「俺のために死んでくれ」
月よりもネオンが眩しい夜だった。
目的不明の帳が降ろされた街で、これまた目的不明にとある呪術師の身柄が要求された。
「五条悟を出せ!」
ある一定の範囲域から出られなくなった人間たちから必要とされた者の名前は、一般人の口から発せられるにしては重たくとも、決して彼らにはその音の価値が分からない。
軽々しさすら感じる求めには、それでも切実なものが含まれているのは確かだった。呪術師にとっては親しみのある〝帳〟の存在すら認知できないのだから、超常的なナニカに慣れていない非術師たちは「どうしてこの場から動けないのか」を知る術がない。
理解の及ばない存在は恐ろしいものであるのだ。
不可視のナニカに妨げられて一定の場所から動けない状況は、まさに恐怖そのものだろう。有り得るはずのない不可解なものに囚われて、根拠のある判断などと言ってられる余裕もなく。
藁にも縋る思いで、彼らはネットに書き込まれた名の持ち主を待ち望んだ。
二〇一八年 十月三十一日
十九時過ぎ 渋谷
要求される五条悟の身柄
その深い絶望を真に理解できる者など、この世界のどこにもいやしないのだ。
(だって、誰も知らんのやもの)
俺以外は、と直哉は呟いた。
心臓が、空しさで軋んだ。脈打つ鼓動は錆びついた歯車のようで、上手く呼吸ができているか悩みたくなるほど、かつてなく息苦しかった。
これから訪れる展開を思うと、どうしたって指先が冷える。
現在の禪院直哉が生まれた日から、こんな未来がやって来ることを知っていた。日本の安寧を崩壊させた渋谷事変も、誰が何を企んだかも、正しい理由もなく直哉は知っていた。
同じくして分かっていたことがある。
絶対的な運命は避けようがなく、もしも変えようとするのであれば、釣り合うだけの対価が必要であるということだ。何と呼べばいいのだろうか、たとえば因果応報、たとえば正負の法則、あるいは——
「禍福は糾える縄の如し」
不幸と幸福は、交互にやって来る。
一の不幸に一の幸福。百の呪詛に百の祝福。そうやって世界は在り方の天秤を保っている。
それでも、幸せな結末が欲しかった。
完全無欠の幸福が難しいのであれば、せめて自分と、それから自分の周りだけは優しい世界であればいいと、ちょっとばかし底のほうで足掻いてきたはずだったのに。
「……えらい欲張りになってしもうたなあ」
近付いてきた喧噪は、まるで鉛の泥沼だった。
何もかもを飲み込んで、絡みつくような。そんな気配がするほうへ踏み出した一歩は、想像していた以上に重たかった。
「……ヴァッ⁉」
警戒を怠ったわけでないにも拘わらず、現れた気配に反応することもできなかった。
ひしゃげたような声が転び出たのは仕方がないことだ。なにせ心構えもないままに襟首を捕まれ、思いっきり後方に引っ張られたのだ。あまりの突拍子もない展開には踏ん張りもきかず、倒れはしなかったものの、支えのない身体はよろめいた。
「おい」
どうやら犯人に敵意はないらしい。
しかし。
「説明しろ、直哉」
喉奥から絞り出した声は叱咤に違いなかった。
低い響きに反して顔に色はない。感情という感情を削ぎ落としたような、そんな表情で、どうしてお前がここにいるのだと問われて、直哉は「東京観光や」と答えたあとに「ま、嘘やけどな」即座に否定する。
「そんな理由だったら殴ったぞ」
「コワいこと言うんも相変わらずやね、甚爾君は」
ぶんぶんと腕を振り回すフリをしながらの冗談は、しかし甚爾の優れた身体能力を痛感しているからこそ冗談では済まされない。ついつい防御態勢になってしまうのは反射で、要は投げ飛ばされてきた鍛錬の積み重ねである。悲しい習慣もあったものだ。
「で? 俺は何をすればいい?」
——御当主サマが来てんのに、どうして次期候補者のお前まで来てんだよ。
甚爾は咄嗟の仕草に気を悪くしたわけでもなく、ただ直哉に投げ掛けるだけだった。わざとらしく面倒くさそうに顔を顰めた甚爾に「敵わへんなあ」と、素直に直哉は口にする。
最後まで、悩んだのだ。
渋谷事変に甚爾を巻き込んでいいものか、何度も何度も悩んだのだ。
戦力としては当然欲しい。純粋な戦闘力においての甚爾は、これまで直哉が見てきた人間のなかでも五本指に入る。
けれど彼はすでに禪院から逃げ出していて。
呪術界から抜けることはできずとも。
世界の裏側の、ちびっとマシな場所で。
愛する家族と生きることができているのに。
本人曰く「悪くない」生活を送る甚爾を、直哉の我儘に付き合わせてもいいのだろうか。原作とは別の道を往く彼の、その幸せを邪魔するのは許されることだろうか。
(やって、……禪院から出ぇ言うたんは俺やもん)
関わらなくていい。
巻き込みはしない。
そうやって大見え切って宣ったくせに。結局はこうしてノコノコと姿を現して、試すような真似をする自分の浅ましさと言ったらなかった。
だと言うのに。
「直哉」
俯いた直哉に顔を上げさせた呼び掛けが。
「何を悩んでんのかは知らねえし、聞かれたくねぇんなら聞かねぇ。ただな、覚えとけ」
含みのない、どこまでも真っ直ぐな言葉が。
「お生憎様と俺はな、とっくの昔にお前が持ってくる面倒事には慣れてんだよ。……あー、ほんっとに柄じゃねぇが、まあ、うん、なんだ」
煮え切らないセリフのあとに続く思いが。
「最後まで俺を使え」
みっともなく足掻く心をどれほど救ったか、きっと直哉は生き絶えるまで忘れることはない。
「そんでもって……——」
そうして。
話の仕舞いを飾った要望は、この世界で生きてきたなかでどんな願いよりも強欲で、それでいてひどく優しかったのだ。