ホロライブ6期生の用心棒・風真いろはは、実の姉のように慕う0期生の先輩・AZKiの自宅に招かれる。穏やかな「女子会」を楽しむ二人だったが、同期のスター・星街すいせいのライブ映像を共に鑑賞した瞬間、部屋の空気は凍りついた。

画面を見つめるAZKiの瞳に宿ったのは、見たこともないほど鋭く冷徹な、獲物を狙う鷹のような「殺意」。

「すいせいは、私が落とす」

衝撃の告白と共に、AZKiは今まで隠していた剥き出しの執着と嫉妬をさらけ出す。信じていた憧れの背中が、一瞬にして見知らぬ修羅へと変わる。突きつけられた狂気を前に、侍・いろはが下した決断とは――。

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第1話

### 第1部

 

 

穏やかな午後の陽光が、街路樹の葉を優しく揺らしていた。風真いろはは、腰に携えた愛刀を軽く叩きながら、指定された住所へと向かっていた。侍のような和装の裾が、歩くたびにさわさわと音を立てる。金髪に近い明るい茶髪をポニーテールに結い、彼女の表情はいつも通り真剣そのものだったが、心の中では少しの緊張が渦巻いていた。

 

(拙者は、今日初めてアズキ殿のお宅にお邪魔するのだな……。アズキ殿は、ホロライブの0期生として、歌の道を極めておられるお方。拙者など、6期生のholoXの用心棒に過ぎぬ身なのに、こんなに親しくお招きいただけるなんて、光栄の極みでござる。だが、どんなお部屋なのだろう? きっと、シックでモダンな、落ち着いた雰囲気でござろうな。アズキ殿の歌声のように、穏やかで優雅な……)

 

いろはは、胸に手を当てて深呼吸をした。あわてんぼうの性分が顔を出し、道中で何度か地図を確認し直したほどだ。ようやく目的地のマンションに到着し、インターホンを押す。すぐに、柔らかな声が応じた。

 

「はい、AZKiです。いろはちゃん、いらっしゃい。エレベーターで上がってきてね。」

 

「あ、は、はい! 拙者、風真いろは、ただいま参上いたしましたでござる!」

 

ドアが開くと、そこには小豆色のロングヘアにピンクのインナーカラーが映えるAZKiが立っていた。白を基調としたシックでモダンな衣装が、彼女の穏やかな微笑みを引き立てている。AZKiは、いろはの姿を見て目を細め、優しく手を差し伸べた。

 

「ふふ、いろはちゃん。今日は来てくれてありがとう。どうぞ、入って。靴はそちらに脱いでね。」

 

いろはは丁寧に頭を下げ、部屋の中へ足を踏み入れた。ところが、視界に広がったのは、思っていたよりもファンシーな雰囲気だった。白とパステルカラーのインテリアが混ざり、クッションがふわふわと散らばったソファ、壁には可愛らしいポスターや小さな飾り棚が並んでいる。シックなイメージが強かったAZKiの部屋が、意外と柔らかく可愛らしい要素が多いことに、いろはは目を丸くした。

 

(これは……意外でござるな。アズキ殿のイメージは、もっとクールで大人びた感じだったのに、この部屋はまるで甘いお菓子のような……。拙者、失礼な顔をしてしまったのでは? いやいや、風真、しっかりせよ!)

 

「あの、アズキ殿……お部屋、素敵でござる。拙者、思っていたより……ええと、温かみがあって、良い感じでござるよ!」

 

いろはは慌てて言葉を紡ぎ、頰を少し赤らめた。AZKiはそんな彼女を見て、くすくすと笑いを漏らした。少し恥ずかしげに、髪を耳にかける仕草をする。

 

「ありがとう、いろはちゃん。でも、ちょっとファンシーすぎるかなって、自分でも思うの。歌の仕事で忙しいから、プライベートではリラックスできるように、可愛いものを集めちゃうのよね。恥ずかしいけど……まあ、座って。お茶を淹れるわね。」

 

AZKiはキッチンへ向かい、丁寧に紅茶を準備した。いろははソファに腰を下ろし、周囲を見回しながら、(アズキ殿のこんな一面を見られるなんて、拙者は幸せ者でござる。実の姉のように慕っていたけど、こうして近くでお話しできるなんて、夢のようだな……)と、心の中で温かな思いを噛みしめた。

 

やがて、AZKiがトレイを持って戻ってきた。紅茶の香りが部屋に広がり、二人は向かい合って座る。最初は少しの沈黙があったが、AZKiの穏やかな口調が、すぐに会話を弾ませた。

 

「いろはちゃん、最近の配信はどう? holoXの皆と、賑やかそうね。私も、時々見てるのよ。いろはちゃんの真面目さが、みんなをまとめているみたいで、素敵だわ。」

 

「アズキ殿にそう言っていただけるなんて、拙者、感激でござる! 拙者、天然と言われることも多いですが、皆の用心棒として頑張っているところでござるよ。アズキ殿こそ、歌の活動がますます輝かしくて……メジャーデビューへの道のり、拙者も応援しておりましたでござる。」

 

AZKiの目は優しく輝き、(いろはちゃんの純粋さが、好きだわ。こんなまっすぐな後輩が慕ってくれるなんて、私も嬉しい……。これまでの苦労を思い出すと、こんな穏やかな時間が尊いわね)と、心の中でしみじみと思った。彼女はカップを口に運び、穏やかに続ける。

 

「ありがとう。歌に対しては、真剣に取り組んできたから……でも、いろはちゃんみたいに可愛い後輩がいてくれると、励みになるわ。今日は、ゆっくりおしゃべりしましょうね。女子会みたいに。」

 

二人の会話は、次第に華やかさを増していった。ホロライブの日常話から、最近の趣味の話題へ。いろはのあわてんぼうエピソードでAZKiが笑い、AZKiの歌の裏話でいろはが目を輝かせる。部屋のファンシーな雰囲気が、二人の距離をさらに近づけ、まるで本当の姉妹のような温かさが広がった。

 

ふと、AZKiが窓辺の棚に飾られたCDを指さした。

 

「そういえば、最近のすいちゃんの新曲、聞いた? あのヒット曲、すごいわよね。私にとっても、すいちゃんは同期でライバルだけど、憧れのスターだわ。」

 

いろはは頷き、興奮気味に身を乗り出した。

 

「アズキ殿、拙者もすいせい先輩の楽曲、大好きでござる! あのメロディー、魂を揺さぶられるようで……すいせい先輩は、ホロライブのトップスターでござるな。拙者など、まだまだですが、いつかすいせい先輩のような輝きを……」

 

AZKiは微笑み、(すいちゃんの活躍を見ていると、私も負けていられないわね。いろはちゃんも、そんな憧れを抱いているなんて、可愛い……)と思いながら、言葉を続けた。

 

「ええ、すいちゃんは本当にすごい。イノナカMusicからの同期で、ずっと歌を極めてきたの。私も、彼女のヒット曲を聴くたび、刺激を受けるわ。いろはちゃんも、きっと一緒に歌ったら楽しいかもね。」

 

二人は、星街すいせいの話題でさらに盛り上がり、憧れのスターへの思いを共有した。あの楽曲の歌詞の深さ、メロディーの魅力、すいせいのパフォーマンスの輝き……。部屋に満ちる笑顔と温かな空気が、この出会いの始まりを優しく彩っていた。

 

 

### 第2部

 

 

紅茶のカップが空になり、会話の熱が少し落ち着いた頃だった。いろははふと、昨夜のことを思い出した。深夜、運営から届いたメッセージに添付されていたファイル――星街すいせいの、最新ライブ動画だった。いろはの胸が、ぱっと明るくなった。

 

「アズキ殿! 実は昨日、運営からすいせい先輩のライブ動画が送られてきたのでござる。メールはご覧になりましたか?……もし宜しければ、一緒に鑑賞会でもいかがでござろうか? 拙者、まだ見ておりませんゆえ、アズキ殿と一緒に見られたら嬉しいでござる!」

 

いろはは目を輝かせ、期待を込めてAZKiを見た。(アズキ殿もすいせい先輩の同期でござるし、きっと喜んでくださるはず……。二人で感動を共有できたら、なんて素敵なことだろう)

 

AZKiは一瞬、ぴくりと肩を震わせたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

 

「ええ、いいわよ。いろはちゃんが誘ってくれるなんて、嬉しいわ。私もまだちゃんと見てないの。じゃあ、準備するね。」

 

AZKiは立ち上がり、リビングの棚からノートPCを取り出した。素早い手つきでテレビとケーブルで接続し、デスクトップに並ぶショートカットのひとつをクリックする。画面が切り替わり、動画プレイヤーが立ち上がった。部屋の照明を少し落とし、二人はソファに並んで座る。いろははわくわくしながら、AZKiの横顔をちらりと見た。

 

(アズキ殿、ちょっと緊張しておられるのかな? でも、すいせい先輩のライブなら、絶対に素晴らしいはずでござる!)

 

再生ボタンが押され、暗転した画面に突然、眩いライトが炸裂した。星街すいせいの姿が現れる。圧倒的なステージング、完璧にコントロールされた歌声、観客を一瞬で掌握するカリスマ。カメラアングルが次々と切り替わり、彼女の表情、指先の動き、汗の粒まで鮮明に映し出される。音響も抜群で、リビング全体がライブ会場と化したかのようだった。

 

いろはは息を呑んだ。(すごい……すごすぎるでござる。すいせい先輩の歌は、いつも心を鷲掴みにするけど、このライブは別次元……。あのエネルギー、あの輝き……拙者、鳥肌が立ってしまった)

 

隣のAZKiも、画面に釘付けになっていた。少なくとも、いろはは最初そう思った。

 

曲がクライマックスに差し掛かり、すいせいが最高音を伸びやかに歌い上げた瞬間、いろはは感極まって言葉を紡ごうとした。

 

流石はすいせい先輩ですな……

 

そう言おうと、隣に視線を移した。その瞬間だった。

 

「ヒッ!」

 

いろはの口から、小さな悲鳴が漏れた。思わず体を硬直させ、手で口を押さえる。

 

AZKiの横顔が、まるで別人だった。

 

先ほどまで穏やかで優しかった表情はどこにもなく、画面の中のすいせいを射抜かんばかりの鋭い目で睨みつけていた。瞳は細く絞られ、唇は固く結ばれている。それは真剣という言葉では足りない。それは真剣というより、獲物に襲い掛かる直前の鷹の目のように、冷たく静かな殺意を宿していた。テレビからの光が、彼女の小豆色の髪を通り抜けて、ピンクのインナーカラーが不気味に浮かび上がる。

 

(な、何だこれは……アズキ殿が、こんな顔を……?)

 

いろはの小さな悲鳴を、AZKiは聞き逃さなかった。ゆっくりと首を動かし、いろはを一瞥する。その視線に触れた瞬間、いろはの背筋に冷たいものが走った。

 

「ぁー……見ちゃったか。」

 

AZKiの声だった。しかし、いつもの柔らかさは微塵もなく、底冷えするような低い響きだった。まるで氷の底から響いてくるようで、いろはの心臓がどくんと跳ねた。

 

AZKiは無言でリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。すいせいの華やかなライブシーンが一瞬で漆黒に落ち、部屋は急に静寂に包まれた。消えたディスプレイの闇が、まるで夜の海のようにAZKiの周りを覆い、彼女の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせるだけだった。

 

沈黙が、重くのしかかる。

 

AZKiはゆっくりと息を吐き、ソファに深くもたれかかった。視線は床に落とされたまま、静かに口を開いた。

 

「私ね、すいちゃんに嫉妬してるの。」

 

 

### 第3部

 

 

部屋を支配していた重い沈黙が、AZKiの声で再び破られた。

 

「同じイノナカMusic出身で、すいちゃんはいつもずっと輝いて、遠くへ行って。でも、『アズキちゃん、アズキちゃん』って、ずっとあの時のままのすいちゃんでいてくれて。だから私は、自分の歌を磨いて、すいちゃんの一音、一呼吸まで聞いて、早くあそこまでのぼりたいの。」

 

彼女の声は、氷の刃のように鋭く、それでいてどこか熱を孕んでいた。AZKiの瞳は暗くなったディスプレイの、さらに遠くを見つめていた。

 

「すいせいは、私が落とす。」

 

その一言に、いろはの全身を戦慄が駆け抜けた。(アズキ殿……本気で、そう思っておられるのか……。すいせい先輩を、落とす……? そんな、恐ろしい……)

 

だが、次の瞬間、AZKiの肩から力が抜けた。雰囲気がふっと緩み、いつもの穏やかな輪郭が戻ってくる。それでも、目はまだ氷のように冷たいままだった。

 

「で、どうするの? 私、あなたの思ってたような優しい先輩じゃないんだけど。」

 

その声は、冷え切った鋼のように響いた。だが、その奥底に、かすかな、祈るような震えが宿っていた。いろははそれを聞き逃さなかった。胸が、痛いほど締めつけられる。

 

AZKiはゆっくりと立ち上がり、漆黒のモニターを背に、囁くように、しかし決して揺るがぬ決意を込めて続けた。

 

「……帰りなさい、いろはちゃん。今の貴女なら、まだ『綺麗な思い出』のまま、私を忘れられるわ。」

 

細い指が、ゆっくりとドアを指差す。その指先は、確かに、微かに震えていた。いろはの目には、それがはっきりと映った。震えているのは、怒りではない。恐怖でもない。それは――自分を汚さないために、必死に大切なものを遠ざけようとする、切ない優しさだった。

 

「貴女が求めていたAZKiは、ここにはいない。……見損なったでしょう? だから、もうおうちに帰って。大丈夫、不義理だなんて思わないし、恨んだりもしないから。……それが、貴女のためよ。」

 

いろはは、息を詰めてAZKiを見つめていた。

 

(帰る……? そんなこと、できるはずがないでござる。アズキ殿のこの声、この目……痛みが、滲んでいる。拙者は、それを見過ごせぬ)

 

いろはは深く息を吸い、腰を浮かせて正座の姿勢を正した。背筋を伸ばし、はっきりと告げた。

 

「――お断り、いたしまする!」

 

AZKiの眉が、わずかに動いた。

 

いろはは喉の奥から絞り出すように、魂の叫びを叩きつけた。

 

「拙者はアズキ殿の優しさを受けようとしたのではありません!いや、普段のお心遣いには大変感謝しておりますが…いやそういうことではなく! 仁・義・礼・智・信――それらは立派なものではござるが、アズキ殿の本質は、そんな枠には収まらぬ! アズキ殿の本質は、善性にございます! どんな闇を抱えていても、決して消えぬ、光そのものでござる!」

 

AZKiは、静かに首を傾げた。冷たい瞳に、わずかな揺らぎが宿る。

 

「この私に、善性? ……証拠は?」

 

声はまだ低く、鋭いが、そこに隠せない動揺が滲んでいた。

 

いろはは胸を張り、涙を堪えながら、しかし確かな炎を瞳に宿して答えた。

 

「拙者の勘にございます!」

 

「……は? 勘?」

 

AZKiの声が、信じられないという色に染まる。

 

「そうでござる! 理屈も証拠もござらぬ! ですが、拙者の魂が、アズキ殿は光そのものだと、絶え間なく叫んでいるのでござる! 拙者の目は、決して節穴ではございませぬ! この目で見た、アズキ殿の笑顔、震える指、すべてが……拙者に教えてくれたのでござる!」

 

沈黙が、再び部屋を支配した。

AZKiは、呆れたように目を丸くした。唇がわずかに開き、息が漏れる。そして――

 

「ふふ……あははは!」

 

堪えきれないといった風に、AZKiは腹を抱えて笑い出した。ソファに凭れかかり、肩を震わせながら、涙が出るほどに笑う。

 

「勘! 勘ですって? ……笑止。本当に、笑止千万だわ、いろはちゃん。理屈も何もないなんて…」

 

いろはは、頰を赤らめながらも、毅然と座っていた。

 

(笑っておられる……それが、アズキ殿の本当の声に違いない。拙者は、信じているでござる)

 

笑いが少し収まると、いろはは静かに口を開いた。

 

「ではお尋ねいたしまする。すいせい殿を討ち果たすおつもりなら、なぜ不要な拙者を招かれた? なぜすいせい殿を語る時、あれほど嬉しそうに微笑まれた? そしてなぜ……今、こんなに心から笑っておられるのですか?」

 

AZKiの笑いが、ぴたりと止まった。彼女はゆっくりと体を起こし、視線を逸らした。頰が、ほんのりと紅潮している。

 

「……レディーを勘ぐるのは、趣味が悪いわね。」

 

「平にご容赦を。願わくば、ただその善性を、お傍で学ぶことをお許しいただきたく。代わりに、この目をお使いください。アズキ殿よりは観客寄りで、観客よりはアズキ殿寄りの、この目を。……不躾ながらお尋ねします。アズキ殿は、拙者の『歌』では、すいせい殿を落とす助けになどならぬとお思いなのでしょう?」

 

「……ええ。そうよ。今の貴女があの場所に介入する余地はないわ。だから、貴女はこの戦いに『不要』なの。……これは優しさじゃない、事実よ。」

 

いろはは心に疼痛を覚えながら、声を絞り出した。

 

「……左様でござる。歌唱、表現、キャリア。どれをとっても、拙者の歌がアズキ殿の悲願成就の助けになどならぬこと――それは、厳然たる事実。否定のしようもございませぬ。」

 

凛とした声。そこには、卑下も、諦めもなかった。 アイドルを志す少女が、その「歌」を自ら戦力外だと切り捨てる。

その凄絶なまでの「覚悟」に、AZKiは息を呑んだ。

 

「……な、何を言っているの? いろはちゃん、貴女だってアイドルを……」

 

「ですが、戦(いくさ)は武芸の巧拙のみで決まるものではございませぬ、アズキ殿。貴女に足りぬ『民の視線』、拙者がその『目』となって補いましょう。……それが、歌で役に立てぬ拙者の、唯一の、そして最高の奉公にございます!」

 

いろはが、一歩詰め寄る。その迫力に、AZKiは思わず一歩後ずさった。

 

「アズキ殿は、ご自身の『孤独』を計算に入れておられぬ! 誰が貴女の歌を民に説くのです! 誰が、あの高すぎる空にいる貴女の『善性』を、地上の民に繋ぎ止めるのです! ……それを行えるのは、歌い手ではない。この、風真だけにございます!」

 

(拙者は、もう退かぬ。アズキ殿の光も闇も、全てを受け止める。それが、拙者の忠義…!)

 

二人の間に、痛いほどの沈黙が下りる。

先陣を切ったのは、いろはだった。

 

「拙者、アズキ殿につくと決め申した。煩わしければ、いつでも斬っていただいて結構にございます。」

 

いろはは、腰に挿していた愛刀を静かに抜き、鞘ごと床に力強くダンと置いた。刀身がわずかに鳴り、部屋に澄んだ音が響く。そして、両拳を床に立て、額が床に届くほど深く頭を下げた。ポニーテールが床に触れ、金髪に近い明るい茶髪が静かに揺れる。

 

AZKiは、長い沈黙の後、ゆっくりと刀に視線を落とした。やがて、小さく息を吐く。

 

「……帯刀を許す。精進しなさい。」

 

声は照れ隠しのように低く、視線を合わせないままだった。だが、その頰は明らかに赤く、耳まで染まっている。

 

いろはは顔を上げ、涙が滲むのを堪えながら、満面の笑みを浮かべた。

 

「……御意!」

 

更に深く頭を下げ、魂の底から響く声で応えた。

 

(アズキ殿……ありがとうでござる。これからは、どんな時も、お傍で……拙者は、絶対に離れませぬ)

 

部屋に、ようやく柔らかな、温かな空気が満ち始めた。漆黒のモニターはまだ暗いが、二人の間に灯った炎は、もう決して消えることはない――そんな確信が、静かに胸に広がった。

 

 

### 第4部

 

 

後日、ホロライブの録音スタジオは静かな熱気に包まれていた。ガラス張りのブースの中で、AZKiがヘッドフォンをかけ、新曲の練習に没頭している。白を基調とした衣装がスタジオのライトに映え、小豆色のロングヘアが優雅に揺れる。彼女の歌声は、マイクを通ってコントロールルームに届けられ、澄んだ響きで空間を満たした。

 

いろはは、ブースの外、エンジニアの隣に座ってその歌を聴いていた。腰の愛刀をそっと脇に置き、両手を膝の上で固く握りしめ、じっと耳を傾ける。

 

(アズキ殿の歌声……相変わらず、心を掴んで離さぬ。新しい曲は、どこか切なさが滲んでいて、それでいて力強い。まるで、アズキ殿の内側にある炎が、音になって溢れ出しているようだ……。拙者、ただ聴いているだけで、胸が熱くなるでござる)

 

テイクが終わり、AZKiがブースから出てきた。ヘッドフォンを首にかけ、軽く息を整えながら、いろはの前まで歩み寄る。表情は少し疲れているが、目は鋭く輝いていた。

 

「……感想は?」

 

いろはは、言葉に詰まった。胸が熱く、喉が震える。

 

「ぇ……ぁ……感動したでござる」

 

AZKiの眉が、ぴくりと動いた。次の瞬間、彼女は無言で右手を振り上げ、いろはの頭へビシッとチョップを叩き込んだ。

 

「イタッ! ……いたいでござる……」

 

いろはは頭を押さえ、涙目になりながらも、慌てて姿勢を正した。

 

「……Cメロは大サビへのブリッジなれど、やや力み過ぎかと。間奏からのエモーションを考えると、その箇所は今よりやや抑えた方が自然に聞けるかと存じます」

 

AZKiは一瞬目を丸くし、それから小さく息を吐いた。

 

「最初からそう言いなさい、ばか。」

 

声はぶっきらぼうだったが、口元がわずかに緩んでいる。

 

周囲にいたスタッフたちが、クスクスと笑いを漏らした。二人のやり取りが、まるで姉妹の喧嘩のように見えるのだろう。スタジオの空気が、和やかに緩む。

 

AZKiは少し照れたように髪をかき上げ、急に声を明るくした。

 

「そうだ、今日は私の家に泊って。久々に女子会をしましょう!」

 

スタッフから「おおー!」という歓声と拍手が上がる。和やかな笑いに包まれながら、AZKiはそっと身を寄せ、いろはの耳元で囁いた。小声で、しかしドスの効いた、冷たく甘い声で。

 

「……感想戦よ。今日は寝れると思わないことね」

 

その言葉に、いろはの背筋がぞくりと震えた。耳朶が熱くなり、心臓が激しく鳴る。

 

(アズキ殿の「感想戦」……あの日の続きでござるな。どんなに厳しくても、拙者は受け止める。光も闇も、すべてを)

 

いろはは、深く息を吸い、静かに、しかし力強く応えた。

 

「……御意!」

 

 

第5部

 

 

夕暮れの街を、二人は肩を並べて歩いていた。ホロライブの事務所を出て、AZKiのマンションへ向かう道のりは、いつもより少し静かだった。スタジオの余韻がまだ残っているのか、いろはの足取りは軽く、AZKiの横顔には穏やかな満足感が浮かんでいる。

 

「いろは。」

 

AZKiがぽつりと名前を呼んだ。いつもの「いろはちゃん」ではなく、呼び捨ての響きに、いろはは少しびっくりして顔を上げた。

 

「アズキ殿……?」

 

「今日のCメロの指摘、的確だったわ。本当に助かった。……ありがとう。」

 

声は静かだったが、そこに宿る熱は確かで、AZKiの瞳はまっすぐにいろはを捉えていた。言葉の端々に、深い感謝と信頼が滲んでいる。

いろはは頰を赤らめ、慌てて手を振った。

 

「い、いえ! 拙者など、まだまだ未熟者でござる。ただ、アズキ殿の歌があまりに素晴らしいゆえ、ほんの少しの違和感が気になって……」

 

照れくささに、ポニーテールの先を指でくるくる回してしまう。AZKiはそんな様子を見て、くすりと小さく笑った。

 

「ふふ、素直で可愛いわね、いろはは。」

 

しかし、その笑みがふっと消えた。

突然、AZKiの表情が硬くなった。眉が寄り、唇が引き結ばれ、視線が地面に落ちる。足取りがわずかに遅くなり、隣を歩くいろはの存在さえ忘れたかのように、黙り込んでしまった。

 

「……アズキ殿?」

 

いろはが不安げに声をかけると、AZKiは顔を上げ、怖い顔のまま短く言った。

 

「ごめん。ちょっと、静かにしてて。」

 

AZKiの声は低く、制するようだった。いろはは言葉を飲み込み、ただ小さく頷いてAZKiの後ろに下がった。

 

(何か……拙者が、まずいことを言ってしまったのか? でも、何が……)

 

マンションに着くと、二人は無言でエレベーターに乗り込んだ。部屋に入ると、AZKiは靴を脱ぎ捨てるようにしてキッチンへ向かった。冷蔵庫の扉を開け、ペットボトルを二本取り出す。無言でリビングに戻り、ソファを指差した。

 

「座って。」

 

言葉少なに、しかし有無を言わさぬ調子で。いろはは示されたソファに腰を下ろし、AZKiが対面に座った。ペットボトルをテーブルの上に置き、両手で自分の膝をぎゅっと握る。

 

「……体調は大丈夫? 気分は悪くなったりしてない?」

 

突然の問いに、いろはは目を丸くした。

 

「え……特には……強いて挙げれば、お腹がへってるくらいで……」

 

「そう……」

 

それっきり、AZKiは黙り込んだ。時折、天井を見上げて息を吐き、俯いては指を絡ませる。考え込み、悩んでいる様子が、痛いほど伝わってくる。いろはは声をかけることもできず、ただ見守ることしかできなかった。

 

(アズキ殿……何を、そんなに悩んでおられるのか……。拙者に、話せないことなのか……?)

 

 

長い沈黙の末、AZKiがぽつぽつと口を開いた。声は小さく、どこか震えていた。

 

「……通院歴、ある? 耳鼻科とか、脳神経内科とか。」

 

いろはは息を呑んだ。予想外の質問に、心臓がどくんと鳴る。

 

「え、ええと……耳鼻科は、昔、風邪を引いて何度か行ったくらいで……脳神経内科は、一度もございません。頑強さが、取柄ゆえ……」

 

AZKiは頷き、次の質問を探すように間を置いた。

 

「……推しは? 誰の歌をよく聞くの?」

 

「拙者の推しは、アズキ殿でござる。そして、すいせい先輩も……どちらも、とても大切で……」

 

「ライブは? どれくらいの頻度で見に行ってる?」

 

「小遣いをつぎ込んで、できる限り頻繁に。他のアーティストを含めてですが……月に二回は、絶対に……」

 

答えていくたび、いろはの胸に不安が広がった。

 

(なぜ、こんなことを……? アズキ殿の声が、怖いくらいに真剣で……拙者、何か、間違ったことを……?)

 

AZKiは目を伏せ、ペットボトルのラベルを指でなぞった。長い睫毛が影を落とし、表情が読めない。

 

「……そう。」

 

再び沈黙が訪れた。部屋の中は、時計の秒針だけが静かに刻まれていく。いろはは、ただ座ったまま、アズキ殿の次の言葉を待つしかなかった。

 

 

### 第6部

 

 

沈黙が長く続いた後、AZKiがようやく顔を上げた。ペットボトルをテーブルに置き、ゆっくりと息を吐く。その瞳には、先ほどまでの怯えのような影は薄れ、代わりに静かな決意が宿っていた。

 

「私の最近の曲、『ポテンシャル』……改善点はあると思う? 怒らないし、大事なことだから、正直に答えて。」

 

いろはは、思わず身を縮めた。突然の質問に、喉が乾く。

 

「ぇ……自分の力を信じさせてくれる、良い曲と思いまするが……」

 

AZKiは小さく頷き、視線を逸らさずに続けた。

 

「……そう。じゃあ、今から練習してた時の音源をかけるから、気になった点があったら手をあげて。後から質問するから。」

 

彼女はソファから立ち上がり、スマホを手に取った。指が画面を滑り、楽曲配信サイトを開く。『ポテンシャル』のタイトルが表示され、再生ボタンを押すと、リビングのBluetoothスピーカーから、柔らかくも力強いイントロが流れ始めた。

AZKiは再び対面のソファに座り、膝の上で手を組んで、じっと音に耳を傾けた。いろはも、姿勢を正し、集中する。

 

(アズキ殿の声……スタジオで聴いた時よりも、生々しくて……。拙者、ちゃんと捉えなければ……)

 

曲が進むにつれ、いろはの右手が三度、ゆっくりと上がった。一度目は、最初のサビの終わり近く。二度目は、間奏後のCメロに入る直前。三度目は、大サビのクライマックスで。

曲が終わり、余韻が部屋に残る中、AZKiは静かにスマホを操作して停止させた。そして、視線をいろはに移す。

 

「一つずつ、教えて。」

 

声は穏やかだったが、どこか緊張を孕んでいる。いろはは、恐る恐る口を開いた。

 

「最初に手を上げたのは……ビブラートをかけるタイミングが、少し遅いかと。サビの『信じて』というフレーズの最後で、ビブラートが入る前に一瞬、音が止まってしまうように聞こえました……。もう少し早く、息を乗せた方が、自然に伸びていく気がいたしまする」

 

AZKiは無表情で頷いた。

 

「次。」

 

「二度目は……ブレスの音が、少し大きいかと。間奏前の静かな部分で、息を吸う音が目立って……。もしかすると、マイクの位置か、録音時の調整で……でも、歌声そのものは綺麗なので、息のコントロールをもう少し抑えるだけで、すごく洗練されると思いまする」

 

「最後。」

 

「三度目は……オクターブジャンプの着地のあと、僅かに音が動くというか……揺れてしまう瞬間があって。高い音に飛び上がった後、すぐに安定するのですが、ほんの一瞬、ピッチがずれるように聞こえました。そこをもう少し固く、芯を保てば……完璧に決まるかと」

 

AZKiは目を閉じた。

 

「……ありがとう。」

 

その言葉の後、再び深い無言の思考が彼女を包んだ。視線は床に落ち、指先は微かに震え、時折、天井を見上げては息を吐く。さっきと同じ、どこか遠くを見ているような表情。いろはは、胸がざわついた。

 

(拙者、何か……また、傷つけてしまったのか? アズキ殿の顔が、痛そうで……。声をかけることもできず、ただ座っているしかなくて……)

 

部屋に、スピーカーの残響だけが微かに残り、時計の針が無情に進む。いろはは膝の上で拳を握りしめ、落ち着かない気持ちを抑えながら、ただAZKiの次の言葉を待つしかなかった。

 

 

### 第7部

 

 

長い沈黙が、再び部屋を覆った。スピーカーの余韻はとうに消え、ただ時計の秒針だけが、淡々と時を刻んでいる。AZKiは膝の上で指を絡め、時折唇を噛みしめていた。いろはは息を潜め、ただ座っていることしかできなかった。

やがて、AZKiが大きなため息を吐いた。肩が落ち、まるで何かを諦めたような、けれどどこか決意を固めたような息だった。

 

「……いろは」

 

その呼び方に、いろはの心臓が跳ねた。

 

「な……なんでござる?」

 

AZKiはゆっくりと顔を上げ、いろはをまっすぐに見つめた。瞳は静かで、しかし底に熱いものが揺れている。

 

「私の頭を手刀で、スタジオの時と同じ強さで叩きなさい」

 

いろはは、息を呑んだ。目を見開き、言葉を失う。

 

(え……? アズキ殿の頭を……手刀で……? そんな、冗談でござるか……?)

 

AZKiは、表情を変えずに続けた。

 

「手加減したら、あなたの頬をひっぱたくから……出来れば、首の皮を残す程度に調整してくれると、嬉しいけど」

 

そう言って、彼女はゆっくりと頭を前に差し出した。小豆色の髪がさらりと落ち、首筋が露わになる。まるで、覚悟を決めたように。

いろはは立ち上がり、震える足でAZKiに近づいた。心臓が激しく鳴り、手が汗ばむ。

 

(アズキ殿……本気でござるな。拙者が、叩かなければ……彼女は、きっと傷つく……)

 

意を決し、いろはは深く息を吸った。右手を開き、手刀の形を作り、ゆっくりと振り上げる。

 

「……御免!」

 

裂帛の掛け声と共に、いろはは手刀をAZKiの頭に振り下ろした。スタジオで彼女がいろはにした時と同じ、ビシッという乾いた音が響く。決して全力ではないが、決して手加減でもない、芯を捕らえた強さ。

AZKiは「ッ……!」と小さく声を漏らし、体を震わせて悶絶した。両手で頭を抱え、ソファにもたれかかる。痛みに顔を歪めながらも、すぐに息を整え、いろはに視線を向けた。

 

「……座って」

 

いろはは慌てて元のソファに戻り、腰を下ろした。心臓がまだ激しく鳴っている。

AZKiは頭をさすりながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「……あなた、スタジオで何をしたか分かってる?」

 

いろはは、戸惑いながら首を振った。

 

「ぇ……もっとこうしたほうが良いかなと言ったのでござるが……」

 

AZKiは小さく首を振り、苦笑を浮かべた。

 

「……ごめん、聞き方が悪かった。……私がチョップする前、感動したって言ってた時は、どう改善するかは考えてなかったのね?」

 

「そうでござる」

 

AZKiは頷き、目を細めた。

 

「私が改善案を求めた時、何を頭の中で考えた?形を整理しなくていいから、そのままを答えて。」

 

いろはは、記憶を辿るように言葉を選んだ。

 

「感動しながら聞いていた曲を思い出して、印象に残った箇所をもう一度よく考えました。一般のファンが聞くことを考えながら、どうしたら一番気持ち良く聞いてくれるかを考えました」

 

AZKiは、口元に手を当て、腕を組んだ。視線はいろはを捉えたまま、じっと聞いている。

 

「こういう改善案を思ったり誰かに話したことはあるの?」

 

いろはは、少し考え、素直に答えた。

 

「良い曲を聴くとたまに思うこともありますが、誰かには話したことはございません」

 

AZKiは、腕を組んだまま、静かに息を吐いた。口元を覆う手が、わずかに震えているように見えた。部屋に、再び静寂が訪れる。彼女の瞳には、複雑な光が揺れていた。

 

 

### 第8部

 

 

AZKiは腕を組んだまま、口元を覆う手をゆっくりと下ろした。瞳に宿る光は、静かで、しかし深く、まるで底の見えない湖のようだった。

 

「本当は知る権利も選ばせてあげたいけど、知らないとあまりにも貴女が危ないから、悪いけど聞いて頂戴。」

 

彼女の声は低く、穏やかだったが、そこに宿る重みが、いろはの胸を締めつけた。

 

「……いろはの頭の中ではね、先ず曲を聴くと、テクニックもノイズも、みんな『てぇてぇタグ』をつけて記憶するの。仮にこれを『推しが尊いモード』と呼ぶわね。その記憶は数分間保持できて、後から指示されると、『てぇてぇタグ』を『意味付けタグ』に貼り直すの。具体的にはさっきのだと、ビブラートとかブレスとか、音楽理論。これを『解析モード』と呼ぶわね。この2つのモードを、いろはは自分の意志で切り替えできるの。さっきみたいに、最初から『解析モード』で聞くこともできる。ここまでは分かる?」

 

いろはは、息を止めて聞いていた。AZKiの言葉が、一つ一つ、胸の奥に落ちていく。彼女の考察はあまりにも正確で、まるで自分の頭の中を覗き見られたような感覚だった。

 

(アズキ殿……どうして、ここまで……拙者の心を、こんなに正確に言葉にできるのか……。言葉の一つ一つが、恐ろしいほどに鋭くて……感嘆するしかござらぬ)

 

「ここからが大事だから、よく聞いて。」

 

AZKiはわずかに身を乗り出し、視線を外さずに続けた。

 

「いろはは今までに聞いた私やすいちゃん、他のアーティストのマスターデータ……『てぇてぇタグ』付きの神曲の記憶があって、それから『アズキならこう歌うはず予想集』と『最高にエモい曲にするには集』を作ってるの。あとは、さっきの『解析モード』でみた曲と『予想集』の差を見れば、どこが違うかわかるってわけ。そしてこの『神曲の記憶』と『予想集』は、いろはが曲を聴けば聴くほど、感動すれば感動するほど蓄積し、精度が上がる。……これがどういうことか分かる?」

 

いろはは、ぽかんとしてAZKiを見つめた。頭の中で、彼女の言葉がぐるぐると回る。そして、突然、すべてがつながった。

 

「あ……アズキ殿のお役に立てるということですな!」

 

声が弾んだ。純粋に、嬉しさが溢れた。拙者のこの能力が、アズキ殿の歌をより良くするために役立つなんて、こんな幸せなことはないでござる、と、心の底から思った。

 

しかし、AZKiの表情は、一瞬、寂しげに歪んだ。唇がわずかに震え、瞳に影が差す。すぐに、険しい表情に戻ったが、その一瞬の寂しさは、いろはの胸に鋭く刺さった。

 

(アズキ殿……今、寂しそうだった……? 拙者の答えが、間違っていたのか……?)

 

AZKiは深く息を吸い、視線を床に落とした。部屋の空気が、再び重く沈む。彼女は言葉を続けようとして、しかし一度、唇を噛みしめた。

 

 

### 第9部

 

 

AZKiは腕組みを解き、ゆっくりと息を吐いた。瞳に宿る光は、静かで、しかし決して揺るがないものだった。

 

「はっきり言うとね、これは神童とかパラダイムシフトとか言うレベルじゃない。私たちは普段、ディレクターにダメ出しをされたり、リリースしたあとリスナーの反応を見て、次の曲を手探りで修正するの。でもいろはの助言は違う。『理想のアズキの歌い方』と『一番売れる歌い方』を1回聴いたあとすぐに提示できる。……隠さず言うけど、もういろはは、私に関してなら、『私より私を分かってて』『音楽ディレクターより売れる方法を』『既に知っているの』。……私とすいちゃんが駆けっこで競争してたら、いろはがジェット戦闘機で迎えに来たようなものよ。」

 

いろはの体が、凍りついたように震え始めた。言葉が胸に突き刺さり、息が詰まる。

 

(拙者……そんな、そんな恐ろしい存在に……?)

 

AZKiは視線を外さず、言葉を続けた。

 

「……私といろはがレコーディングしてるとね、運営が言うのよ。『風真くん、君の推しの星街君も助けてあげてくれないか。あと一歩で世界が獲れるんだ』…次は、holoXのみんな。『いろは、次のグループ曲、絶対成功させよう』…だから、絶対、運営の前で力を使わないで。……1回、収録ブースに入ったら、いろはが次に部屋から出てくるのは、『いろはが、いろはじゃなくなった時』よ。」

 

その瞬間、いろはの震えが止まらなくなった。両手が膝の上で震え、視界がぼやける。恐怖が、冷たい波のように全身を駆け巡る。(拙者は……拙者は、ただ、アズキ殿の歌が好きで……それだけなのに……こんな、怪物のような……)

 

AZKiは、静かに立ち上がった。ゆっくりと近づき、いろはの前に膝をつく。彼女の声は、優しく、けれど切実だった。

 

「ごめんね、怖がらせちゃって……でも、私は……力は、その人の意志によって使われるべきだと思うの。私はいろはに、どう使えとは言わない。引退してもいいし、ホロライブが世界を席巻するのを見届けてもいい。だから、お願い。貴女の力は、私じゃなくて、貴女だけの意志で使って。それだけは、今、ここで誓って。」

 

いろはは、震える唇を噛みしめた。涙が、ぽろりと頰を伝う。

 

「……あと、もう一つ。言っておかなきゃいけないことがあるわ」

 

AZKiは、いろはにそっと両手を伸ばした。いろはを抱き寄せ、強く、優しく、抱きしめた。小豆色の髪がいろはの頰に触れ、温かな体温が伝わる。

 

「ここにいて、私の『心』を、守って」

 

いろはは、震えながらも、両腕を回した。AZKiの背中にしっかりと抱き返し、涙が止まらなくなる。

 

「……御意、命に代えましても、お守りいたします……」

 

二人は、互いの肩に顔を埋め、涙を流しながら、声を重ねた。

 

「ごめんね……」

 

「ごめんね……」

 

長い間、二人は抱きしめ合っていた。部屋の明かりが柔らかく二人を照らし、静かな嗚咽だけが、夜の静寂に溶けていった。

 

 

### 第10部

 

 

それからも、二人は本当の姉妹のように、誰が見ても微笑ましくなるほど仲睦まじく過ごした。配信の合間に顔を合わせれば、AZKiは「いろは」と呼び、いろはは「アズキ殿」と返し、互いの日常を分け合う。スタッフもメンバーも、誰もがその光景を温かく見守っていた。

ただ一点、変わったことがあった。

いろはの腰に携えられた愛刀に、いつしか太い鉄の鎖が巻きつけられていたのだ。重く、冷たく、決して解けないように固く結ばれた鎖。誰かが冗談めかして口にした言葉が、次第に噂となり、定着した。

 

「抜かずの剣」

 

人に尋ねられると、いろははいつも通り、ポニーテールを揺らして笑った。

 

「格好良いでござろう?」

 

茶化す口調は軽やかだったが、AZKiだけは知っていた。鎖は、あの日の涙と誓いの夜、いろはが自分自身に課した枷であることを。ただ、「AZKiの心を、成功を信じている」ことを証明するためためだけに刀を身につけていることを。

AZKiはその鎖を見るたび、胸が熱く疼いた。そして、ますます歌に磨きをかけた。スタジオでの練習、深夜の自宅での独り歌い、いろはの隣で共有する無数の夜。すべてが、彼女の声に深みを増していった。

 

そして、ついにその日が来た。

 

日本武道館。

会場は、開演前から熱気に包まれていた。満員の観客が、息を潜めて待つ。招待されたいろはは、スタッフ姿で音響ブースに陣取っていた。特別に許可された席。彼女はヘッドフォンをかけ、目を閉じて、ステージの気配を感じていた。

 

(あと一歩。あと一歩で、すいせい先輩と同じ世界に……いや、超える。拙者は、確信しているでござる)

 

本編が始まり、AZKiの歌声が響く。完璧だった。観客は熱狂し、スタッフは息を呑む。だが、曲が進むにつれ、いろはの耳に、かすかな違和感が刺さった。

喉の僅かな震え。息の微かな乱れ。誰も気づかない、極めて小さな綻び。

しかし、いろはには見えた。未来が、『視えた』。

 

(このままでは……アンコールで、アズキ殿の歌は潰れる……!)

 

「——外すでござる。誰か! アンコール曲! 『未来カンパネラ』の譜面を!」

 

いろははインカムを叩きつけるように外し、渡された楽譜の束を掴み取った。驚愕するスタッフの声を背に、音響ブースを飛び出す。足音が、廊下に響く。

目指したのは、アリーナ最後方、北東スタンドの影。機材搬入用の特設幕が張られた、音の交差点。AZKiの歌声と、スピーカーの爆音と、客席の叫びが激突し、AZKiと観客から見えない、唯一の神域。

 

「ここは立ち入り禁止だぞ! ……ぇ? 風真さん!?」

 

エリアを守る警備スタッフが狼狽する。だが、いろはは止まらない。

彼女は腰の愛刀を抜き放った。鎖が、ぷつりと音を立てて切れた。鉄の枷が、床に落ちる。

そして白刃を、迷わずコンクリートの床へ突き立てた。

ドォォン。

建物が震動するような重低音が、近くのスピーカーから響く。

 

「寄らば、斬る。……僅かでも音を立てれば、命は無いものと思え」

 

逆立つ鬼迫。瞳から、一筋の血が流れ落ちる。あまりの異様さに、スタッフたちは声を失い、金縛りにあったように立ち尽くした。

いろはは暗幕の中に滑り込むと、膝を突き、震える指で譜面を広げた。

正面のステージでは、AZKiが本編最後の曲を歌い上げている。

右耳からは、スピーカーを通した加工済みの爆音。左耳からは、壁一枚隔てたステージ袖から漏れる、限界を越えたAZKiの「地声」。背後からは、一万人の熱狂が地鳴りとなって押し寄せる。

 

(……聞こえる。アズキ殿の魂が、悲鳴を上げている。ならば、拙者がその悲鳴を、勝利の産声に変えてみせる!)

 

思考が加速した。AZKiの喉の疲労度、観客の熱狂による空気の揺れ、武道館特有の反響——全てが脳を駆け巡り、リアルタイムで補正をかけ、演算しながら、頭の中で流れる『未来カンパネラ』に刻み込んでいく。

脳細胞が焼き切れるような感覚。視界が、真っ赤に染まる。

 

「……できた……っ」

 

書き殴られた譜面には、いろはの目と耳から零れた血が、紅蓮の音符のように飛び散っていた。

その瞬間、会場が暗転した。

同時に、いろはは地面に倒れこんだ。

 

「くそ……譜面を……」

 

本編終了。アンコールを求める、地響きのような手拍子が始まった。

暗転に乗じ、ステージ袖の暗闇を縫って駆けつけてきたAZKiが、暗幕を割って入る。

 

「いろは!!」

 

(ふっ……流石は我らがホロライブのスタッフ、良い仕事でござる……)

 

「……これを。アンコール……この通りに歌えば……道は開ける……」

 

血に濡れた譜面を、AZKiの手に押し付ける。いろはの意識は、すでに深い闇へと沈みかけていた。

 

「アズキ殿……天下を……」

 

呟きが途切れる。

外では、何も知らない一万人の観客が、再登場を信じて「AZKi」の名を叫び続けていた。

 

AZKiはその叫びと、手に残る血の熱さを噛み締め、一人、光の中へと歩き出した。

 

 

### 第11部

 

 

その日のライブは、伝説になった。

アンコール曲『未来カンパネラ』が始まった瞬間、武道館の空気が、物理的に変わった。AZKiの声は、譜面に記された微調整を一つ一つ拾い上げ、喉の限界を越えて、しかし決して崩れずに伸びた。観客は、最初は熱狂し、次第に息を呑み、最後には呼吸すら忘れた。1万余名の観客は、ペンライトを振るのも忘れ、AZKiの歌を浴び続けた。それは、空間が写真で切り取られたかのような、異様な光景だった。アウトロの最後の音が、ゆっくりと消えていく。残響が消え、残ったのは「完全な無音」。

 

その静寂は、数分間続いた。誰も動けず、誰も声を上げられなかった。やがて、誰かが最初に拍手を叩き、それが雪崩のように広がり、会場は再び地響きのような歓声に包まれた。

ライブ盤は、世界中で記録的な枚数が売れた。赤いジャケットのCDには、タイトルと共に、こう記されていた。

 

『我が刀、風真いろはに捧ぐ』

 

チャートは壊れたように首位を維持し続け、静寂の数分間を聴くためだけに、何度もリピートされる曲となった。ファンは、あの曲と沈黙を「ミューズの聖別」と呼び、語り継いだ。

 

ライブから一か月後。

 

病室の窓から、柔らかな秋の陽光が差し込んでいた。ベッドに横たわるいろはは、ゆっくりと目を開けた。視界がぼんやりと定まり、最初に映ったのは、ベッドサイドの花瓶に手を伸ばす一人の女性の背中だった。

 

星街すいせい。

 

彼女は花の水を換えようとしていた。花瓶を手に持ち、振り返った瞬間、いろはの目が開いていることに気づき、手が止まる。

 

「……! いろ…は…」

 

すいせいは息を呑み、花瓶をそっとテーブルに戻した。急いで医者を呼びに行こうと踵を返しかけたその時、ベッドから、低く、静かな声が響いた。

 

「すいせい殿……喉のお加減が、よくなさそうでござるな……お医者様に、診てもらったほうがよい……」

 

声は低く、落ち着き払っていた。かつてのあわてんぼうで明るい少女の響きは、そこにはなかった。老成した剣士のような、重みと静けさを帯びた口調。すいせいは愕然とした。喉に自覚症状は、全く無い。それに、数週間前に、医者に完治したと言われていたのだ。

すいせいは、唇を噛みしめ、ナースルームへの報告をそこそこに、廊下を駆け抜けた。ロビーで待つAZKiの元へ、息を切らして駆け寄る。

 

「AZKi……落ち着いて、聞いて……いろはが、目を覚ました。……でもあの子は、もう私たちが知ってるいろはじゃない。もしあの子のところに行くなら、一つだけ約束して。……あの子に『殺されそうになったら』、逃げて。」

 

AZKiの瞳が、大きく見開かれた。手が、震える。

 

 

### 第12部

 

病室の扉が、静かに開いた。

AZKiは足音を忍ばせて中に入り、ドアを閉めた。部屋は秋の柔らかな日差しに満ち、ベッドの白いシーツが淡く輝いている。

ベッドの上には、風真いろはが座っていた。ポニーテールの金髪が、陽光を受けて淡く光り、腰の刀はもう鎖もなく、ただ静かに傍らに置かれている。彼女は窓の外、遠くの空を眺めていた。視線は動かず、ただそこに留まっている。

 

「おお……アズキ殿か……」

 

呟くように、名を呼ぶ声は低く、穏やかだった。ゆっくりと、いろはは顔をこちらに向けた。瞳は、かつての明るい輝きを失い、代わりに深い、静かな光を湛えている。

 

「アズキ殿、大勝利、おめでとうござる……。拙者は、なんと果報者なのでござろう……」

 

その言葉に、AZKiの胸が締めつけられた。努めて冷静であろうと、彼女は息を整え、声を落ち着かせた。

 

「……ありがとう、いろは。でも、まだ終わっていないわ。あのライブは、始まりだったのよ。」

 

いろはは小さく頷き、ゆっくりと体を横たえた。枕に頭を預け、再び窓の外へ視線を戻す。秋の日差しが、彼女の頰を優しく照らしている。

 

「しかしながら、拙者、ここまでにございます……『解析モード』が、走りっ放しなのです。おかげで、アズキ殿のお心は、今までよりよく『視え』ますが……いささか、疲れます……」

 

AZKiは、唇を噛んだ。いろはの声は穏やかだが、その奥に潜む疲労が、痛いほど伝わってくる。彼女は深呼吸をし、静かに尋ねた。

 

「……これから、どうしたい?」

 

いろはは、目を閉じなかった。窓の外の空を眺めながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「おそらく今までのような配信は、もう無理でしょう。いっそ引退を、と思いましたが、拙者、やはりこの世界が、好きでござる。アズキ殿やすいせい先輩と、同じこの世界に、片隅にでもいいから、居とうござる……。アズキ殿、どうかお知恵を、お貸し下さらぬか……この風真いろは、伏してお願いいたしまする……」

 

ベッドに横たわったまま、いろはは動かなかった。ただ、視線だけが、AZKiに向けられている。静かな、しかし確かな願い。

AZKiは、ベッドサイドに近づき、いろはの手をそっと握った。その手は、かつての熱を失い、冷たく、けれど柔らかかった。

 

「……わかったわ、いろは。私が、考える。どんな形であれ、貴女がこの世界にいられるように。貴女が、私を守ってくれたように……今度は私が、貴女を守る番よ。」

 

いろはの瞳に、わずかに光が戻った。涙ではない。ただ、静かな安堵。

 

「アズキ殿……」

 

AZKiは、握った手を離さず、窓の外を一緒に眺めた。秋の空は、どこまでも高く、澄んでいた。二人の影が、ベッドの上に長く伸びる。

 

 

### 第13部

 

それから、風真いろはの配信スタイルの変更が、静かに告知された。

歌も、実況も、コラボも、全てが無くなった。

代わりに、時折、彼女が収録した動画が、いろはのチャンネルにアップロードされるようになった。タイトルはいつも簡素で、サムネイルは、深い森の木漏れ日や、静かな川の流れ。派手な装飾はなく、ただ、そこに在る自然のままだった。

動画の中で、いろはは深い森に暮らしていた。

季節の移ろい、木々のざわめき、葉が落ちる微かな音、川のせせらぎ、焚き火の爆ぜる音。常人なら取りこぼしてしまう、かすかな息吹に、彼女は耳を傾け、静かに語りかける。言葉は少なく、ただその音の美しさを、愛でるように。

彼女は目隠しをしていた。かつての侍の装束はなく、シンプルな和装に身を包み、腰に刀はもう携えていない。視界を閉ざし、音だけを頼りに、世界を感じ取る姿は、どこか神聖で、どこか儚い。

人々は、彼女をこう呼ぶようになった。

 

『音を斬った無刀の剣聖』

 

また、一本の動画が投稿された。

画面が開くと、そこは夜のとばりが落ちかけた草原だった。空には早くも星が煌めき始め、遠くの地平線に淡い紫の残光が残っている。いろはは、静かに佇んでいた。目隠しをしたまま、風に髪をなびかせ、ゆっくりと口を開く。

 

「……皆殿、息災でござるか……風真でござる……」

 

声は穏やかで、深く、まるで夜風そのものだった。

 

「知ってござるか? 雪は降る時、音がするのでござるよ。耳を近づけるより、自然の中にいた方が良く聞こえるのでござる。不思議でござるね……」

 

彼女は、わずかに首を傾げ、遠くの空気を嗅ぐように息を吸った。

 

「そういえば、街が少し賑やかでござるな……ああ、もうすぐクリスマスか。……拙者も久々に、歌ってみようか……」

 

そして、静かに、歌い始めた。

 

「荒野の果てに 夕日は落ちて 妙なる調べ 天より響く

羊を守る 野辺の牧人 天なる歌を 喜び聞きぬ

今日しも御子は 生まれ給いぬ よろずの民よ 勇みて歌え

グロリア イン・エクセルシス・デオ(いと高きところには、神に栄光あれ)……」

 

歌声は、かつての華やかさとは違う。喉を震わせる力強さはなく、ただ、草原の風に溶け込むように、優しく、静かに広がった。星の下で、ひとり歌うその姿は、まるで祈りのようだった。

動画の最後、いろはは小さく微笑んだ。目隠し越しに、誰かに向けて。

 

「皆殿、よいクリスマスを」

 

画面がゆっくりと暗転し、静寂が訪れる。誰もが、彼女の声を、遠くから届く奇跡のように感じていた。

 

 

### 第14部

 

 

AZKiは、スマホの画面を凝視したまま、動けなかった。

動画の最後、いろはの声が静かに響き、草原の風に溶けていく。画面が暗転ていく中、AZKiの頰を、熱いものが伝った。

涙が、ぽつりと頰を伝う。止まらない。

(いろはは……まだ、音楽を愛してる。世界を愛してる。私へ、こんなにも想いを捧げてくれてる……)

 

でも、同時に、胸が張り裂けそうになった。

あの歌は、独白だった。

誰にも向かわない、ただ風に溶けていくような投げかけ。

それはもう、限界のサインだった。

魂が、必死に、誰かと繋がりたいと叫んでいるSOS。

歌とは、誰かに届けるもの。

一人で歌い続けることは、魂を削り続けることに他ならない。

 

AZKiはスマホを握りしめ、立ち上がった。

コートを羽織り、マンションのドアを勢いよく開け、夜の街へ飛び出した。

タクシーを拾い、駅へ。

息が白く、頰が冷たい。

でも、心は熱かった。

 

その頃、森の奥深くにある小さな小屋。

暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てている。

いろはは、毛布を肩にかけ、暖炉の前に座っていた。

スマホを三脚に立て、自撮り用の動画を収録中。

目隠しをしたまま、穏やかな声で語りかける。

 

「いやあ、暖炉は良いでござるねぇ……昔、薪で風呂を沸かしていたのを思い出しまする。今年は薪割りが間に合わず、買ってしまいましたが、来年になったら、運動を兼ねていたしますかな……」

 

静かな笑みが、口元に浮かぶ。

火の音を、耳で追いながら。

その瞬間――

 

バン!

 

ドアが勢いよく開いた。

冷たい夜風が、部屋に吹き込む。

いろはは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「アズキ殿?」

 

次の瞬間、AZKiが飛び掛かるように駆け寄り、いろはを抱きしめた。

強く、強く、離さないように。

息が荒く、頰は冷たく、けれど体は熱い。

 

「もう……いろはを一人にはしない……」

 

AZKiの声は、震えていた。

涙が、いろはの肩に落ちる。

 

その瞬間、いろはの解析が、強制的に始まった。

『解析モード』が、止まらない。

AZKiの呼吸、心音、頰の温度、抱きしめる腕の力、すべてが洪水のように流れ込んでくる。

常人では聞き取れない、微かな鼓動の乱れ。 息遣いの震え。 心の奥底で叫んでいる、孤独と、愛と、恐れと、すべてが。

 

いろはは、ゆっくりと両腕を回し、AZKiを抱きしめ返した。

目隠しの下で、静かに微笑む。

 

「ああ……アズキ殿は、おひさまのかおりが、するでござる……」

 

暖炉の火が、二人の影を長く伸ばした。

外では、雪が静かに降り始めていた。

音を立てて、降る雪。

二人は、ただ抱きしめ合っていた。

言葉はいらない。

ただ、そこにいるだけで、深く繋がっていた。

 

 

### 第15部

 

 

それから、AZKiの心の調子が良い時を見計らって、彼女は時折、森の小屋へと足を運ぶようになった。

 

深い森の道を抜け、木々のざわめきに迎えられながら、小屋の扉を叩く。いろははいつも、目隠しをしたまま穏やかに迎え入れ、暖炉の前に座らせた。

他愛ない雑談が、薪の爆ぜる音に混じって広がる。今日の天気、街の噂、最近食べた料理の話。時には一緒に簡単な食事を作り、鍋の煮える音や、箸が触れ合う小さな響きを、二人で静かに味わった。

 

リスナーたちは、そんな二人の時間を、温かく見守っていた。

AZKiがアップする短い動画や、時折の投稿に映る森の風景、暖炉の火、遠くから聞こえるいろはの声。

コメント欄はいつも、優しい言葉で溢れていた。誰もが、この小さな世界に、祈りを捧げていた。

そして、ある日。

 

AZKiは、特別な客を連れてきた。

 

小屋の扉を開けると、AZKiの後ろに、星街すいせいが立っていた。

いつものトップスターらしい華やかな衣装ではなく、シンプルなコートにマフラー。少し緊張した面持ちで、森の空気を吸い込む。

 

「いろは、今日はすいちゃんを連れてきたの。」

 

AZKiの声は、穏やかだったが、どこか誇らしげだった。

 

いろはは、暖炉の前に座ったまま、ゆっくりと顔を上げた。目隠し越しに、二人の気配を捉える。

 

「すいせい先輩、お久しゅうございます。喉は、大事ございませんでしたか?」

 

その言葉に、すいせいは一瞬、息を止めた。

喉に手を当て、ゆっくりと頷く。

 

「……ええ、あんたのおかげで、再度精密検査したら、予兆が見つかった。本当にありがとう、いろは」

 

声が、少し震えていた。

いろはは、静かに微笑んだ。

 

「それを聞き、安心いたしました。すいせい先輩には、まだまだ、世界でご活躍いただかねば。……しかし、すいせい先輩は、やはり日ノ本一の武士(もののふ)ですなあ……アズキ殿、精進を怠りますと、三日天下になってしまいますぞ……すいせい先輩の武道館ライブ、昨日のことのように思い出せます。願わくば、すいせい先輩と共に、あの舞台に一度でいいから立ちたかったが……一矢報いることくらいは、出来ましたかな……?」

 

いろはの言葉は穏やかで、どこか懐かしげだった。

 

すいせいは、唇を噛んだ。

目が、わずかに潤む。

 

「一矢どころか、風穴あけて勝ち逃げしてる奴が、何言ってんのよ……」

 

声が、湿っぽくなる。

涙が、一筋、頰を伝った。

すいせいは、慌てて袖で拭うが、止まらない。

 

AZKiは、そっとすいせいの肩に手を置いた。

三人を繋ぐ、暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てる。

 

いろはは、ゆっくりと立ち上がり、二人に向き直った。

目隠しをしたまま、しかし確かな足取りで。

 

「拙者、嬉しいでござる。……アズキ殿、すいせい先輩。

どうか、これからも、お互いの歌を、響かせ合って下さいませ。

拙者は、ここで、ずっと、耳を傾けておりますゆえ。」

 

暖炉の火が、三人の影を長く伸ばした。

外では、森の木々が、静かに風に揺れていた。

三人の間に、言葉を超えた絆が、確かに息づいていた。

 

 

第16部

 

 

それから、AZKiは少人数の、気心の知れたホロメンたちと共に、森の小屋を訪れるようになった。

負荷を気遣いながら、時には静かに座って、録音ではなく生配信をすることもあった。コメントは返せない。けれど、画面の向こうのリスナーたちは、暖炉の火の音や、森の風のささやき、時折漏れるAZKiの小さな歌声を、ただ静かに受け止めた。

誰かが口ずさむメロディー。誰かが淹れたお茶の香り。

そんな穏やかな時間が、少しずつ、いろはの日常に溶け込んでいった。

 

やがて季節は巡り、春が訪れた。

桜の木の下に、三人が腰を下ろしていた。

AZKiと星街すいせい、そして目隠しをした風真いろは。

温かな空気が、柔らかく三人を包む。花びらが、風に舞い、地面に優しく降り積もる。

いろはは、ゆっくりと顔を上げ、穏やかな声で言った。

 

「今日は、本当に佳き日ですな……アズキ殿、足はお崩しになったほうが、ようござるよ?……すいせい先輩? 口中が気になりますか?……虫歯なら、放置すると後で痛い目を見ますぞ?」

 

すいせいは、ぴくりと肩を震わせ、慌てて口元を手で覆った。

 

「えっ……!? なんで分かるのよ!?」

 

AZKiはくすくすと笑い、すいせいの肩を軽く叩く。

 

「いろはには、もう何も誤魔化せないのよ。……私も、最近は髪を梳く音で、寝不足がバレてるわ」

 

三人は、笑い合った。

桜の花びらが、ひらひらと舞い落ちる。

ふと、いろはの肩に春の日差しが差し込んだ。

暖かく、優しく、彼女の頰を照らす。

いろはは、静かに息を吐いた。

 

「陽がさしましたな……久方の 光のどけき 春の日に ……ははっ……この風真、目隠しをしておるのを、つい忘れておりました……」

 

いろはは、ゆっくりと手を上げ、目隠しを解いた。

布が落ち、長い間閉ざされていた瞳が、初めて外の世界に触れる。

金髪に近い明るい茶髪が、風に揺れた。

彼女は、ゆっくりと顔を上げ、天を見上げた。

 

「おお……美しい……」

 

満開の桜が、空を覆い尽くさんばかりに咲き誇り、花びらが雪のように舞う。

 

「世界は、なんと美しいのでござろう……そう思いませぬか? アズキ殿、すいせい先輩……」

 

高く、澄んだ声が、春の空に溶けていく。

AZKiは、静かに頷き、いろはの隣に寄り添った。

すいせいは、涙を堪えながら、笑顔で頷いた。

三人は、ただそこにいた。

言葉は少なく、桜の音と風の音と、互いの息遣いだけが、優しく響き合う。

 

風がそよぎ、ウグイスが鳴いた。

世界は、変わり続けている。

 

 

完




※小説の執筆にあたり、一部にAI(Grok)を使用しています。

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