雅が本当の兄の様に慕っていた分家の兄が、雅の母親を介錯した話。 作:ザワザワする人
学校で再会してから、最初の日曜日。
奇々解々の店先で、柚葉は何度目か分からないくらい時計を確認していた。
約束したのは昼頃。
まだ約束の時間までは少しある。
それでも落ち着かず、店の前を行ったり来たりしてしまう。
「ねーちゃん、さっきから邪魔」
店先で商品の箱を運んでいた妹が、呆れたように言った。
「邪魔とは失礼だな~。柚葉は大切なお客さんを出迎えるために、最高の場所を探してるだけだよ」
「五分前から同じ場所にいるけど」
「そこが最高の場所だったってこと」
「ふーん」
妹の疑いの目を無視し、柚葉は再び通りの向こうを見る。
来ると約束した。
今度は守ると言った。
信じたくないわけがない。
ただ、約束の時間が近づくほど、昔の記憶が頭を過ぎる。
次の日曜日も来る。
そう言ったまま、流はいなくなった。
だから今日も来なかったとして、傷つかないように。
柚葉は心の中で、いくつも理由を用意していた。
特別執行課は忙しい。
急な事件が入ったのかもしれない。
道に迷っているだけかもしれない。
それでも、時計の針が約束の時間へ近づくたび、胸の奥が少しずつ冷えていく。
「……やっぱり、忙しいのかな」
小さく呟いた時だった。
「柚葉」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げる。
通りの向こうから、流雅がこちらへ歩いてきていた。
普段の制服ではない。
動きやすそうな服装で、片手には大きな紙袋を提げている。
柚葉は反射的に時計を見た。
約束の時間まで、まだ十分以上あった。
「早い」
「待たせるよりいいかなって」
流雅は柚葉の前まで来ると、少しだけ笑った。
「約束どおり、来たよ」
「……うん」
たったそれだけのことだった。
時間どおりに来た。
約束を守った。
それだけなのに、胸の奥にあった冷たいものが、急に溶けていく。
柚葉は緩みそうになる頬を隠すように、流雅の持つ紙袋へ目を向けた。
「何、それ?」
「食材。昔、次は美味しい料理を持ってくるって約束したから」
「何年越しだと思ってるの?」
「本当に申し訳ないと思ってる」
「今日は謝っていいよ」
「基準が難しいなぁ」
柚葉は流雅から紙袋を奪い、中を覗き込んだ。
野菜や肉だけではない。
見覚えのない調味料や、衛非地区ではあまり流通していない香草まで入っている。
「随分と本格的だね」
「柚葉にも手伝ってもらおうと思って」
「流が全部作ってくれるんじゃないの?」
「昔は手伝うって言ってなかった?」
「む、昔の柚葉は子供だったからね~」
「都合よく成長したなぁ」
「褒め言葉として受け取っとくね」
柚葉は楽しそうに笑い、店の中へ流雅を招いた。
□
「お久しぶりです」
流雅が頭を下げると、宝栄はしばらくその顔を見つめた。
今の姿と、昔の少年を重ねているのだろう。
やがて、納得したように頷く。
「……あの時の流くんか」
「覚えていてくれたんですね」
「そりゃあ、うちの柚葉が毎週楽しみにしてた相手だからな」
「パパ!」
柚葉の声が店内に響いた。
「余計なこと言わなくていいから!」
「別に恥ずかしがることじゃないだろう。日曜になるたび、今日は流が来る日だって――」
「はい!昔話はそこまで!流、キッチン借りるんでしょ!早く行こ!」
柚葉は流雅の背中を押し、店の奥へ追いやった。
背後から、宝栄の笑い声が聞こえる。
「柚葉、そんなに押したら危ないよ」
「流が余計な話を聞こうとするからでしょ」
「まだ何も言ってないけど」
「顔に書いてあった」
「ほんとかなぁ」
流雅は苦笑しながら、借りた台所へ食材を並べた。
柚葉は腕まくりをし、その隣に立つ。
「それで、何作るの?」
「煮込み料理と、香草を使った焼き物。あとは簡単なスープかな」
「簡単って言ったものが、一番難しいやつでしょ」
「よく分かったね」
「流の簡単は信用できないもん」
流雅が野菜を切り分ける。
包丁を扱う手つきは、昔よりずっと滑らかになっていた。
柚葉はその横で、言われたとおりに香草をちぎっていく。
「細かすぎるよ」
「細かい方が香り出るんじゃないの?」
「出すぎても苦くなるから」
「難し~い。やっぱり流が全部やってよ」
「もう少しで終わるから頑張って」
「柚葉を働かせるなんて、特別執行課は恐ろしいところだね」
「その言い方は誤解を招くからやめて」
文句を言いながらも、柚葉の手は止まらない。
今は隣に立ち、自分から味を尋ね、失敗すれば笑って誤魔化す。
流雅は横目でその姿を眺める。
「何?」
柚葉がすぐに気づいた。
「ううん。楽しそうだなって」
「料理が?」
「柚葉が」
「流が失敗しないか監視してるだけだよ」
「そっか」
「……あと、ちょっとは楽しいけど」
柚葉は小さく付け加えた。
流雅は何も言わず、穏やかに笑った。
「その顔やめて」
「どの顔?」
「成長したね~って顔」
「実際、成長したから」
「柚葉は昔からしっかりしてたよ」
「部屋の隅で座って、流の話を聞いてただけだけど?」
「ちゃんと聞いてくれてたでしょ」
流雅は切った野菜を鍋へ入れる。
「僕は、あの時間が好きだったよ」
柚葉の指が止まった。
流雅は鍋へ目を向けたまま、続きを話す。
「柚葉はほとんど喋らなかったけど、時々すごく鋭いことを言うから。今日は何を言われるのかなって、少し楽しみだった」
「……柚葉だけが楽しみにしてたんじゃなかったんだ」
「もちろん」
柚葉は何も言わなかった。
代わりに、香草を一枚だけ流雅の肩へ乗せる。
「何これ」
「今日の流への評価」
「葉っぱ?」
「そこそこってこと」
「分かりにくいなぁ」
二人の間に、自然な笑いが落ちた。
□
料理が完成する頃、店へ真斗がやってきた。
「よぉ、柚葉。宝栄のおっさんに頼まれてた荷物――」
店の奥に流雅を見つけ、足を止める。
「……あんた、学校に来てた」
「狛野真斗くん」
流雅は笑顔を向けた。
「学校では柚葉の隣にいたよね」
「覚えてたのか」
「うん。柚葉の友達だから」
「友達っていうか、腐れ縁だけどね~」
柚葉が料理を運びながら割り込む。
真斗は皿を受け取り、その香りに鼻を動かした。
「うまそうだな」
「流が作ったんだよ。柚葉も手伝ったけど」
「流?」
「昔の名前」
「星見流雅じゃねぇのか?」
「柚葉にとっては、流なの」
柚葉は当然のように答えた。
流雅も否定しなかった。
真斗は二人を見比べる。
「……まあ、いいけどよ」
食事が始まると、柚葉は学校での流雅の評判を得意げに話した。
女子生徒の何人かが二本の尾を触りたいと言っていたこと。
教師たちが訪問前から緊張していたこと。
流雅と知り合いだと分かった瞬間、教室中から質問攻めにされたこと。
「流のせいで、柚葉は大変だったんだから」
「ごめんね」
「でも、ちょっと面白かったから許してあげる」
「もう許したの?」
「そこだけね。昔いなくなった件は別」
柚葉は念を押すように指を立てる。
流雅も素直に頷いた。
「分かってる」
真斗は料理を食べながら、そのやり取りを眺めていた。
学校で見た時より、柚葉の表情が柔らかい。
昔の柚葉を、真斗は知らない。
けれど、流雅といる時の柚葉には、自分たちといる時とは少し違う安心があるらしい。
「流さん」
「何?」
「柚葉の昔の話、聞かせてくれよ」
「真斗!?」
「お前が教えねぇからだろ」
「勝手に聞かないでよ!」
「ええと……」
流雅は柚葉を見る。
「話してもいい?」
「駄目。絶対駄目」
「分かった」
返事が早かった。
真斗が不満そうに眉を寄せる。
「一個くらいいいだろ」
「例えば何が聞きたいの?」
「昔も、こんなに口が回ったのか」
「全然」
「流!」
「一個だけって言ったから」
「それは真斗が言ったんでしょ!」
真斗が声を上げて笑う。
柚葉は赤くなりながら、流雅の腕を軽く叩いた。
その光景を、宝栄は店の奥から静かに眺めていた。
昔、何をされても反応を返さなかった少女。
人の話を聞いても、ただ瞬きをするだけだった少女。
その柚葉が、今は楽しそうに怒っている。
「……よかったな」
宝栄の呟きは、三人の笑い声に紛れて消えた。
□
日が傾き、夕暮れに空が染まり出した頃。
流雅は奇々解々の前で、柚葉たちと別れることになった。
「もう帰るの?」
柚葉が少し不満そうに尋ねる。
「仕事が残ってるからね」
「課長って大変なんだ」
「副課長に任せすぎると怒られるから」
「女の人?」
「……?うん」
「ふーん」
柚葉は少しだけ目を細めた。
「その副課長さんとも、頭を撫で合ったりしてるの?」
「してないよ。……多分そんな事したら本気で殴られるし……」
「別に、気になってないけど」
「まだ何も言ってないよ?」
「柚葉も何も聞いてませ~ん」
柚葉はそっぽを向いた。
流雅は困ったように笑い、それから柚葉の頭へ手を伸ばす。
だが、触れる直前で止めた。
「撫でてもいい?」
柚葉は横目でその手を見る。
「今度は聞くんだ」
「反省したから」
「じゃあ、特別にいいよ」
流雅の手が、赤い髪をゆっくり撫でる。
柚葉は目を細めた。
以前よりも少しだけ、流雅の手を受け入れることに慣れてきていた。
「流」
「何?」
「今日、ちゃんと来たね」
「約束したから」
「前も約束したよ」
「うん」
手の動きが、僅かに止まる。
「だから今度は、一つずつ守るよ」
柚葉は流雅を見上げた。
「じゃあ、次の日曜日も来る?」
「次の日曜日?」
「今度は柚葉が料理を作ってあげる。今日手伝ったから、もう完璧だし」
「香草を細かくしすぎてたけど」
「それは流が細かいの」
「大丈夫かな」
「残したら怒るからね?」
流雅は少し考えた後、笑った。
「うん。お昼には来るよ」
「本当に?」
「約束する」
柚葉は流雅の顔をじっと見る。
嘘を探すように。
どこかへいなくなる兆しがないか、確かめるように。
やがて、納得したように笑った。
「じゃあ、流の分まで用意しとくね」
「楽しみにしてる」
「後悔しても知らないよ~」
「何を作るつもりなの?」
「当日までのお楽しみ」
柚葉は楽しそうに手を振った。
「またね、流」
流雅も、同じように手を振る。
「うん。またね、柚葉」
流雅は通りを歩き出す。
数歩進んだところで振り返ると、柚葉はまだ店の前に立っていた。
目が合う。
柚葉は、もう一度大きく手を振った。
流雅も笑って応える。
今度こそ。
失った時間を、少しずつ埋めていける。
二人は、そう思っていた。
けれど流雅は、まだ知らなかった。
今の柚葉が、何を守ろうとしているのか。
どれほど自分の意思で危険へ踏み込めるようになったのか。
柚葉が成長したことを喜びながらも、流雅の中にはまだ、海辺で黙っていた小さな少女の姿が残っている。
そして柚葉もまた知らなかった。
流雅が一度失ったものへ、どれほど過剰に手を伸ばしてしまう人なのか。
二人の約束が、別の形で試されることになるとは。
この時は、まだ誰も知らなかった。