五条家と禪院家、御三家が内の二家の子供の一騎打ちが成った姉妹校交流会。恙なくとは言い難くとも人死がなく終わって暫く後。
直哉の体術の師である甚爾が、交流会後の治療という名の名目で謹慎となった弟子に会えたのは、ざわついた周囲がなんとなく落ち着いてきた頃だった。
心と身体に染みついた習慣は、禪院家という魔窟から抜け出してなお消えることはない。
感情のままに、同時に綿密な計画を立てて行方を眩ませたのを覚えている。いったい〝誰が〟とは胸に秘めておくが、背中を後押しされて呪術界から距離を置いた甚爾は、表側の世界を知って、裏側のイカレ具合を痛感した。そして少なからず、オカシな環境で育ち生きてきた自分もまた同じ穴の狢であると悟った。
切っても切れない、血筋の呪縛がある。
甚爾の身体に流れる血は、本人に呪力皆無という天与呪縛があろうとも、間違いなく相伝を繋げてきたものだ。誰が何と言おうと事実が覆ることはない。血だけでも欲しいと、あるいはフィジカルギフテッドという天与の性質が飼い殺される危険性があった。今のところ本家が甚爾を目的ありきで探し回っているふうはないのだが、見つかれば便利な駒として連れ戻されるか、邪魔者認定されて殺されるかだろう。
純粋に能力が必要とされるなんて希望を持つには実家のこれまでの扱いが悪すぎたために、甚爾は常に最悪の想定をして自ら去った古巣の内情をこまめに仕入れている。捨てたにも拘わらず、離れることができないことには苛立たしさも沸いたが、――禪院家次期当主候補の情報として直哉の近況が知れるのは嬉しい誤算だった。
「派手にやったって?」
「随分と耳が早いんやなあ、もう聞いたんか」
かつて五条攻略を「削る」と表現したのは甚爾であった。
言葉通り禪院家次期当主候補様は正しく言葉通り実行したらしい。呪いの寵児相手に、交流会の絶対規則に従って呪術師としての体術と、
誤算は、五条が心を腐らせずに昔から伝わる【赫】とも【蒼】とも異なる、絶技を用いたことだろうが――
「いややわあ、まさか無下限の極致が出てくるとは思わんやん」
――不可侵の領土に踏み込んだ直哉の言い分は、どうにも嘘くさかった。
五条悟の才能が開花するとでも知っていたような、確信めいた響きさえあったように思う。
とつとつと試合を語るなかで、僅かばかりの幼さが残る顔に浮かんだ笑みが崩れることはない。大仰に「死ぬか思うたわ」などと言いながらも、実際反転術式の使い手がいなければ死者が出たかもしれないが、冷静に戦略を振り返る様子は穏やかで、むしろ聞いている側が肝を冷やす。
ふと、世間話でもしているような雰囲気の途中で。
「なあ、甚爾君」
直哉が紡いだ名前を。
「俺、負けんかったで」
光の一筋のように落とされた言葉を。
「勝たれへんかったけど、めっちゃボコボコにされてしもうたけど、ちゃんと生きて、ここにおるで。呪詛師やない、上のお偉いさんでもない、そんで兄さんらでもない、この俺が五条の玉に一泡吹かせてやったんよ」
きっと甚爾は命絶えるまで忘れることはない。
生きて、勝てずとも負けず。他の誰にも、できなかったことだ。古くから続く禪院家の、その異端である直哉だけが成し遂げたことだ。
そうして。
触れることすら叶わないとされた壁を潜った直哉が、
「でもって、そんな俺を育てたんが甚爾君らや」
逆光のなかで笑ってみせる。
胸を張って、高らかに告げる。
「こんなにも誇らしいことないやろ」
その言葉こそが。
何よりの誇りになると、心臓が音を立てた。
「こう言ったらなんだけどさ、勝ちを確信したんだよ。なのに不完全燃焼じゃない?」
答えを求めない問い掛け。
それからコーヒーの湖に落ちていく数多の角砂糖に、甚爾は眉根を寄せた。
「だいたい無下限に呪力物量攻めとか今にして考えれば脳筋だし、というか――あれで生きてるとか舐めてんの。馬鹿なの。普通あんなの思い付かないから。おかしいだろ」
「五条の坊は何で負けたみてぇに言ってんの。勝ったんだろ」
「なにそれ嫌味?」
「勝ったけど負けて残念ですね可哀想に~、って言われて嬉しいかよ」
「殺意しか湧かないね」
「だろうな」
日本に二校しか存在しない〝呪い〟を知るための学び舎を、呪術高等専門学校という。
東京と京都に公費によって建設された学校は姉妹関係の位置付けにあり、切磋琢磨を目標に掲げ、毎年交流会(とは名ばかりの、殺す以外なら何でもありな呪い合いであるが)を開催している。
甚爾が現在進行形で聞かされているのは、かつて――具体的には十年程前の姉妹交流会で、五
しかも語り手は五条悟本人ときた。聞く者が聞けば贅沢とも言える機会だが、生憎ながら甚爾にとってそう大したことではなかった。なにせ甚爾は自らの意思で禪院家をおん出てやったのだし、御三家のあれこれなど心惹かれる要素もない。
ただし、そんな甚爾には教え子がいる。
くだんの禪院家次期当主候補――禪院直哉である。
どうしてだか今になって、それも甚爾を前に試合を振り返っている五条と、命のやり取りをした当事者である直哉からほぼリアルタイムで死闘の結果を聞いていたのだ。今さら何だ、というのが正直なところだった。
興味よりも面倒くささが勝った。
「普通に死ぬと思ったのに」
かの試合を辿る五条は「殺せなかった」と言った。
そして「たぶん殺しても何も思わなかった」とも言った。
姉妹交流会の規則には反するが、五条家にとってしたら次期当主の覚醒ともなれば、揉み消すとまではできなくとも、喜んで賠償金の支払いでも上辺だけの謝罪でもしたに違いない。
少なくとも五条悟という生き物には暴挙が許されるだけの価値があるのだから。
納得はできない。だが、現在の呪術界はそういうものであると、嫌になるほど甚爾は知っている。
(ほんとに面白くねぇ話だな)
ついでに言わせてもらうなら、こうして五条に絡まれている現状も面白くない。
だが、東京都立呪術専門学校に非常勤講師として甚爾が勤めることができているのは、疑いようもなく五条のおかげであるため、口には出さないでいる。まあ波立った心情は隠すことでもないし、態度には出ているだろうが、五条とて今さら些細なことを気にするような精神は持ち合わせていない。
わざと嫌味な物言いをする甚爾を綺麗さっぱり無視されて、表情と声音を歪ませながら、五条は話を続ける。
「虚式【茈】は」
人為的に作り出された形なき質量は圧倒的な暴力である。五条の
「術式の手から離れたものに
そのはずだった、のだ。
「……アイツはどうにかしてみせた」
苦虫を潰した表情は、どのような感情を語っているのだろうか。
五条の思いなど知る術もないし、知りたいとも感じない甚爾は、ただ耳を傾けて適当に相槌を打つだけだ。
「へぇ、避けたのか」
「避けなかったし、たぶん避けられなかったんだろうね」
「避けられなかった、ね」
「他人から聞いた話だから完全に信じてるわけじゃないけど、どうして無謀なことをしたんだって質問されて「後ろにひとがおったし」って答えたんだと。この俺との勝負に、背後の心配って何さ。馬鹿にされてるかと思った」
「でも生きてるんだろ」
「そ、絶対に殺した」
その確信があった。
五条が明言する。
「質量には質量で、ってことだったのかな」
手持無沙汰を誤魔化すように前髪をいじりながら、五条が説明していく。
「不自然に呪力が籠ってるのには気付いてたんだ。ただ呪術師ならそんなこともあるだろうと、特別注意もしてなかった
「妙に似合ってたのがまた腹が立つよね
「あの――尻尾みたいに長かった髪
「しかも混ぜ込まれた呪力が本人だけのものじゃなかった。自分で呪って、誰かにも呪われて、そうやって作られたものだったよ
「何年伸ばしてたんだろ。長さがある分は量もあったし、根本からもうばっさりと切ってさあ」
――髪というのは、呪術的に大きな意味合いを持つ。
有名どころで例えるのなら〝髪は女の命〟という迷信がある。あくまでも例え話であって、直接的に命と髪が同義で結ばれるわけではない。だが、長く語られてきた理由があり、信じられてきた根拠がある。古くから重ねられてきた口伝の類は信憑性に関わらず、また真実に限らず、感情が降り積もってこびりついているものだ。呪いの根源が人間の感情であることを考えれば、つまり呪いを編み込まれた髪は、一種の呪具のようなものであった。
今も直哉は、後ろ首のあたりで編み込まれた髪を遊ばせている。もっとも一番長さがあったのは高専時代であるのだが、集まりで時折直哉に会う機会のある五条は、言わずとも知っているだろう。
(直哉はあんなノリで抜け目ないしな)
飄々とした態度で挑んでおいて、自身の一部に〝呪い〟すらも纏わせ武器として携えてくるのが、直哉という男である。
「質量と呪力のぶつけ合いでは質量が押し勝ったよ。アイツが吹っ飛ばされて生死の境目彷徨うような負傷をして、でもって硝子がぴゅーっとやって完治。結局は戦闘続行不能になったアイツが負けたけど……」
十全の構えをもってして、五条より劣る直哉は確かに生き残った。
「あんなの試合に勝って勝負に負けたようなもんじゃん」
不可侵領域を傷付けられた時点で。殺意をもって殺せなかった時点で。五条にとっては強さの敗北と同じだったのかもしれない。
決して同じ場所に立てない甚爾は、そんなふうに思った。
「で?」
疑問。
意味もなく他人の神経を逆撫ですること長けた五条ではあるが、興味のない事柄に関しては徹底的に無関心である。
「今になってそんな話を持ち出してきた理由は?」
質問。
相手が目上だろうと権力者だろうと関係なく、ただ本当に視界に入らないのだ。認めたくはないが、甚爾にも同じ気がある。だからこそ突然過去の話題を振ってきた五条を「何かある」と訝しむのは全くもっておかしいことではなかった。
「んー、ただ知りたいだけかな」
誤魔化すことは許さない、と。
「――禪院直哉は敵? それとも味方?」
天つ碧玉、眼差しは底なし。
玲瓏たる声音、頂上の君臨者たる貫禄で五条は問うた。
(俺は……俺たちは、その眼が嫌いだ)
生まれながらにしての強者であるが故の傲慢さが、ずっと昔から嫌いだった。
己に絶対の自信があり、持てる者としての自覚があり、自身のやることなすことが正しいと考えている。たとえ間違っていたって、それを正道にしてしまえるだけの能力に恵まれている。
(白と答えりゃ満足か? 違ぇだろ)
五条が欲しいのは確信だ。己の目的に禪院家延いては禪院直哉が立ち塞がるか否かの。
そこに直哉の意志は含まれない。
だから甚爾は言ってやる。
「よりによって俺に訊くのかよ。禪院に関わるなんてごめんだね。何のために出てったんだか分からなくなんだろ」
――五条悟に何も言わない、という選択肢。
これは、奪われてきた人間の意地で。同時に何かができるのだと思わせてくれた直哉への誠意であり、何者かであるかを肯定してくれた直哉への信義でもあった。