雅が本当の兄の様に慕っていた分家の兄が、雅の母親を介錯した話。   作:ザワザワする人

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第三章:青い春に隠れたものは
縁の始まり


「ん………」

 

目を見開くと、視界は暗い。そしてどこか体全体がこそばゆい。

 

(あったかい……)

 

目を覆っていた黒いカーテン?を振り払うと、陽光が目を照らす。

 

(朝か………あれ……?)

 

体を起き上げようとしても、何かに阻まれて体が動かない。

 

「ん………ふぅ……」

 

「ひゃっ…!」

 

耳にかけられたのは確かに、生暖かい吐息。そして漂う香りは……

 

(メロン……雅だ)

 

自分の胴を見ると、ギュウギュウと雅の細い腕で締め付けられている。

何故か足まで絡まされており、全く身動き出来ない。

そうだった確か昨日は屋敷に泊まって……。

 

「雅?一先ず、僕の部屋で寝てる事は見逃してあげるからさ。一旦起きよっか」

 

「ん…?あにうえ…?……あにうえ〜……」

 

どうやら虚を狩っても、眠気までは狩れないらしい。

また眠りに着いてしまった。

 

(どうしよう……今日は夜に食事会だし……課の仕事で早く起きないといけないのに……もう一回、雅を起こして…)

 

そして僕が声に出す前に。

 

「流雅!今日は…しょくじ……かい」

 

「そ、総一郎様!いけません!そこ……は……りゅう…び……さまの」

 

スパーン!と、襖を鳴らして入ってきたのは父上と召使さん。

言葉を失い、今にも気を失いそう。

 

「違いますからね。断じて!」

 

僕が声を荒げたので、雅は目を覚まして体を起こす。

 

「ちちうえ……?」

 

「あ………………あ…………」

 

召使さんもお父様も、今度は口をあんぐり開けている。

いやまぁ、色々と想像が膨らんでしまうだろうけど、断じて!断じて!!そんな事はしてない。

 

「おはよう…みや…び」

 

そこにいたのは。

 

「は、破廉恥でございます!!!」

 

素っ裸の雅だった。

 

「い、い、い、いやいやいや、あの流雅が雅に手を出す筈がないだろう!!そ、そうだよな…雅?」

 

「あにうえの……(抱き心地)気持ち良かった……」

 

「「ぁぅ…………」」

 

父上と召使さんは、その場で倒れてしまった。

 

「してない!してないですからね!!!ほんとうに!!」

 

結局、僕の上着を雅に貸して、僕は上裸で父上と召使さんを居間まで運んだのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

着慣れない服はどうにも居心地が悪い。

剣を振るのにどうしても袖が邪魔になるし、このくるぶしまでの長いスカートは走ることさえ憚られる。

行きの車の中で、私はそんな事を考える。いや、考えてしまうといった方が正しいだろう。

私には、剣しかないのだから。

 

「雅?大丈夫?」

 

兄上が心配そうな顔で覗き込んでくる。

そこまで、ひどい顔をしていたのだろうか。

 

「大丈夫。問題無い」

 

兄上から目を背けて、薄く反射する車の窓で、自らの顔をチラリと見る。

母上に似た真紅の目だ。

私はこの目が好きだった。自分の中に母上が居るような気がするから。

話を戻そう。

 

私には剣しかない。星見家をまとめる力などある筈がない。

私は当主に向いていないだろう。お飾りで当主に成っても、それは星見の衰退に繋がる。

 

適材適所。

 

当主には、きっと兄上の方が向いている。幼き頃から、ずっとそう思っていた。

私よりも学業に秀でて、私よりも人との会話が上手く、私よりも我慢強く、真面目。

挙げていけばキリがない。

私が兄上に優っている点など、たかが知れている。

 

「雅」

 

唐突に兄上から、頭を撫でられる。あたたかくて優しい手だ。

 

「無茶しないでね」

 

兄上はエスパーなのかもしれない。いつもそうだ。

昔から私が欲しい言葉を、私よりも理解している。兄上の気持ちが撫でている手から伝わってくる。

 

大丈夫。雅はすごい。頑張ってる。

 

そんな思いが、ひしひしとその手には籠っている。

 

やっぱりそうだ。

 

こればかりは、きっとどうしようもない。

 

私に、()()に対抗する術がある筈がない。

 

ただ高鳴る鼓動。

 

戦闘時よりも早いかもしれない。

 

心を満たしていく何か。

 

そして体中を巡るあたたかさ。

 

私は、きっと恋をしている。

 

どうしようもなく。

 

ただ毅然と。

 

単に。

 

兄上が()()()なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

そのまま車が走る事数分。

「到着しました」という召使さんの合図で、僕と雅はそれぞれ外に出る。

 

「おっきい〜……」

 

聳え立つのは、西洋風の館。そこら中に金、銀の装飾品が散りばめられておりその佇まいの荘厳さは、雲嶽山を思い出させる。

 

僕達はどうやら、少し遅れたようで周りには色んな人が。

星見家が主催の食事会は稀にしか行われないが、その規模は新エリー都随一と言っても引けを取らない。

 

星見家はその分家の多さ故に、様々な企業との関わりを持つ。

 

それは、末端企業からTOPSまで幅広く、その影響の根を張っている。

 

星見家はそもそも優秀な人材が多いし、企業は積極的に彼らを取り入れようと必死だ。

 

だから、こういった食事会に、企業の取締役や人事の人が来るのは珍しく無い。

 

「おい……あの方が…」

 

「あぁ、最年少の虚狩り……」

 

「まだ契りを結ぶ気は無いらしい…」

 

雅はこういう場でも、そういった話題で引っ張りだこ。

 

事実として、星見の血筋としての本家から生まれたのは雅のみ。父上の総一郎様も、恐らく再婚は視野にないだろう。

 

そうなると、本家として狙うなら雅しかいないわけで。

 

そういった政治的な理由で雅には結婚して欲しくない、なんて少し過保護な考えもあるが、大体の人は政治的な理由は実は二の次なのだろう。

 

まぁだって今まさに。

 

 

「星見雅様!どうか私と永遠の契りを結んで頂けませんでしょうか!!」

 

 

求婚され中だ。

 

食事会はまだ始まってすらいないし、ここはまだ会場内でも何でもないただの通路だ。

 

まぁそれほど自分に自信があるのだろう。見たところ、美形ではあるしその服装も恐らく六桁は下らない。

 

並の女性なら、イチコロだろう。

 

「すまないな。気持ちだけ受け取っておく。兄上、早く行こう」

 

並の女性なら。

雅は、こういった恋愛事にまるっきり興味がないのだろう。

スーっと通り過ぎて、僕の腕に腕を絡ませてきた。

 

「そ、そんなバカなぁぁぁぁ!!」

 

後ろで、先程振られた男性が叫んでいる。

……何だか、ちょっとかわいそうだなと思った。

 

 

 

 

その後、何人かの求婚をひらりはらりと雅は躱しながら、会場へと辿り着いた。

 

そのまま食事会はスタートし、美味しそうな料理が所狭しと円テーブルに載せられていく。

 

食事会は立食式。あくまでも会話が主な目的。

 

なのでまぁ。

 

「雅様!こちらの弊社のワインが実に美味でして」

「雅様!弊社ではこのような美しい宝石を製造していまして、雅様にお似合いかと…」

「雅様!」「雅様!」「雅様!」

 

「み、皆さま!一人ずつお声を掛けてください!一人づつ!一人づつです!」

 

雅は大人気。

 

雅は、たま〜に頭がショートして相手の言葉を全てうながしてしまうが、今日は召使さんがいるし、大丈夫だろう。

 

ある程度、話が終わった後にまた話そうと思案して、僕は足を運ぶ。

 

「どんな料理があるかな〜……」

 

僕は料理が好きだ。小さい頃に母上と一緒に作ったり、雲嶽山に居た時は潘さんや瞬光とも一緒に作った。

 

師匠が嫌いだと知らなかったチャーシューマンを作った時に、師匠が泣きながら沢山食べてくれたのはいい思い出だ。

 

師匠に無理をさせたのを反省してそこから料理をさらに頑張ったんだっけ。

 

美味しいとは言ってくれたが泣いてたし、それが酷く悔しかったし、師匠に迷惑を掛けて申し訳なかったのを覚えている。

 

「ん!このスープ美味しい〜」

「こっちのお肉は、山羊……それに燻製……ふむふむ」

「ケーキのスポンジが、や、柔らかすぎる……一体どうやって……」

 

因みに、僕に話しかけてくる人はほぼ居ない。

 

ここに居る人は皆、星見家(垂れ耳)の言い伝えをそれぞれ、人から聞いているらしい。

 

まぁ、はずれくじみたいなものだ。

 

料理を一人で研究できるし、小さな頃の慣れもあるからか僕はそこまで気にしてない。

 

でも時々、僕に話しかけてくる人はいる。

 

そういうのは大体人間違いか、この言い伝えを珍しく知らない人。もしくは——

 

「おやおや〜?こ〜んな楽しい所で一人で寂しく料理を味わってる人が居ますね〜?」

 

「久しぶり、ダイアリン」

 

こういう物好きな人だけだ。

 

「この優しい優しいダイアリンが、一緒に食べてあげますよ〜?」

 

ダイアリンは、そう言いながら普通に僕の隣までやって来る。

 

「ありがとね」

 

ダイアリンとは……腐れ縁みたいな感じ。

治安局に居た頃に、TOPSの裏金問題を摘発した事件で知り合った。

そこで連絡先を交換して、今に至る。

 

「そういえば、黒枝はなんでこのパーティにいるの?」

 

「えっ!?え…えと〜……」

 

黒枝はいわば、TOPSのお目付役。

この食事会に、TOPSの方も来ては居るけれども、今回はあくまでただの交流会だ。

TOPS側も不正の仕様がないように思える。

 

「さ、流石に流雅さんにもそれは言えませんね〜。トップシークレットですので!」

 

「そっか」

 

本人がこう言っている以上、もう聞けなさそう。

 

「そ・れ・よ・り・も!()()!一体なんなんですか〜!!前は無かったですよね?」

 

「これ?あぁ…尻尾の事?」

 

「はわわ……」

 

僕が尻尾をフルフル振ると、ダイアリンは目の中の青い星をキラキラさせながら手をワキワキしている。

 

「……触る?」

 

「触ります!!」

 

躊躇する事無く、ダイアリンは僕の後ろに回って二つの尻尾をその両手で揉みしだく。

こそばゆいけど、ちょっと気持ちいい。

 

「ふわ〜……気持ちいいですね〜……照ちゃん先輩のお耳に勝るとも劣らない触り心地ですぅ…」

 

ダイアリンが、モミモミしてると前から声を再び掛けられた。

珍しい事もあるものだ。

 

「は、はじめまして!タイムフィールド家当主代行、アリス・タイムフィールドと言います!星見流雅さんで、合っていますよね?」

 

小さなウサギの耳を緊張からか、ぴょこぴょこさせながらやって来たのはなんと名門タイムフィールド家。

 

(こんな挨拶久しぶりだけど…礼儀正しく!)

 

「此方こそはじめまして。星見家の星見流雅と言います。エーテル工学の名門、タイムフィールド家にお会いすることができ、光栄です」

 

「こ、光栄だなんてそんな!流雅さんのお噂は予々聞いています。先刻は、新たな課の課長に任命されて、しかもその課はいわば市長の直属隊。優秀でないと決してその地位に就くことなんて出来ないのだわ」

 

「いえいえ、アリスさんこそ。その若い年齢から当主代行をお勤めになるなど、余程ご家族からの期待が厚いのでしょう」

 

「ええと…私が優秀と言う訳ではないのだわ。父は数年前に亡くなっていて、祖父も病に倒れてしまったから」

 

「それは……申し訳ない事をお聞きしました。どうか無礼をお許しください」

 

「あ、頭を下げないでください。流雅さんは悪くないのだわ」

 

「ですが…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁ〜もう!焦ったいですね!ほら、二人ともこれ食べてください!美味しい料理食べたら笑顔になるんですよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()。まだ彼と喋れたんでしょうかね〜」

 

私が居るのは主会場から少し離れたバルコニー。

火照った体に夜風が染みる。

 

あの後、私はそろりと彼の尻尾から手を離して逃げ出した。

幸いにもタイムフィールド家のご令嬢にはバレていなかった。

多分、彼にも。

 

(めんどくさい女ですね〜……私)

 

「わざわざ食事会の参加券を持って来てくれた照ちゃん先輩に合わせる顔がありませんよ〜〜」

 

私のそんな独り言も、食事会の喧騒にいつの間にか呑まれていく。

それが孤独感を更に強くして、ただ怖くなる。

夜風に当たりすぎたのか、少し体が冷えてきた。

 

「……戻りましょうかね〜」

 

そう呟いて、踵を返そうとした瞬間だった。

 

「やっぱり、ここにいた」

 

背後から、静かな声。

聞き間違えるはずがない。

 

「……流雅さん?」

 

振り返ると、バルコニーの入口に彼が立っていた。

煌びやかな室内の光を背にして、まるで影のように。

 

「ごめん。急にいなくなったから、ちょっと心配で」

 

相変わらず、優しい人だ。優しすぎるくらいに。

 

「だ、大丈夫ですよ〜?ちょっと風に当たりたくなっただけです!」

 

私はいつもの調子で笑う。

笑えているはずだ。

笑えている、はずなのに。

 

「……無理してる顔してる」

 

「っ…」

 

胸の奥が、ひどく痛んだ。

この人は、本当にずるい。

 

「僕、何かしちゃった?」

 

困ったように眉を下げる。

まるで本気で分からないみたいに。

だから、言えない。

あなたが優しいから苦しいなんて。

あなたが誰にでも同じだから寂しいなんて。

 

「し、してませんよ!あなたは何も悪くないです!」

 

声が少し大きくなる。

しまった、と思った時にはもう遅い。

沈黙が落ちた。

遠くで、グラスの触れ合う音と笑い声だけが響く。

 

「……ねえ、ダイアリン」

 

彼が、一歩近づく。

 

「さっき、尻尾触ってくれたでしょ」

 

「ひゃっ!?そ、それはその……」

 

「別に嫌じゃなかったよ」

 

不意打ちだった。

 

「むしろ、ちょっと安心した」

 

「……安心?」

 

「ここ、僕のことを怖がる人ばっかりだから。昔から視線で分かっちゃうんだ、そういうの」

 

その言葉は、あまりにも静かで。

あまりにも寂しそうで。

 

「普通に接してくれるのは、それだけで嬉しいから」

 

心臓が、とくんと高鳴る。

 

(あぁ……だめですね〜……)

 

逃げてきた理由が、全部崩れていく。

 

「私だって……」

 

気付けば、口が勝手に動いていた。

 

「私だって、普通じゃいられませんよ」

 

流雅さんが、目を見開く。

 

「だってあなた、ずるいんですもん」

 

「優しくて、鈍くて、放っておけなくて……」

 

そこまで言って、私は顔を覆った。

言いすぎた。絶対引かれた。

 

「……ごめんなさい。忘れてください」

 

消えてしまいたい。

そう思った時。

ふわりと、頭に何かが触れた。

 

「忘れないよ」

 

顔を上げる。

彼の手が、私の頭を撫でていた。

 

「だって、すごく大事なこと言ってくれた気がするから」

 

夜の光に照らされたその表情は、柔らかくて。

でもどこか真剣で。

 

「ダイアリンが普通じゃいられないなら」

 

少しだけ、照れたように笑う。

 

「僕も、普通じゃいられないかも?」

 

「…………」

 

思考が止まる。

 

「もう少しだけ、ここにいてもいい?」

 

答えなんて決まっていた。

 

「……はい」

 

夜風はまだ冷たいはずなのに。

不思議と、寒くなかった。

 

 

 

 

 

 

「……兄上」

 

その声は、夜風よりもずっと静かだった。

 

けれど、私の耳にはやけにはっきり届いた。

 

その瞬間、胸の奥にあった温かさが少しだけ冷えた気がした。

 

バルコニーの入口。

 

そこに、星見雅が立っていた。

 

淡い光を背に受けて、黒い髪がさらりと揺れている。

食事会用の服は、彼女にとても似合っていた。

似合っているのに、どこか苦しそうにも見えた。

 

「雅?」

 

流雅さんが振り返る。

 

その声は、私に向けていたものと同じくらい優しい。

 

あぁ。

 

やっぱり、ずるい人だ。

 

「どうしたの? 何かあった?」

 

「市長殿が兄上を呼んでいる。少し話したいそうだ」

 

「市長さんが?」

 

「あぁ」

 

雅さんは短く答えた後、私を見た。

 

真紅の瞳。

 

凛としていて、綺麗で、少し怖い。

 

けれど、その奥にあるものは敵意とは違った。

 

何だろう。

怒りではない。

疑いでもない。

 

もっと、子供じみた。

 

それでいて、どうしようもなく切実なもの。

 

「……ダイアリン殿」

 

「は、はい!星見雅さん!」

 

思わず背筋が伸びた。

 

仕事柄、上位者と話すことには慣れているはずなのに。

目の前の少女には、それとは別の圧がある。

 

「兄上が迷惑をかけなかったか」

 

「い、いえいえ!むしろ私の方がご迷惑をおかけしてしまって〜……」

 

「そうか」

 

雅さんは、少しだけ流雅さんを見る。

 

「兄上は、誰にでも優しいからな」

 

その声は平坦だった。

 

でも、平坦すぎた。

 

流雅さんは首を傾げる。

 

「雅?」

 

「何でもない」

 

「何でもない顔じゃないけど」

 

「何でもない」

 

「そっか」

 

納得していない顔だった。

でも、今は追及しなかった。

 

流雅さんは私の方へ向き直る。

 

「ごめん、ダイアリン。ちょっと行ってくる」

 

「は、はい! どうぞどうぞ! 私はここで夜風とお喋りしてますので!」

 

「冷えすぎないようにね」

 

「大丈夫ですよ〜」

 

そう笑った。

 

いつも通りに。

 

でも、流雅さんは少しだけ眉を下げた。

 

「……また後で話せる?」

 

心臓が跳ねた。

 

その言葉だけで、こんなに浮かれるなんて。

 

本当に、面倒な女だ。

 

「はい。もちろんです」

 

私がそう答えると、流雅さんは安心したように笑った。

 

その横で、雅さんの耳が僅かに動いた。

 

見間違いではない。

 

ぴくりと。

 

本当に小さく。

 

「兄上」

 

「うん。今行くよ」

 

流雅さんが歩き出す。

 

雅さんは半歩だけ横に避けて、彼を通した。

 

その距離が、近い。

 

二人の距離は、自然に近い。

 

肩が触れそうで。

けれど、お互いにそれを気にしていない。

 

昔から当たり前だったのだろう。

 

私が今、ようやく見つけた温度を。

雅さんは、ずっと前から知っている。

 

そう思うと、胸が少し痛んだ。

 

すれ違いざま。

 

雅さんが、私を見る。

 

「ダイアリン殿」

 

「はい?」

 

「兄上は、優しい」

 

「……はい」

 

そんなこと、知っている。

 

痛いくらいに。

 

「だが、無理をしている時も優しい」

 

「……」

 

「だから、兄上が困った顔をしたら、少し離れてやってくれ」

 

その言葉に、私は一瞬だけ何も言えなかった。

 

嫉妬ではない。

 

いや、嫉妬もあるのだろう。

 

けれど、それ以上に。

 

星見雅は、流雅さんを守ろうとしている。

 

自分の大切な人を。

自分だけでは受け止めきれないほど大切な人を。

 

「……分かりました」

 

私がそう言うと、雅さんはほんの少しだけ頷いた。

 

それから、流雅さんの後を追う。

 

「雅、そんなに急がなくても」

 

「急ぐ。市長殿を待たせるわけにはいかない」

 

「でも歩幅、僕に合わせてない?」

 

「合わせていない」

 

「合わせてるよね」

 

「合わせていない」

 

そんな会話が、室内の喧騒に混ざって遠ざかっていく。

 

私は一人、バルコニーに残された。

 

夜風はさっきより少し冷たい。

 

でも、不思議と震えはしなかった。

 

「……強敵ですね〜」

 

ぽつりと呟く。

 

星見雅。

 

流雅さんの妹。

流雅さんの大切な人。

そして、たぶん。

 

私がどれだけ背伸びしても、簡単には届かない場所にいる人。

 

でも。

 

「後で、話せる……ですか」

 

頬が緩むのを止められなかった。

 

これは困った。

 

本当に困った。

 

諦める理由なら、いくらでもある。

 

相手は星見家。

相手は流雅さん。

そしてその隣には、あの星見雅がいる。

 

それでも。

 

さっき頭に触れた手の温度が、まだ残っている。

 

「……戻りましょうかね〜」

 

今度は、逃げるためではなかった。

 

もう一度、あの人と話すために。

 

私は深く息を吸って、眩しい会場の光へと戻っていった。

 

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