虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第11話 ユミル休息日 ~夢の形は

 

 渓谷道に繋がるゲートの前で、マキアスは渋面を浮かべていた。

「うーん、これは一人ではどうにもならないな」

 腕組みをして周りを見回してみる。砕けた木片やら柱は道の脇に固めてあるが、これらをかき集めたところで元通りに直せる見込みはほとんどない。

 魔煌兵が郷に押し入ってきた際に壊されてしまったゲート。ちまちま補修するより、一から新しいものを作った方が早そうだった。

 今日は朝から分担して、郷の修復に奔走している。このゲートに関しては人手が入りそうなので、それぞれの作業が一段落してから全員で取り掛かった方がいいだろう。

「とりあえずここは置いておいて……次はどうするか。エリオットは鳳翼館に行ってるようだし、僕もそっちを手伝うかな」

 郷の中に引き返そうとした時、渓谷道側から足音が聞こえた。

 真新しい積雪に足あとを残しながら、壊れたゲートを抜けてきたのはクレア・リーヴェルトだ。

「おはようございます。マキアスさん」

「お、おはようございます!」

 クレアの涼やかな挨拶に対し、マキアスは体を石のように硬直させ、直立不動の固い挨拶を返す。

 彼女はくすりと笑みをこぼした。

「そんなにかしこまらないで下さい。今は鉄道憲兵隊としてではなく、皆さんの仲間として接して頂ければ」

「はい! かしこまらず接しさせて頂きます!」

「いえ、ですから――」

 クレアが軍属だからではなく、これは単なる緊張である。しばらくかみ合わないやり取りが続くも、クレアはマキアスが落ちつくまで気長に付き合った。ややあって、

「それでクレア大尉は何をしに渓谷道まで?」

 いくらか平静になったマキアスが問う。ユミル周辺のマップを片手にクレアは答えた。

「早朝に通信設備を強化しておきましたので、今は郷の防衛箇所のチェックに回っているところです。この後は山道側にも下りてみようと思っています」

 ならば自分も手伝います。口を突いて出そうになったが、それはできない。何しろ今はこっちがリィンの手伝い中なのだ。それに山道側には自分もまだ下りたことがない。同行した所でやれることがあるとは思えなかった。

「それでは、これで失礼します」と歩きだすクレアだったが、数歩も進まない内に彼女は足を止めた。

「……マキアスさんのお知り合いでしょうか」

「え?」

 振り向いたクレアの向こう。民家の脇にある雪だるまの陰から、二人の子供がこちらの様子をうかがっていた。

 

 

 ☆☆☆《ユミル休息日 ~夢の形は》☆☆☆

 

 

「君たち、列から離れるんじゃないぞ」

 子供たちを引き連れて雪道を登る。男の子がアルフで、女の子がキキという名だ。彼らは渓谷に生えているフキの葉というものを探しているそうだ。

 幸いにもその葉は、渓谷道を回っていたクレアが見かけていた。必要なら採ってくると彼女が言ったのだが、自分たちで手に入れなければ意味がないと、二人はその提案に応じなかった。

 魔獣も徘徊するエリアである。結局見過ごすことはできず、クレアがフキの葉を見たという場所まで案内することになったのだ。

 というか詳しく聞くと、初めからそれを頼みたくてこちらを見つめていたらしい。

 クレアが先導し、マキアスが最後尾。その間に子供たちを挟むという並びである。

「それで、そのフキの葉とやらをどうするんだ」

「折り鶴を作るんです」

 前を行くアルフがそう答える。折り鶴。聞いたことのない言葉だ。

「折り鶴というのはどういうものなんだ」

「えっと、どう言えばいいかな」

「どうせ言ってもわからない、の」

 考えるアルフにキキはそんなことを言った。可愛らしい容貌とは裏腹に、なかなか手厳しい性格の少女のようだ。

 それでもアルフは教えようとしてくれる。

「フキの葉を何回も折って、一羽の鶴を作るんです」

「そんなことができるのか? どうやってだ?」

「こっちが知りたいくらい、なの」

 キキがため息を差し挟んでくる。彼らも肝心の鶴の作り方を知らないらしい。リィンなら知っているそうなので、あとで彼に教わりに行くという。

 先を行くクレアは度々振り返り、子供たちがついて来ているか確認している。周囲に魔獣がいないかの警戒も怠っていない。

 細やかな気配りをするその後ろ姿を眺めていると、不意に懐かしい気持ちが込み上げてきた。

「……あ」

 生きていれば、クレアと同じくらいの年齢だろうか。

 貴族と平民という、どうしようもない価値観の違いにさらされ、苦境の中で自ら命を絶ってしまった従姉。優しくて、憧れて、姉さんと呼んで慕っていた、その人。

 顔立ちは違うが、そういえば物静かな雰囲気がどことなく似ているような。

 在りし日の姉とクレアを重ね合わせて、ちょっとした物思いにふけっていると、

「分不相応なの。あきらめた方がいい、の」

 可憐な声音で吐かれた毒が、意識を眼前の雪景色に引き戻した。

 キキが振り返ってこちらを見ている。どこで覚えたんだ、そんな言葉。

「あ、あのな」

 口を開きかけるが、キキはすでに興味を失った目を正面に戻していた。なんというか末恐ろしい少女だ。恩を着せるつもりはないが、わざわざ同行している僕に感謝の一つぐらい――

「ありましたね」

 胸中でぼやいていると、クレアが道の外れを指し示した。林の手前。木の根元に大きな葉が生えている。緑色と赤色が一枚ずつ。あれがフキの葉か。

「あ! 紅フキもある!」

 珍しい種類のようで、二人とも嬉しそうだ。急いで駆け出し、クレアを追い越し、フキの葉に手を伸ばそうとする。

 その時、林の奥から低い唸り声がした。魔獣だ。潜んでいる。

「ふ、二人とも下がれ!」

 ダメだ。夢中で聞こえていない。

 ショットガンを構えるも、射線上には子供たちがいる。その上、敵は木の陰で詳しい位置がつかめない。

「くそっ」

 せめて射線を確保しようと横に走る。

 クレアが銃を引き抜いた。彼女も魔獣の存在に気付いている。しかし、立ち位置の条件は自分と同じ。その場から動かなくては撃てない。

 クレアは続けてホルスターから何かを取り出した。トランプよりは一回り大きいのカードのようなもの。表面に光沢があって、鏡のようにも見えた。それを投擲する。まるで意思をもったみたいに、カードは弧を描いて飛んだ。

「そこですか」

 隠れた魔獣の姿が鏡面に映り込む。鋭くなる瞳。

 クレアはトリガーを引いた。照射されたレーザーが滞空するカードに反射し、軌道を変えた光軸が林の奥へと吸い込まれていく。

 短い悲鳴と、走り去る足音。

 マキアスの位置からは見えなかったが、どうやら命中したらしい。焦る素振りも見せない、鮮やかすぎる一発だった。

 導力銃を腰のホルスターに戻し、クレアはアルフとキキに歩み寄った。彼らは起こったことに気付いてさえいない。

「さあ、二人とも。フキの葉を採ったら郷に戻りますよ。結局何に使うのか、よく分かりませんでしたけど」

 赤色のフキを手にしたキキが言う。

「お姉ちゃんになら教えてあげてもいい、の。作ったら見せてあげる、の」

「あら、楽しみですね」

 微笑むクレアは本当に楽しみにしているようだった。

 お姉ちゃんにならって、もちろん僕にも見せてくれるんだよな? こちらに振り返りもしないキキを見やり、マキアスはそんなことを思う。

 ともあれ目的は達成だ。あとは速やかに郷に戻るだけである。

 帰りの道中、クレアに尋ねてみた。

「さっき投げていたカードみたいな物。あれは何なんですか?」

「ああ、これですね」

 彼女はそれを取り出して、マキアスに手渡した。

 実際に持ってみると、カードよりは厚みも重みもあった。表面はやはり鏡のようになっていて、のぞき込む自分の顔――きらりと光る新品の眼鏡が映っている。

 あの地雷でどこかに消えてしまった眼鏡のスペアだ。もう替えはこれ一つしかないので大事にせねば。

 それはともかくと裏面を向けてみる。何らかの機構が組み込まれているようだが、その辺りの仕組みはよく分からない。

鏡面装置(ミラーデバイス)。技術班が作った試作品ですね。攻撃時のサポートとして私が使わせてもらっています」

「こんなものがあるなんて……」

「まあ、実弾は反射できないんですが」

 クレアの導力銃は実弾とレーザーとの射撃モード切り替えができるそうだ。使用導力が多い為、普段は実弾射撃をニュートラル設定にしているとのことだが。

「レーザーとデバイスを併用することで単体での多角射撃が可能となりますが、あくまでも試作段階なのでプログラミングされた動きしかできません。あと熱線反射には優れていますが、物理衝撃には脆いので使いどころにも注意が必要ですね」

 使いどころを間違えない彼女だからこそ、これを預けられたのだろう。しかし開発途中の武器の情報は機密事項にあたるはずだが、このような利点と欠点を簡単に教えてもらっていいのだろうか。

 それを質問してみたところ、

「ええ、軍規違反ですね」

 クレアはさらりと肯定した。

「ですがこれから一緒に行動するわけですから、戦闘における私の得手不得手は知っておいて欲しいんです」

 仲間の特性を知ることは、戦闘効率の向上にも繋がる。

 チェスと一緒だ。駒ごとの動かし方を変えることはできない。しかしその組み合わせがあるからこそ戦術と戦略の幅が広がるのだ。

 そんなことを考えた自分に、内心で苦笑する。何に付けても自分はチェスを絡めるのか。思い返せば、ここ最近まったくチェスをしていない。風車小屋には盤も駒もなかったから当たり前なのだが――そうだ。

「クレア大尉」 

「なんでしょうか?」

 思いついたものの、それを口に出すのはちょっと勇気も必要だった。

「大尉はその……チェスはできますか」

「ええ、ルールは知っています」

「僕は子供の頃からやっていて、学院でもチェス部に所属しています」

「私が学生の頃にもチェス部はありましたよ。確か第一と第二があったと記憶していますが」

 懐かしそうにクレアは言う。彼女はトールズ士官学院の卒業生だ。

 一度間を置き、マキアスは小さく息を吸った。

「こ、今度、お時間のある時にチェスの相手をお願いできまちぇ……せんか」

 噛んだ。僕のバカ野郎。

「……お願いできませんか」

 平静を装い、もう一度言い直す。

「ですが、ルールを知っている程度なのでほとんど素人同然です。さすがにマキアスさんのお相手が務まる自信はありませんが……」

「問題ありません!」

 ぐいっと前に出る。意せずクレアの顔が近付き、慌てて元の位置に引き下がる。

「チェ、チェスは楽しむものですから」

「そうですか?」

 きょとんとしながらも、クレアはこう言った。

「でしたら、こちらこそお願いします。色々と教えて下さいね」

「もちろんです! 今から戦略の要点をレポートにまとめ上げておきます。ああ、そうだ。参考になる書籍も用意しましょう。郷の誰か持っていないか聞き回らないと――し、しまった! 午後からはみんなと釣りをする約束だったんだ。うむむ……」

「いえ、あの、もう少し軽めで大丈夫ですよ?」

 そんな二人のやり取りを横目に見ながら、

「まだまだ男を磨く必要がある、の。眼鏡ばかり磨いてたらダメ、なの」

 採ったばかりの紅フキを寒風に揺らしながら、キキは白いため息を吐くのだった。

 

 

 

「これ、僕一人で直せるのかなあ」

 鳳翼館の裏手、濾過機やらボイラーやらが設置された倉庫の中で立ち尽くし、エリオットはどんよりとした目をそれらに注ぐ。

 最近不調らしく、露天の温泉ならともかく、内湯の温まりの悪いときがあるそうだ。

 何の機材が何の役割を果たしているのかさえ理解できないが、ただ一つ言えるのは、これらの不調はさすがに魔煌兵の襲撃とは関係ないということだ。

「え、えーと?」

 とりあえず適当なパイプに手を伸ばしてみる。触れた瞬間、エリオットは飛び上がった。

「あっつい!!」

 どうやらパイプの中を湯が通っている。半端ではない熱さだ。底冷えする床に手のひらを押し付け、うめき声を上げながらうずくまる。

 どこからかシュンシュンとやかんが沸騰するような音。役割不明なメーターが行ったり来たり、中にはぐるぐる回っているものもあった。

 改めて思ったが、これは自分の手には負えない。

「うう……トヴァルさん呼んで来た方がいい気がする」

 彼ならこういう類の扱いは慣れているだろう。今から探してきて持ち場を変わってもらおう。

「エリオット君、もう直ったの?」

 立ち上がろうとした時、背後からそんな声がした。倉庫の戸口に誰かが立っている。

 ショートカットのメイド服。それだけで分かった。

「あ、メイプルさん」

「様子見に来たわよ」

 言いながら彼女も倉庫の中に入ってくる。この温泉宿の従業員だ。

 フィーとクレアはシュバルツァー邸に泊まっているのだが、エリオットたち男性陣はこの鳳翼館に宿泊している。これから仲間が増えていけば、さすがに全員が屋敷で厄介になるわけにはいかない。

 この状況では一般の観光客などいるわけもなく、バギンス支配人の便宜もあって、ユミル滞在中は自由に部屋を使用していいことになっていた。

「で、どう?」

 およそ宿泊客に対する言葉遣いではないのだが、いかんせん料金を払って泊まっているわけではないので、メイプルにとって接客対象ではないのかもしれない。

 そんなナチュラルな態度でいるものだから、先輩従業員のパープルから注意を受けていたようだが、自分たちは気にしないと伝えたところ、彼女は大手を振って態度を崩せるようになったというわけだ。

 領主子息のリィンにもフランクに接しているし、これがメイプルとしては気楽らしい。

「うーん、僕じゃどうにもならないかも」

「苦手そうだもんね、こういうの」

「え、なんでですか?」

「見た目よ、見た目」

 偏見で下した判断を直球で放り込んでくる。悪気はないらしいが。

「あとでトヴァルさん呼んできます。その方が早い気がしますし」

「ああ、確かにあのお兄さんなら得意そうね。眼鏡の彼は機械の構造とか調べてる内に日が暮れそうだし」

 それも見た目で言ったのだろうが、案外的を射ていたりする。

「だったらここは後回しでいいわよね。次、浴室の掃除手伝って欲しいんだけど」

「というか僕たち、この前の戦闘で壊れた場所の補修をするつもりで――」

「細かいことはいいの。早く片付けちゃいましょ」

 言うが早いかメイプルは強引にエリオットの手を引いた。

 

「その隅、まだ汚れ残ってるわよ」

「あ、すみません」

 デッキブラシを片手にエリオットは汗を流す。浴室の内外、壁面に至るまで丹念に磨き上げる。

 ちらりとメイプルを見てみた。桶の一つ一つに至るまで不具合がないか、熱心に確認している。なんというか、ちょっと意外だった。

 向けられた視線に気付いたらしく、メイプルは「なに?」と手を止めた。

 大雑把な性格そうだから、もっと雑な感じかと思っていました――などと言えるわけもなく、とっさに思い浮かんだこんな質問をしてみた。

「メイプルさんはどうして鳳翼館で働いてるんですか?」

「なんだっていいじゃない」

 にべのない一言で返され、続く言葉が出て来なかったエリオットは沈黙するほかなかった。

 浴室の最終チェックを済まし、メイプルは掃除道具を片付け始める。その最中、

「夢があるからよ」

 不意に言った。「え?」と聞き返したエリオットには振り返らず、手も止めないまま彼女は続けた。

「私、いつか郷を出て都会の大きなホテルとかで働いてみたいの。だからここで修行中。鳳翼館でしっかり働ければ、他のどこに行っても務まると思うし」

 内戦中という事もあって今は閑散としているが、ピーク時の鳳翼館の業務は多忙の極みだとリィンから聞いたことがある。温泉郷と名高いユミル。その主要宿泊施設。ホテル業界の中でも鳳翼館の名は広く知れ渡っている。そこで修行を積んだとなれば、それなりに箔もつくし、実際実力も身につくのだろう。

「まだまだだってパープル姉さんには言われるんだけどね。あなたは持ってないの? 自分の夢」

 不意打ちだった。答えに窮する。言葉に出していいか迷いがあった。

「僕の……夢は」

 

 ――この内戦が終結し、帝国内のいざこざが無事解決したら。その時こそ、音楽の道に進むことを許そう――

 

 ガレリア要塞を発つ間際、父さんから言われた言葉だ。以前なら手放しで喜んだかもしれない。

 でも今は複雑だ。

 内戦という環境で自分自身が実感した。物資が足りなくなると、人々の生活は切迫してくる。そうなると絵画でも音楽でも、芸術と呼ばれるものは二の次になる。当たり前だ。絵を見ても音を聞いても腹はふくれないのだから。

 音楽は人の心を豊かにする。そう思っていたけど、果たしてそれは正しいのだろうか。例えば苦しんでいる人間の前でバイオリンを弾いて何になる。その人は救われるのか。

 余裕があるからこそ、人は芸術に目を向けるんじゃないか? 音楽が心を豊かにするんじゃなくて、心が豊かだから音楽を聞こうという気になるんじゃないか?

 だとするなら、僕が目指したものは何? 平和という地盤がなければ、そもそも無価値なもの?

「もしかして、音楽好きなの?」

「え?」

 ぐるぐる回る自問の中で、メイプルがそんなことを言った。

「ラウンジにバイオリンケースが立てかけてあるのを見たわ。あれ、あなたのじゃないの?」

「ええ。久しぶりに弾こうとしたら弦が切れちゃって」

「ふーん」

 気のない返事をよこしながらも、メイプルは片付けを続けている。

「じゃあ、夢は音楽家だったりして。見た目通りね」

 それは見た目通りらしい。メイプルのイメージはよく分からない。

「それはまだ考え中っていうか、悩み中っていうか」

「そうなんだ。なんで?」

「あ、えっとですね――」

 明け透けに物を言う相手だと、こちらもついつい隠さずに話してしまう。しかし悩みの全てを整然と伝えられるほど口は上手くなく、所々が曖昧な説明になってしまった。「うーん?」と彼女は首をひねるも、何とか理解に努めようとしてくれている。

 少しして、彼女は言った。

「こういう宿泊施設ってね。忙しいくせにお給料は高くないし、見た目ほど華やかな世界でもないの。都会に出ても、それはきっと変わらない。変わるとしたらクレーム対応の量が増えそうってとこかしら。都会の貴族って面倒そうだし。でも私はこの仕事が好きだからやってるの」

「好きだから……?」

「そう。エリオット君って音楽は好き?」

 メイプルは最初の質問を繰り返した。

 その答えだけは、いつだってはっきりしている。生まれた時からずっと一緒にあったもの。音楽と共に、自分は今まで生きてきた。

「はい」

 迷いなく、真っ直ぐにそう答える。ようやくメイプルは手を止め、エリオットに向き直った。

「難しいことはよく分からないけど、それじゃダメなの?」

 

 

 

「――と、午前中にメイプルさんとそんな話をしたんです」

 エリオットから鳳翼館でのあらましを聞いて、トヴァルは「なるほどな」と雪空を振り仰いだ。ちらちらと落ちてくる小雪が頬に乗っては溶けていく。

 渓谷道を少し進んだ先にある橋の上。横一列に並んで釣り糸を川に垂らしながら、トヴァルはエリオットに訊いた。

「それで親父さん――クレイグ中将には結局なんて答えたんだ?」

「……その場では答えられませんでした。父さんも焦って答えを出さなくていいと言ってくれましたけど」

「そうか」

 実際、難しい話だった。芸術で生計を立てるのは、言うほど簡単なものではない。実力は元より、人脈と運、定期的な収入を得る為にはスポンサーも必要になってくる。才能があっても環境に恵まれず、町を渡り歩く無名の音楽家は決して珍しいものではない。

 ただその点に関していえば、エリオットはスポンサーを得やすい。本人の意向はどうあれ、紅毛のクレイグの子息というネームバリューは確実にプラスに働くからだ。父親とのギャップという点で話題性も取れる。

 だが、彼が今悩んでいるのはそこではないのだろう。音楽の意義そのものだ。

「うーむ」

 トヴァルが渋い顔を浮かべる。その横で、

「……チェス、大尉とチェス……」

 心ここにあらずのマキアス。さらにその横で、

「大物の予感ですわ」

 一心不乱に釣竿を振るアナベルの姿があった。彼女とは渓谷道の入口で出くわし、いい釣りスポットがあるからと案内してくれたのだ。ちなみにリィンは足湯場の補修をしてから、間に合えば合流するという話になっている。

「つーか、マキアス。エリオットの話を聞いてたのか?」

「もちろんです。戦術をまとめる為にはレポート用紙があと十五枚は必要ですので」

「聞いてねえな、こりゃ」

 渓谷道のゲートを補修している時から、彼の様子はおかしかった。何やらブツブツと呟きながら作業していて、しばらく放っとくと、地面にチェス盤のマス目を描きだす始末である。

「チェス成分の不足による禁断症状だったりしてな」

「危ない人ですよ、それじゃあ」

「はは、違いない」

 軽口を返しつつも、出会った時にチェスの暗号用紙を捨てたことが影響しているんじゃないだろうかと、トヴァルは内心でちょっとだけ不安になっていたりした。

「まあ、親父さんの言ったことは正しいと思うぜ。最終的にどうしたいかは、いつかお前さんの意志で決めるといい。考える時間はまだあるんだからな」

「そう、ですよね。ありがとうございます、トヴァルさん」

「お兄さんへの人生相談はいつでも受付中だ。覚えておくといいぜ。それにしても――」

 アナベルの足元。釣った魚を入れておく為の、スチールボックスに目を向ける。びちびち跳ね回る大量の魚。対してこちらは三人合わせて数匹という情けない結果だ。

 彼女はケネスというリィンたちの同級生と知り合いで、しばらく一緒にいたのだが、訳あって別行動になったのだという。

 二人で交わした約束の集合場所こそがこのユミルなのだが、未だケネスは姿を見せない。アナベルは彼を待ちながら、この地で釣りに興じているというわけである。

「アナベルさんって言ったか。あんたすごいな」

「このくらい朝飯前ですわ。実際、朝食程度にしかなりませんし」

「どんだけ食う気だよ」

 話している内にもまた一匹釣り上げる。

 これは負けていられない。

「お前さんたち。俺たちも釣りまくるぞ。フィーにエリゼお嬢さん、それにクレア大尉も驚かしてやろうぜ」

「クレア大尉……?」

「ああ、夕食にとびきり美味いやつを持っていこう。みんな喜ぶぞ」

「喜ぶ……? ふ、ふふ」

 マキアスのやる気がいきなり上昇する。不敵な笑みを浮かべながら眼鏡をくいっと押し上げ、釣竿を構え直した。

 しかし当たりがあったのは、またしてもアナベルだった。その上、今度は折れんばかりに竿がしなっている。

「こっ、これは大物ですわ!」

 ずるずると彼女の足が橋の際まで引っ張られていく。

「こいつはやばいな。俺たちも加勢するぞ!」

「は、はい!」

 エリオットとマキアスは両サイドから、一緒にアナベルの釣竿を支える。トヴァルは後ろに回り、彼女がそれ以上引きずられないよう逆側に引っ張った。でたらめな重さだ。

「根掛かりじゃねえだろうな。尋常じゃねえぞ……!」

 三分は粘れただろうか。四人の表情にも疲れが出てくる。急に糸の引きが弱くなった。

 次の瞬間、そいつを釣り上げる――というか自分から橋の上に跳ね上がってきた。

 どすんと着地した衝撃で、近くの木に積もっていた雪が、バサバサと残らず落ちた。

『……へ?』

 異口同音に間の抜けた声をもらす。橋の上にいるそいつはどう見ても魚ではなかった。

『ゲコッ』

 と鳴く。ありていに言えばカエルだ。それもとびきりでかいカエル。橋の横幅を埋める程の体躯がある。

 通称、ユキワリゲェロ。個体数は少ないがユミルに生息する大型魔獣。まさかこんな奴が釣り針にかかっていたとは。

「な、なんだ。この魔獣……?」

 マキアスが一歩前に出る。

 普通は無意識に足を下げるところだ。クロとルーダと心を通わし触れ合う中で、知らずの内に魔獣を恐れる気持ちが薄れていたのかもしれないが――なんにせよ、それは彼のミスだった。

 ユキワリゲェロの目がきょろりと動いてマキアスを捉える。

 大口が開く。物凄い速さで舌を伸ばした。瞬時にマキアスの腰に長舌を巻き付け、一息に引き寄せる。

「あ、マキ――」

 バクン。

 エリオットが何かを言いかけた時には、マキアスはユキワリゲェロに食われた後だった。悲鳴もなかった。

 全員が硬直。衝撃の光景。最悪が起こった。

「う、うわあああ!? マキアスーッ!!」

「マジかよ! マジなのかよ!?」

 青ざめるトヴァルとエリオット。

 閉じた魔獣の口の隙間から、マキアスの腕が突き出てきた。助けを求めているかと思いきや、震える手が持っていた何かをぽいっと遠くに投げ捨てる。

 雪道の上に転がったのは、彼の眼鏡だった。

「いやいや! もっと他にやることあるよ!」

「なんで『僕のことよりこの眼鏡を頼む』みたいになってんだよ!」

 ユキワリゲェロはもぐもぐとマキアスを咀嚼している。久しぶりの餌を味わっているようだ。

 状況はさらに悪くなる。満足したのか、ユキワリゲェロは跳躍し、川に帰ってしまった。

「追うぞ、エリオット! このまま逃がしたらマキアスはもう帰ってこない!」

「ま、魔導杖持って来ててよかった。アナベルさん、釣竿は離さないで下さい!」

「お任せですわ。釣師である以上、かかった獲物を逃がすつもりはありません。ふんぬぎぎぎぎーっ!」

 ギリギリと歯を食いしばり、橋の欄干に足をつっかけて踏ん張り、鬼の形相で竿を引くアナベル。他人にはあまり見せられないその顔の横を抜けて、トヴァルたちは橋の下に飛び降りた。

「いたぞ! アーツ主体で攻めろ。口の中のマキアスに気をつけろよ」

 幸い流れは早くなく、深さも腰下といったところだ。逃げようとするユキワリゲェロの背を追いつつ、エリオットは魔導杖を振り上げる。

 駆動させたのは火。水生魔獣なら熱に弱いという目算だったが、外の冷気と川のしぶきで威力が減衰。炎は相手に届く前にかき消えてしまった。

「俺がやる!」

 トヴァルの《ARCUS》が高速で駆動する。次は氷だ。体ではなく四肢を狙って、生成された氷刃が舞い飛ぶ。直撃はしたが、ユミルの厳寒に耐える分厚い皮膚に阻まれ、さほどの効果もなかった。

「くそっ」

 冷たい川に浸かり、こちらの体力は減るばかり。アナベルが竿を離さず粘ってくれているおかげで、敵の動きは鈍いが、それもいずれ押し切られる。糸だって今まで切れていないのが不思議なくらいだ。

 ……やりたくないが、やるしかない。

「エリオット、すまん。川から上がってできればよかったが、そうも言ってられん」

「え、何がですか」

 いきなり謝られたエリオットは事態が理解できなかったが、トヴァルがスタンロッドを引き抜いたのを見て、たちまちに顔を引きつらせる。

「ま、まさか……トヴァルさん?」

 確認の目を注ぐと、彼は空々しい笑みを浮かべてうなずいた。聡明なエリオットには、その笑みが何を意味するか分かってしまった。すぐさま逃げ出そうとするが、トヴァルの行動は早かった。

 スタンロッド起動。最大出力の電流がバリバリと走る。それを川の中に突き入れた。

 縦横無尽に水中を駆け抜ける雷撃。エリオットの悲鳴に続き、トヴァルの意識も飛ぶ。

『ゲゲコココオッ!?』

 ユキワリゲェロにも電気ショックが到達する。体を激しく震わし、大きな口が開いた。口腔内からずるりとマキアスが滑り落ちる。

 釣り糸も切れたらしく、巨大なカエルはびょんびょん飛び跳ね、あっという間にどこかに逃げてしまった。

「あー、獲物をばらしちゃいましたわ……あ、そうです。皆さん、ご無事ですか?」

 今さらになってトヴァルたちの安否を思い出したアナベルが、橋の上から彼らの様子をのぞく。

 岸辺やら岩肌に引っ掛かり、ぐったりとして動かない三人の男たち。時折ぴくぴくと短い痙攣を繰り返している。

「あら、まあ……どうしましょう。とりあえず一人ずつ釣り上げましょうか」

 再び釣竿を振るアナベル。

 その後、彼女に救出されるまで、彼らはユミルの冷水にさらされ続けたのだった。

 

 

 ――END――

 

 

 

 

 ――Side Stories――

 

 

 《猛将列伝のすすめ②》

 

「うん、できたよ!」

 スパナを持ったまま額の汗をぬぐい、ミントは後ろの兵士に振り返った。

 彼は感心したように修理が終わったばかりの戦車に目を向ける。

「はあー、すごいもんだな。本当に直しちまったのか」

「駆動系と配線、あとラジエータの仕組みが分かればそんなに難しくないよ」

「いや、それが分からないから苦労するんだって」

 兵士の名はザッツ。元々の管轄は監視塔だが、訳あって今はノルド高原――ゼンダー門の部隊、第三機甲師団に合流している。

 そのゼンダー門の正面入り口に隣接する、あまり広いとはいえないスペースに、数台の戦車が停まっていた。

 ミントが直したというのは、その中の一台。旧式の戦車だった。

「今時の士官学院生ってのはこんな工学も習うのか?」

「習わないよ。伯父さん譲りなのかなー。何となく機械の中身が分かるんだよね」

「伯父さんってメカニックか何かか?」

「学院の教官だよ。導力学の先生」

 ミントはトリスタを出てから実家のあるルーレに帰ろうとした。しかし案の定というべきか、列車を乗り間違え、結果このノルドの地へとたどり着く。鉄道規制も厳しくなり、ルーレに引き返すこともできなくなった彼女は、このゼンダー門で保護されるに至ったのだ。

 以降、自発的に雑務の手伝いを続けていたのだが――

「食堂を手伝えば十枚単位で皿を割るし、掃除を頼めば余計散らかしてくれるしで困ってたが、人間取り柄の一つもあるもんだな」

 しみじみ言うザッツに「それほどでもないよ~」と恥ずかしそうに頭をかくミントは、どうやら褒められていると思っているらしい。

 士官学院生と言えど、本来は一般人に戦車の内部機構をいじらせるなどありえないが、如何せんこの人手不足。背に腹は変えられないといった体である。

「とりあえず試運転だな。おーいマニング、起動にエラーコード出てないか?」

 ザッツが呼びかけると上部ハッチが開いて、戦車の中からもう一人の兵士が顔を出した。

 彼も監視塔からゼンダー門部隊に合流した一人だ。マニングは親指を立ててみせ「問題なし。ミントちゃんすごいよ」と得意気に胸を張るお団子頭を見下ろした。

「ふふーん、何でも任せてくれていいから!」

「頼もしいね。それじゃあ少し動かして見るから離れてくれ」

 オーバルエンジンに火が入り、ドッドッドと振動が足下から伝わってくる。

 そして、戦車は前進を――しなかった。フル出力、最大戦速で後退した。

 ブレーキさえ間に合わなかったようで、背後の壁面に突っ込み、ギュラギュラギュラとけたたましい音をがなり立てながら、高速回転するキャタピラがコンクリートブロックを破砕し続ける。

 整備任務中だった他の兵士たちや、近くに繋いであった軍馬の群れが一斉に騒ぐ中、

「ほええ?」

 ミントだけがそんな間の抜けた声をもらしていた。

 

 

 正規のメカニックが戦車の修理をして、砕けたコンクリートを片付け終わった時には、すっかり日が暮れていた。

「えへへ、ごめんなさい」

 食堂の椅子に座るミントは、テーブルを挟んで対面するザッツとマニングに頭を下げた。

「はは……まあ、仕方ねえさ。そもそもがこっちの仕事だしな」

「というかミントちゃん、どんな修理したんだ。操作が全て反転した上に、出力メーター振り切ってたよ」

 ザッツが苦笑いを浮かべる横で、マニングは肩をすくめた。

「はあー、今日は寝られそうにないな」

「仕方ないよ、こればっかりは」

 深く嘆息する二人に、ミントは小首をかしげた。

「まだ何かあるの?」

「始末書。気がめいるぜ」

 そう答えたザッツの表情には疲れがあった。

 今日一日、貴族連合軍との戦闘はなかったが、緊張状態が続いている。気分転換もできない状況で、疲労が溜まらないはずもなかった。

「ふっふっふ。いい物があるんだけど」

 ミントは不敵な笑みを浮かべてみせる。ついにこの時がやってきたのだ。

 足元の学生カバンからごそごそと何かを取り出し、不思議そうな顔を浮かべる二人の前にドンと置く。

『本?』

 異口同音に言って、ザッツたちはそれを注視する。

 燃え盛る炎のような真紅の装丁。辞書ほどの分厚さがあるページ数。雄々しい筆書きで表紙に銘打たれるは《猛将列伝》という飾り気のないタイトル。

「なにこれ?」

「小説? ずいぶんなボリュームだけど……」

 訝しげに《猛将列伝》を眺める二人に、ミントはいかにも誇らしげに言った。

「小説というよりは実録記かな。登場する主人公も実在の人だよ。始末書を書く前にちょっと読んでみたらどう?」

 ずっしりと重い本を手に取り、ザッツは困っている様子だった。

「読んでみたらって言われても、こんな量すぐには読めないって」

「気分転換だと思って。ほらほら!」

「まったく。じゃあ、ちょっとだけな」

 しぶしぶ本を開くザッツを置いて、「じゃあ僕は先に自分の始末書を仕上げておこうかな」とマニングは食堂を出ていく。

 夕食の時間も済んでいるので、食堂にはミントとザッツしかいない。

 静寂の空間には、パラパラとページをめくる音だけがあった。

 

 

「ふう、やっと始末書終わった。コーヒーでも淹れてちょっと休もう」

 凝り固まった肩をぐるぐる回しながら、マニングが食堂に戻ってくる。

「ってええ!?」

 食堂に足を踏み入れるなり、彼は驚きの声をあげた。

 数時間前に退室した時と、まったく同じ光景がそこにあったからだ。

 本を読むザッツと、それを静かに見守るミント。

 しかもザッツは何かに憑りつかれたように、一心不乱にページを読み進めている。

「ちょ、何やってるんだ、ザッツ。まさかあれからずっとそこで」

「邪魔すんじゃねえ!」

 いきなり張り上げられたザッツの怒声に、ぎょっとしてマニングはミントに目を向けた。彼女も立てた人差し指を口元に添え、静かにしてと無言で告げている。

 なんだ、こいつら。

 どうにも状況が飲み込めず、食堂にやってきた目的も忘れてマニングは立ち尽くすのみだ。

 ややあって、ザッツが本をぱたんと閉じた。ちょっとだけと言いつつ、全て読み終えてしまったらしい。休憩も挟まなかったのか、両目が充血している。

 余韻に浸るようにしばらく沈黙していたが、不意にザッツの口が開いた。

「……いくつか質問をしたい」

「いいよ」

「このエリオットという主人公。本当に実在の人物なのか?」

「そうだよ」

 ザッツの額にあぶら汗が滲んだ。

「これは実録記って言ったよな。だったら、ここに登場する“猛々しき宣言”の数々は彼が実際に言い放った言葉ってことか」

「うん」

「じゃあ彼の手下にあたる“猛将の従者”ってのも……」

「いるよ」

「やべえな、猛将エリオット」

「本物はこんなものじゃないよ」

 マニングには彼らの会話が理解できなかった。ただ、主人公がやばいことだけは分かった。

「これ、前編ってことは後編もあるんだよな。ミントちゃん今持ってるか?」

 トリスタを離れる直前に伝えられ、頭に叩き込んだその台詞をミントは言う。これだけは一字一句間違えなかった。

「猛将列伝・上巻は定価780ミラ、税込み。下巻は鋭意制作中。お買い求めはトリスタの《ケインズ書房》まで足をお運びください」

「くそうっ!!」

 拳でテーブルを叩きつけ、ザッツはわなわなと肩を震わした。

「トリスタって占拠されてるんだろ!? 発売されてても続き読めねえじゃん! 貴族連合の野郎ども、絶対許さねえ……!」

 食堂の片隅でガンガンに士気を上げる一人の兵士。

「ミントちゃん、この小説もっと広めようぜ。俺らだけが猛将の偉業を知るなんてもったいねえよ」

「うん、そうだよね」

 二人の目が同時にマニングに向けられる。差し当たっての手近な対象だった。

「おい、なんだよ。どうしたんだ二人とも、え? ちょっと……」

 彼の両側からザッツとミントがゆっくり迫る。マニングはじりじりと壁際に追い詰められた。

「マニングさんも読んでみる? おすすめだよ」

「ああ、読むべきだ」

 彼に選択権などなかった。

「あ、あ……」

 押し付けられた《猛将列伝》。二人の手によって、マニングは強制的に着席させられる。

 深夜の読書会が始まった。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 《芸術乱舞②》

 

 ラクリマ湖。ノルド高原の北方に位置する巨大な湖である。その湖畔にゲルと呼ばれる簡易組み立て式のテントがいくつも立ち並んでいた。

「馬のエサやりも終わり。あとは何か手伝えることはないかな」

 馬を繋ぐ柵の具合を確かめたあと、トーマは桟橋側へと向かう。

 現在ノルドの集落は、戦火から逃れる為にラクリマ湖畔へと移っていた。

 先だってトリスタから戻って来た兄のガイウスは、集落の為に色々と奔走している。父のラカンも民の安全を守る為、周辺の警戒や巡回に尽力している。

 ウォーゼル家の次男として、自分もやるべきことをやる。それがトーマの考えだった。

「きゃあああ!」

 妹のリリの叫び声がした。湖からだ。まさか落ちたのか。

「リリ!」

 慌てて桟橋に走る。見えたのは湖上を走る銀色の傀儡。兄が連れてきたⅦ組の仲間――ミリアムが操るアガートラムとかいう傀儡だ。

 水しぶきを蹴立てて疾走するアガートラム。その大きな腕にリリは抱かれていた。

「ミリアムお姉ちゃん、もっと早く早く!」

「よーし、ガーちゃんフルパワーだー!」

 反対側の腕に納まるミリアムが指示をすると、アガートラムはさらにその速度を増した。どうやらリリは楽しんでいるようだ。

「今さらだけど、あの銀色の人形って何なんだろ……?」

 縦回転やら横回転やら、アクロバティックな動きまで始めたアガートラム。本当にリリが落っこちないか心配だ。

「はああ……」

 勢いを増し続ける水柱を眺めていると、深いため息が聞こえてきた。

 風にブロンドの髪をなびかせ、陰りのある表情で空を見ている女性が一人。彼女は以前の実習でノルドに来たことがあるから知っている。

「あ、アリサさん……」

 岸辺に座る彼女は、先ほどからため息を連発している。あからさまに元気がない。時折誰かの名前をつぶやいては、膝に顔をうずめたり、また空を見上げたり。やはり他の仲間の安否が気になるのだろうか。

 声をかけるのも思わず遠慮してしまうほどの雰囲気だったので、トーマはそっとその場を離れることにした。

 再び集落側に戻ったところで、一頭の馬を引き連れたガイウスと出会った。

「あれ、ガイウスあんちゃん。どこか行くの?」

「ああ、少し届け物があってな」

 ガイウスは手に小さな包み袋を持っている。これが届け物らしい。うん、手伝えることを見つけた。

「あんちゃん、それ僕に任せてよ」

「トーマが届けてくれるのか。いや……しかし……」

 なぜかためらっているようだった。

 それでも自分が行きたいと言い張ると、ガイウスも根負けした様子で「わかった。気をつけて行くといい」と、小包みをトーマに手渡した。

「大丈夫。魔獣がいる場所は通らないよ」

「いや、そういう意味ではないが。うむ、とりあえず気をつけろ」

「……? それでどこまで届けたらいいの?」

 ほのかに緊張を滲ませた声で、ガイウスは告げた。

「石切り場だ」

 

 

 ラクリマ湖畔から東側に向かって馬を走らせる。集落から石切り場まで、それほど距離はない。

 トーマは背に振り向いて、後ろに乗るシャルに声をかけた。

「馬の速さ、これくらいで大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 そうは言うものの、トーマの腰に回したシャルの腕は少し強張っていた。見慣れてはいても、乗り慣れない馬の背はやっぱり怖いのかもしれない。トーマは心なし速度を緩めてやる。

 彼女は友達だ。普段はゼンダー門の食堂で手伝いをしている。内戦が勃発した際、シャルは同じ食堂で働く父親――マルクスの指示でノルドの集落に身を寄せていた。

「ちょっと届け物をしてくるだけだから、シャルは休んでても良かったんだよ?」

「うーん……でもシーダちゃんがああ言ってくれたし」

 シャルが同行しているのは一つ下の妹、シーダの提案によるものだった。

 最近シャルお姉ちゃんは働き過ぎだから、気分転換してきた方がいいだとか。石切り場なら静かでゆっくりできるだとか。馬の上ならトーマお兄ちゃんの独壇場だとか。訳の分からないことを言い出す妹に押し出される形で、シャルも連れて行くことになったのだ。

「シーダって時々よく分からないんだよな」

「ねえ、トーマ。もしかして私、みんなと残ってた方がよかったかな」

「あ、そんなことないよ!」

「そう?」

「う、うん」

 自分の体をつかむシャルの細腕が、ほんの少しだけさっきより強くなった気がして、トーマは熱くなった顔を正面に据え直した。

「ところで、石切り場に誰がいるの?」

「あんちゃんが学院でお世話になってる人。美術部の先輩って言ってたよ」

「ガイウスさん、気をつけろって何回も念押ししてたけど」

「気難しい人なんだって」

 

 

 石切り場の入口に馬を繋ぎ、トーマとシャルは歩いて奥へと向かう。

 不規則に立ち並ぶ石塊の間を抜けていくと、その人物はすぐに見つかった。手頃な大きさの石材の前に座り、ノミでひたすらに石を削り続けている。

「あ、あの」

 トーマは遠慮がちに声をかけてみた。反応はない。若干気圧されながら、もう一度言う。

「えっと、クララさんですよね。兄からの届け物をお持ちしたんですが……」

 彼女がこのノルドでガイウスと再会したのは偶然だったそうだ。ガイウスはクララにも集落で過ごすよう勧めていたのだが『制作活動に集中できる場所まで案内しろ』と相変わらず彫刻一辺倒で聞く耳を持たない。

 紹介された石切り場は気に入ったらしいのだが、今度はここからまったく動かなくなってしまった。それでガイウスは足しげくクララの元に通い、甲斐甲斐しくも食料を始めとした生活用品を届けている。

 おもむろに彼女は手を止め、緩慢に振り向いた。

「……なんだ」

 鋭い目が二人を射抜く。臆したのか、シャルはトーマの背に隠れた。

「あ、僕たちは」

「誰でもいい。何をしにきた」

「えと、届け物を」

「そこに置いていけ」

 確かにこれは気難しい人だ。しかし兄の客人は弟である自分にとっても客人。失礼があってはならない。

 トーマは言われた通り、持って来た包みをそばに置いた。

「それじゃあ失礼します。帰ろうか、シャル」

 怯える様子の彼女の手を引き、踵を返そうとする。

「待て」

 クララが立ち上がった。不手際があったのだろうか。「なんでしょうか」と足をとめるトーマに、彼女は一言こう告げた。

「脱げ」

 言われた意味が分からなかった。

 近付いてくるクララの手が怪しく動いている。これは本気だ。しかもその物を見るような無機質な視線は、自分ではなくシャルに向けられていた。

 何だか知らないが、このままだとシャルが脱がされる。

「逃げよう、シャル!」

「え、え? なに!?」

「早く馬の所まで逃げるんだ!」

 とまどいながらも駆け出すシャル。その後を追おうとした時、ガッと肩をわし掴まれ、トーマは地面に組み伏せられた。

「ガイウスの弟とか言ったな。そういえば筋肉のつき方が似ている」

「な、なんのことですか?」

「参考になりそうだ。貴様も脱げ」

 襟首に手をかけられ、服をぐいぐい引っ張られる。

「うっ、うわあああ!」

 士官学院ってこんなに怖い人がいるんだ。美術部ってこんなに危険なんだ。あんちゃんはそんなところで、ずっと頑張っていたなんて。

 抗う術なくはがされていく上着。トーマは観念した目を遠ざかるシャルの背に向ける。必死で走っているから、こっちには気付いていないようだ。

 これでいい。

 シャルは守れたし、兄のお客人の望みにも応えている。ウォーゼル家の次男として、ノルドの男として、自分はやるべき役割を果たせているのだから。

 宙を舞う衣類を涙目で見やりながら、トーマはそう思い込むことにした。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございます。

男共を釣り上げるアナベルさんの剛腕よ。
ユミル休日初回はこれにて終了です。次からはノルドでゲコゲコします。

あ、近々『虹の軌跡Ⅱ 人物ノート』を更新予定ゲコ。前作と異なり、本編の進行に合わせて随時更新していくスタイルです。長丁場のストーリー形式なので、忘れがちな設定や個人個人の細かな状況などは、そこを見て頂ければ大体把握できるようにゲッ、しようと思います。

捕捉ゲェロ。休息日全話に登場しているクレア大尉の時系列ですが、後編(キキ、アルフ、マキアスとフキの葉採り)→中編(リィンと山道側に向かう)→前編(フィーネさんプロジェクト)という流れです。忙しい一日ゲコね。

次回もお楽しみ頂ければゲコゲコォッ
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