雅が本当の兄の様に慕っていた分家の兄が、雅の母親を介錯した話。 作:ザワザワする人
次に公園へ行った日。
空は前より少しだけ明るかった。
晴れ、と言い切るには雲が多い。
けれど、前に来た時のような重さはない。
ツイッギーはベンチに座り、義手の指を開いたり閉じたりしていた。
「まだ重い」
「前よりは軽くしたはずですが」
「私が重いって言ってるの」
「分かりました。もう少し調整します」
「最初からそう言いなさい」
「はい」
流雅は少しだけ笑った。
その顔を見て、ツイッギーは不機嫌そうに目を逸らす。
「笑わないで」
「すみま……」
流雅は途中で止めた。
ツイッギーが横目で見る。
「今、謝ろうとしたわね」
「しました」
「駄目」
「はい」
いつものやり取りだった。
けれど、最初の頃とは違う。
ツイッギーは流雅の声に、すぐ刃を向けなくなった。
それが良いことなのか、ツイッギー自身にもまだよく分かっていない。
ただ、以前ほど息苦しくはなかった。
風が吹く。
義手の指先に、かすかに冷たい空気が触れる。
本物の指ではないのに、そう感じた気がして、ツイッギーは少しだけ眉を寄せた。
「あなた」
「はい」
「今日は、何か変」
流雅が僅かに目を瞬かせる。
「変ですか」
「変よ。いつもより考え事をしてる顔」
「そんなに分かりやすいですか」
「あなた、隠すの下手なのよ」
「雅にもよく言われます」
「でしょうね」
ツイッギーは義手の指を止めた。
「で、何?」
流雅は少しの間、黙っていた。
それから、まっすぐにツイッギーを見る。
「お願いがあります」
「嫌」
「まだ何も言っていません」
「あなたのお願いなんて、だいたい面倒なものに決まっているわ」
「否定はできません」
「しなさいよ」
流雅は困ったように笑った。
けれど、すぐにその表情を改める。
「僕のところに来てほしいんです」
ツイッギーは義手の指を止めた。
「……は?」
「特別執行課です」
「何を言ってるの?」
「あなたに、特別執行課の副課長になってほしい」
風の音が、少し遠くなった気がした。
ツイッギーは流雅を見た。
冗談を言っている顔ではない。
むしろ、今までで一番真面目な顔だった。
「あなた、頭でも打った?」
「正常です」
「どこがよ」
ツイッギーは立ち上がった。
「私は収容所にいるのよ。犯罪まみれの研究所にいた人間で、外出だって監督付き。そんな人間を、特別執行課の副課長に?」
「はい」
「馬鹿じゃないの」
「そうかもしれません」
「否定しなさいよ!」
ツイッギーの声が公園に響いた。
少し離れた監督の職員がこちらを見る。
流雅は手で制した。
「あなたは、私に何をさせたいの?」
「作戦立案と、技術解析。特にエーテル関連の判断補助です」
ツイッギーは眉をひそめる。
「……誰から聞いたの」
「アンビーさんからです」
その名前に、ツイッギーの顔が僅かに止まった。
「……アンビーが?」
「はい。あなたは戦闘特化ではなかったけれど、状況判断と作戦立案では優れていたと聞きました。特に、限られた戦力をどう動かすか、何を捨てて何を拾うかの判断が早いと」
ツイッギーは黙った。
「それに、あなたはエーテル関連の知識にも明るい。研究所にいたから、というだけではありません。あなた自身が、理解し、組み立て、使える人だと思っています」
「だから利用するの?」
「はい」
即答だった。
ツイッギーの目が僅かに揺れる。
「……そこは綺麗に言い換えるところでしょう」
「あなたに嘘はつきたくありません」
「本当に嫌な人」
「はい」
ツイッギーは義手の指を握った。
「私を救いたいわけじゃないの?」
「救えると思うほど、思い上がってはいません」
「じゃあ何」
「必要だから、来てほしいんです」
流雅は静かに言った。
「特別執行課は、まだ新しい課です。でも優秀な人はたくさんいます。正義感の強い人も、戦える人も、情報を集める人もいます。でも、全体を見て、無駄を切って、冷静に次の一手を組める人が足りない」
「それで私?」
「はい」
「私が冷静に見えるの?」
「冷静じゃない時もありますね」
「殴るわよ」
「でも、組み立てる力があります」
流雅は目を逸らさなかった。
「あなたは、自分の痛みを知っている。命令される側の恐怖も、利用される側の怒りも知っている。だから、誰かの命を駒としか見ない作戦を、あなたは嫌うと思いました」
「それは僕が求めてるものですから」
ツイッギーは唇を噛んだ。
「買い被りよ」
「かもしれません」
「私は優しくない」
「優しさだけで副課長を頼んでいるわけではありません」
「……」
「あなたが優秀だからです」
その言葉は、まっすぐすぎた。
ツイッギーは思わず視線を逸らした。
「気持ち悪い」
「すみません」
「謝らない」
「はい」
少しの沈黙。
風が、二人の間を抜ける。
「……考えさせて」
「はい」
「すぐに答えない」
「はい」
「でも」
ツイッギーは義手の指を握った。
「もし行くなら、私はあなたの部下になるの?」
「形式上は」
「実質は?」
「僕を殴ってでも止める人が欲しいです」
ツイッギーは、しばらく無言で流雅を見た。
「……本当に頭おかしいわね」
ツイッギーは小さく息を吐いた。
「分かった」
「いいんですか」
「まだ、いいとは言ってない」
ツイッギーは前を向く。
「見に行くだけ。あなたの特別執行課が、どれだけ危なっかしい場所なのか見に行くだけよ」
流雅は少しだけ笑った。
「それで十分です」
「笑わないで」
「はい」
「あと、勝手に副課長扱いしたら義手で殴る」
「分かりました」
「痛くするから」
「それは困りますね」
「困らせるのよ」
流雅は今度こそ、声を出して少し笑った。
ツイッギーは不機嫌そうに顔を逸らした。
けれど、その耳元は少しだけ赤かった。
□
特別執行課。
その扉の前で、ツイッギーは立ち止まった。
外から見れば、普通の執務室だった。
けれど、扉の向こうからは慌ただしい足音やら、誰かの声やら、書類の束が落ちたような音やらが聞こえてくる。
「……本当に治安組織?」
「一応」
「一応って何」
「中に入れば分かります」
流雅が扉を開けた。
その瞬間。
「課長!第三区の報告書、どこ置きました!?」
「課長!ホロウ残留反応の解析結果なんですけど!」
「課長!技術班からエーテル反応式の再確認が来てます!」
一斉に視線が集まった。
そして、その視線はすぐに流雅の隣にいるツイッギーへ移る。
部屋が、一瞬静かになった。
ツイッギーはその沈黙を知っている。
どこかで何度も浴びたものだ。
異物を見る目。
扱いに困る目。
警戒と好奇心が混ざった目。
義手の指が、無意識に握られる。
「……帰る」
「まだ何も見てませんよ?」
「見る前に帰るの」
流雅が何か言う前に、一人の隊員━山野が慌てて姿勢を正した。
「お、お疲れ様です! 本日より見学に来られた方ですよね!」
「見学よ」
ツイッギーは即答した。
「副課長候補とか言ったら帰るわ」
山野隊員の口がぴたりと止まる。
流雅は少しだけ目を逸らした。
ツイッギーが流雅を見る。
「あなた、何て説明したの」
「優秀な協力者が来るとだけ」
「本当に?」
「……副課長候補とは言っていません」
「候補とは?」
「言っていません」
「今、少し間があったわ」
「気のせいです」
「殴るわよ」
「すみません」
「謝らない」
「はい」
特別執行課の隊員達は、そのやり取りを見て固まっていた。
やがて、一人が小さく呟く。
「……課長が押されてる」
「初めて見た」
「副課長に必要なのはこれでは?」
「聞こえてるわよ」
隊員達は一斉に黙った。
流雅は小さく咳払いをした。
「ひとまず、今抱えている案件を見てもらいます。無理に意見を出す必要はありません」
「出すかどうかは私が決めるわ」
「分かりました」
ツイッギーは机に置かれた資料へ目を落とした。
未処理の事件一覧。
各班の配置状況。
ホロウ内での予測進路。
エーテル反応の推移図。
負傷者、装備、帰還予定時刻。
ぱらぱらとページをめくる音だけが響いた。
最初は不機嫌そうだった。
けれど、数行進む頃には、表情が変わっていた。
眼差しが鋭くなる。
資料を読む速度が上がる。
義手の指が、自然に紙の端を押さえる。
「この作戦、やる気あるの?」
一言目が、それだった。
隊員の一人が肩を跳ねさせる。
「えっ」
「第三班をこの位置に置くと、撤退路が詰まるわ。ここにエーテル濃度の上昇予測が出てるでしょう。単純なエーテリアスの数だけ見て配置したの?」
「い、いえ、敵性反応の密度から」
「それだけ見てるから危ないのよ」
ツイッギーは資料の一点を義手の指で叩いた。
「ここ。濃度の変化が不自然。エーテリアスの移動じゃなくて、地形側が変わる兆候。予定通り進めば、第二班と第三班の間が切れる」
部屋の空気が変わった。
隊員達が慌てて資料を覗き込む。
「で、でも地形変動の警告値まではまだ」
「警告値になってから動いたら遅いわ。予測値の上がり方が変。こういうのは基準値より傾きで見なさい」
「傾き……」
「あと、第一班の進路も無駄が多い。戦闘担当を前に出しすぎ。あなた達、
その言葉に、数名が気まずそうに目を逸らした。
ツイッギーは呆れたように息を吐く。
「やっぱり」
流雅が少しだけ苦笑した。
「耳が痛いですね」
「あなたもよ」
「はい」
「あなたが前に出れば何とかなる前提で作戦を組むと、あなたが倒れた瞬間に全員詰むわ」
隊員達が黙った。
その指摘は、誰もが薄々分かっていたことだった。
けれど、はっきり言葉にした者はいなかった。
「それと、このエーテル反応式」
ツイッギーは別の資料を取る。
「補正値が雑。ホロウ内の反応を通常環境の式に寄せすぎ。これだと、低濃度域では合うけど、高濃度域で値が外れるでしょ」
「え、でも技術班からはその式で問題ないと」
「技術班は机の上で見てるんでしょう。現場で動くなら誤差が命取りになる」
ツイッギーはペンを取った。
少し迷ってから、義手ではなく左手で書き始める。
「ここの補正を変える。あと、撤退経路は二本じゃ足りない。最低三本よ。第三班はここじゃなくて、こっち。通信支援は固定じゃなく移動式にする。エーテル濃度が上がったら、戦闘じゃなく誘導に切り替えなさい」
誰も口を挟めなかった。
速い。
単に知識があるだけではない。
情報の優先順位を決めるのが速い。
何を見て、何を捨て、どこを変えるべきかをすぐに判断している。
アンビーが言っていた作戦立案能力。
流雅は、それを目の前で見ていた。
「……すごい」
山野隊員が呟いた。
ツイッギーは顔を上げる。
「何が」
「いや、その……すごいです」
「語彙が死んでるわね」
「すみません!」
「謝らなくていい。あと、すごいじゃなくて、どこが変わったかを見なさい。褒めても作戦は良くならないわ」
隊員達が一斉に背筋を伸ばす。
「はい!」
「声が大きい」
「はい……」
流雅は笑いを堪えていた。
ツイッギーが睨む。
「笑わないで」
「すみません」
「謝らない」
「はい」
ツイッギーは資料を机に置いた。
「あなたの課は随分危なっかしいのね」
「よく言われます」
「でしょうね。正義感と根性で回してる匂いがするわ」
「否定できません」
「しなさいよ」
「残念ながら、できません」
ツイッギーは額に手を当てた。
「本当に最悪」
「だから、あなたに来てほしいんです」
部屋が静かになる。
流雅は、改めてツイッギーを見る。
「副課長として」
ツイッギーは黙った。
さっきまで騒がしかった特別執行課の面々も、今は何も言わない。
期待。
不安。
警戒。
好奇心。
いろいろな視線がある。
けれど、軍の研究所で研究者から浴びていた視線とは違った。
ここでは、ツイッギーの言葉で何かが変わった。
誰かが命令したからではなく、ツイッギーが考え、指摘し、組み直したから。
それを、目の前の人間達は受け取った。
なつかしい。
そう思った。
同時に、少しだけ腹が立った。
こんな場所を見せられたら、断りにくいではないか。
「……条件があるわ」
流雅の目が僅かに動いた。
「はい」
「私は、あなたの綺麗事に付き合う気はない」
「はい」
「嫌なものは嫌と言う」
「はい」
「あなたが無茶をしたら止める。必要なら義手で殴るわ」
「はい」
「私を善人扱いしない」
「はい」
「私の過去を勝手に許したことにしない」
「はい」
「それと」
ツイッギーは特別執行課の隊員達を見る。
「私の指示に従うなら、理由も理解しなさい。分からないまま頷く人間はいらないわ」
隊員達は息を呑んだ。
それから、一人が姿勢を正す。
「はい。副課長」
「まだ副課長じゃない」
「す、すみません!」
「謝らなくていいって言ったばかりでしょう」
「あっ、はい!」
ツイッギーは疲れたように息を吐いた。
流雅は少しだけ笑う。
「それでもいいなら」
ツイッギーは流雅を見た。
「副課長、やってあげる」
流雅は、ほんの少しだけ目を伏せた。
安心したような顔だった。
「ありがとうございます」
「礼は嫌い」
「……気をつけます」
「そこも嫌い」
いつものやり取り。
けれど、今度は隊員達が一斉に拍手しそうになり、ツイッギーの視線で止まった。
「拍手したら帰るわよ」
全員の手が止まる。
流雅は笑いを堪えていた。
ツイッギーはそれを睨む。
「笑わないで」
「はい」
ツイッギーは用意された席に腰を下ろした。
義手の指で資料を引き寄せる。
「それで」
彼女は、特別執行課の面々を見渡した。
「まず、この作戦書を全部作り直すわよ。あと、エーテル反応式の補正も見直し。今日中に基準表を出しなさい」
隊員達が一斉に背筋を伸ばす。
「はい!」
「声が大きい」
「はい……」
その声に、ツイッギーは少しだけ顔をしかめた。
うるさい。
落ち着かない。
まだ、自分がここにいていいとは思えない。
けれど。
出ていこうとは、思わなかった。
流雅が隣に立つ。
「よろしくお願いします、ツイッギー副課長」
「調子に乗らないで」
「はい」
「でも」
ツイッギーは資料に目を落としたまま、小さく言った。
「……しばらくは、いてあげる」
流雅は何も言わずに、ただ静かに頷いた。
□
その頃、ラマニアンホロウのとある場所にて。
「主よ……再創を……」
メヴォラクの声が、崩れた祭壇の上で掠れていく。
儀玄の一撃は、確かに届いていた。
メヴォラクの身体は膝から崩れ、やがて床へ沈んだ。
「凄いですお師匠様!これでもう讃頌会も終わりですね!」
「うん!さっすが師匠!」
福福とリンの声が、崩れかけた空間に響く。
けれど、儀玄はすぐには頷かなかった。
倒れたメヴォラクを見下ろしたまま、眉を僅かに寄せる。
「……そうだと良いんだがな」
「師匠?」
「まだ、邪の気配が消えていない」
その言葉に、空気が変わった。
リンも慌てて端末を開き、Fairyに周辺反応の解析を走らせた。
「待って。Fairyが変な反応を拾ってる」
「敵か?」
「分からない。エーテリアスじゃない……でも普通の人間とも違うっぽい」
「位置は」
「祭壇の奥。崩れた壁の向こう側」
儀玄は無言で歩き出した。
福福とリンも、その後に続く。
崩れた壁の向こうには、細い通路が続いていた。
讃頌会のものらしい古い紋様。
その上から貼り付けられた、見慣れない機械の配線。
信仰と技術が、無理やり縫い合わされたような場所だった。
「……なんか気持ち悪いですね、ここ」
「同感だ」
リンは端末の画面を見ながら、少し顔をしかめる。
「ここ、讃頌会だけの施設じゃないかも。古い儀式系のエーテル反応と、人工的な制御痕跡が混ざってる」
「つまり、誰かが手を貸していたのか」
儀玄がそう言った瞬間。
ぱちん。
軽い音が響いた。
拍手だった。
全員が、一斉に振り向く。
壊れた装置の上。
影の落ちる場所に、フードを深く被ったひとりの少女が腰掛けていた。
「あらら~。やられちゃった~」
場違いなほど明るい声だった。
少女は足をぷらぷらと揺らしながら、倒れたメヴォラクを眺めている。
「せっかく偉そうに喋ってたのにねぇ。最後は床にぺたん。かわいそ~」
その声には、少しも哀れみがなかった。
むしろ、つまらない劇を見終わった観客のようだった。
「誰だ」
儀玄の声が低くなる。
少女は首を傾げた。
「うーん。誰でしょう?」
「質問に答えろ」
「え~、怖い怖い。そんな顔しないでよ~。せっかく勝ったのに、お顔が台無しぃ~」
福福が一歩前に出る。
「讃頌会の仲間ですか?」
「違うよ~。あんなお祈り大好き集団と一緒にしないで。私はあそこまで趣味悪くないし」
「なら、ここで何をしている」
「見届け」
少女はにこりと笑った。
「あの人が成功するか、失敗するか。まあ、結果は見ての通りだけどね」
少女はメヴォラクを指さす。
「あは。ざぁんねん」
福福の表情が険しくなる。
「あなた……!」
「あ、怒った? かわいいねぇ。真面目な子ってすぐ顔に出るから分かりやすいなぁ」
「ふざけないでください!」
「ふざけてないよ? ちゃんと見届けて、ちゃんと評価してるの!」
「
リンの端末が、小さく警告音を鳴らした。
「師匠、気をつけて」
リンの声が硬くなる。
「その子、反応がおかしい。波形が安定しすぎてる。普通なら、もっと揺れるはずなのに」
少女がリンを見る。
「あ、それ分かっちゃうんだ。さっすがパエトーン」
「……あなた、何なの」
「え~? そんなに知りたいの?」
少女は装置の上から軽く跳び降りた。
ほとんど音がしなかった。
「でも駄目でーす。まだ教えてあげませ~ん!」
儀玄が目を細める。
「お前は何を知っている」
「ん~色々?」
「答える気はないか」
「うん!だってぇ、今全部教えちゃったら、面白くないもん!」
少女は儀玄を見て、にこにこと笑った。
「強いのに、情報戦はまだまだだね~?」
空気が、さらに冷えた。
福福が構える。
「師匠を侮辱しないでください!」
「わぁ、お弟子ちゃんこわ~い」
少女は両手を上げる。
降参の仕草。
けれど、その顔は完全に舐めていた。
「でも、そういうところ嫌いじゃないよ~。弱い人が頑張って吠えてるの、見てて楽しいからさ~」
「っ!」
福福が踏み込む。
少女は笑った。
次の瞬間、姿がぶれた。
福福の手が届く寸前、少女は軽く横へ滑るように避けていた。
攻撃ではない。
ただ避けただけ。
けれど、その動きに無駄がない。
「おっそ~い」
少女は福福の背後で、楽しそうに言った。
「今ので当てるつもり~?」
「この……!」
「はいはい、今日はここまで。遊んじゃ駄目って言われてるからね」
少女は後ろへ下がる。
逃げるつもりだ。
そう判断した瞬間、福福が地を蹴った。
「待ちなさい!」
「待つわけないじゃ~ん」
少女は笑った。
その声が聞こえた時には、もう少女の姿は福福の正面になかった。
「え……?」
福福の横を、風が抜けた。
一歩。
たった一歩だった。
けれど、その一歩で間合いが消えた。
少女は福福の背後に回り込み、軽く手を振る。
「おっそ~い。今ので捕まえるつもりだったの?」
「この……!」
福福が振り返る。
だが、その時には少女は崩れた柱の上に乗っていた。
足音がほとんどしなかった。
跳んだのか、走ったのか。
目で追うには速すぎた。
「逃がすか」
儀玄が踏み込む。
その一歩だけで、空気が変わった。
少女の笑みが、ほんの少し深くなる。
「わぁ。やっぱりお師匠様は速いね」
儀玄の手が届く。
そう見えた瞬間、少女は身を低くした。
刃を避ける獣のように。
いや、もっと洗練されている。
儀玄の間合いの外側を、紙一重で滑る。
そして崩れた壁の縁へ着地した。
「でも、惜しい。あと半歩かなぁ」
「お前さん……」
儀玄の声が低くなる。
少女は楽しそうに首を傾げた。
「ん?どうしたの?そんな怖い顔して」
儀玄は答えなかった。
今の動き。
ただ速いだけではない。
踏み込みの角度。
重心の逃がし方。
相手の間合いを読む目。
それは、どこかで見たものに近かった。
星見雅。
かつて刃を交えた、あの狐の剣士。
無尾を振るう時の静かな殺気とは違う。
目の前の少女は軽薄で、ふざけていて、あまりにも雅とは似ていない。
けれど、身体の使い方だけが引っかかる。
「その歩法を、どこで覚えた」
「歩法?」
少女はわざとらしく瞬きをした。
「さぁ?生まれつきじゃない?」
「ふざけるな」
「ふざけてるよ?」
少女はくすくす笑った。
「だって、真面目に答えてあげる理由ないも~ん」
リンは端末を操作しながら、焦ったように声を上げる。
「駄目、動きが速すぎて捕捉が安定しない!Fairyでも追いきれない!」
「えへへ、機械にも見えないってちょっと嬉しいかも」
少女は壁の上で軽くしゃがむ。
フードの奥から、赤い瞳がちらりと覗いた。
「そうだぁ!せっかくだし、名前くらい教えてあげる」
「名前?」
リンが顔を上げる。
少女は片手を胸に当て、大げさに礼をした。
「ステラ」
少女は楽しそうに笑う。
「私の名前は、ステラだよ~。お母さんがくれたんだ!」
その名前に、儀玄の眉が僅かに動いた。
ステラ。
星。
星見。
頭の中で、嫌な線が繋がりかける。
だが、すぐに否定する。
あり得ない。
星見雅がここにいるはずがない。
あの少女は雅ではない。
声も、態度も、気配も何もかも違う。
それでも、先ほどの動きだけが、どうしても脳裏に残る。
「……まさかな」
儀玄は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「師匠?」
福福が振り返る。
儀玄は首を横に振った。
「何でもない」
まだ言うべきではない。
根拠がない。
確証もない。
ただの勘だ。
だが、その勘を捨てる気にもなれなかった。
ステラは崩れた壁の向こうへ足をかける。
「それじゃあ、またどっかでね~」
「ステラ!」
リンが叫ぶ。
「あなた、讃頌会と何の関係があるの!」
「ん~?」
ステラは少しだけ考えるふりをした。
「関係はあるけど、仲間じゃないし。利用はしたけど、信じてない。そんな感じ?」
「それ、答えになってない!」
「あは。答える気ないもん」
ステラはにやりと笑った。
「メヴォラクは終わり。でも、再創はまだ終わってないよ」
そう言い残し、ステラは壁の向こうへ飛び降りた。
「追います!」
福福が駆け出す。
儀玄もすぐに続いた。
だが、壁の向こうにはいくつもの崩落した通路が入り組んでいた。
ステラの足音は一瞬だけ遠くで響き、それから完全に消えた。
リンが端末を見つめる。
「駄目。反応が散ってる。速すぎるし、通路の構造も分かって動いてる……追えない」
福福は悔しそうに拳を握った。
「逃げられました……!」
儀玄は、ステラが消えた通路を見つめ続けた。
「ステラ、か」
低く呟く。
福福が不安そうに見上げる。
「師匠、何か分かったんですか?」
「いや」
儀玄は短く答えた。
「まだ何も分からん」
嘘ではない。
だが、全てでもない。
儀玄の脳裏には、先ほどの一歩が焼き付いていた。
星見雅に似た、けれど雅ではない動き。
星の名を持つ、名前のある少女。
偶然だ。
そう片付けるには、少しだけ引っかかりすぎる。
「リン」
「うん」
「今の反応と動作記録を、六課と特別執行課に共有しろ」
「え…………わ、分かった。すぐ送る」
儀玄は崩れた通路の奥を見つめたまま、静かに息を吐いた。
メヴォラクは倒れた。
讃頌会は大きく揺らいだ。
だが、終わりではない。
むしろ、別の何かが動き出した。
そんな予感だけが、ホロウの奥に残っていた。
山野隊員さんは後々
これからもちょいちょい出してくつもりではありますが。