雅が本当の兄の様に慕っていた分家の兄が、雅の母親を介錯した話。   作:ザワザワする人

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決して変わらぬもの

あの日から、数日が経った頃。

 

「お疲れ様です。流雅特別執行課長」

 

「お疲れ様です。今日の事で無理を言ってすみません」

 

流雅は治安局の収容所を訪れていた。

 

目的は一つ。

 

「今日は面会でよろしかったでしょうか?」

 

「はい。彼女との面会を」

 

「承知しました。では、こちらで少々お待ちください」

 

「ありがとうございます」

 

ツイッギーとの面会。

なぜその目的に至るのか、時間はあの事件の翌日までさかのぼる。

 

 

 

 

 

 

あの事件の翌日。

 

星見家の屋敷には、朝から重苦しい空気が漂っていた。

 

普段から静かな家ではある。けれど、今日の静けさはいつものものではない。

廊下を歩く者達の足音は妙に硬く、襖の向こうから聞こえる囁き声は、誰もが何かを探り合うように低かった。

 

その原因は、昨日の夜に届いた一つの資料だった。

 

未登録研究施設から回収された紙資料。

兄上が現場で発見し、部下に命じて私へ直接届けさせたもの。

 

その表紙には、淡々とした文字でこう記されていた。

 

星見家由来遺伝情報を用いた複製体生成に関する経過報告。

 

私は、それを昨夜のうちに読んでいた。

 

そして、父上へ報告し、分家の重鎮達にも召集がかかった。

 

星見家全体での会議。

 

そう呼ぶには、あまりに血生臭いものになる予感があった。

 

 

 

 

「兄上」

 

会議の始まる少し前。

私は、屋敷の奥にある縁側で兄上を見つけた。

 

兄上は庭を眺めていた。

 

特に何かを見ているわけではなさそうだった。

ただ、そこに立っている。

 

昔から、兄上はそういう時がある。

考え込んでいるようで、何も考えないようにしている時。

 

「雅」

 

兄上は振り返り、いつものように少しだけ笑った。

 

六課や特別執行課で見せる顔とは違う。

星見家の者達の前で見せる、硬い顔とも違う。

 

私に向ける時だけの、柔らかい兄の顔だった。

 

「早かったね。会議、まだ少し先でしょ?」

 

「あぁ。だが、兄上が一人でいる気がした」

 

「よく分かったね」

 

「分かる」

 

「さすが」

 

兄上は少しだけ肩を竦めた。

 

軽い調子だった。

けれど、私はその顔を見て、少しだけ眉を寄せる。

 

「無理をしているな」

 

「してないよ」

 

「嘘だ」

 

「……雅は昔からそういうの、見逃してくれないね」

 

「兄上が隠すのが下手なんだ」

 

「それは手厳しいなぁ」

 

兄上はそう言って、また庭へ視線を戻した。

 

風が吹き、庭の木々が揺れる。

葉の擦れる音が、二人の間に薄く流れた。

 

「資料は、昨日読んだ」

 

「うん」

 

「兄上が私に直接見せろと命じたとも聞いた」

 

「うん。あれは、雅に最初に見せるべきだと思ったから」

 

「父上ではなく?」

 

「お父様にもすぐ伝わると思った。でも、星見家で一番動けるのは雅だし……それに」

 

兄上は少しだけ言葉を止めた。

 

「雅のことでもあるかもしれないから」

 

胸の奥が、僅かに冷えた。

 

「私の遺伝情報が使われた可能性がある、と?」

 

「断定はできないよ。資料だって全部じゃないし、研究所のデータ解析もまだ途中だから。でも……目的が星見家の戦闘適性なら、本家の血を狙うのが自然だと思う」

 

「……そうか」

 

私は短く答えた。

 

声は落ち着いていたと思う。

けれど、兄上にはきっと分かっている。

 

私は怒っている。

 

刀を抜く前のような怒りではない。

もっと奥深く、冷えていくような怒り。

 

私の血だけではない。

母上の血。

父上の血。

星見家が背負ってきたもの。

 

それを、誰かが勝手に切り取り、増やし、道具にしようとした。

 

「雅」

 

「分かっている。ここで感情に任せて暴れるつもりはない」

 

「そこまでは心配してないよ」

 

「では何を心配している」

 

「雅が、全部自分の責任みたいに抱え込まないか」

 

私は少しだけ目を見開いた。

 

それから、むっとして兄上を見る。

 

「それは兄上にだけは言われたくない」

 

「……まぁ、それはそう」

 

兄上は気まずそうに笑った。

 

その顔を見ると、私は少しだけ力が抜ける。

昔からそうだ。

 

兄上はこういう顔をする。

自分のことになるとすぐに誤魔化すのに、人のことになるとやけに真剣になる。

 

「兄上」

 

「うん?」

 

「今日の会議は荒れる」

 

「だろうね」

 

「兄上に、酷い言葉を向ける者もいる」

 

「それも、昔から変わらない。いつものことだよ」

 

何でもないことのように、兄上は言った。

 

私は、その言い方が嫌いだった。

 

傷ついていないわけではない。

慣れたふりをしているだけだ。

 

いや、もしかすると本当に慣れてしまったのかもしれない。

それが、余計に腹立たしかった。

 

「いつものこと、で済ませるな」

 

「雅」

 

「私は、兄上がそうやって自分の傷を無かったことにするのが嫌いだ」

 

兄上は何も言わなかった。

 

困ったように、少しだけ目を伏せる。

 

「……ごめん」

 

「謝れと言っているのではない」

 

「うん。でも、ごめん」

 

その優しい声に、私は言葉を詰まらせる。

 

怒りたいのに、怒りきれない。

昔からそうだった。

 

兄上はずるい。

優しくて、苦しくて、いつも自分を後回しにする。

 

「今日は、僕も出るよ」

 

兄上が言った。

 

「正直、僕がいない方が話は進むかなって思ってたけど」

 

「そんなことはない」

 

「どうかな。星見家の人達、僕の顔を見ると本題を忘れるから」

 

「忘れた者は、私が思い出させる」

 

「怖いなぁ」

 

「冗談ではない」

 

「分かってる」

 

兄上は軽く笑った後、少しだけ真面目な顔になった。

 

「でも、会議中は僕も言葉を選ぶ。星見家の皆の前では、いつも通り()で話すから」

 

「……兄上が遠くなるから、少し嫌だ」

 

「会議が終わったら戻るよ」

 

「約束だ」

 

「うん。約束」

 

私は小さく頷いた。

 

「兄上」

 

「うん?」

 

「私の隣にいろ」

 

兄上は、少しだけ驚いたように私を見た。

 

それから、困ったように笑う。

 

「命令?」

 

「お願いだ」

 

「……それは断れないなぁ」

 

兄上はそう言って、私の頭に手を伸ばしかけた。

 

けれど、途中で止める。

 

もう子供ではない。

星見雅は、虚狩りであり、六課課長であり、星見家の中心に立つ者だ。

 

きっと、そんなことを考えたのだろう。

 

でも、私はその手を見逃さなかった。

 

「途中で止めるな」

 

「え?」

 

「撫でようとしただろう」

 

「いや、会議前だし」

 

「今は誰も見ていない」

 

「……雅って、そういうところ昔から変わらないね」

 

兄上は少し困ったように笑い、私の頭を軽く撫でた。

 

黒い耳が僅かに揺れる。

 

ほんの一瞬だけ、胸の奥の張り詰めたものが抜けた。

 

「兄上」

 

「うん」

 

「私は、兄上の隣に立つ」

 

「……うん」

 

「だから兄上も、私の隣にいろ」

 

兄上は手を止めた。

 

それから、小さく頷いた。

 

「分かった」

 

 

 

 

星見家の大広間には、既に多くの者が集まっていた。

 

分家の重鎮。

古くから星見家に仕える者。

 

畳の匂い。

古い木材の香り。

壁に掛けられた歴代当主の肖像。

 

どれも昔と変わらないはずなのに、流雅にとって今はひどく息苦しかった。

 

流雅が広間に入ると、いくつもの視線が向けられた。

 

好意的なものは、ほとんどない。

 

「……来たか」

 

「本当に同席するつもりなのか」

 

「忌み子が」

 

「奥方様の件を忘れたわけではあるまい」

 

「本当に尾が……」

 

囁き声は、隠す気すらなかった。

 

流雅は反応しなかった。

 

ただ、雅の一歩後ろを歩く。

それが星見家の中での、自分の立ち位置だとでも言うように。

 

「兄上」

 

雅が小さく呼んだ。

 

流雅は、少しだけ首を横に振る。

 

大丈夫。

 

声には出さなかった。

けれど、雅には伝わった。

 

雅は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。

 

「雅様」

 

分家の老人が声を上げた。

 

「その者を、この場に同席させるのですか」

 

予想通りだった。

 

流雅は内心で息を吐く。

 

何も始まっていない。

資料の話も、研究所の話も、複製体の話もまだだ。

 

それでも、最初に出るのは自分への拒絶。

 

分かっていたことだ。

 

「何か問題があるか」

 

雅の声は低い。

 

「問題しかございません。その者は本家の血筋ではなく、ましてや奥方様を――」

 

「その名を使うな」

 

広間の空気が止まった。

 

雅は老人をまっすぐ見ていた。

 

「母上の名を、兄上を貶めるために使うな」

 

「……失礼いたしました」

 

老人は頭を下げた。

 

しかし、その目は納得していない。

 

むしろ、流雅への憎悪が濃くなったようにも見えた。

 

流雅は、ほんの少しだけ目を伏せる。

 

慣れている。

 

慣れてしまった。

 

それが良いことか悪いことかは、もう流雅にも分からなかった。

 

「流雅」

 

上座から、星見宗一郎の声がした。

 

「こちらへ」

 

「……はい」

 

流雅は姿勢を正し、雅の隣へ進む。

 

星見家の前では、声も言葉も変わる。

 

僕ではなく、私。

 

兄ではなく、星見家に連なる一人として。

 

そうしなければ、この場では立っていられない。

 

流雅が雅の隣に座ると、広間が再びざわめいた。

 

「隣だと……?」

 

「雅様は何をお考えなのだ」

 

「あの者を本家の席に……」

 

雅は一切、気にしていなかった。

 

むしろ当然だと言わんばかりに、前だけを見ている。

 

宗一郎が資料を手に取った。

 

「本日の議題は、未登録研究施設より回収された資料についてだ」

 

その言葉と共に、複写された資料が配られていく。

 

紙をめくる音が広間に広がった。

 

最初は静かだった。

だが、すぐにその静けさは崩れた。

 

「星見家由来遺伝情報……?」

 

「複製体生成、成功……?」

 

「何だ、これは」

 

「誰がこのようなものを」

 

声が増えていく。

 

怒り。

困惑。

恐怖。

疑念。

 

そして、資料を読み進めた者達の視線が、少しずつ雅へ集まり始めた。

 

そこに雅の名はない。

 

だが、星見の血を引く、高い戦闘適性を持つ者など、今の星見家に多くいるはずがなかった。

 

「……雅様が、素体なのですか」

 

誰かが呟いた。

 

広間から音が消えた。

 

雅は資料を見つめたまま、動かなかった。

 

自分の名が書かれていないことなど、何の慰めにもならない。

むしろ、名前だけを伏せていることが、ひどく生々しかった。

 

誰かが、星見雅という存在から必要な部分だけを切り取り、別の器に移そうとしていた。

 

その事実が、怒りより先に、冷たい不快感となって胸の奥へ沈んでいく。

 

「断定は早い」

 

宗一郎が静かに言った。

 

「資料上に雅の名はない」

 

「ですが、宗一郎様」

 

分家の男が顔を上げる。

 

「この条件が揃う者など、星見家にも限られます。雅様以外に考えろと言われる方が難しい」

 

「分かっている」

 

宗一郎の声は低かった。

 

「分かっているからこそ、慎重に扱うべきだと言っている」

 

慎重に。

 

その言葉はもっともだった。

名が書かれていない以上、断定は危険だ。

資料が罠である可能性もある。

 

だが、広間にいる者達の多くは、すでに答えを見つけてしまっていた。

 

素体は雅ではないのか。

 

その疑念は、もう誰の胸からも消えない。

 

「流雅」

 

一人の男、流雅の父が口を開いた。

 

「この資料を発見したのは、お前だと聞いた」

 

「はい。現場にて発見いたしました」

 

「そして、お前の部下が雅様へ直接届けた」

 

「はい。私がそう命じました」

 

「随分と都合が良い話だな」

 

空気が変わった。

 

怒りと恐怖の向かう先が、少しずつ流雅へ集まり始める。

 

流雅は表情を変えなかった。

 

「……と、申しますと」

 

「星見家の名を穢す資料を、お前が見つけた。しかも、その内容は雅様の複製体に関わる可能性がある。お前は資料を宗一郎様ではなく、雅様へ流した」

 

男は、わざとらしく間を置いた。

 

「まるで、最初から雅様を動揺させるために用意していたようではないか」

 

雅の気配が変わった。

 

だが、流雅は雅より先に口を開く。

 

「疑われるのは当然です。発見時の記録、回収班の証言、現場映像、資料保全の手続きは全て提出可能です」

 

「記録など、いくらでも改竄できる」

 

「では、第三者機関を通じた検証を提案いたします」

 

「星見家の恥を外へ晒すつもりか」

 

「恥を隠した結果、人が死ぬならば、その方が余程の恥です」

 

広間が静かになった。

 

流雅は声を荒げていない。

 

淡々としていた。

 

それが余計に、言葉の重さを際立たせた。

 

「この資料が正しければ、星見家の遺伝情報を用いた複製体が既に生成されています」

「加えて、素体が雅様である可能性が高い以上、目的が単なる研究であるとは考えにくい」

「戦闘利用、無尾への適合実験、あるいは星見家の後継そのものへの干渉も視野に入れるべきです」

 

「よく喋る」

 

老人が低く言った。

 

「まるで、全てを知っていたかのようだ」

 

「知っていれば、もっと早く止めていました」

 

「本当にそうか?」

 

別の声が飛ぶ。

 

「お前は本家の血を持たぬ。星見家から疎まれた。奥方様に拾われたとはいえ、所詮は分家から捨てられた身だ」

 

言葉が、刃のように広間を渡る。

 

「雅様という本物の天才を、羨ましく思ったことはないのか」

 

流雅は答えなかった。

 

雅の指先に力が入る。

 

「雅様の複製体が作られた。だが、それを最初に発見したのがお前だ。お前が特別執行課を率いる立場になった直後に、都合よくな」

 

「何が仰りたいのでしょうか」

 

「お前が関与しているのではないかと言っている」

 

広間が、完全に静まった。

 

誰も、その言葉を止めなかった。

 

むしろ、いくつかの視線はそれを待っていたように流雅へ向いていた。

 

たれ耳の忌み子。

育ての母を殺した男。

本家に入り込んだ異物。

星見にある筈がない尾を持つ者。

血を持たぬくせに、星見の中枢にいる者。

 

彼らにとって、流雅を疑う理由はいくらでもあった。

 

「動機はある」

 

男は続ける。

 

「星見家への復讐。雅様への劣等感。あるいは、星見家の血を持たぬ自分が、星見家を支配するための手段」

 

「馬鹿なことを言うな」

 

雅の声が落ちた。

 

今度は、流雅が止めるより早かった。

 

広間の空気が凍る。

 

「兄上が、そのようなことをするはずがない」

 

「雅様。お気持ちは分かります。しかし」

 

「分かっていない」

 

雅は男を見た。

 

「何一つ、分かっていない」

 

「ですが、上京は」

 

「証拠もなく兄上を犯人扱いしたのは、お前だ」

 

男は口を閉じた。

 

雅の目は冷えていた。

 

刀を抜いていないのに、広間にいる者達の背筋を震わせるほどに。

 

「兄上は、私を羨んでなどいない」

 

雅は静かに言った。

 

「兄上は、私のために何度も自分を捨ててきた。星見家のために、母上の願いのために、自分がどれほど傷ついても立ち続けた」

 

「雅」

 

流雅が小さく呼んだ。

 

だが、雅は止まらなかった。

 

「兄上を疑うなら、証拠を持ってこい。憎しみや偏見で語るな」

 

「……雅様は、その者に情が深すぎます」

 

「情ではない」

 

雅は即答した。

 

「事実だ」

 

流雅は、机の下でそっと雅の手に触れた。

 

止めるためではない。

 

落ち着かせるためだった。

 

雅は一瞬だけ流雅を見る。

 

流雅は、ほんの少しだけ首を横に振った。

 

大丈夫。

 

また、そう言っている。

 

雅は唇を噛みそうになった。

 

 

何が大丈夫なのだ。

 

兄上は、いつもそうだ。

 

自分が傷つけられることには慣れた顔をして、こちらの怒りまで宥めようとする。

 

 

流雅は改めて顔を上げた。

 

「私は、本件への関与を否定いたします」

 

静かな声だった。

 

「必要であれば、私自身への調査も受け入れます。通信履歴、執務記録、特別執行課の行動記録、研究所発見までの経緯、全て開示いたします」

 

「開示すれば済むと思っているのか」

 

「済むとは思っておりません。ですが、まず事実を確認すべきです」

 

流雅は資料へ視線を落とす。

 

「現時点で重要なのは、私を疑う事ではありません。雅様の遺伝情報がどこから持ち出され、どの程度の複製体が生成され、今どこに存在するのかです」

 

広間に、重い沈黙が降りる。

 

誰もが分かっていた。

 

流雅を疑うことは簡単だ。

 

忌み子だから。

異物だから。

嫌いだから。

 

けれど、それで問題が解決するわけではない。

 

どこかに、雅の複製体がいるかもしれない。

 

星見雅という名を持たない、星見雅に似た何かが。

 

その可能性の方が、遥かに恐ろしかった。

 

「……仮に、素体が雅様であるなら」

 

別の者が、声を絞り出すように言った。

 

「それは、星見家の後継そのものを脅かすものです」

 

「あぁ」

 

宗一郎が頷いた。

 

「だからこそ、この場で感情に流されることは許さぬ」

 

宗一郎の目が、広間をゆっくりと見渡す。

 

「流雅を疑う者がいるなら、証拠を出せ。出せぬなら黙れ」

 

その声に、誰もすぐには反論できなかった。

 

「本件は、星見家の存続に関わる。雅個人への冒涜であると同時に、星見の血そのものへの干渉だ。内輪の憎悪で潰してよい話ではない」

 

流雅は静かに頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言う話ではない」

 

宗一郎は、少しだけ苦しそうに言った。

 

「お前に疑いが向くことも、分かっていた。それでも、この場に呼んだのは私だ」

 

「承知しております」

 

「本当に承知している顔ではないな」

 

流雅は返事をしなかった。

 

雅は隣で、その横顔を見ていた。

 

兄上は、また受け入れている。

 

疑われることも。

嫌われることも。

星見家に必要な時だけ使われることも。

 

全部、自分が耐えればいいと思っている。

 

それが、雅にはたまらなく嫌だった。

 

「兄上」

 

雅は小さく呼んだ。

 

会議の場に似つかわしくない、私情の滲んだ声だった。

 

流雅がこちらを見る。

 

「何でしょうか、雅様」

 

雅ではなく、雅様。

 

さっき縁側で約束したはずなのに、もう遠い。

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、とりあえず一応初めまして……ですかね?」

 

「帰って」

 

面会場に、冷酷な軽蔑の声が響いた。

 

ガラスに遮られた二名の顔には、明らかな表情の違いがあった。

 

「あなたに聞きたい事が……」

 

「何も話す気はないわ」

 

拒絶。

 

ツイッギーは椅子に座ったまま、こちらを見ることすらしなかった。

 

流雅は、しばらく黙っていた。

 

面会室の空気は冷たい。

壁も、机も、ガラスも、何もかもが無機質で、そこにいる人間の感情だけが妙に浮いていた。

 

「……分かりました」

 

「なら帰って」

 

「帰る前に、一つだけ」

 

「何も話す気はないわ」

 

「あなたが話したくないなら、それでいいです」

 

「なら帰って」

 

ツイッギーは同じ言葉を繰り返した。

 

流雅は椅子に腰掛けたまま、資料を一枚だけ机の上に置いた。

 

ガラス越しに、それが見えるように。

 

「でも、これはあなたにも関係があると思いました」

 

ツイッギーは動かなかった。

 

けれど、視線だけがほんの少し、机の上へ落ちた。

 

星見家由来遺伝情報を用いた複製体生成に関する経過報告。

 

その文字を見た瞬間、ツイッギーの指先が僅かに跳ねた。

 

本当に僅かだった。

普通なら見逃すほどの反応。

 

けれど、流雅は見逃さなかった。

 

「……それを、どこで」

 

「研究所で見つけました」

 

「そう」

 

短い返事だった。それ以上はない。

 

「あなたは、これを知っていますね」

 

「知らないわ」

 

「そうですか」

 

「随分あっさり引くのね」

 

「今のあなたに、問い詰めても意味はありませんから」

 

ツイッギーはようやく流雅を見た。

その目には、明確な軽蔑があった。

ひらひらと、もう無くなった彼女の右腕の袖が揺れる。

 

「分かっているなら帰って」

 

「僕は、あなたを責めに来たわけではありません」

 

「責めればいいじゃない。楽でしょう? 悪い研究所にいた、悪い女を責めれば、あなた達は少しだけ安心できる」

 

「安心したいわけではありません」

 

「じゃあ何?」

 

「確認したいだけです」

 

流雅は資料に視線を落とした。

 

「星見雅の複製体は、存在しているのか」

 

面会室から、音が消えた。

 

ツイッギーは答えなかった。

 

否定もしない。

肯定もしない。

 

ただ、ガラス越しの流雅をじっと見ていた。

 

その沈黙が、何よりも重かった。

 

「……答える気はありませんか」

 

「ないわ」

 

「では、聞き方を変えます」

 

「何を変えても同じよ」

 

「この報告書にある成功という言葉は、事実ですか」

 

ツイッギーは目を細めた。

 

「あなた、嫌な聞き方をするのね」

 

「必要ですから」

 

「必要なら何を聞いてもいいの?」

 

「いいとは思っていません」

 

「なら黙って」

 

流雅は口を閉じた。

 

ツイッギーも何も言わなかった。

 

数秒の沈黙。

 

その間に、面会室の時計の針の音だけが妙にはっきり聞こえた。

 

「あなた達って、いつもそう」

 

ツイッギーが小さく言った。

 

「必要だから。守るためだから。正しいことだから。そう言えば、誰かの痛いところに踏み込んでも許されると思っている」

 

「……そう見えますか」

 

「えぇ」

 

ツイッギーの声は冷たい。

 

けれど、先ほどまでの拒絶だけではなかった。

 

嫌悪。

疲労。

諦め。

 

それらが薄く混ざっていた。

 

「あなたも同じよ。星見家に嫌われて、便利に使われて、それでも真面目な顔で役目を果たしている。見ていて苛々する」

 

「あなたには、そう見えるんですね」

 

「そうよ」

 

「間違ってはいません」

 

流雅は静かに答えた。

 

ツイッギーの眉が僅かに動く。

 

「否定しないのね」

 

「否定できるほど、器用ではないので」

 

「気持ち悪い人」

 

「よく言われます」

 

「でしょうね」

 

ツイッギーはそれきり黙った。

 

流雅も、すぐには口を開かなかった。

 

ガラス一枚隔てた向こうにいる少女は、何も話す気がない。

少なくとも、今日この場で核心を明かすつもりはない。

 

それでも、全く無意味ではなかった。

 

資料を見た時の反応。

成功という言葉への拒絶。

星見雅の複製体という問いに対する沈黙。

 

答えではない。

 

けれど、何もないわけではない。

 

「今日は、ここまでにします」

 

流雅は資料を閉じた。

 

「最初から来なければよかったのよ」

 

「そうかもしれません」

 

「もう来ないで」

 

「それは約束できません」

 

ツイッギーは、少しだけ目つきを鋭くした。

 

「本当に嫌な人ね」

 

「すみません」

 

「謝ればいいと思っているところも嫌い」

 

「……気をつけます」

 

「そこも嫌い」

 

流雅は少しだけ困ったように笑った。

 

ツイッギーは、その顔を見てさらに不機嫌そうに視線を逸らした。

 

 

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