「ほら、セリフ」
周囲に聞こえない程度の声で、スカーレットが耳打ちしてくる。アルフィンは気合いを入れて、下腹に力を込めた。
「あ~れ~! 人質になってしまいました~! 助けてくださーい」
ありったけの悲壮感を押し出したはずだったが、スカーレットは呆れ顔になっていた。
「大根役者じゃないの! もっと感情込めなさいよ!」
「ダメでした? じゃあ……皆さん、動かないで下さい! 下手に動いたら、わたくしがケガしちゃうかもしれませんよ! このナイフが目に入りませんか!?」
「それ私のセリフ! ケガさせられる側のあなたが言ったら、色々おかしいでしょうが」
むむむぅ、とアルフィンは頬をふくらます。
一生懸命覚えようとはしたけれど、連日の看病で寝不足だったのだ。ちょっと抜けがあるくらい、見逃してくれたらいいのに。
そんな思いを乗せた視線をスカーレットに流すと、
「な、なんであなたがむくれてるのよ。やれるって言ったのはそっちでしょ」
「そうですけど……」
カレイジャスはすでにバリアハート空港を発進していた。クレア大尉の査察でごたついていたおかげで、誰に見咎められることもなく、ここまでスムーズに来ることができたのだ。
騒ぎはまだブリッジには伝わっていないのだろう。高度は上昇し続けている。
「アルフィン殿下!」
リィンが太刀を構えて立ちはだかる。スカーレットの舌打ちが聞こえた。
「あら、あなたがドックにいたのは誤算だったわ。ラインフォルトのお嬢さんもね」
スカーレットはリィンに続いて、その横に付くアリサに目を向ける。
アリサはにらみ返してきた。
「なんでこんなことを……。殿下はずっとあなたの容態を案じていたのよ! つきっきりで、ほとんど眠らずに!」
「そうして欲しいと、私が一度でもお願いしたかしら。一体何を期待していたの。それで心を許すとでも?」
「話のわからない人……!」
「今更のことを」
アリサとの会話でスカーレットの気が逸れている内に、リィンは重心をわずかに前に傾けた。一足飛びで間合いを詰める機を窺っている。
その予備動作に気づいたアルフィンが先に叫んだ。
「ダメです、リィンさん! わたくしが人質なんですよ!? 万が一! 万が一を考えて頂かないと!」
「し、しかし……いえ、その通りなのですが」
せっかく虚を突けそうだったのに、と言いたげな顔だ。助けてくれようとする気持ちはありがたいが、また奇襲を狙われては困ってしまう。
「しかしもカカシもありません。あまり出過ぎたことをするなら、リィンさんの内緒話を大声でばらしちゃいますから。大暴露大会の開催です!」
「いっ!?」
あら、妙に動揺しているような。適当に言っただけなのに、心当たりがあるのかしら。
「い、いけません。どうか思いとどまって下さい」
「構いません。ぜひ仰って下さい」
アルフィンを止めようとするリィンをアリサが止めた。
「アリサ!? どっちの味方だ!」
「殿下よ」
リィンとアリサが何やら揉め始めた。ヴァリマールとレイゼルの操縦者。この二人が最大の障害だったので、これはこれで好都合な展開だった。
動くに動けない整備クルーたちの間を抜けて、スカーレットとアルフィンは《ケストレル》へと近づいていく。
両膝をついた前傾姿勢で停留中のケストレルの前に、ジョルジュが立っていた。
「ジョルジュさん。ケストレルの修復度合は?」
「通常運用は問題ありませんが……これは一体どういう状況なんですか?」
「ご心配なさらずに」
それだけを告げて、ジョルジュを下がらせる。不安そうにしていたが、彼は従ってくれた。
「殿下、ご無事ですか!?」
ここでトワがドックに駆け込んできた。誰かがブリッジに通報したようだ。他のⅦ組メンバーも引き連れて、こちらに走ってくる。
スカーレットはすでにケストレルのコックピットに乗り込んでいた。開いたままの胸部ハッチに、アルフィンも身を乗り入れる。
「それ以上進まないでちょうだい。私の言う通りにすれば、あなた達の大切な皇女殿下は無傷で返すと約束するわ」
スカーレットが警告すると、交渉役としてトワが前に出てきた。
「要求は?」
「二つ。この飛行艇を着陸させて後部ハッチを開くこと。私が離脱した後に追っ手を放たないこと」
「それなら可能です。ただ、艦を出た直後にあなたが攻撃を仕掛けてこない保証がありません」
「その時は二つ目の要求を破棄すればいい。《紅き翼》が保有する騎神と機甲兵を同時に動かされたら、さすがに厳しいし」
「それ以外にもネガティブな不確定要素がまだ残っています」
「真に公平な取引はありえない。お互いの妥協点をどこにするかよ。言っておくけど、状況的に不利なのは私の方だからね」
その不利を一手で逆転させるのがアルフィンの存在だ。
黙考していたトワは、ややあって指示を下した。
「ブリッジの副艦長に伝達。近隣で場所の確保ができ次第、緊急着陸を。艦の固定後、速やかに後部ハッチを展開して下さい」
「遮蔽物のない平原はお断りよ?」
「わかっています」
ほどなくカレイジャスは高度を下げ始め、着陸態勢に移行した。
艦底に振動と衝撃。地面に着いたのだ。ハッチが開いていく。バリアハート近郊の樹林地帯に近い区画のようだ。
スカーレットがコントロールスティックを握る。
「機体の調子も上々。よくもまあ、短時間でここまでリペアができるものね。素直に驚くわ」
「ジョルジュさんもミントさんも優秀ですので。ミントさんは時々爆発事故を起こしますけど」
「それ優秀って言わないから。……さ、お姫様。あなたはもう降りなさい」
「わかっています。でもその前に」
アルフィンはケストレルの設定画面を呼び出すと、伸ばした片手でキーボードを素早く叩いた。
「な、なにしたのよ」
「並列式オーバルエンジンに出力制限をかけました。このくらいの設定は私にもできますから――ひゃぐ!?」
得意気に胸をそらすアルフィンの両頬を、スカーレットがぐいっと引っ張った。見ている一同からの、戦慄する気配が伝わってきた。
「ひたい! ひたいれす!」
「解除しなさい、今すぐに」
「ひましぇん~」
ロック形式はアルフィンが設定したパスワードだ。これで《ケストレル・ビヴロスト》として炎の能力を行使することもできない。
「……やられたわ。元々機能面での制限はかかってたみたいだけど、その上に設定のロックまで重ねてくるなんて。狙ってたわね?」
「もちろんです。危険な状態の機体には乗せられませんから」
「どこまでも面倒なお姫様ね、あなたは」
ケストレルの胸に腕が添えられる。開かれた手の平に、アルフィンは乗り移った。
「眼帯はまだつけておくんですね」
「外せないわ」
「スカーレットさん」
「わかってる。ちゃんと返事はしに戻ってくる。約束」
アルフィンを床に下ろすと、ケストレルは立ち上がった。かたわらに鎖で固定されていた法剣を無造作につかむと、その鎖を引きちぎって腰にマウントする。
重い足音を響かせて、紅い機甲兵がハッチを出て行く。カレイジャスには一度も振り返らず、攻撃をしてくるような挙動も一切なかった。
「殿下!」
リィンたちが駆け寄ってくる。
「心配をかけてごめんなさい。でも大丈夫です」
わたくしも、スカーレットさんも。
胸中につけ加えて、アルフィンは遠くに見えるケストレルを見据える。
たくさん話をして決めたのだ。
スカーレットには、まだ一人で考える時間が必要だった。騎士になるか否か。彼女はちゃんと答えを用意して帰ってくる。多分それほど時間はかからない。
信じている。きっと――
《//振り抜いてシーソーゲーム//》
快晴ではあったが、ちらちらと小雪が舞っている。山の麓に着陸したカレイジャスから途中までは徒歩で、そこからはケーブルカーでここまでやってきた。
山岳地帯の澄んだ冷気を吸い込んだポーラは、支給された防寒具に包まれた両腕をぐぐ~っと伸ばした。
「ここがユミルなのね。初めてきたけど、本当にきれいな場所……」
薄く雪が積もった町並は白に塗られて、中央広場に設置された足湯場からは蒸気が立ち昇っている。町全体に漂う硫黄の匂いは、ここが名高き温泉郷である証明だった。
クレア・リーヴェルトの査察を乗り切ったカレイジャスは、予定通り東部巡回に入っていた。その直後に緊急着陸するトラブルもあったのだが、理由はまだポーラの耳に届いていない。
クロスベル方面に突如として出現した《碧の大樹》。ざわめき立っているであろう各都市の様子を見回ることが、巡回の目的だ。
そういうわけで、まずユミルを訪れたのだった。やることはさして難しくない。人々の話を聞くだけだ。それが不安の種をのぞくことにも繋がる。
「さてと。どこから行く? 私たちは町に来たことがないから、案内はラウラに任せてもいい?」
ポーラが振り向くと、いつものメンバーのモニカとブリジットとコレットが困り顔を並べていた。ラウラは三人の背に身を縮めて、隠れるようにしている。
「……ラウラ、それじゃあ案内できないでしょ」
「う、うむ。その道を右に曲がれば鳳翼館。さらに進めば雑貨屋がある」
「先頭に立って欲しいんだけど」
「うむぅ……」
ちょいちょいと指さしだけで済まそうとするラウラに、ポーラは顔を近づける。ラウラはさらに隠れてしまった。
まだ無理があったかもしれないと、ポーラはマフラーの巻かれた首をすくめた。
どういう理由か――おそらくはリィン関係――で部屋に引きこもってしまったラウラを、半ば無理やりに連れ出してきたのだ。気分転換の意味合いもあったし、いつまでも塞いでいるのは良くないとも思ったからだ。
だがこの有様である。
とはいえ、わからなくはなかった。気になる男の子との関わりのせいで、いつも通りでいられなくなることは。以前ならいざ知らず、今ならその心情を理解できる。
言うか言うまいか、ちょっとだけ悩んでポーラは観念した。自分だけじゃないと、それで彼女の気持ちが少しでも楽になるのなら――
「ねえ、みんな。特にラウラ。聞いて。私もね、最近気になる男子がいるの」
ひゅううと風が吹き、折れた木の枝が足元に転がってきた。
「んえっ!?」
「はい!?」
「うそ!?」
「馬鹿な!?」
三秒の静寂と硬直を挟み、四者四様のリアクションで一同が驚愕に身を仰け反らせる。『馬鹿な』はおかしいでしょ。しかも言ったのラウラだし。
「まったく。だから私たちに隠し事はなしよ。こうして自分のことも暴露したわけだし」
驚きの収まらないラウラが、しどろもどろに訊いた。
「す、すまない。意外というか……そ、その、相手は?」
「……さすがに照れるわね。ま、言うわよ。彼もちょうどユミルに降りてるし」
「え?」
ほら、とポーラは横目を流す。白い学院服の少年がこちらに歩いて来ていた。ハンチング帽を頭に乗せ、釣竿ケースを背負い、ブラウンのブーツが雪を踏む。
「え? ケネス君?」
モニカが目を丸くする。ブリジットが「予想外かも……」と首を傾け、コレットも「へえ、大人しい男の子って印象だけど」と続いた。
総じて意外という反応だった。どうやら彼の良さに、誰も気づいていないらしい。
「そうよ、悪い? ……せっかくケネス君来てるしね。ち、ちょっとモーションかけちゃおうかしら……?」
『おお~!?』
「茶化さないでよ。というか緊張するし……そこでちゃんと見ててよね!?」
全員の感嘆を背に受けながら、ポーラもケネスに向かって歩き出す。正直恥ずかしい。でもラウラには勇気を持って欲しい。ポーラの心臓は高鳴っていた。
二人がすれ違う瞬間、その肩と肩が触れ合い――力任せにポーラ側が押し弾いた。
「どこに目をつけて歩いてんのよ!」
「ひい! ご、ごめん!」
不意打ちのショルダーバッシュに、ケネスはどすんと尻もちをつく。ケースを飛び出た釣り具が散乱した。
「申し訳ございません、でしょ」
「申し訳ございません!」
「そもそも誰の許可をもらって道を歩いているの?」
「許可がいるんだ!?」
「ふん」
質問にはまともに取り合わず、散乱した中の一つのルアーをつまみ上げる。
「あ、それは!」
「大事なもの?」
「う、うん。このあと釣りをしようと思ってて、それは川のヌシ用に持ってきた一点ものの大切な――」
「上を見なさい」
「上?」
ケネスが空を見上げた一瞬に、ポーラはルアーを明後日の方向に放り投げた。小さな魚型のそれが、積もった雪にずぽっと埋まる。事態に気づき、彼は慌てた。
「僕のルアーが! どこにやったのさ!」
「それを探すのが、あなたの仕事よ」
「そ、そんな……!」
「這いつくばってお探し。手を使うことは禁じるわ。うふふ、あはははは! 最高よーっ!」
「ひどいよおお!」
泣き叫ぶケネスに背を向けて、ラウラたちのところへと戻る。頬を朱に染めた乙女の表情で、ポーラは「ほう……」と熱い吐息をついた。
「ね?」
『うん。なにが?』
四人の友人は同時に言った。
自ら両手を後ろで組んだケネスは、イモ虫のように身をよじりながら雪の中に顔を突っ込んでいた。
「ぶふぅ」
顔を上げる。鼻柱に乗っていた雪がぼろっと落ちた。すぐにまた、顔を地面の雪にうずめる。
どこだ。どこにあるんだ、僕のルアーは。あれがないと釣りができないのに。
「ケネスさん?」
「え?」
名前を呼ばれて、ケネスは再び顔を上げる。見知った人が、そこにいた。
「ア、アナベルさん。どうしてここに!?」
「ケネスさんこそ、あのあとも全然追ってきてくれなくて……」
元々トリスタを出たケネスは、釣り仲間であるアナベルと行動を共にしていた。
道中、一緒に釣りに興じていた時に不運が重なって、彼女の祖母の形見である指輪がレインボウに飲み込まれてしまったのだ。
そこでケネスはアナベルと別れた。彼女には内緒で、その指輪を取り戻す為に。どうやらアナベルは、その後にこのユミルまでたどり着いていたらしい。
そうだ。そうだった。
予想外の邂逅に動揺しながらも、ケネスは大切に持っていたそれを懐から取り出した。
「これをアナベルさんに」
「うそ……なんで? 信じられませんわ……!」
受け取った指輪を手の平で見つめるアナベルの瞳に、じわりと涙がにじむ。困惑と喜びが入り混じっているようだった。
彼女は何度も何度もケネスにお礼を述べた。そして急にケネスの奇妙な格好に思考が向いたらしく、怪訝そうに彼を見下ろした。
「ところでそれは、何をやっていますの?」
「なにが?」
「なにがって……その体勢ですけど」
ケネスは依然として、這いつくばったままだった。アナベルに指輪を渡した時でさえ、その恰好のまま腕だけを伸ばしたのだ。
「いや、それがね。大切なルアーが雪の中に埋まったから探してるんだけど、手を使うなって言われちゃってさ」
「なんでそんなことを言われたのかわかりませんが……別に言うことを聞かなくてもいいのでは? 顔が真っ赤で、しもやけになりかけてますのに……」
「……?」
言うことを聞かなくてもいい。そう指摘されて、ケネスは我に返った。
その発想はなかった。確かに、なぜ僕はポーラさんの言い付けを律儀に守っているんだ。こんなんじゃいつまでたってもルアーなんか見つからない。手を使う方が効率的だ。当たり前じゃないか。
しかし頭の納得とは逆に、体は今の体勢から動こうとしなかった。
雪にまみれた顔は冷たい。でも胸の中は煮えたぎっているように熱い。一刻も早くルアーを見つけてこの場を離れたいと思う自分と、永遠にこの時間が続けばいいと思っている自分がいる。
どっちが本当の僕なんだろう。
変だ。僕は変だ。前はこんな気持ちにならなかった。いつからだ。いつから僕は変になってしまったんだ。
「ケネス? なにやってるの?」
その抑揚のない平坦な第三者の声に、ケネスの頭蓋は電流が走ったかのごとく激しく揺れた。
一瞬で声の主に体の向きを変え、しかし平伏したままケネスは言う。
「ル、ルアーを失くして、探してるんです」
「ふーん、がんばって」
淡白に応じるのはフィー・クラウゼルだった。「フィーちゃん、ちょっとくらい手伝ってあげましょうよ……」と、彼女のとなりにはエマもいる。仲良く手を繋いで――あるいは繋がされてか、二人で巡回中のようだ。
同じ一年の、しかも年齢は下のフィーに対してケネスは敬語だ。そうせざるを得ないモノが、自分の中にあるのだ。
「じゃ」
遠ざかろうとしたフィーの足元で、べきりと何かが砕けた音がした。
嫌な予感。彼女の靴が退くと同時、ケネスはそこに飛びついた。案の定だった。大切なルアーが、見るも無残に潰されていた。針がひん曲がり、プラスチック製の胴体は割れてしまっている。修復が難しい壊れ方だ。
「あ、ああ……僕の……」
「これ探してたんだ? 壊れてるね」
「一つしかないのに。これで川のヌシを釣ろうと思ってたのに」
「大丈夫。不思議な術で委員長が直してくれるから」
「ほ、本当に!?」
ケネスが懇願の顔を上げると、エマは首を横に振っていた。
「すみません。そんな術はないんです……」
「無理だって」
「うわあああん!」
僕は泣いた。だけどやっぱり変だ。涙が出てこない。不思議と胸が満ち足りている。
無二の私物を破壊されたというのに、なんで心が充足していくのだろう。欠けた精神の破孔が、砂糖で甘く埋められていくみたいだ。まるで常習性を兼ねた毒の媚薬。それは究極の矛盾を孕んだ壊されていく快楽。
おかしいってわかってる。踏みとどまらなきゃ。正しい道に戻らなきゃ。
でも、こんなの抗えないよ。脳が痺れて溶けていく――
「ありがとうございますぅ」
紡ぎ出された言葉は、ただ感謝だった。
「い、今の見た?」
ポーラの手がわなわなと震えていた。
うなずいて、モニカが言う。
「あーあ。ルアー壊れちゃったね」
「そんなのはどうでもいいの!」
「どうでもいいことはないと思うけど……」
「フィーちゃんの行動よ。あれは上級者だわ!」
「は?」
疑問しかない友人たちにポーラは熱弁した。
「そっけない態度で登場して、しかしその実、最初からルアーを壊すつもりだったのよ。そして砕いた後につま先をわずかに上げたのは、靴をおなめという無言の服従命令!」
「違うよね。絶対違うよね」
「しかも飛びついたケネス君が靴をなめようとした瞬間、フィーちゃんはすかさず足を引いたわ。あれはご褒美とおあずけを繰り返すことで期待感を煽る至高のシーソーゲーム! しつけの何たるかを心得ているが故の駆け引き!」
「落ち着こうよ。真っ昼間だよ」
「その証拠に見なさい、ケネス君のとろけた顔を。私の時を犬とするなら、今の彼は豚! つまりペットではなく家畜っ! 卑しい養殖奴隷の表情よ!」
「そうだね。そろそろ声のボリューム落とそうね。そんなのフィーちゃんは狙ってやってないよ」
モニカがなだめつかせようとするも、ポーラの熱は収まらなかった。
「狙わずにあれほどのポテンシャルを発揮しているということ……? 恐ろしい子!」
「あ! 待って!」
モニカの制止を振り切って、ポーラはケネスへと駆け出していた。
「フィーちゃん!」
「なに?」
勝手に認定した宿敵に、ビシィッと人差し指を突きつける。
「勝負よ。どちらか彼の飼い主に相応しいか」
「……?」
フィーは不思議そうにしている。それも天然か、あるいは計算か。この際そんなことはどうでもいい。
ケネスに自分の実力を認めさせ、心身共に屈服を強いねばならない。その為には彼のもっとも得意とする分野で勝利を収め、見せつけることが重要だ。ならば。
「勝負のお題は釣りでどうかしら」
「よくわからないけど、時間はあるから構わないよ」
「フィーちゃん? 一応巡回中なんですよ? ポーラさんも?」
エマがやんわり嗜めるも、効果はなさそうだった。一連の流れを見ていたアナベルは「飼い主……? まさかさっき手を使わずにルアーを探せと言ったのは……!」と全てを理解できないまでも、敵意ある視線をポーラに向ける。
「見過ごせません。私も釣り勝負に参加します。思うようにはさせませんわ!」
なぜかアナベルまで入ってくる。ポーラは彼女を邪険に扱った。
「は? あなた誰よ。関係ないでしょ。あっち行ってよ」
「関係あります。もしかして怖がっているんですか? 私が参加すると勝てなくなるから」
「へぇ、いい度胸ね。私が勝った時には、あなたには鼻フックの刑を受けてもらおうかしら」
「上等ですわ。で、鼻フックってなんですの?」
「ちょ~っと待ったあ!」
騒がしくなりつつある一帯に、さらに追加の声が割って入ってくる。
駅員服に身を包んだ青年が、「とうっ」と近くの木の上から飛び降りる。いつからそこにいたのか、華麗に着地してみせると、彼は不敵に言った。
「俺の名はラック。その勝負、俺も参加させてもらおう。これは左手の手袋の代わりだと思え!」
決闘の証らしく、ラックは駅員帽をフィーに投げつけた。ぱしりと払われ、あっけなく地面に落ちたが。
「あの雪合戦以降、フィーネさんは姿を見せなくなってしまった。俺が優勝できなかったのがショックで、屋敷に引きこもってしまったんだろうな。今日こそは君を倒して、フィーネさんの笑顔を取り戻してみせる!」
格好いいポーズをラックは決めた。相変わらずフィーの頭には疑問符が踊っている。
「とりあえず委員長が審判やってもらっていい?」
「え、え、え? フィーちゃん? フィーネさんって?」
こちらも事態をうまく飲み込めず、エマはフィーとラックを何度も交互に見やっていた。そして何かしらを理解したようで、頬につつーとひとすじの汗を流す。
とてもややこしい図式の釣り勝負が開始されようとしていた。
●
ユミル渓谷道の小川が決戦の場だった。一時間以内にもっとも大きい魚を釣り上げたものが勝ちというルールである。
川岸に立つポーラは釣竿を適当に繰りながら、横並びに立つ参加者たちに目線を向けた。
ポーラの他に竿を握るのは、アナベル、フィー、ラック、ケネスである。ケネスもこの場に立ち会っているものの、彼は単純に釣り目的なので、直接勝負に関わっているわけではいない。景品としての意味合いはあるが。
開始30分が経過。今のところ、魚は誰にもかかっていない。
「はあ、こんなに魚って釣れないものなの?」
誰にも聞こえないようにぼやく。ポーラは釣りが初めてで、そしてもっと簡単なものだと思っていた。
友人たちは一人も残っていない。さすがにラウラが限界だったので、他の三人にカレイジャスまで送らせたのだ。
暇だ。話し相手がいない。一人くらいは自分に同行してもらえばよかった。
この緩慢に過ぎゆく時間に身を浸らせるのも釣りの醍醐味の一つらしいが、どうにも理解しがたい。釣りの目的は魚を釣ること。しかるに釣れねば楽しくない。
二度目の嘆息を吐いて、ポーラは今の状況を整理してみた。相関図が入り組みすぎているのだ。
まず私はケネス君を服従させたい。これはシンプルだ。
フィーちゃんは謎だ。ただ自分の目的を達成するために、その眠れる女王の素質は大きな脅威になる。現在のケネス君の主人は彼女と見て間違いない。
アナベルさんがケネス君から受け取っていたのは指輪だった。額面通りに理解するなら、そういう関係なのだろうか。彼の所有権を奪われたくないが為に、釣り勝負に踏み込んできたことは納得できる。
ラックさんはいきなり乱入してきて、フィーちゃんに勝負を挑んだ。経緯は不明だが、あの熱意とこのタイミング。すなわち、彼もケネス君を自分のものにしようとしている。
そしてケネス君。フィーちゃんの家畜同然に振る舞っておきながら、アナベルさんに指輪を渡すという不可解な行動。さらにラックさんの割り込みを受け、彼の目的が主従関係を築くことだと予想されるのに、ケネス君には拒否するような素振りが見えない。
わからない。もしかしたら私が思っている以上に、ケネス君はもっと複雑な属性を宿しているのかもしれない。ああ、興味が止まらないわ。
「絶対に釣ってみせる。勝つのは私よ!」
ポーラは釣り竿を構え直す。川上から大きな波紋が近付いてきていた。
僕は何者だ。どこから来て、どこに向かうのだろう。
漫然と川の流れに視線を落とすケネスの思考は彼方へと飛び、もはや哲学の域にまで達していた。
釣竿を持ちはするものの、完全に心ここにあらず。自らのレゾンデートルとかアイデンティティーとか、そういう小難しいものと向き合っていた。
戻るんだ。当たり前の僕に。普通に過ごしていた頃の僕に。
本当に大切なものを見つけよう。もっともっと深いところに、僕だけの真実があるはずなんだ。
僕という存在を構成する、揺るがない何かが。
僕が本当にうれしい時はいつだ? 本当の満足を感じる時はいつだ? それは何をしている時だ?
決まっているじゃないか。
こうして水面に糸を垂らしている時。そこに大物がかかる瞬間。心臓が破けそうになるくらいのあの興奮は、何度味わっても慣れることがない。いつだって、いつまでも、僕の心を震わせてくれる。
やっと見つけたよ。
違う。知っていた。
思い出したんだ。
僕はやっぱり釣りをしている時が、一番満ち足りている。
いつの間にか歪んでしまっていた感性を、今こそあるべき形に正す時だ。
「来た!」
閉ざしていた瞳をカッと見開く。心の迷いは消えていた。強い眼差しの先には、水面に広がる大きな波紋。
それはケネスの糸を中心に発生していた。
「す、すごい大物ですわ! まさかユミルのヌシ!?」
自分の竿を持つことも忘れて、アナベルが叫ぶ。
すごい引きだ。ロッドが折れんばかりにしなる。でもここで負けるわけにはいかない。これは僕がケネス・レイクロードであることを証明する為の戦いでもあるんだ。
水面に映る影が濃くなっていく。もう少しだ。
全力を振り絞ってリールを巻き切る。ケネスはついに勝った。
盛大に上がる水しぶきの中から、勢いよく一本の腕が伸びてきた。しわがれた手の平が、川縁に立つケネスの足首をがしっとつかむ。
「へっ? えええ!? 誰か助け――」
抵抗する間もなく、水中に引きずり込まれる。
もがきながら、ケネスは見た。澄んだ水の中に潜む、濁った目をした用務員がにたりと笑うのを。
ノルティア街道の小川で、彼と不意の遭遇を果してしまった時のことが思い出される。この用務員はケネスにこう言い残して消えたのだ。
〝次に私と出会う時、君はさらなる深淵に誘われるだろう”
取り戻しかけていた本当の自分。レゾンデートル。アイデンティティー。
妖艶に蠢く紫の魔手が、それらを容易く台無しにしていく。深いところにあると思っていた僕の真実が、さらに深みへと沈んでいく。
現実の光景ともイメージとも判別できない世界の中で、共に落ちた釣竿が遠くへ流れていってしまうのをケネスは知覚した。
煉獄の底から魔人が這い上がってきた。
少なくともエマにはそう見えていた。
突然の出来事に、誰しもが固まっている。トールズ士官学院の用務員であるガイラーが、いきなり水中から現れたのだ。その小脇に、ぐったりとしたケネスを愛用のバッグみたいに抱えて。
ガイラーは濡れた髪を後ろにかき上げると、憂い顔を浮かべてみせた。
「ケネス君は足を滑らせて川に落ちてしまったようだ。たまたま私が水の中にいたから事無きを得たものの、実に危ないところだったよ」
「たまたま水の中っておかしいでしょう!?」
間髪入れずエマが言う。山間の寒風が枯れ葉を舞い上がらせた。
「寒中水練で己を鍛えることがそんなに不思議かな? おお……しかし冷えるね」
「冬だから当たり前です。とりあえずケネスさんを離して下さい」
「ふふ、怖い顔だ」
ケネスをゆっくりと地面に置くと、ガイラーは軽やかに跳躍した。空中で俊敏に回転し、水気を瞬時に払う。四方八方に飛ぶその水しぶきもなんだか危険な気がしたので、エマはクレセントシェルを展開して身を防御した。
「うっ……力が、抜ける……っ」
水しぶきを浴びたラックが、がくりと両膝をつく。対して女子には効果がないらしく、アナベルとフィーとポーラは平然としていた。
男子限定の呪いの雨を存分に降り放ったあとで、ガイラーは着地する。その衣服はすでに乾いていた。
「まさに歩く災厄ですね……」
「異なことを言う」
エマはもう理解していた。
あの飛行艇ハイジャックの結末。甲板から落下しながら、ガイラーはこう告げていた。
〝私は先にもう一つの目的を果たすとしよう。ケネス君によろしく伝えてくれたまえ”
彼が落ちた先はアイゼンガルド連峰の谷底の激流。そしてそれは地理的に、ユミル渓谷の小川にまで続く源流。
泳いでここまでたどり着いたのだ。あれからすでに何日も経っているのに。しかも真冬の氷点下で。改めて常人の肉体ではない。
いったいどこまでの因果を見通せば実現できるのだ。ケネスが渓谷道で釣りに興じるこのタイミングで、ベストポジションの配置につき、己が運命を知らぬ子羊を享楽に狩るというのは。
だがガイラーの真の目的はケネスではない。エマはそれを知っている。彼はこの帝国を手に入れると言った。そして先のハイジャックを何かに利用しようともしていた。
そういうことか。エマの中で点と点が線で繋がり、ガイラーがこの場に姿を現した意味を直感し、同時に戦慄した。
ならばこの人が次に言ってくることは――!
「さて。私もずいぶん各地を回った。そろそろ腰を据えて君たちの力になりたいと思う」
「大丈夫です。間に合ってます。問題ないです。ありがとうございました」
「カレイジャスは大きな艦だ。しかしながら慢性的な人員不足と見受ける。使い勝手のいい用務員が常駐すれば、皆の雑務も軽減できるのではないかな?」
「危険です! 危険ですから!」
「護身の心得はあるよ。戦闘艦に危険が伴うことは承知の上だ」
「あなたが危険って意味です!」
エマの必死の抵抗も、思惑の滲んだ微笑に受け流される。
無理だ。誰にもこの狂い咲きの用務員を止められない。このままではエレボニア帝国の貴族制はやがて消え去り、代わりにガイラー制が敷かれてしまう。
灰色にくすんだ瞳に、よどんだ紫色の妖光が輝いた。
「まずは乗艦許可を頂かなくてはね。さあ、アルフィン皇女殿下に会わせてもらえるかな」
――続く――
――another scene――
ゆがんでいたパッキンを正常な位置に戻し、ボルトを締める。蛇口をひねって配管の音に耳を澄ます。
異常なし。水道から水が流れ出てきた。
「うん、終わりっと」
スパナを工具ケースに片付けると、アリサは膝のほこりを払った。
ジョルジュに水道修理を頼まれたのはつい先ごろだ。本来ならミントに任せるつもりだったらしいが、ドックの作業に人手が必要とのことで、手の空いていたアリサに依頼が回ってきたのだ。
つい最近、ミントの修理が原因の爆発事故があったので、彼女に任せたくなかっただけなのかもしれない。
艦内にはあちこちガタが来ていた。運用して間もないカレイジャスではあるが、作戦行動の頻度が多く、そのたびに戦闘機動も取っている。実際に被弾だってある。
外装はともかく、内部に届いた衝撃が、設備に地味な不具合をもたらしているのだ。
「……本当はユミルに行きたかったんだけど……」
ひとりごちて、直したばかりの蛇口を見やる。ぽた、ぽた、と水滴が落ちていく。
カレイジャスは山の麓に着陸していた。今頃は何人かのメンバーがユミルを巡回中だろう。自分も同行するつもりで準備していた矢先に、ジョルジュから声をかけられてしまったのだ。整備班の忙しさは知っているし、その大半はレイゼルのメンテナンスに起因しているものだから、アリサには断ることができなかった。
スカーレットの騒動もあったせいで、リィンの聴取室連行もうやむやになってしまったし……。
「アリサ?」
「あら……」
ラウラが歩いてくる。
「体調優れないって聞いていたけど大丈夫? ユミル巡回には参加したらしいけど」
「ああ、心配をかけてすまない。……巡回は早めに切り上げて戻らせてもらった」
「まだ本調子じゃないのね。あ、水道使うの? 直ってるからいいわよ」
「修理してくれたのか。すごいな、アリサは」
少し距離を空けて立ち止まったまま、ラウラはそれ以上近づいてこない。
「……? どうしたの」
「いや、水道を使いたいわけではないのだ」
リィンが無理ならラウラに色々訊いてみようか。しかしまだ体が良くないようだし、今じゃない方がいいだろうか。そもそもラウラ相手だと何を質問したいのか、はっきりと言葉にできない気がする……。
とりあえず、元気になったら話したいことがある、ぐらいにしておこう。
そう言おうとしたら、先にラウラが口を開いた。
「アリサ」
「うん?」
「話したいことがある」
「え、いいけど。今から? 体調は?」
「問題ない」
丁度いいと言えば丁度いいが、話とは一体なんなのだろう。やはりリィンのことなのか。また急にそわそわしてきた。
「二人きりになれる場所がいい。……そうだな。聴取室に行こう」
「わ、私が取り調べを受けるの?」
★ ☆