的にそう感じてしまう。

 通りから差し込む光が一瞬だけラタリコフの顔を照らす。輪郭がはっきりと浮かび上がり、その表情の奥に、何か別のものがあるように見えた。行き交う人々の声が、急に遠くなる。

 ここが薄汚れた路地裏でなかったなら。

 もっと明るい場所だったなら――。

「ウェイベル、どうした?」

 ラタリコフの声で、意識が引き戻される。

「いや、なんでもない。今朝早い時間に目が覚めたから、寝不足なのかもな」

「目を開けたまま寝てたのか?」

「……教官の長い説教も、バレずにやり過ごせるぞ」

 冗談めかして返すと、ラタリコフは苦笑した。先ほどまでの違和感は、いつの間にか消えていた。

「……で、そろそろ本題に入ろうか。まさか、俺のお人好しエピソードを聞くために呼んだんじゃないだろ?」

 ため息混じりに促すと、ラタリコフは一歩近づき、ウェイベルの耳元へ顔を寄せる。

 声を落として、囁く。

内通者(スパイ)がいる」

 その一言が、路地裏の空気を変えた。

 通りの喧騒が、完全に遮断されたかのように、世界が静まり返る。

 ウェイベルの身体が、無意識に強張った。

 ――来た。

 そう感じた理由を、彼自身は説明できなかった。

 

 

 

 Chapter 3

 それが発覚したのは、二ヶ月前のことだった。

 その頃、アフトクラトルは近隣国との戦争の真っ只中にあった。戦力差は誰の目にも明らかで、圧倒的にアフトクラトルが優勢――少なくとも、机上の数値ではそうだった。

 だが実際の戦線は膠着していた。相手国の防衛能力は想定を上回り、要衝を崩せないまま時間だけが過ぎていたという。

 戦況を打開するため、切り札として投入されたのがガロプラの遊撃部隊だった。

 だが、それを待ち構えていたかのように、相手国の殲滅部隊が配置されていた。

 結果は壊滅。

 遊撃部隊は一人残らず帰らず、その後も戦線を立て直すことができなかったアフトクラトルは、撤退を余儀なくされた。

 いくら相手国が防衛戦に特化していたとはいえ、それだけでアフトクラトルを退かせる戦況を作り出すのは容易ではない。当時の戦争は、それほどまでに戦力差があった。

 ガロプラ遊撃部隊の件だけではない。

 それ以前から、アフトクラトルの動きを先読みし、情報を集め、対策を講じていた者がいた――ラタリコフは、そう推測していた。

「軍内部の人間だとすると、俺は手出しできない」

 話を聞き終えたウェイベルは、低く言った。

「どういうつもりだ?」

 ウェイベルはガロプラ軍に所属していない。

 一住民が基地周辺をうろつけば、内通者どころか、一般兵からも不審者として扱われるだろう。

 その問いは、最初から想定されていたのだろう。ラタリコフは表情を変えずに答えた。

「この戦争で、遊撃部隊の兵士は全員死亡した。部隊が出ること自体は、作戦に参加しない兵士にも伝わっていたが――」

 彼は一拍置き、声を落とす。

()()に配置するかは、上層の限られた人間にしか知らされていない。つまり――」

「“ガロプラの部隊が出動する”という情報だけで、殲滅部隊を正確な位置に待機させた、ってわけか」

 ウェイベルは即座に言葉を継いだ。

「情報を渡した内通者は、相当頭が切れるな」

「もしくは、渡し先に優秀な戦略家がいた」

 ラタリコフは静かに肯定する。

 要するにこうだ。

 軍が大々的に捜索に動けば、勘のいい内通者は必ず異変を察知し、何らかの行動を起こす。その瞬間を、外部にいるウェイベルが突く――それが、ラタリコフの描いた作戦だった。

 通りを歩く人々の足音が、やけに耳に付く。

 革靴の音、砂利を踏む音、衣擦れ。

 今この瞬間にも、その切れ者が近くに潜んでいるかもしれない。そう思った途端、路地裏の空気が重くなる。二人は自然と声を落とし、さらに距離を詰めて話を続けた。

 そこで、ウェイベルはふと疑問を口にした。

「どうして俺に依頼しようと思ったんだ?」

「どうして、とは?」

 ラタリコフは首を傾げる。

 彼らの立場からすれば、ウェイベルこそ怪しまれて然るべき存在だ。

 経歴は不明。出生地も語らない。どこの国で育ったのかさえ、明らかにしていない。

 ――俺がこいつの立場なら、絶対に頼らない。

「俺が内通者、もしくはその仲間で、自分の国にお前たちの情報を流してる可能性だってあるだろ」

 ウェイベルは意地悪く口角を上げ、半ば挑発するように迫った。

「……確かに、その可能性は考えたよ」

 少し考えたラタリコフは、ウェイベルの目を見て答えた。

「その上で、俺は君を頼ることを選んだ」

「可能性があるのに、どうしてそんな――」

 呆れ混じりに呟いた、その言葉を遮るように。

「君は嘘がつけないだろう?」

 一瞬、胸が強く打たれた。

 鼓動が跳ね、耳の奥で血流の音が大きくなる。皮膚にじわりと汗が滲み、言葉が喉に詰まった。

「……は?」

「つけない、というより苦手かな」

 ラタリコフは静かに続ける。

「君はとても真っ直ぐな人間だ。だからもし君がスパイのようなことをするとしたら、敵を懐柔して騙すことはしないと俺は思っている」

 澄んだ瞳が、まっすぐに向けられる。

 耐えきれず、ウェイベルは視線を逸らし、後頭部を掻いた。後ろで一つに束ねた髪が、指の間で崩れる。

 ――本音だ。

 取り繕いでも、計算でもない。

 だからこそ、厄介だった。

「……信用してくれてるのは嬉しいが、もし俺が本当に敵だったらどうするつもりだよ」

「その時は」

 ラタリコフは、困ったように笑った。

「俺の見る目がなかった、ということだな」

 軽い言葉だったが、その裏にある重さを、ウェイベルは理解していた。

 もし彼が内通者側の人間だったなら、これまで個人的にやり取りをしてきたラタリコフには、厳重な処罰が下るだろう。

 それでも彼は、ウェイベルを選んだ。

 ウェイベルは、逸らしていた視線を戻す。

「分かった」

 短く、しかしはっきりと。

「全力で任務を遂行する」

 ――お前の信頼を、裏切らないためにも。

 ラタリコフは、わずかに安堵したように息を吐いた。

 かくして、作戦は静かに開始された。

 誰にも気づかれないまま、路地裏の影から。

 

 

 

Chapter 4

 ガロプラ軍は少数精鋭を掲げてはいるが、遊撃部隊だけでも所属兵は百名を超える。一人ひとりに直接接触して探りを入れるには、あまりにも時間がかかりすぎる。

 そこでウェイベルは、任務を引き受けるにあたってラタリコフに一つの資料を用意させた。

 遊撃部隊に出動命令が下されてから実際に動き出すまでの約一ヶ月間、その期間中に基地からの外出届を申請した兵士の一覧だ。

 換装体に備えられた内部通信機能は、ガロプラ本部の通信設備を介して初めて成立する。他国で開発されたトリガー同士では通信ができない構造になっており、情報をやり取りするためには、直接顔を合わせるか、専用の通信機器を双方が所持していなければならない。

 だが通信機器の持ち込みは、基地の出入り口での検問や定期的な荷物検査によってほぼ不可能だ。

 ならば、情報の受け渡しは基地の外――指定した場所で、人目を避けて行われている可能性が高い。

 その推測を裏付けるため、ラタリコフたちは一つの噂を意図的に流した。

 ――《ガロプラが、アフトクラトルから母トリガーを奪還しようと計画している》。

 内通者を揺さぶるための、あからさまなハッタリだ。

 現状のガロプラに、アフトクラトルと正面から戦える戦力はない。

(……本音では、そうしてやりたいだろうがな)

 ウェイベルは、この国の現状を思う。

 突然の略奪と虐殺。

 国家の心臓を奪われ、不自由な生活を強いられ、命令一つで盾として差し出される運命。

 それでも、この国の人々は日常を保とうとしている。

 救いたい、と心のどこかで思ってしまう。

 自分一人にできることなど限られている。それでも、よそ者の自分を受け入れてくれたこの国の人々のために、自由を取り戻す一助になれれば――。

 たとえハッタリだと見抜かれていたとしても、内通者がいるなら、必ず何らかの反応を見せるはずだ。

 その一瞬を逃さぬよう、ウェイベルは慎重に動いた。

 噂が流れてから、まもなく一ヶ月が経とうとしていた。

 用心深い相手であっても、そろそろ動き出す頃だろう。そう警戒しながら街を巡回していた時だった。

 露天商が軒を連ねる通り。

 金属製の屋台が並び、香辛料と油の匂いが混ざり合う。行き交う人々の話し声と足音が、常に低く響いている。

 その中を歩く、二十代半ばほどの男性。

 一瞬、振り返った横顔に覚えがあった。

 ――リストに載っていた、遊撃部隊の兵士の一人だ。

 この男は毎月、ほぼ同じ日付に外出届を申請している。

 そして一週間前、再び申請が受理されたことを、ラタリコフから預かった腕輪型通信機器を通じて知らされていた。

(まずは、向こうの様子を探る)

 男は妙に足早だった。人波を縫うように進み、立ち止まることもなく通りを抜けていく。

 ウェイベルは距離を保ち、歩調を合わせる。

 視線は直接向けない。映り込みと反射だけで位置を確認する。

 やがて男は、通りの端にある薄暗い路地へと入っていった。

 ウェイベルは一本手前の細い路地に身を滑り込ませ、反対側の通りへ抜ける手前で、わずかに顔を出す。

 しかし、男の姿は見当たらない。

(……まさか、あの路地で情報交換を?)

 だが、すぐにその考えを打ち消す。

 ――まだ、決めつける段階じゃない。

 周囲を警戒しながら、息を潜めて待つ。

 時間が、ゆっくりと流れる。

 やがて、路地の奥から人影が現れた。

 先ほどの男だ。だが、様子が違う。

 隣には女性がいた。年頃は彼と同じくらいだろうか。腰まで伸びた栗色の髪が揺れ、彼女は自然な仕草で男の腕に自分の腕を絡めている。

 二人は寄り添うように歩き、そのままウェイベルに背を向けて通りを進んでいった。

 胸の奥で、張り詰めていた糸がわずかに緩む。

(……恋人と、待ち合わせかよ)

 だが、油断はしない。

 恋人を装った連絡役という可能性も、完全には否定できない。

ウェイベルは少し時間を置き、距離を保ったまま、二人の後を追った。

 足音を消し、人混みに溶け込みながら。

 ――まだ、追跡は終わっていない。

 

 

 

 Chapter 5

 一日中二人を尾行して得られた情報は、拍子抜けするほど単純なものだった。

 ――二人の仲は、かなり良好だ。

 まずは食事。

 昼時の混雑した食堂で、二人は向かい合って腰を下ろした。肩が触れるほど距離が近い。料理が運ばれるたびに顔を上げ、互いに感想を交わす。久々の再会なのだろう、話は途切れず、時折笑い声が混じった。

 その後は街を並んで歩く。

 露天の前で立ち止まり、品物を覗き込み、些細なことで言葉を交わす。歩幅は自然に揃い、どちらかが先行することもない。日差しが傾くにつれ、人通りは減っていったが、二人は特に気にした様子もなく、同じ調子で歩き続けた。

 夕刻、再び外で食事をとる。

 今度は簡素な店だった。灯りは弱く、影が濃い。それでも二人の表情はよく見えた。男が身を乗り出して何かを話し、女がそれを聞いて頷く。互いの仕草は自然で、作為的なものは感じられない。

 夜、二人は宿へ入った。

 同じ部屋だ。

 灯りが消えるのを、斜向かいの建物の影から確認する。

 ウェイベルは、そこで夜を明かした。

 石壁に背を預け、膝を抱え、気配を消す。

 夜の空気は冷え、時間の感覚が鈍っていく。

 通りを行き交う人影が消え、街が眠りにつくにつれ、胸の内に別の感情が積もり始めた。

 二人が仲睦まじく食事をしている様子を思い出すたび、ウェイベルは何度も我に返りそうになった。

 他人の私生活を覗き見る行為に、たとえ任務という大義名分があったとしても、罪悪感が付きまとう。

 夜半を過ぎる頃には、その感情は苛立ちへと変わっていた。

 逆恨みだと分かっている。それでも、何も知らずに眠る二人に、理由のない怒りを覚えてしまう自分がいた。

 早朝、宿を出た二人は、昨日と同じ距離感で歩き始めた。

 女性の家は、基地に近い区域にあった。軍関係者の居住区に近く、人通りは少ないが警戒は厳しい。

 家の前で立ち止まり、短い会話。

 別れ際、女性は男の腕に軽く触れ、何かを言った。男は小さく頷き、振り返らずに歩き出す。

 女性は家に入り、扉が閉まる。

 男は寄り道をせず、そのまま基地へ向かった。

 検問で立ち止まり、身分を確認され、問題なく通過する。

 ウェイベルは遠くから、その一連の流れを見届けた。

 何の異変もない。

 不自然な動きも、過剰な警戒もない。

 ただ――

「普通の恋人」にしか、見えなかった。

 それが、何より厄介だった。

 ――向いていない。

 こうした任務に、自分が向いていないことはよく分かっている。それでも引き受けてしまったのは、ガロプラの助けになりたいという思いがあったからだ。だが、それ以上に大きいのは、他人に甘い性分――放っておけないという癖だった。

 誰かを疑い、監視し、私生活を追い続ける。

 それは、彼が最も避けたかった役割のはずなのに。

 ウェイベルは視線を落とし、徐々に活気づいていく街を見つめた。

 任務は、まだ終わっていない。

 だが、この時点で彼は既に、心身ともに消耗していた。

 

 

 

 Chapter 6

 その後は、特に目立った収穫を得られないまま夜が更けた。

 自宅に戻ったウェイベルは、窓際に置かれた椅子に凭れ、暗い外を眺めながら今日一日の出来事を反芻していた。

 ガロプラの夜空は相変わらず重く、光のない天井のように街を覆っている。

 外出履歴という観点から、考え方が安易すぎたのかもしれない。

だが、宿で情報を受け渡していた可能性も、完全に否定できるわけではない。

 考え始めると、途端に思考が絡まり合う。

 ――ああ、だから向いていない。

 ウェイベルは自嘲気味に思う。

 敵がはっきりしていれば話は簡単だ。目標を定め、排除する。それだけで済む。

 だが、誰が敵か分からない状況で“見極めろ”と言われると、途端に動けなくなる。

 そもそも、自分は賢くない。

 頭を使うのは得意ではないし、人を疑うことが致命的に苦手だ。

 嘘を吐かれても、それを嘘だと見抜けない。

 善意を向けられれば、疑う前に受け取ってしまう。

 だから――今回の依頼も、たとえラタリコフのあの言葉が自分を言いくるめるための嘘だったとしても、きっと引き受けていた。

 どちらにせよ、自分で自分の首を締めている。

 そこまで考えて、深く息を吐いた。

 その時だ。

 遠くで、かすかな声が聞こえた。

 女性の――悲鳴。

 反射的に、ウェイベルは立ち上がっていた。

 自宅を飛び出し、耳を澄ましながら声の出処を探る。

 この一帯は人通りが少ない。だからこそ、素行の悪い連中にとっては都合のいい場所でもある。

 例えば、己の欲望のために女性や子供を襲う時。

 あるいは、誰かに見られたらまずい“何か”をする時。

 また、悲鳴。今度は近い。

 若い女の声と、それに被さるような、低く荒い男の怒鳴り声。

 足が止まる。

 ――この場所だ。

 ラタリコフから依頼を受けた、あの日。

 同じように悲鳴を聞いた、あの一角。

 建物の外壁に身体を密着させ、割れたまま放置された窓から内部を覗く。

 闇に溶け込むような黒い外套。

 フードを目深に被った大柄な男が、女性に馬乗りになっていた。

 女は必死に抵抗している。

 荒い呼吸。掠れた声。

 恐怖で硬直しながらも、逃げようともがいている。

「大人しくしろ。そっちの都合に合わせてやってるんだ。少しくらいいいだろう」

「やめて! 離して!」

 ショートボブの黒髪を振り乱し、女は固く握った拳を男の腹へ叩きつける。

 だが、男の身体は揺れもしない。鍛えられている。力の差は明らかだった。

 ――間に合わなければ、終わる。

 頭で考える前に、身体が動いた。

 窓枠に手をかけ、内部へ身を乗り出す。

 着地の瞬間、床材が小さく鳴った。

 男がその音に気づき、振り向く。

 だが、その時にはもう遅い。

 ウェイベルの視界は、男の顔面だけを捉えていた。

 脚を振り抜く。ローキック。狙いは顎。

 直撃――するはずだった。

 男は即座に腕を上げ、衝撃を受け止める。

 そのまま背中から地面へ転がり、衝撃を逃がした。

 少なからず対人戦闘の経験があるようだ。

(ただのチンピラじゃなさそうだな)

 男が体勢を立て直すより早く、ウェイベルは距離を詰めた。

 懐へ潜り込み、胸ぐらを掴む。全体重を乗せ、一気に引きずり下ろす。

 重心が崩れる。

 次の瞬間、脚を絡め、首を締め上げた。

 男は激しくもがいた。

 腕が暴れ、指が食い込む。

 だが、力を緩めない。

 ――止まるまで。

 数秒。

 あるいは、数十秒。

 男の抵抗は徐々に弱まり、やがて動かなくなった。

 首筋に指を当てる。

 脈は、ある。

 ウェイベルは静かに足を解き、女の方へ向かった。

 女は壁に背を預け、両腕で身体を抱きしめるようにしてうずくまっていた。

 近づく気配を感じたのか、びくりと身体を震わせる。

 ウェイベルは、すぐに足を止めた。

 距離を保ち、両手を下げたまま声をかける。

「……俺は、あんたに何かするつもりはない」

 できるだけ低く、落ち着いた声で。

「怪我はないか?」

 女は疑わしげにこちらを見たままだったが、ウェイベルが一歩も近づかないことを確認すると、ゆっくりと顔を上げた。

 その顔を見て、ウェイベルは微かに目を見開く。

 見覚えがある。

「あんた……前も、ここで会った気がする」

 女は、床に転がる男へ一瞬だけ視線を向けた。

「それに……あの男も……」

 胸の奥が、冷える。

 ――そうだ。

 一ヶ月前。

 ラタリコフとの約束に遅れた日。

 この女も、同じ場所で、同じように――。

 ウェイベルは言葉を失いながら、ただその場に立ち尽くしていた。

 助けてしまった。

 また。

 それが正しかったのかどうか、考える前に。

 

 

 

 Chapter 7

「……その人は、死んだの?」

 女の声は、震えていなかった。

 それどころか、妙に落ち着いていた。

 ウェイベルは、その一言にわずかな違和感を覚えた。床に伸びている男を、まるで気遣うような言い方だったからだ。ついさっきまで、自分に乱暴しようとしていた相手に向ける言葉としては、不自然に思えた。

「気を失っているだけだ。目を覚ます前に、軍に引き取ってもらう」

 女はそれを聞いて、小さく息を吐いた。安堵とも、別の感情とも取れる、曖昧な反応だった。ウェイベルはそれを見逃さなかったが、口にするのは踏みとどまった。

 助けられた直後だ。心が追いついていない可能性もある。

 そう自分に言い聞かせ、ウェイベルはラタリコフへ連絡を入れようとズボンのポケットに手を入れた。

 ――空だ。

 一瞬、思考が止まる。

 次の瞬間、理由に思い至った。悲鳴を聞いた時、何も考えずに家を飛び出した。連絡用の腕輪型通信機は、机の上に置いたままだ。

「……」

 小さく舌打ちしそうになるのを堪える。

 女は、黙ってその様子を見ていた。

 視線はウェイベルではなく、床に倒れた男の方に向けられている。目線の位置が、妙に定まっている。

(……怖がって、目を逸らさないのか)

 そんな考えが一瞬よぎる。だが、それも決めつけだ。恐怖の表し方は人それぞれだ。硬直しているだけかもしれない。

 それ以上は踏み込まない。今は刺激しない方がいい。そう判断して、ウェイベルは男から視線を外し、室内を見回した。

 窓際の壊れた棚。

 床に散らばった木片。

 引きちぎられた布の切れ端。

 即席だが、使えそうなものはある。

 ウェイベルは足早に室内を移動し、ロープ代わりになるものを掴む。動作は迷いがなく、体が勝手に手順をなぞるようだった。男の背後に回り、腕を後ろへ引き寄せる。抵抗はない。体重をかけ、関節の位置を確かめながら縛り上げていく。

 その途中――

 男のフードがわずかにずれた。

 暗い室内。

 割れた窓から差し込む外灯の光は弱く、すぐに影に溶ける。

ウェイベルの動きが、一瞬だけ鈍った。

 心臓が、強く脈打つ。

 だが、手は止めない。

 結び目を固め、男の体を床に転がす。呼吸は安定している。縛りも十分だ。問題ない。

 ――問題ないはずだ。

 ウェイベルは深く息を吐き、男から離れた。

 女はその様子を、黙って見ていた。

 視線は外さず、距離も変えない。

 その静けさが、妙に耳に残る。

「とにかく、ここは危険だから離れよう」

 ウェイベルはそう言って、周囲を警戒するように窓の外へ視線を走らせた。割れたガラスの向こうには、相変わらず人影はない。夜の空気は冷え、遠くの街灯が滲んで見える。

「……本部の兵士が来るまで、少し時間がかかる」

 通信機が手元にない以上、一旦自宅に戻るという手もあるが、男を残したまま女を一人にする判断はできなかった。どちらも放置できない。巡回の兵士が運良く近くを通ることを祈るしかない。

 そう判断し、女の方へ向き直る。

「歩けるか?」

 女は一瞬だけ間を置き、こくりと頷いた。

 立ち上がる動作は、思ったよりも滑らかだった。

 その足取りを見て、また小さな違和感が胸に残る。

 ――怪我は、ない?

 確かに激しく抵抗していた。押さえつけられてもいた。それにしては、動きが整いすぎているようにも見えた。

 だが、ウェイベルはその疑念を口にしない。

 人を疑うより先に、理由を探してしまう。

「……ありがとう」

 女が、ぽつりと言った。

 その声は小さく、しかしはっきりしていた。

 ウェイベルは一瞬、返す言葉に迷い、結局短く頷くだけに留めた。

 夜の空気の中、三人分の呼吸音が重なる。

 倒れた男。立ち尽くす女。そして、判断を先送りにする自分。

 ウェイベルの胸の奥で、言葉にならない違和感だけが、静かに形を保っていた。

 

 

To be continued...




主人公情報(簡易)

ウェイベル
年齢:17歳
誕生日:1/12
身長:172cm
職業:傭兵
好きなもの:親友、肉、静かな場所
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