「アタシはカレイジャスで待ってるから。せいぜいがんばって来なさい」
ふふんと笑って、セリーヌはエマの肩から飛び降りた。リボン付きの尻尾がふりふりと揺れている。それを見下ろしながら、エマは魔導杖を片手に携えた。
ケルディック近郊に停泊中のカレイジャス、その甲板の先端に彼女は立っていた。後ろでは仲間たちが見守っている。
出発間際にリィンが言った。
「じゃあ委員長、俺たちの中からサポート役を一人選んでくれ」
「そうですね。でしたら……フィーちゃん。お願いできますか?」
「ん、任された」
名指しされたフィーはエマのとなりに移動する。
「それで何を運べばいいんですか?」
「ごめんね、エマちゃん。あれだよ」
Ⅶ組に混じって甲板に来ていたトワが指さした先に、5ケースもの木箱があった。全ての箱に酒瓶がぎっしりと詰まっている。
「昨日の買い出しの時、いつの間にか資材に紛れて搬入しちゃってたみたいなの。えーっとね、言いにくいんだけど、それをやったのは」
「……大丈夫です。聞かなくても分かりますから」
「待ちなさい!」
艦内から扉を蹴り開けて、サラが甲板に駆け込んできた。すかさずⅦ組メンバーが総出で押さえつけるものの、しかし必死で抵抗する。しまいにはアガートラムで床に組み伏せて、ようやく彼女を拘束した。
「その子たちをどうする気!? 放しなさい、放しなさいよっ……!」
それでも諦めず、恨みがましい目を持ち上げる。トワは気にした素振りを見せず、エマに説明した。
「さすがにお酒は持ち込めないし、それに購入費ってオリヴァルト殿下の私財だし、そんなわけで元のお店に返品してきて欲しいんだ」
「……ご迷惑をお掛けします」
深々と頭を下げるエマ。
往生際も悪く、サラはぶんぶんと首を振った。
「あんた達はいずれその選択を後悔するわ! 調理酒にも使えるし、医薬品が切れた時にも使えるし、あと美味しいし!」
「調理酒も消毒用のアルコールもありますので。あと私たち未成年です」
「登ればいいじゃない、大人の階段を! 青春への反逆がどういうことなのか教えてあげるから!」
「知りたくありません」
Ⅶ組の委員長は担当教官の懇願を頑として受け入れなかった。
「フィーちゃん、行きましょうか」
「了解」
魔導杖を掲げる。転移陣が拡がり、煌めく粒子が酒瓶を包んでいく。
「いや、いやよ……やめてえええっ!!」
悲痛なサラの絶叫も呑み込んで、エマとフィーは木箱と共に甲板から姿を消した。
《☆☆☆魔女の特急便☆☆☆》
内戦勃発以降、鉄道網は貴族連合の管理下におかれ、それまでのような自由な行き来はできなくなってしまった。
故に様々な支障が起きた。その最たるものは流通の滞りだろう。
だからカレイジャスの活動の一つには、その機動力を活かした“商業を目的としない物資運搬”も含まれている。たとえば医薬品や食料の足りない町に、別の町から運ぶなどがそうだ。
しかし問題があった。船体の大きさだ。
飛行艇の発着場のある町など限られている。そうなると町の近くに着陸せねばならないのだが、今度は物資の運搬に時間が掛かってしまう。現状では一度に大人数のクルーは割けないのだ。
そこで白羽の矢が立ったのがエマの転移術だった。
「町まであと500アージュくらいかな。いけるの?」
東ケルディック街道のど真ん中、積み重なった木箱の上にフィーはちょこんと座っている。カレイジャスは後方に見えた。
「一回の転移で300アージュくらいは進めますから、二回に分ければ大丈夫ですよ」
術は使えば使うほど錬度を増す。日常的に転移を発動することで、いずれは思うままに発動できるようになる。
《紅き翼》の活動。人手不足。転移術の習得。
抱える問題を一度に解決できるということで、この方法をセリーヌが提案した。
もっとも今回に限っては活動の一環ではなく、サラが隠蔽購入した酒返却なのだが。
「私はいいアイデアだと思うけどね。委員長の体力がもてばだけど」
「もたなかった時の為にフィーちゃんがいますから」
転移での荷物運搬には同行者をつけることになっている。作業手伝いではなく、疲労でエマが動けなくなった時の連絡、あるいは運び係だ。
「私じゃ委員長は運べないと思うよ。重そうだし」
「お、重くなんか……って、どこを見てるんですか!?」
「胸」
「そんなストレートに……。もし私が倒れちゃったら《ARCUS》で救援を呼んでくれたらいいので」
「それだったら最初から男子に同行を頼めば手間が省けたんじゃない? カレイジャスまで連れて帰ってもらったらいいわけだし」
「もしリィンさんに背負われて帰還することになったら、色々な誤解が生まれそうでしょう?」
「納得」
遠くに見えるケルディックのゲートに意識を集中したエマは、再び転移陣を展開した。
「あら、そうだったの。ごめんなさいね~」
《風見亭》の女将マゴットは、申し訳なさそうに返却した酒瓶を棚に戻す。
エマは慌ててかぶりを振った。
「こちらこそ申し訳ありませんでした。私たちの教官がご迷惑を……」
「いいのよ。サラちゃんらしいわ」
サラと旧知のマゴットはからからと笑った。
どうやら彼女は、サラがこっそり酒を持ち込もうとしていたことを察していた様子だった。そしてそれが露呈して返品されるであろうことも。
「それにしても重かっただろうに。お嬢ちゃんたちだけで運んで来たの?」
サービスで出してもらったジュースを口にしながら、フィーが言う。
「私は何もしてない。委員長が一人で運んだよ」
「本当に? そんな細腕なのに、見かけによらないねえ」
「あはは……士官学院生は鍛えてますので」
転移を繰り返して運んだなどと説明しても、きっと伝わらないだろう。台車を使って来たのだと、適当な方便で済ませておくことにした。
「たくましくて何より。そうだ、一つ頼まれてくれないかい? ちょっと待ってておくれよ」
マゴットは店の奥から大きな袋を引っ張り出してきた。それを二人の前にドサッと置く。
「あんた達はあの赤い飛行艦に乗ってるんだろ。近くを通ったついででいいから、これをレグラムの《アプリコーゼ》まで届けてくれないかな」
「もちろん構いませんが、中身は何ですか?」
「ケルディック産の小麦粉さ。《アプリコーゼ》とは昔から付き合いがあってお得意様なんだけど、この情勢下でしょ。もう一か月近くも送れてなくて。逆にうちもレグラム産の燻製品が入って来なくて困ってるんだけどね」
「そうだったんですか。ええ、お任せください」
快諾して請け負うものの、カレイジャスまでまた何回も転移をしなければならない。大袋に詰まった小麦粉は、行きしなに運んで来た酒瓶とそう変わらない重さだった。
転移術における霊力消費は、対象物の体積と質量、そして移動距離によって決まる。大きさはともかく、この重さはそれなりの負担だ。
店の中で術を使うわけにもいかないので、エマは小麦粉袋をずりずりと店の外まで運んだ。人通りが途切れるタイミングを見計らって転移術を発動する。
「じゃ、帰ろっか」
袋に腰かけ、きっちり重量を追加してくれたフィーは、気楽なあくびをしていた。
●
「風土的にレグラムでは麦が育たない。だからケルディックから買い付けていたのは知っていたが、《風見亭》が卸問屋だったとは驚きだ」
「世の中は案外狭いものですから……」
「ずいぶんと疲れているようだが、まだ術は使えるのか?」
「大丈夫です」
カレイジャスはエベル街道の外れに停まっている。
同行者をラウラに変えたエマは、ケルディックと同様に転移を繰り返しながらレグラムの町を目指していた。もちろん件の小麦粉袋も一緒に。
行くついでがあればということだったが、術の練習になるからとセリーヌがトワに進言した結果、小麦粉を届ける為だけにカレイジャスは空を駆けたのだった。
鶴の一声というか猫の一鳴きというか、セリーヌはとことん自分に術を使わせるつもりらしい。
「町が見えてきました。ふう……もうひとがんばりですね」
「安心するがいい。そなたが倒れても小麦粉は責任をもって私が届けよう。あ、そなたもちゃんと連れて帰るぞ」
「……ありがとうございます」
小麦粉のついで感が否めないが、そこは言及しない。
街道を抜け、ようやくレグラムのゲートをくぐる。
転移術で行ける地点は見えている場所と、見た場所。《アプリコーゼ》なら訪れたことがある。ここからの距離ならやれるかもしれない。
「ラウラさん、その袋をしっかり持っていて下さいね」
「ん? 承知した」
目を閉じて、目的地の強いイメージを浮かべる。脳裏で鮮明になっていく映像と転移陣を結びつけるようにして――発動。
一瞬視界が光に染まり、景色が変わる。
並ぶテーブル、席につく客、カウンター越しの店主。間違いなく《アプリコーゼ》の店内だ。屋外から壁に隔たれた屋内への転移が成功したのだ。
しかし妙だ。それらの光景が自分の視線より下にある――
「え、きゃあ!?」
ガクンと体が落ちる。宙空に転移してしまっていたのだ。明確な一点ではなく、店全体を想像したのがいけなかった。
受け身も取れず、エマは床に尻もちをついた。
「あいたた……ラ、ラウラさん!?」
慌てて店内を見回すと、彼女はすぐ近くのテーブルの上に着地していた。律儀に抱えたままのヘビー級小麦粉袋を、昼食に来ていたらしいガヴェリの脳天に思い切りめり込ませる形で。
「ぐふっ、お……お嬢様?」
文字通り降って湧いた来訪者を、ガヴェリはひん曲がった首で見上げた。
「ランチ中に失礼をした。これはどう説明すればいいのか……」
「ふふ、理解しておりますぞ。いついかなる時も気を抜くな。ただの食事であっても常在戦場の心構えで臨め。そう仰りたいのですな?」
「うん。まあ……きっとそういう感じだ。しかし申し訳ないことをした。代わりのものをすぐに用意しよう」
「お気遣いなく――ん、代わりですと?」
「厨房を借りて、私が簡単なものを作ろう。なに、時間はとらせない」
ガヴェリの顔が真っ青になった。料理が散乱してしまった机の下で、両膝がガタガタと震えている。
「じ、実はもう満腹でして、米の一粒も胃袋には入らなさそうで……」
「料理には手をつける前だったのだろう。遠慮することはない。そなたの昼食を台無しにしてしまった非は私にある」
ここでエマに責を向けないのは彼女の美徳であるが、ガヴェリにしてみれば逃げ道を絶たれたようなものだった。
店主のウェイバーに小麦粉を預けたラウラは、さっそく調理に取り掛かろうとする。いきなりのこととは言え、領主令嬢の頼みを受けないわけにもいかず、ウェイバーもラウラに厨房を明け渡した。
「常在戦場、常在戦場……」
両手を組み合わせるガヴェリは、祈るようにそう繰り返していた。
そんなやり取りを見ていたエマの《ARCUS》から通信のアラームが鳴る。
『エマちゃん? トワだけど、もうレグラムには着いた?』
「はい、小麦粉の納品が終わったところです。今はラウラさんの料理待ちですね」
『なんで料理? よく分からないけど、用が済んだらカレイジャスに戻ってきてくれるかな?』
急ぎみたいだが何かあったのだろうか。聞き返す前にトワは言った。
『また配達のお仕事だよ。次はノルドに行くからね』
⚫︎
「――というわけでの。この接続パーツを渡すのを忘れとったんじゃ。いや、すまんすまん」
カレイジャスに緊急通信が入って、急きょレグラムから移動した先はゼンダー門。
基地裏手の整備ドックの中で、グエン・ラインフォルトはさして悪びれた様子もなく謝ってきた。新型機甲兵用の重要部品を、機体譲渡時に付け損じていたらしい。
同行してきたアリサは「やっぱり」と、腰に片手を当てた。
「変だと思いました。素体は完成してるのに、ヴァルキリーユニットの同期がエラーばかりだったから。すごく困っていたんですよ」
「はて。最近物忘れがひどくてのお、昼飯は何を食べたんじゃったか」
「お祖父様ったら、そんなことを言ってはぐらかそうとして。エマも何とか言ってちょうだい」
呆れ顔でアリサが振り向くと、エマは整備中の戦車にぐったりと寄りかかっていた。虚ろな目をグエンに向けて、彼女は小さく口を開く。
「……食べたものを思い出せないだけなら大丈夫です。ですが食べたことを忘れてしまうような症状があれば、しかるべき医療施設で精密検査を受けることをお勧めします」
「本気のアドバイスじゃない、それ」
グエンの指示で、整備兵たちがいくつか金属製のパーツを運んできた。いずれも台車に乗る程度の大きさだったが、とても重い。
「ぱぱーっと運んでくれるんじゃろ? よろしくの」
「……うふふ、任せて下さい」
「なんだか目が据わってる気がするけど、大丈夫なのかしら……」
目指すはノルド高原の中腹に着陸したカレイジャス。エマはよろめきながら魔導杖を持ち直した。
ゼンダー門から帰ってきたエマを待っていたのはガイウスだった。「実は頼みがあるのだが」と切り出して、彼は一通の手紙を差し出してきた。
「これは?」
「弟のトーマが書いた手紙でな。シャルに渡して欲しいそうだ。頼んでもいいだろうか?」
トーマと仲のいい女の子の名前だ。
正直に言えば体はヘトヘトだったが、気持ちを込めて書いた手紙なら、なんとか届けてあげたい。それにガイウスがこうして自分を頼ってくるのも珍しいことである。
「わかりました。ではちょっと行ってきます」
「転移の際は同行がいるのだろう? 俺も付いていこう」
「そうでしたね。お願いします」
一人の方が霊力消費は少なくて済むのだが、断るわけにもいかない。ガイウスを連れたエマは、とんぼ返りで再びゼンダー門に転移した。
距離があるので何回にも分けて術を使わなければならないが、心なしか移動できる範囲が広がってきた気がする。これでもかと言うほど転移術を使って来たから、少しは慣れてコツをつかめてきたようだ。
三回目の転移で、ゼンダー門に到着。
普段、シャルは基地内の食堂で手伝いをしているという。
さっそく食堂に足を運んでみると、エプロン姿の少女がテーブルを拭いていた。ショートの金髪が可愛らしい。彼女がシャルだ。
「シャルちゃん、こんにちは。トーマ君からの届け物を持ってきましたよ」
「え? トーマから?」
布巾を置いたシャルは、手渡した手紙の封を嬉しそうに切る。いったい何が書いてあるのやら、彼女は楽しげに文面に目を通していた。
「確かにお渡ししました。では私たちはこれで――」
「あ、待って下さい」
エマの足を止めたシャルは、食堂の奥から便箋を持ってきた。デコレーションが施された一枚で、どうやら彼女の私物らしい。
「すぐにお返事を書きますから、ちょっと待ってて下さいね」
「え」
机に向かい、カリカリとペンを走らせる。まさかこれは。
シャルは書き終えた手紙を丁寧に折り畳むと、鮮やかな桃色の封筒に入れた。そして、それを手渡してくる。
「すみません、お願いします」
「えーと……もしかして」
「はい、トーマ君に渡してもらえますか?」
まさか転移術で飛んできたなど、シャルは思いもしない。もしかしたらカレイジャスの存在だって知らないかもしれない。
ゼンダー門まで馬で来たのなら、集落まで馬を返しに戻ると考えているのだ。
「でも私ったら、お兄さんのいる前で手紙なんて書いちゃって……あっ、ガイウスさんのこと、お、お兄さんだなんて、そういう意味じゃないんですよっ!?」
「お兄さんがおかしいのか? 俺はトーマの兄で間違いないぞ」
一人で勝手に照れているシャルと、いまいちピンと来ていないガイウス。ついでに食堂のカウンターから鬼の形相でにらんでくるシャルの父親のマルクス。
「またトーマ君と一緒にお馬に乗りたいな」
こんないたいけな少女のお願いをふいにすることなど、エマにはできなかった。
そういうわけでラクリマ湖畔。
トーマはウォーゼル家のゲルの中で、馬の餌に使う牧草の束をまとめていた。
疲れた顔は見せずに、エマは笑顔でシャルからの手紙を彼に手渡す。
「はい、確かにお渡しました。それでは私たちはこれで――」
「あ、待って下さい。すぐに返事を書きますので」
容赦の欠片もなく、まったく同じ展開がエマを待っていた。一応「大丈夫なのか?」とガイウスは体力を心配してくれたが、トーマもトーマでシャルからの手紙は嬉しいらしい。そんな彼の横顔をちらりと見て「なんとか大丈夫です」と、つい断り切れずに言ってしまう。
鉛板のように重たく感じる手紙をトーマからもらうと、エマは再々度の転移に力を振り絞る。
いっそトーマごと連れていった方が、手っ取り早い気がしていた。
⚫︎
ケルディックに始まり、レグラム、ノルド。カレイジャスを降りてからの移動手段は、ほぼ転移術。
さすがにもう限界だった。カレイジャスの甲板で柵に背を預け、エマは屈みこんでいる。
そこにセリーヌがやってきた。
「順調みたいね」
「そう見える?」
「疲れてる時に何かをやる方が、効率的なノウハウを体が覚えてくれるものよ」
「その理屈は分かるけど……」
疲れすぎた。指一本を動かすのも億劫なくらいである。
カレイジャスが進路を変えた。ノルド高原の上空を西に抜けて、眼下には険しく連なるアイゼンガルド連峰が広がりはじめる。
ほどなくブリッジからトワの艦内放送が響いた。
『10分後にカレイジャスはユミルを通過。予定高度は600アージュ』
「……?」
なんのアナウンスだろう。しかもそんなに低空飛行なんかして。
不思議に思っていると、リィンが甲板に姿を見せた。
「次の同行者よ」
「リィンさんが? ああ、それでユミルに」
まだ動かねばならないらしい。やるからにはやりきるつもりだが、すぐにはやはり厳しい。着陸しても回復するまで少し休ませてもおらおう。
リィンはしきりに首を傾げ、怪訝そうにしていた。
「俺もユミルに降りるとは聞いてるが……」
「どうしたんですか?」
「ユミルの郷付近にカレイジャスが着陸できるような地形はないぞ。山の麓に降りてケーブルカーを使うのか?」
「え」
その手順では、どうにも非効率的に思えた。
戸惑うエマはセリーヌに視線を転じる。呑気に毛づくろいをしながら、彼女は上目だけを向けてきた。
「飛び降りればいいじゃない。もうすぐ着くんだから」
「ほ、本気で言ってるの!?」
「だってそれ以外に方法ないし」
さっきトワは着陸ではなく通過と告げていた。上手くセリーヌがまるめ込んだのだろう。まさか自分たちが飛び降りるなんて予想もしていないはずだ。
そういうことか。だけどできるわけがない。危険過ぎる。
その時、コツコツと不穏な足音がした。
「ふ、ふふふ。あたしのお酒を、よくも……」
サラだった。銃も剣もフル装備で、ゆっくりと近付いてくる。垂れた前髪から垣間見える瞳に生気はなく、昏い喪失感を湛えていた。
「エマ、やってくれたわね。覚悟なさい。死ぬほど後悔させてあげるから。リィンもついでに」
「そんなの逆恨みじゃないですか!」
「な、なんで俺まで」
「あの子たちの無念を晴らすわよ……」
半分正気を失ったような薄ら笑いが怖い。虚ろに床をこする剣先が、シャリシャリと耳触りな音を奏でる。
黒い圧迫に押されるまま、エマたちは柵を越えた甲板先端へと追いやられた。まともに立っていられる限界位置。ワンフロア下から伸びる船首もあるが、山状の鋭角度が付いているので退路としては使えない。
もう一歩も引けないのだ。
「どうする委員長。二人で特攻でもしてみるか?」
「それで活路を開くのは難しいでしょうね。ましてやサラ教官相手に」
狂気をまとうサラがにじりよる。お酒の恨みがここまで深いとは。
落ち着くまで時間を稼ごうにも、逃げる方法がない。
紅い船体の遥か直下にユミルの郷が見えた。この高さからだと、町の全景を両手で覆ってしまえるほどの大きさに映る。
「懺悔はいらないわ。黙ってあたしにやられなさい!」
悪い足場をもろともせず、サラが勢いよく迫る。
エマは息をのんだ。どうせ落とされるなら――
「リィンさん、ごめんなさい!」
「委員長!? うわっ!!」
リィンの腕を引いて、エマはカレイジャスから飛び降りた。空中で風に煽られながら、魔導杖を握りしめる。
「どうするんだ!? ヴァリマールをよぶか!?」
「なんとかします! リィンさんは私につかまっていて下さい!」
高度600アージュ。一発で地上に降り立てればいいが、明らかに転移術の範囲外。
とっさに思い返したのは、双竜橋内で軍用魔獣と交戦した時のこと。トヴァルに襲いかかるガイザードーベンを転移させ、その勢いのまま壁に激突させたのだ。
そう、勢いのまま、である。
ビリヤードの玉で練習していた時もそうだった。台の上で転がる玉を別の台に転移させても、その球は転がり続けていた。
つまり――
「転移前の物体運動はリセットされない……!」
ならばこの状況、どうする。
たとえば術の効果範囲に入るまでこのまま降下して、その高さから地上に転移したとする。そうするとそこまでに蓄積された落下エネルギーも一緒に付いてきてしまうから、結局は墜落したと同等の衝撃を身に受けることになる。
それを回避するための方法を、エマは一瞬で弾き出した。
同時に術を発動。二人は100アージュ下方へと転移する。短距離移動の方が精度がいい。間を置かず再転移。さらに100アージュ下へ。
落下スピードの加速を防ぐには、自由落下している時間そのものを短くする以外になかった。
「まだっ!」
しかしそれは容易なことではない。
目印が一切ない中空の転移地点を一瞬で見定めなければならないし、何より転移陣の展開を高速で、しかも連続で行う必要がある。
自分が習得している以上のスキルを要する技術だ。
それでもやらなければ大惨事は必定。すさまじい集中力だった。魔女の能力行使時に特有の、金色の燐光を滲ませる瞳が発現する。
転移の度に郷との距離が狭まり、雪景色が明瞭に見えてきた。
足元に光陣を生成し、最後の転移を行う。虚空に輝きが弾けた。
「はあっ、はあ……」
視界を塗り込める光が消えた時、かたかたと震える足は地面に立っていた。周囲に拡がる光景はユミルの町並。
エマがいるのは中央広場の足湯場の近く。西の空にカレイジャスが飛び去っていくのが見えた。
高空からの転移成功だ。
「そ、そうだわ。リィンさん! 大丈夫ですか?」
慌てて視線を巡らせると、彼はキキとアルフが作ったらしい雪だるまに、逆さまになって埋まっていた。潰れた大きな雪玉から、両足が突き出ている。つま先がピクピクと動いているから生きてはいるだろう。関節が奇妙な方向に折れ曲がっているのが気になるが。
「よくやったわね。合格よ」
いつの間にか傍らにセリーヌがいた。
「万が一術が失敗してもフォローできるように追いかけてたんだから」
自分と同じ要領でカレイジャスから転移してきたようだ。ついでにサラも一緒に。
「どうだった? あたしの演技。セリーヌに頼まれたからやったんだけど、かなりのクオリティだったでしょ。これなら遊撃士じゃなくて女優の道ってのもアリだったかしら」
いかにも鼻高々で胸を張るサラのとなりで、セリーヌも満足気にしている。
なぜこの二人の顔に達成感が浮かんでいるのか。
「いやー生徒の為に一肌脱ぐあたしって、本当担任教官の鑑よねえ。頼れるお姉さんって感じ? トヴァルに見せてやりたいわ」
「普通の使い魔なんて、こんなサポートできないわよ。アタシに感謝しなさい」
「………」
そっちはそれで良かったかもしれない。けれど、こっちは正真正銘命がけだったのだ。
「……それで、ユミルには何を取りに来たの?」
セリーヌに訊く。ここまでやらされたのだ。よほど価値のある品でなければ、釣り合いが取れない。
答えたのはサラだった。
「
たった一言。
饅頭とはあずきを使用する東方菓子で、《千鳥》のカミラが作ることができる。以前、マキアスたちも饅頭を食べる為に、あずきを求めて郷中を駆け回っていた。
「急に食べたくなっちゃってね。お酒も飲めないし、これくらいは全然問題ないでしょ」
「アタシは別に何でもいいし。そもそもユミルに用事はないし」
「……これくらいは問題ない? ユミルに用事はない? ふふ、そうですか。そうですよね……」
ゆら~とエマは視線を持ち上げた。
口元の乾いた笑みと、凄みのある据わった目を見て、ようやくセリーヌとサラは気付く。
「な、なに? 怒ってんの? 協力してあげただけじゃない」
「そうよ。アタシたちのおかげで転移術が上達したわけだし」
「ええ、だったら特訓の成果を見せないと」
キラリと丸眼鏡が光った。
「え、ちょ――」
反応するよりも早く転移陣に呑み込まれるサラ。飛ばされた先は礼拝堂の尖塔だった。巧みに衣服を塔の突端に引っかけられた彼女は、手足をじたばたを動かしている。
「わっ、うそ!? 降ろっ、降ろしなさいよー!」
サラのそんな事態を目の当たりにしても、セリーヌは強気な態度を崩さなかった。
「ふん! 言っとくけどアタシも転移術を使えるんだからね。どこに飛ばされようと痛くもかゆくもないわ」
「そう」
術の発動は驚異的なスピードに達していた。
セリーヌが転移させられた先は、シュバルツァー邸の玄関前である。
「なによ。やっぱり地点指定は下手なんじゃ――」
「ワン!」
彼女の目前でシュバルツァー家の猟犬、バドが尻尾を振っている。フリーズしたセリーヌの顔面を、バドはべろりと舐めあげた。
「ひゃ、ひゃああ!?」
毛づくろいの行き届いた全身の滑らかな黒毛が、使い古されたタワシみたいにぞわぞわと逆立つ。
耐えられず、セリーヌは自身の転移術で離脱する。足湯場の屋根の上に彼女は移動した。
「あのバカ犬、ここまでくれば」
『ワフッ!』
「なんでいるのよー!?」
転移して町中を逃げ回るが、じゃれつくバドはセリーヌにぴったり付いて離れない。
どんなに転移陣を小さくしたところで、あそこまで密着されると、どうしても術の範囲内に入ってしまうのだ。
犬と猫が消えたり、現れたり。その様子を見留めたキキとアルフは、恰好の遊び相手を見つけたとばかりに二匹を追い回す。
セリーヌにとっては散々な思いだろう。適当なところで助けてあげるつもりだが。
「ああ、そうだわ。リィンさんを先に助けないと……」
雪だるまを掘り分けて、埋まっていたリィンを摘出する。口に入っていた雪にゲホゲホとむせ込むものの、どうにか彼も五体満足で生還した。
「今度ばかりはダメかと思った……ありがとう、委員長」
「どういたしまして。際どかったですけど、なんとかなりました。あの二人のおかげと言っていいのかは、まあ微妙ですが……転移術も自在に扱えるようになったみたいです」
広場で子供たちとバドに捕まったセリーヌは、雪まみれのもみくちゃにされていて、教会の尖塔に吊るされたままのサラは、もう騒ぐのをやめて静かに風に揺られていた。
「二人共やり過ぎたと反省しているみたいですし、こっちに引き戻してあげます。でも、その前に」
「その前に?」
「お饅頭をもらいにいきましょう。依頼は依頼ですから」
魔導杖に被った雪を手で払いながら、エマは足先を《千鳥》へと向けた。
――END――
――Side Stories――
《猛将列伝のすすめ⑥》
カレイジャスはガレリア要塞跡地に停泊していた。
この場所なら何の気兼ねもなく着陸できる。円形にはつられた巨大な破孔の遠くには、依然として青い被膜に覆われるクロスベル市があった。
その跡地に隣接する演習場が、第四機甲師団の仮設駐屯地になっている。
「姉さんはもう馴染めたかな。まあ問題ないと思うけど」
フィオナの社交能力は自分より遥かに高い。しかも第四師団の人たちは、ほとんどが顔なじみである。おまけにナイトハルト中佐までが専属護衛として付いているというのだから、当面の生活に不便はないだろう。
演習場の入り口を抜けながら、エリオットは姉の姿を探した。
試運転だろうか、何台かの戦車が土けむりを上げている。かといって特に慌ただしい様子はなく、数名の女性隊士が散見されるくらいだ。
見える範囲にフィオナはいない。
「エリオット君」
呼ばれて振り返るとミントがいた。
「誰か探してるの?」
「うん、姉さんを」
「そうだよね。ここにいるんだもんね」
どこか白々しく言って、ミントも広い演習場を見回す。
この場所に来たいとトワに頼んだのは彼女だそうだ。機甲師団の駐屯地に、いったい何の用事があるのだろう。
数名の学院生も保護されているらしいから、もしかしたら知り合いを見つけにきたのかもしれない。
「ねえエリオット君。あたしたち、友達だよね?」
「どうしたのさ、急に」
「答えて」
「……? もちろん友達だと思ってるよ」
ミントらしからぬ憂い顔だった。
「そっか、良かった。だったらもう一つ聞きたいんだけど、エリオット君にとって友達ってなに?」
「難しい質問だなあ。うーん」
言われて、演習場内を見渡した。Ⅶ組の仲間たちも銘々に散っている。用事がある者もない者も、情報収集を兼ねて出回っているのだろう。
友人。
定義ではなく自分が認識するところのそれは、志を同じくし、背中を託せる仲間のことだと思う。
「僕の足りないところを含めて僕を認めてくれる人、かな」
「うん、よくわかったよ。じゃあたしは友達だね。だってエリオット君の表も裏も受け入れてるから」
「あはは、なにそれ」
ミントの言う意味はよくわからなかったが、冗談と捉えたエリオットは軽く流した。
その時、視界の端に揺れる橙髪が映り込んだ。食堂の扉前にフィオナが立っている。横にはオーラフもいて、父娘の会話をしているようだった。
「あんなところにいたんだ。ご飯食べてたのかな。姉さんのことだから食堂の手伝いでもしてたのかも」
「あの人たちがエリオット君のお父さんとお姉さんなんだ?」
「うん、似てないでしょ」
「お姉さんとはそっくりだね。エリオット君が大きくなったらお父さんみたいになるのかなあ」
「どうだろ。さすがに想像できないよ」
エリオットが苦笑すると、なぜかミントは哀しそうな目をした。
「家族とは仲いい? なんでも話せるの?」
「仲はいいと思うよ。なんでも相談できるし――」
言いかけた言葉が止まる。
進学先を決める前、音楽の道に進みたいとオーラフに相談したことを思い出した。
あの時は否定された。どれだけ説得しても理解してもらえなかった。だから妥協点として選んだのが、芸術科目も一般カリキュラムに入っているトールズ士官学院だった。
今となってみれば、その選択で良かったと思う。しかしあの日以降、父に音楽の話をするのを避けている自分がいる。
とっさに二の句が継げないでいると、その様子を見たミントは口調を沈ませた。
「やっぱり言えないことがあるんだね。隠してることが」
「隠すなんて大げさなものじゃないってば。ただちょっと言いにくいっていうか……」
「でも言葉にして出さないとわからないこともあるんじゃない? エリオット君が思ってるよりも、すぐに受け入れてくれるかもしれないし」
「……どうだろうね」
ミントの言う通りかもしれない。しかし諦めずに理解を求めようとする気にはなれなかった。
二度も自分の夢を正面から否定されるのは辛い。
「大丈夫だよ。あたしが力になってあげる。きっかけを作ってあげる」
「本当にどうしたの? 今日のミント、どこか変……ん?」
ミントの上服が不自然に膨らんでいる。
「それなに――」
「近付いちゃダメ!」
急に動いたせいか、彼女の服の中からドサっと何かが落ちてきた。
がっちりした装丁の分厚い本。表紙には猛々しいレタリングで《猛将列伝》と印字されている。
『………』
それを見下ろし、二人は止まる。
「これって」
「たあっ!」
わずかな硬直の後、先にミントが動く。口を開きかけたエリオットを待たず、彼女は《猛将列伝》を拾いあげると、弾かれたように駆け出した。
あのタイトルは知っている。ケインズが書いた勘違い妄想小説だ。なぜあれを彼女が持っている?
いいや、今はそんなことよりも。
「ミント!?」
“仲はいいの?”、“言えないことがあるんだね”、“隠していることが”、“きっかけを作ってあげる”
不穏な繋がりを持って結実していくワードの数々。それらの言葉が、決して額面通りの意味ではなかったことをエリオットは理解した。
彼女の凶行の意図は知る由もないが、ただ一つ確かなことは、止めないと最悪の展開が訪れるということだけだった。
なぜなら《猛将列伝》を抱えるミントが全力ダッシュする先にいるのは、他でもないフィオナとオーラフだからだ。
家族にアレを見られてしまう。
自分とてまともに読んだ事などない本だが、ケインズが嬉々として語る内容を思い返すに、とても他人に読ませられるものではない。ましてや身内なんかに。
「ダメだ、ミントーッ!!」
肺活量の全てを振り絞るような、喉が破けんばかりの大絶叫。
当然止まってくれるはずもない。エリオットはミントを追いかけた。さすがに足はエリオットの方が早いものの、いかんせん出遅れた分の距離を開けられている。
このままでは追いつくより早く、フィオナ達に到達される。
ミントの進行方向にガイウスがいた。
「ガイウスお願い! ミントを止めて!!」
理由を説明する時間はなかったが、こちらの本気を汲み取ってくれたのだろう。ガイウスはミントの前に立ち塞がった。
「事情は分からんが止まるのだ! うっ!?」
その彼に横からぶつかる黒い影。ヴィヴィの体当たりだ。
「聞いてよ、ガイウスくーん。カスパルったら私が近付くだけで怒るの。ちょっとメトロノームの音を聞かせようとしただけなのに、ひどいと思わない?」
「メトロノーム? とりあえずどいてくれ。俺はミントを止めねばならない」
「三角関係にでもなれば焦ったりするかしら。ガイウス君とカスパルで私のことを好きになるといいわ。んふふ」
「いいわと言われても……む、しまった」
ヴィヴィの横槍に手間取っている内に、ミントはガイウスの脇をすり抜けていた。
「止まってミント! お願いだから!」
再三の声かけに応じる気配はなく、「これはエリオット君の為なの!」と振り返りもせずにミントは言う。
「恥ずかしいかもしれないけど、最初にちょっと我慢するだけだよ!」
「我慢できるレベルの火傷じゃ絶対済まないから!」
死に至る大火傷だ。せっかく姉さんを助けられたのに、なんでこんなことに。あんな本一冊の為にクレイグ家が崩壊してしまう。
エリオットは遠くから響くケインズの笑い声を聞いた気がした。
「ごめん……!」
背中の魔導杖に手を伸ばし、正面に構える。必要ないとは思いつつも、念の為持ってきていたのだ。
走りながらアーツの駆動準備に入る。伝家の宝刀、ムービングドライブだ。
止まらないのなら、仕留める。破滅の未来を回避する為にはやるしかない。
放つは氷系。足を滑らせて、先に進めないようにするのが狙いだ。緩い傾斜をつけて、ミントが転倒してもダメージを最小限に抑える配慮もした上で。
駆動成功。発生した冷気が地を這い飛ぶ。
しかし起死回生の一発は、急に割って入った戦車の側面装甲に阻まれた。
試運転にしては荒いと思ったのも一瞬、その戦車は再び前進を始めた。ひどく不安定な走行だ。自分のアーツが当たったせいと言うわけでもなさそうだったが。なんにしてもタイミングが最悪だ。
ミントとの距離がさらに開く。もう無理だ。どうやっても間に合わない。
「エリオットさん、魔導杖なんて持ってどうしたんですか? しかもそんなに急いで……」
すぐ近くにエマがいた。ユミルで色々あったらしく、ひどく疲れた表情をしている。
救世主降臨。疲弊している彼女に頼むのは気が咎めないでもなかったが、それでも背に腹は代えられない。
エリオットはすがる思いで懇願した。
「委員長! 僕をミントの前に送って! 早く!」
「え」
「一生のお願い!」
「わ、わかりました」
事態を飲み込めないエマは、しかし戸惑いながらも術を使ってくれた。光の陣がエリオットを包む。
「おとーさーん! おねーさーん! これ見てー!」
「させない!」
《猛将列伝》を掲げるミントの眼前に転移したエリオットは、両手を大きく開いて悪魔の特攻を阻止にかかった。
減速ゼロの正面衝突。手から離れた魔導杖が地面を転がっていく。
二人はもつれ合いながら派手に倒れた。
「いたた……」
のろのろと身を起こそうとした時、「エリオット?」と細い声がした。首だけ向けると、フィオナが見開かれた目でこちらを見つめている。
「あなたは何をしているの?」
「何って、え?」
落ちていくフィオナの視線に合わせて、下を見る。
両の手首をがっちり取り押えながら、自身の体でミントを組み敷いていた。
「う、うわああ!? ごめん!」
「エリオットがそんなことをする子だったなんて、お姉ちゃんはどうしたらいいの?」
今にも涙がこぼれそうなくらいに瞳が潤んでいる。
「ご、誤解だよ姉さん。ミントからも何か言って」
「ついにあたしも猛将に手ごめにされちゃうんだ……」
「うええーっ!?」
「お姉ちゃんは……お姉ちゃんは! ぐすっ……うわああん!」
泣き崩れるフィオナ。到来する修羅場。
けれどまだだ。あの本さえ確保すれば、誤解は後でも解ける。
ミントの手元にはない。さっきの衝撃でどこかに飛んでいったのだろう。絶対に先に回収しなくては。
必死に視線を振って探すエリオットは、すぐにそれを見つけた。
父の手に持たれたそれを。
「あ……」
「女神よ。よもやこのような日が訪れようとは」
放心状態のオーラフは、両肩を小刻みに震わしながら静かに言った。
「家族会議だ」
終わった、全て。
エリオットは硬い砂利土に顔をうずめた。
☆ ☆ ☆
《エールオブモニカ⑤》
ガレリア演習場の一角で、三人は再会を果たしていた。
「みんな無事でよかったよ。本当に……」
「すまない。そなたがここにいることはリィンから聞いていたのだが、来るのが遅くなってしまった」
「私は昨日偶然出くわしたんだけどね」
ラウラ、ポーラ、モニカである。
きっかけは様々だが、今年の夏ごろから彼女たちは仲良くなりはじめ、今では親友と呼べる間柄になっていた。
ふと声に影を落として、ラウラが言った。
「残るはブリジットか。どこにいるのだろうな」
ポーラもモニカも首を横に振る。
「わからないわ。学院は一緒に出たんだけど、散り散りになって逃げたからね」
「あの変態兵士さん、いまだに夢に見るくらいトラウマなんだけど……」
股間のショットガンを振り乱す前代未聞のアブノーマルソルジャーに追われたせいで、モニカたちは散開を余儀なくされたのだ。
一応フォローを入れれば、その時の変態兵士に己が変態的恰好になっているという自覚はなく、忠実に職務に準じた結果、余計に変態じみてしまったという、なんとも同情を禁じ得ない悲しき変態ではあるのだが。
尚、彼女たちを取り逃がした後に自分の痴態に気付いた変態兵士は、深い恥辱と後悔に苛まれることになるが、同時に胸の高鳴りにも気づいていた。
やがて内なる熱は燃え盛り、〝見せることが興奮”という結論に至るまでに、そう時間はかからなかった。
そしてその御しがたい情動は、彼を本物のパーフェクトヘンタイへと進化させることになるのだが、それはまた別のお話――
「ところで、あれは何をやっているのだ?」
ラウラが視線を向けた先、戦車に追われる一人の男子生徒の姿があった。
「えーとねえ、彼はⅤ組のムンク君なんだけど。どうしてあんなことになっているかというと……」
モニカは困り顔で説明した。
トヴァルにラジオを潰され、生きる意欲を失くしたムンク。それでもモニカは彼を励まし続けたのだが効果はなし。そんな彼女を見かねたウィルジニー隊長が〝軍隊式のやり方”で元気付けようと提案したのである。
「つまり、あれが軍隊式のやり方というわけか」
「そうらしいけど。私もまさかあそこまでやるなんて思わなかった……」
ギャリギャリと土を蹴立てる戦車が、執拗にムンクを追い詰めている。ムンクはぜえぜえと逃げまどい、立ち止まることさえ許されない。
途中、へたり込むような場面もあったのだが、その都度戦車の砲塔でゴツゴツと背中を突つかれ、無理やり動かされていた。
「も、もうっ……殺して……楽に、して」
「ダメよ。お楽しみはこれからなんだから」
ハッチから上半身を出して、ウィルジニーが酷薄な笑みを浮かべる。
心身を鍛えるのに必要なのは、まず走ること。体力も精神も限界まですり減らした後、そこから気持ちを奮い立たせることができて初めて、いかなる逆境にも耐える強い心が作られるのだ。
「ムンク君大丈夫かな。あんまりやり過ぎたらさすがに可哀想――ってポーラどうしたの?」
「もう……もうあんなの我慢できないわ!」
ポーラはウィルジニーの戦車に駆け出していった。
「すごい。止めにいってくれたんだ。なんだかんだ言ってもポーラは優しいよね」
「うむ。道理に合わないことは正面から否定する強さがある」
感嘆をもらし、ラウラとモニカはその後ろ姿を眺める。
戦車横まで走ったポーラは声を張った。
「私も! 私も乗せてください!」
ポーラを見下ろし、ウィルジニーは問う。
「乗ってどうするの?」
「私も協力したいんです。お願いします」
「……あなたからは私と同じ匂いがする。いいわ、上がってらっしゃいな。私はウィルジニー。戦車隊の隊長よ」
「私はポーラといいます」
ポーラは戦車をよじ登り、側部装甲の上に立つ。
「いい目をしているわ。女王の資質がある。でもまだまだこれからね。あなたならその先を目指せるでしょう」
「その先?」
「女帝よ」
「女帝……あなたのような?」
「さあ、どうかしら」
「ウィルジニーさん……いえ、お姉様とお呼びしても?」
「お好きになさい」
「モニカちゃんから事情は聞いているかしら?」
「はい、ムンクの性根を叩き直すのだとか」
「でも困っているの。彼、死んだ方がいいとか言うんだもの。学生さんだからあんまり無茶もできないし」
ウィルジニーはアンニュイな吐息を付く。
「ではお姉様、私に任せて下さい」
「ふふ、お手並み拝見」
ポーラはムンクのベルトと戦車後部を紐で繋いだ。これで否が応でも走らなければならない。
「押してダメなら引きます。まずは時速10アージュから、一分ごとに5アージュずつ加速して下さい」
「……いいわ、あなたすごくいい。見て、あのムンク君の怯えた顔。ああ……ゾクゾクしちゃう」
官能的に身をよじり、ウィルジニーはうっとりとつぶやいた。
その様子を見ていたラウラとモニカは、
「助けに行ったんじゃなかったんだね、ポーラ……」
「うむ。戦車の中に入れるのは少々うらやましいが」
「へえ、なんだか意外。ラウラってああいうのに興味あるんだ?」
「戦車というか中身だな。どういう仕組みなのかが気になるのだ」
モニカは近くに停まっている一台の戦車を指さした。
「あれ、今メンテナンス中なんだって。ちょっとお願いして中を見せてもらわない?」
「軍事用だぞ。いいのか?」
「女性兵士の人たちとは結構仲良くなったから、内緒で頼んでみるね」
「そうか! やはり持つべきは友だな!」
「あはは、まだ乗せてもらえるか分らないのに」
久々の談笑を交えながら、二人はその戦車に向かった。
「ほら、もっとがんばらないと大切なラジオが壊れちゃうわよ」
「やめて、やめてくれよ!」
どこで手に入れてきたのか、ポーラはヒールの踵でラジオをぐりぐりと踏んでいた。
もちろんムンクはそれをやめさせようとする。しかし今度はゴム紐が戦車に括り付けられてあって、ラジオに向かって走れども、その都度びょーんと引き戻されてしまうのだ。
「どうせ壊れてるんでしょ。だったら踏み潰しちゃってもいいと思わない?」
「ダメに決まってるだろ! 思い出が……! それには思い出がたくさん詰まってるんだ!」
「女々しい男」
ヒールの圧が強くなる。みしみしとラジオのプラスチック板が悲鳴を上げた。
ゴムの強度と長さは絶妙に調節されていて、ムンクがどれだけがんばってもあとわずかな距離が届かない。勢いよく引き戻され、彼は戦車の装甲で背中を強打した。
「ぐ、ううぅ……」
それでも必死に手を伸ばす。
ウィルジニーはムンクに歩み寄った。
「ずいぶんと大きな声が出せるようになったじゃない。目に生気も戻ってる」
ラジオから足を離し、ポーラはウィルジニーの横に並ぶ。
「お姉様。では……」
「歓迎会は終了ね。ムンク君、今の気持ちを忘れちゃダメよ。あきらめさえしなければ、道はいつか開けるわ」
ゴム紐が解かれる。
「さあ、あなたの宝物を取りに行きなさい」
「あ、ああ……! 僕のラジオ!!」
這うようにしてラジオに向かうムンク。
次の瞬間、轟音と共にラジオが爆散した。
呆然としながらもポーラとウィルジニーは顔を見合わせ、互いの仕込みではないことを確認する。
離れた場所、メンテナンスの最中だったはずの戦車の砲口に白煙がくゆっていた。その戦車の上部ハッチから、ひどく慌てた様子のラウラとモニカが出てくる。
「レバーとかに触っちゃダメって言ったじゃない!」
「ち、違う。いきなり動いたから止めようとしたのだ! そうしたらなぜかエリオットからアーツを撃たれて、焦って手が滑って、気が付いたら砲撃していて……!」
機械音痴のラウラが招いたアクシデントだった。
衝撃に吹っ飛ばされたムンクが地面に転がっている。彼の頭に粉々になったラジオの残骸がまばらに降り注ぐ。顔は伏せたまま、その口が小さく開いた。
「そういうことだったのか。これが人の悪意……」
「いえ、違うのよ。今のは不幸な事故というか」
「何かに執着した僕が――私が愚かだったのだ。形あるものはいつか皆壊れるというのに、不完全な物質に執着するなどと」
口調がだんだんおかしくなっていた。
その時、天から差し込む光が、救われない前髪を照らす。ラジオを失くした今、それだけが彼のアイデンティティーだった。
むくりと立ち上がるムンク。
「聞くがいい。物欲に支配されし、哀れで浅はかな民たちよ。私は人の業から解き放たれ、真の理に目覚めた者なり」
後光を背に、彼は告げた。
「私は前髪の神。そうだな、“前神”とでも呼ぶがいい」
『まえがみ?』
ポーラとウィルジニーはそろって首を傾げる。
宝物のラジオと一緒に彼の心も破壊されていた。その上、一週回って謎の悟りを開いていた。
この世界に、また一つ面倒な神が誕生した。
☆ ☆ ☆