虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第101話 東部巡回⑦ ~エンゲージ・エンカウント

 瞳を閉ざして、精神を集中する。澄んだ泉の中に体を沈めていくイメージだ。

 だんだんと周囲の音が失せていく。そこは自身の内なる世界。

 深く、より深く。体に重りをつけて海の底へと落ちて行くような感覚。

 どれだけ潜ったのだろう。その最奥で、さらに下へと伸ばした手の先が何かに触れた。得体のしれない何か。人の身に巣食うには、あまりにも強大で禍々しい暴力の塊。

 リィン・シュバルツァーは内なる世界で目を開いた。そこに闇があった。全てを呑み込んでしまうような濃い闇。暗黒の意思が確かに自分を見つめ返している。

「ぐっ、うっ、ああっ!」

 込み上げる吐き気を無理やりに飲み込む。指先にまで回ってきた鈍痛を押さえ込み、額を床につけてうずくまる。

 動悸が激しい。脈が速い。額に脂汗がにじむ。

 リィンはしばらく動けなかった。かろうじて深呼吸を繰り返す。

 少しすると、どうにか落ち着いてきた。

 現実の光景。一人で使っていた訓練室。その端まで這うようして移動し、壁にもたれかかる。

「……ダメか、今日も」

 汗ばんだ手の平を眺める。

 鬼の力の制御はいまだにできない。その兆候さえない。この能力を完全に扱えたなら、皆を守るための大きな力となるのに。

 感情を黒く染めれば発動こそできるものの、すぐに自我の手綱から手が離れてしまう今の状態では、常に暴走の危険が付きまとう。

 あまり連続して試せるものでもない。今日はここまでだ。

 このまま素振り稽古でもするか。……いや、それも身が入らない気がする。どうしても心が平静を保ってくれない。

 それはヴィヴィの催眠で視た光景のこともあるが、あのことはそこまで気にしていなかった。夢のあとのように、もう鮮明に思い出せない部分も多いのだ。我知らず、胸のあざに手を添える。

 心がざわめく理由は一つ。ラウラのことだ。

 俺の出すべき答えはどれなのだろう

 今までにこういう経験がないのが悔やまれる。誰かの相談に乗ったこともない。うーん。まいった。

 ぐるぐると思考がループしかけたその時、訓練室のドアが勢いよく開いた。

「やっと見つけた! 助けてくれよ、リィン~!」

 いきなり現れたレックスにしがみつかれる。

「な、なんだ。どうしたんだ?」

「ベリルが! ベリルがまともに口も聞いてくれないんだ! 話そうとしても全然取り合ってくれなくて!」

「……? なんで?」

「俺が聞きたいっての!」

 レックスとベリルの仲は良かったはずだ。写真部とオカルト研究会の部室は向かい同士で、夏頃から二人で外出しているのを何度か見かけた。彼のトレードマークのニット帽をベリルに被せたりして、よく笑い合っていた。ミステリアスな雰囲気のベリルだが、レックスといる時だけは年相応の表情を見せていたように思う。

 その仲が転じて、二つの部活を融合させた心霊写真部なる活動も発足させたらしいが、それは最後までトワ会長の承認が降りなかったと聞いている。

「彼女を怒らせるようなことをしたのか?」

「それが……身に覚えがないんだよな」

 自覚がないということだろうか。しかしこの手のことで、俺が力になれるか正直なところ自信がない。むしろ自分が悩んでいるくらいなのに。

「リィンなら解決できるだろ!? 今までみたいにさあ!」

「無茶言わないでくれ。俺にも得手不得手があるし……」

「じゃあそういうの得意そうな人の協力を仰いでくれよ。頼む!」

「わかったよ……」

 必死に懇願されると、やはり断り切れなかった。困っているのは間違いなさそうだし、聞いてしまった以上、知らんふりもできない。とまあ、そんな結論になるこの性格も、さすがにもう自分でもわかってきている。

 ベリルのことを調べるのだから、なるべく異性がいいだろう。さらに男女間の機微にも詳しそうな人だ。興味がありそうな、でもいい。女子とそんな会話をしたことはないが――適当に思い浮かべる顔の中で協力要請をしやすいのは。

「……アリサに力添えを頼むか」

 

 

《☆★エンゲージ・エンカウント★☆》

 

 

 バリアハートの中央広場はざわついていた。

 女神像の噴水の周囲には貴族の奥方が集い、あれやこれやと今後の情勢について思案を巡らせている。話題の中心は自分の暮らしにマイナスの影響が出るのか、否か。

 ここ連日、こんな雰囲気らしい。

 各地の巡回をしてきたが、どうもバリアハートが一番落ち着いていない印象を受ける。

 帝国を象徴する貴族制度の色が濃い都市。その長たるヘルムート・アルバレアの拿捕。ありていに言って、大きな事件だ。

「……生活自体に支障はないようだな。各店舗も通常営業か」

 ガイウスはその長身でぐるりと周囲を見回してみた。

 流通は途絶えていない。交通にも制限はない。当たり前ではある。ヘルムート一人がいなくなったとて、商業への弊害はほとんどないのだ。

 もっとも領地運営や税収に関しては、何らかの影響は出るに違いないが。

 あと以前と違うと言えば、市中で帝国時報を読んでいる人が増えたぐらいか。先行きが見通せず、不安なのだろう。

 なんにせよ、ここはもうよさそうだ。違う地区の様子を見に行こう。

 胸元からバリアハートのマップを取り出し、次の目的地に目星をつける。

 ヘイムダルには及ばないものの、人口30万の大都市だ。学院生が大人数で巡回を行っているが、それでもカバーできる範囲は限られている。

 賑やかな方面へ行くか、逆に路地裏なんかを見て回るか。情勢が不安定になった時、治安に影響が出やすいのは閑散とした地域だと聞いたこともある。

「よお、ガイウスじゃないか」

 後ろから肩を叩かれ、気さくな声をかけられる。

 振り向いた先にあったのは、自分と同じ浅黒い肌の持ち主。ウォレス・バルディアスだった。精悍な顔立ちに笑みが浮いている。

「……え」

「アルゼイドの屋敷以来だな」

 まったく予想しない相手であると同時に、あまりにも自然な立ち振る舞いだったので、ガイウスの反応はひどく遅れた。

 ウォレス准将。貴族連合の筆頭戦力の一角。自分と同じノルドの血族。

 単発の情報が順番に頭に流れる最中、彼のかたわらに立つ女性を視界に留めて、そこでガイウスはようやく飛び退いた。

 オーレリアだ。オーレリア・ルグィン。女性ながらに貴族連合の将軍を務める豪傑が、当たり前のようにそこにいる。

「な、なぜここに」

「ランチの為だ。ちょうど昼時だしな」

 美しい銀色の髪をかきあげ、オーレリアはレストラン《ソルシエラ》に視線を移した。

「腕のいいオーナーがいると聞いている。バリアハートに来たからには、足を運ぶのは当然だろう」

「彼が言うのはそういう意味ではないと思いますが」

 ウォレスは苦笑した。

 最大限の警戒をしながら、ガイウスは《ARCUS》に慎重に手を伸ばした。進行している事態はまったく読めないが、この状況は皆に伝えなくては。

「まあ、待て」

 ウォレスに制される。動きは見抜かれていたらしい。

「俺たちは西部戦線を担当していたんだが、先日に東部に移動してな。バリアハートに寄ったのは進路上にあったからだ。あながちランチというのも間違いじゃない。お前を見かけたのは偶然だ。そう構えるな」

 構えるなと言われて、いきなり力を抜くことができるはずもなかった。

 目的はなんだ。准将と将軍が二人そろって東部に出向くなど、当たり前のことではない。

「バリアハートの領邦軍は撤退した。今は正規軍が市内の警護に当たっている」

「それは俺たちがここにいちゃいけない理由になるのか? 敵対関係ではあろうが犯罪者じゃないんだ。街を歩く権利はあるだろう」

 理屈ではその通りだ。しかし彼らは一般人の枠には入らない。

「それに堂々としていれば見咎められないさ。実際、何人かの正規軍人とはすれ違ってきた」

「素性が知れれば大騒ぎになる」

「騒ぎになるかはお前次第でもある。大事(おおごと)にしてみるか。背中の槍を抜きたいなら、俺は別に止めんぞ」

 試すような視線が射貫いてくる。巡回中に何が起こるかはわからないから、念の為に槍は布でくるんで背に携えてきた。そのせいで目立っていたのかもしれなかったが。

「それは……しない」

「賢明だ」

 オーレリアがうなずいた。

「ウォレスに重ねて言うが、我々は事を荒立てに来たわけではない。が、自分たちの立場も理解している。故に昼食を済ませれば早々に出て行くつもりだ」

「………」

 立場を弁えていれば、正規軍が駐留するど真ん中で食事を摂るなど、考えにすら至らないだろう。おそらく見つかったところで、彼らにとっては大きな問題ではないのだ。そもそもこの二人を同時に相手取って、力づくで拘束できる者などまずいまい。

 どうすべきか。自身の行動を決めきれず、さりとてこの場を離れることが正解なのかもわからない。

 立ち尽くすガイウスを、ウォレスが興味深げに注視した。

「……まとう風の色が前と違う。この短期間で何があった? 以前は〝守るための槍”と言っていたが、考えを変えたのか?」

「考え方は変えていない。ただ技術を学んだ。守るためには、貫く必要があると知った」

「敵をか?」

「意思を」

「いいな」

 空気がぴりついた。風に舞う枯れ葉の一枚が、何かにぶつかったかのように空中で弾ける。

「将軍。ランチの時間を少々遅らせても?」

「腹が空いている方が食事はうまい。好きにするがいい」

「感謝します」

 オーレリアに頭を下げると、ウォレスは踵を返した。背を向けたまま、ガイウスに言う。

「場所を変えよう。ついてこい」

 

 

 ●

 

 

 あっちの店は面白そう。こっちの店はおいしそう。職人通りには興味を惹かれるものがいっぱいだ。

 きょろきょろと目を動かしながら、フィーは《Artisan,s Street》と書かれたゲートをくぐった。

 整然として優雅なイメージのバリアハートにおいて、この職人通りは異色だ。

 各専門の腕のいいマイスターたちが店を構えているが、中には頑固な昔気質の人も多く、貴族相手にも物怖じしない態度で接客している。もっとも彼らも街の風土は承知の上なので、そこは足元を見られず、さりとて目をつけられない程度にうまく立ち回っている印象がある。

 ここに暮らすのは、己の技術で生計を立てる者たち。だからなのか、ヘルムートの騒動のあとでも、ほとんど変化は見られなかった。

 通りすがった何人かに話を聞いてみると「いつか誰かが、何かをやると思っていた」「お上がすげ変わろうが自分たちの仕事は変わらない」と、ある種の諦念と達観があるように思えた。

「ま、だろうね」

 予想はしていた。ケルディックの商魂とは質が違うが、これもたくましいと言える考え方なのだろう。

 フィーは石の坂道を下っていく。その道を挟んで向かい合うようにして、いろんな店舗が軒を連ねている。

 必然、右に左に自分の顔を振り向けていかねばならない。

「あ」

 その途中、フィーの視線が止まった。ストレガー社の新作のスニーカーが、ショーウィンドウに展示してある。

 そこに近づき、しかしフィーが足を止めたのは、そのとなりの店だった。

 ブティックショップ。そちらのショーウィンドウにはティーンズ向けの服が飾られていた。清楚で上品なデザインの服だ。その横に添えてある靴も可愛らしい。

「………」

 以前の自分なら気にもとめず、素通りしていただろう。

 動きにくい。収納が少ない。機能性が足りない。多分、そんなことを言って。

 別に今も興味があるわけではない。着たいとも思っていない。

 ただ〝フィーネさんプロジェクト”の中で、不本意ながらそのような服を着て、無理やりに立ち振る舞いも強制させられた。

 その出で立ちの自分には違和感しかなかったが、同時にそうなっていたかもしれない自分であるとも気付いた。トワにそう言われたのだ。

 ショーウィンドウの中の服と、ガラスに映る自分の姿を重ねてみる。

 もしも団長に拾われることもなく、猟兵として過ごすこともなく、武器を持つこともなく、そうやって生きていたとしたら――。

 全ては詮無い話だった。今の自分と、あり得たかもしれない仮定の自分。どちらが幸せかなど、比べるすべもない。

 一つだけ確かに言えるのは、《西風》のみんなと出会ったことも、Ⅶ組のみんなと出会ったことも、良かったと思っていること。自分の歩んできた人生に後悔はない。

 その服から視線を外す。

「ん」

 甘い匂いがした。バニラエッセンスの香り。通りの一角にアイスクリームの露店が出ている。

 そこに歩み寄って、フィーは店主の男性に訊いた。

「冬なのにアイスなんて売れるの?」

「いや、さすがに売れねえなあ。でも冬に冷たいものを食べるのも粋ってもんよ。どうだい、お嬢ちゃん。一つ買ってかない?」

「買う」

「はやっ」

 いつだって甘いものは食べたい。寒ければ温かいところに移動して食べれば問題ない。

 フィーは自前の財布を取り出そうとして、思い出した。

 ない。カレイジャスに財布を置いて来てしまっている。

「あれ? お嬢ちゃんミラ無し?」

「うん。ツケでいい?」

「酒場じゃないんだから。つーかお嬢ちゃんの年代でツケって言葉、あんまり使わないよ……?」

 ツケはダメらしい。そうだ。オリヴァルト皇子宛の請求書にしよう。雑品購入から損害賠償までなんでもどうぞとアルフィン皇女が宣言している。カレイジャスクルーは無尽蔵の財布を持っているに等しいのだ。

「ねえ、請求書で――」

「この子にアイスを。三段でな」

 左側からぬっと出てきた太い腕が、店主の前にジャラジャラと硬貨を置いた。

「いやいや、五段で頼むわ」

 続いて右側から紙幣が差し出される。

「……え」

 フィーはゼノとレオニダスに挟まれていた。戸惑う間もなく、二人はフィー越しに揉め始める。

「フィーがアイス食べたい言うてるやろが。三段じゃ足りん」

「量より質だ。バニラ、チョコ、ストロベリーの三連コンボがもっとも美味だ。それ以上の味重ねは蛇足というものだろう」

「意義ありやな。バニラ、ストロベリー、バナナ、チョコ、バニラが至高。バニラに始まりバニラで締める。これが一番や」

「品がない」

「言うやんか。じゃあフィーに決めてもらおうや」

「構わん。フィーは三段がいいな?」

「五段やろ? いっぱい食いたいやんなあ?」

 いきなり現れ、いきなり口論して、答えだけを求められる。

 二人に見つめられ、よくわからないまま、とりあえずフィーは自分の要望を告げた。

「一段でいいんだけど……」

 二人は一瞬固まったあと、すぐに店主に向き直った。人差し指をびっと突き付け、鋭くオーダーを飛ばす。

『一段で!』

 

 

 ●

 

 

「噛みつきません? 本当に噛みつきません?」

「大丈夫ですってば」

 何度も何度も確認してくるセラムに、エリゼは都度言い含める。

 ようやく意を決したらしく、彼女はおそるおそるルビィに手を伸ばした。わしわしと慣れない手つきで、その頭を撫でる。

「あ、ああ……できましたわ!」

 ルビィが気持ちよさそうに伸びをしたのを見て、セラムは感無量と言った様子だ。犬に触れることは初めてだったらしい。

 休憩時間、エリゼたちはカレル離宮のテラスで過ごしていた。大きめの丸テーブルを皆で囲み、談笑に興じている。

「エリゼお姉様、袖のボタンが外れかかってるんです。直して欲しいんです」

 侍女仲間の一人であるルシルが、例によって裁縫セットを持ってくる。

「またですか? 前に直したばかりなのに」

「取れるものは取れちゃうんです。困っちゃいます」

 そう言って、抱き付いてくる。あごの下を撫でると甘えた声を出した。まるで子猫だ。

 ルシルは最近特に懐いてくれる。嬉しいことなのだが、やたらと服の補修案件が多くなった。

 袖のボタンだなんて、前とまったく同じ場所なのに。

「ルシル? まさか自分でほつれさせたりはしてないですか?」

「……してません」

 目をそらされる。

 構って欲しいから、ということだろうか。子供の頃は私も兄様の気を引きたくて、道端であえてこけるという荒技に踏み切ったこともあるけれど。

「ねえ、エリゼさん。昨日焼いたクッキーなのだけれど、ちょっと味見をお願いできないかしら」

 サターニャがテーブルの上にクッキーの盛られた皿を差し出す。エリゼはそれを頬張ると、

「おいしいです。とても」

「本当? 改善点は?」

「特に思いつきません。お世辞ではなくて」

「あら、嬉しい」

 照れ隠しなのか、眼鏡をくいっと上げる。その動作はどことなくマキアスに似ていた。

 エリゼは彼女たちの完全に打ち解けていた。

 サターニャとルシルと親しげに話していても、セラムが不機嫌になることもない。近頃はこうして休憩も一緒に取っている。

 一応は囚われの身ということにはなるが、ずいぶんと過ごしやすくなった。

 強いて困ることと言えば、カール・レーグニッツが事あるごとにやってきては「雪帝、雪帝」と因縁めかしてくるぐらいか。しかも核心に触れる部分になると、思わせぶりな態度で帰ってしまうし。

 彼から真実を語られるよりもユミルに戻る方が早かったら、母様に問い質してみよう。なんとなく知事閣下がひどい目に遭わされそうな気がする。

「邪魔するよ。エリゼ、ちょっといいかい?」

 テラスにリゼットが姿を見せた。

『げっ』

 エリゼ以外の侍女三人が、露骨に嫌な顔をする。

 エリゼをいじめていた時分、彼女らはリゼットによくお仕置きをされていた。お仕置きと言っても緩いもので、せいぜいトイレ掃除程度のものだが、副隊長権限を行使されるので抗弁のしようがないものだったのだ。

 自業自得ではあるものの、やはりセラムたちはリゼットに苦手意識を持っている。

「なに? あたしが来て嬉しい感じ?」

「どの口がいいますか!」

 セラムがぷんすかと怒る。リゼットはどこ吹く風でにやついた。

「さっき巡回中にさ、裏手のガーデンにでっかいクモを見つけてね。あれ、退治して来てよ」

「はああああ!? なーんでわたくし達が!?」

「毒々しい八本足なんざ、繊細そうなセドリック殿下のお目に触れさせるわけにはいかないしね。あたしら警護隊は外敵防衛が主な任務だけど、内部環境を整えるのは侍女の業務の範疇でしょーが」

「ぐっ、またそれらしいことを……! 大体わたくし、銃火器は扱えませんわよ!?」

「クモ一匹をどうやって退治するつもりなんだか」

「リゼットさん」

 明らかにからかってるリゼットを、エリゼが一言でたしなめる。「わかってるよ」と、それだけでリゼットも引いた。

 同室であるが、家事全般はエリゼが受け持っている。さしものリゼットも頭が上がらなかったりするのだ。

「私に用事でしょう?」

「あんたの経緯は知ってるから、一応伝えとこうと思って。まあ、クモよりは面倒かもね」 

 他には聞こえないよう、リゼットはエリゼに耳打ちした。

 

 その知らせを聞いて、エリゼは離宮正面の広場へと急ぐ。

 そこに着いた時、ちょうど一機の軍用飛行艇が発着場に着陸するところだった。

 機体側面の出入り口が開き、タラップが地面に降りる。そこを通って、敷地内に足をつけたのは二人だ。

 カイエン公爵と、その後ろにアルティナ・オライオンが続く。

 一足先に出迎えの配置についていたリゼットが、士官としての声音で言った。

「警護隊副隊長、リゼット・ヴェールであります。総司令自ら足をお運び頂き、誠に恐縮です」

「ははは、皇太子殿下にお目通り願うのだから当然のことだろう。……ん、副隊長? 隊長殿はどうしたのかね」

「先日、離宮に現れた巨大魔獣との交戦時に負傷し、現在は任を離れております」

「ああ、報告は入っていたな。幻獣の件か。……ふむ」

 リゼットは鉄面皮を崩さない。エリゼから聞いて幻獣という言葉は知っていたはずだが、無反応を貫いている。

「そうそう、皇族の皆様にお怪我は?」

「ありません」

「なにより」

 とって付けたように言う。ふとカイエンの視線がリゼットの後方に移った。

「おや。これはエリゼ嬢。ご機嫌はいかがかな。侍女としてのお勤めをご立派に果たされているようで」

 勝ち誇った笑みが顔に張り付いている。込み上げる不快感を押しとどめ、エリゼは粛々と礼をした。

「お気遣いの言葉痛み入ります。何不自由ない日々を享受させて頂いております」

「そうかね」

「おかげさまで」

 澄ました声音で言った。心は折れていないことを暗に伝えたのだ。自尊心の高いこの男には、さぞ面白くない態度だっただろう。

 一瞬冷えた空気の中で、相対する視線がぶつかり合う。

 ――ガチリ

「……っ!?」

 その刹那、急激な目まいに襲われた。

 頭を押さえて、しかし足がふらつく。

「エリゼ?」

 リゼットが驚いた目でこちらを見る。

「過労かな? 自愛したまえ」

 薄っぺらく言って、カイエンは離宮のエントランスに歩を進めた。アルティナも一瞥だけ残し、そのあとに付いていく。

 先導案内を別の兵士に任せ、リゼットはエリゼに駆け寄った。

「どうした? 大丈夫かい?」

「……はい、問題ありません」

「顔真っ青じゃないか。救護室に行くよ。肩貸しな。歩ける?」

「すみません……」

 すでに体の変調は治まっている。

 目まいの直前、時計の針が進む音がした。

 幻獣を倒した夜から度々聞こえるようになったこの音。気にしないようにしていたが、さっきのは聞き流せるような小さな音ではなかった。

 そもそもこれは、本当に時計の針の音なのだろうか。

 何重にもぶれた視界の中で、リィンが自分に手を伸ばす光景が見えた気がした。

 

 

 ●

 

 

 トワが実際に巡回に参加できたのは、このバリアハートが初めてだった。積もりに積もった事務仕事に段取りをつけ、巡回最終日となる今日、ようやくカレイジャスから出ることができたのだ。

 書類の処理は下を向くことが多いから、ひどく肩がこる。

 巡回の意義は忘れていないが、それでも外の空気は久しぶりだ。羽を伸ばしたい気分がないでもない。

 担当区域をあらかた回り終えたあと、トワは貴族街にまで赴いて、空いているベンチにちょこんと座った。

「ふはあ……」

 と息を吐く。人通りもない。ここは落ち着いた雰囲気の場所だ。

 睡眠以外での一人の時間は、そういえば久しぶりかもしれない。

「はあ」

 と二度目の嘆息。

 気持ちが浮かない。前から悩んでいることがあった。カレイジャスの活動についてだ。

 初めての戦闘介入は双竜橋。フィオナ・クレイグの救出のためだった。

 続いては黒竜関。アンゼリカからの情報提供があって、ルーレ方面へと出向いた。

 直近ではオーロックス砦。ケルディックの焼き討ちに始まり、ユーシスの後を追う形での介入行動となった。

 いずれも戦果は上がっている。

 だがその全ては後手の対応だ。状況が先にあって、遅れてカレイジャスが登場する。介入という性質上、間違ってはいないが、それで防げなかったこともある。

 ケルディックの焼き討ちはまさにそれだ。

 貴族連合でもなく正規軍でもない第三勢力。それが《紅き翼》が空を舞う意味。

 果たして自分たちはその本質を体現できているのだろうか。状況に流されるままに介入行動を行ってきた私の判断は、カレイジャスの存在意義に沿ったものであったのだろうか。

 この疑問を抱えたまま進めば、いつか肝心なところで重大な決断を見誤るかもしれない。

「……はあ」

 三度目のため息。一番深い。

 艦長に限らず組織の頭に求められることは、明確なビジョンを持ち、それを周囲の人間に伝えられること。そしてその考えを一貫し、いかなる時もぶれないことだ。

 ……多分できてはいないだろう。 

「………?」

 不意に顔を上げ、トワはきょろきょろと周りを見渡す。その異変に気づいた。

 さっきから人通りがない。少ないではなく、ない。

 確かに貴族街は人口密度が低い。しかしここまで誰も通らないということがあり得るのか。話し声も聞こえない。この一帯だけ町から切り離されたような、気味の悪い違和感がある。かすかに耳に届くのは、遠くから聞こえる歌声のみ――

「さっきからため息ばっかじゃねえか」

 その静寂に、聞き覚えのある声がした。

 まさか、なんで。

「よっ」

 彼は笑って、片手を掲げた。

 まるで学院の廊下で顔を合わせた時みたいに、クロウ・アームブラストが軽い足取りで正面から近づいてくる。

「あ……え、ク、クロウくん?」

「おう」

「本物?」

「偽物に見えるかよ。なんならトワのスリーサイズだって言えるからな」

「どうしてそんなの知ってるのかな!?」

「上から78――」

「言わなくていいから! ……80には届いてるよ!」

 変わらない。この軽薄な物言いも、飄々とした立ち振る舞いも。

 何一つ変わらない。自分が知っている彼のままだ。

 会えたら言いたいことがたくさんあったはずだった。それなのに言葉が出てきてくれない。

 全部がいきなり過ぎだよ。

 いなくなる時も、現れる時も。

「クロウくん、どうして」

「座っていいか? となり」

「う、うん」

 クロウもベンチに腰かける。少しの間、二人は無言で前だけを見ていた。それぞれの前を。虚空で交わらない視線。

「少し話そうぜ」

「そうだね」

 

 

 ●

 

 

「待ちなさいって! エマ!」

 セリーヌの呼び止めに耳も貸さず、弾かれたように駆け出す。

 エマはバリアハート巡回には参加しておらず、カレイジャスに待機していた。

 そして、あの〝歌”が聞こえたのだ。

 停泊中の空港を出て、市街へと走る。だんだんと人通りが少なくなっていく。街の中心部に向かっているのに。

 間違いない。姉さんの術だ。

 因果を操ると言えば、人知を超えた力を想像するが、実際はそう神がかったものでもない。

 たとえば――ふとした用事を思い出す。なんとなく家の鍵を閉めたか気になる。後回しにしていた雑用を片付けたくなる。今やろうとしていた雑用は後回しでいいと思う。

 そういう認識のずらしである。それによって、対象者の足の向きをそれとなく変える。無意識への働きかけ。

 それだけのことなのだ。一般人にとっては、だとしても想像しがたい力には違いないのだろうが。

 だから自分にも出来なくはない。アルバレア城館に潜入した折、警備員にかけた暗示術がその類だ。しかし街の一区画もの範囲、規模の人間を術下に置くなど、尋常なことではない。常軌を逸している。

「どこなの……!?」

 歌を媒介として術を拡散しているのだろうから、バリアハートのどこかにいるはずだ。ここに来た目的は私か、それ以外の誰かか。

 意図は読めない。真意は直接会って問い質すほかなかった。

「エマ!」

 セリーヌが追いついてきた。

「一人で行ってどうするの!」

「だって姉さんが……」

「らしくないわよ! 頭を冷やしなさい!」

 一括を受けて、歯がみした。

 確かに罠の可能性もある。単身で動くにしても、仲間との連絡手段は確保しておくべきだった。

 心のどこかで自分の問題だと思っていたのだろう。

 エマは頭を振った。

「そうね。ごめんなさい。状況報告が先だわ」

 カレイジャスにはリィンが残っていた。とりあえず彼に連絡を。

 《ARCUS》を手に取ったその瞬間、エマの足元に魔法陣が浮き立った。

「いけない! そこから離れなさい!」

「っ!」

 陣の精製から術の発動までが早すぎる。飛び退くことさえできず、エマは立ち昇る光の中に飲み込まれた。

 重力が刹那に失せる感覚。これは転移術か。

 やがて光は散り、闇の中へと失せていく。

 景色が変わっていた。街中ではない。やはり転移されられたのだ。しかしどこへ。屋内のようだが、周囲が暗くてよく見えない。

「ようこそ。待っていたわ」

 透き通るような声が響く。

 唐突にスポットライトが点灯し、その頭上から声の主を照らした。

 前方、ステージと思える場所にヴィータ・クロチルダが立っている。注ぐ光を一身に浴びる彼女は、青いドレスを輝かせていた。

「……ヴィータ姉さん」

「ユミル以来かしら。元気そうで良かったわ」

 目が薄闇に慣れてきた。警戒しながら、エマは首を巡らせる。

 装飾の施された肘かけ椅子が、幾重にも縦横に並んでいる。それらはヴィータのいるステージを半円を描くようにして囲み、緩やかな下り傾斜の上に配置されていた。

 広い空間。天井はドーム型。煌びやかまでの豪奢な造り。そうか、ここは。

「中央区のオペラホールよ。さすがの格式の高さが窺えるけど、個人的にはヘイムダルの方が好みかしら。開演回数もそちらが多いしね」

「何をしにここへ来たの? いえ、どうしてここに私を呼んだの?」

「焦らないで。久しぶりの姉妹水入らずだもの。ゆっくり話をしましょう。あなたもステージに上がっていらっしゃい」

 しなやかに手招きをされる。操作する人間は誰もいないはずなのに、スポットライトが点灯し、エマに光を当てた。

 眩しさに目を細めるエマは、深淵の魔女が優しげな微笑を浮かべるのを見た。

「さあ、二度目の予言の時よ」

 

 

 ――つづく――

 

 

 

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