グラン歴 761年
窓から入り込む陽光は、穏やかな秋の黄金色を聖堂の床に落としていた。
サイアスは、小さくため息をつき、革表紙の魔道書を閉じた。
閉じた音は重く、静寂の中に染み込んでいく。
司祭の法衣に身を包んだその背は、祭壇の古びた紋章を背にして、真っ直ぐに伸びていた。
思考は、教会の外――熱狂に包まれる王都の喧騒へと飛んでいた。
異母弟妹の誕生。皇太子ユリウスと、聖女の再来と噂されるユリア。
正統な後継者たちの誕生を祝う祭の音は、ここ断崖の教会にまで微かに届いている。
街の光景を思い浮かべ、サイアスの心情は穏やかな喜びを湛えていた。
その祝福に偽りはない。
しかし、その穏やかな水面の底には、複雑な感情が澱のように沈んでいる。
自身の母、アイーダの姿が脳裏をよぎる。
父アルヴィスに心酔し、その影となることを選んだ母。その背中を追い、自身もまた軍師として、司祭として、父を支える道を歩んでいるはずだった。
「私も……修練が足りませんね」
誰に聞かせるでもなく、自嘲気味な呟きが漏れた。
口元に浮かべた苦笑は、自身の内なる揺らぎに対するものか、それともあるいは、運命そのものに対する皮肉か。
アルヴィスに認められた赤子たちに対し、嫉妬や羨望のような幼い感情はない。
ただ、その「光」に連なる者として、自身の存在がいかにも頼りなく感じられたのだ。
窓の外に広がる、晴れ渡った秋の空を見上げる。
街は幸福に沸き立っている。その光景を、サイアスは静かに歓迎していた。
その眩さが、自身の心の闇を深くするとしても。
閉じた魔道書を祭壇の脇に置き、サイアスは静かに聖堂を後にした。
重たい扉を開けると、そこには爽やかな秋の風が吹き抜けていた。
教会の厳しい冷気とは対照的な、暖かく、そして人々の熱気を含んだ空気が肌に触れる。
見上げれば、雲一つない真っ青な空。こんな日にはあの暗い祭壇の前で思索にふけるよりも、外の空気を吸う方が建設的というものだろう。
――自分もまだ十三歳の若輩なのだ。
時折、司祭としての役割や軍師としての修練に縛られ、実年齢を忘れることがある。
サイアスはふと、少年らしい軽やかな足取りで、祭りの喧騒へと歩みを進めた。
屋台から漂う焼きたての菓子の甘い香りと、道行く人々の歓声。
王都の熱気は、彼の心を少しだけ軽くしていた。
(この光景を生み出した父上は……いえ、アルヴィス様は為政者として素晴らしいのでしょう。自分もいつかお役にたてるよう、精進せねばなりません。)
ふと気づくと、喧騒の先、人だかりができている場所があった。王都の闘技場だ。
誕生祭の余興として御前試合が行われているらしく、観衆の興奮した怒号と熱狂が地響きのように轟いている。サイアスは人混みの隙間から、なんとなく闘技場を眺めた。
闘技場から響く歓声に引かれるように、その足は自然と円形劇場の入口へと向かっていた。
元来、血を流す争いを好む性格ではない。
しかし、力と力がぶつかり合う闘争そのものを否定するつもりもなかった。
戦場を俯瞰する軍師の視点とは異なる、戦いの生の熱量に興味を惹かれたのかもしれない。
闘技場の重厚な石造りの門をくぐる。内部へ入るにつれ、観衆の怒号はより一層大きくなり、埃と砂、そして男たちの汗の匂いが鼻を突いた。
サイアスは貴賓席へと向かう通路に足を踏み入れた。
自分はヴェルトマー家の血族であることは厳重に秘されているが、アルヴィスの側近であるアイーダの子であり、同時に、コーエン伯爵の孫でもある。
警備をしていた兵士たちは、法衣に記された紋章と特有の雰囲気からサイアスを貴族であることを察し、かしこまって道を空けた。
係の者が近寄って来たので、祖父の名を出し係累であることを告げる。
「コーエン伯爵は、上席にてご覧になっておられます」
案内を申し出る係の者の言葉に軽く頷き、サイアスは静かに促されるままに階段を上った。
貴賓席の最前列。
中央に座していたのは、髪に白いものが混ざりはじめた風体の威厳に満ちた中年の男。
それが、母方の祖父であるコーエン伯爵であった。
サイアスが視線を向けると、伯爵は気づいてわずかに目を見開き、穏やかな笑みを浮かべた。
サイアスは感情を表に出さぬ表情のまま、その席の少し前で足を止め、静かに黙礼をする。
「珍しいな。お前がこのような世俗の愉しみに足を運ぶとは」
伯爵の老練な声が、周囲の喧騒をかきわけてサイアスの耳に届く。
その声には孫に対する純粋な驚きと、どこか楽しげな響きがあった。
サイアスは面を上げ、いつもの冷静さとは少し異なる、柔らかい微苦笑を浮かべて応えた。
「祭りの空気に誘われまして。……あまりに気候が良いものですから」
その受け答えに満足したのか、伯爵は「ふむ」と満足げに顎髭を撫で、隣の席を指し示した。
サイアスは父アルヴィスの影として生きるのとは別の、一人の少年としての束の間の時間を、この特等席で過ごすこととなった。
貴賓席の柔らかなクッションに腰を下ろしながら、サイアスは砂舞台で繰り広げられる参加者たちの激闘に視線を注いだ。
舞台中央では、少年の騎士が対戦相手の振り下ろす大剣を最小限の動きで受け流し、直後、雷光のような速さの刺突を繰り出していた。
相手の剣が虚空を切り、少年の刃がその喉元で寸止めされる。
審判が試合終了を告げると、観客席からは地鳴りのような歓声が巻き起こった。
自分と同じ年齢くらいの少年が放つ、闘気と迫力。
サイアスは自身も戦場に身を置くことを想定し、日々、厳しい修練を積んでいる。
その観察眼は、勝利した少年の強さが単なる子供じみた力任せのものではなく、基礎の徹底された技術と、戦場を見据えた冷静な判断力に裏打ちされていることを見抜いていた。
しかも、彼は……あれでまだ手加減をしている。
「……見事なものだ。お前も耳にしたことがあるだろう、あれがラインハルト卿だよ」
隣に座るコーエン伯爵が、手放しでそう称賛の言葉を口にする。
ラインハルトの力は、コーエン伯爵ほどの貴族をも感服させるに十分なものだった。
なるほど、彼がラインハルト。
サイアスは心の中でその名をつぶやいた。
「噂では、地に潜む暗黒教団の手勢をたった一人で退けたとも聞く……その話も偽りではなさそうだ。強いな、彼は。」
暗黒教団というその言葉が闘技場の空気に混ざった瞬間、サイアスの表情から先ほどまでの穏やかな雰囲気が消え、真剣な表情になる。
かつてユグドラル大陸を席巻し、人々に嘆きと絶望を振り撒いたと言われるロプト教。
表の世界の片隅で、忘れた頃にその名は不気味な泡のように浮かび上がる。
それは、この大地の深淵で、今なお何かが濁った呼吸を続けている証左なのかもしれない。
暗黒教団の名は、いまや民衆の間で具体的な恐怖というよりは、輪郭を持たない怪談のようなものとして語り継がれている。
だからこそ、人々はそれを正体不明の呪いのように恐れ、忌避していた。
そのような存在を、ラインハルトは退けた。
「ロプトを、私と同じような少年が……」
サイアスは小さく呟いた。
その名声が瞬く間に王都全土に響き渡るのも、無理からぬことだ。人々はラインハルトという実力のある少年に、恐怖を打ち払う「光」の幻影を見出しているのだろう。
サイアスにとってもラインハルトは、例えるなら、風を払う荒れ狂う雷光のように思えた。
だが、そのラインハルトですら、無敵ではなかった。
次の試合、準決勝にて。
ラインハルトは漆黒の鎧を全身にまとった男と対峙し、激闘の末に敗れ去った。
観衆が静まり返るほどの魔道と剣技の鋭さを見せ、おそらくはそれまで隠していた実力さえも出し尽くしたであろうラインハルト。
しかし、それでもその黒い鎧の男には届かなかった。
サイアスはその様子を、貴賓席から微動だにせず見つめる。
その漆黒の男は、サイアスの観察眼をもってしても底が見えなかった。
ただ剣技が優れているというだけではない。何か、この世の理から外れたような雰囲気を纏っており、不思議なことに、そこに闘争の気配が感じられなかったのだ。
「これだから戦いというものは恐ろしい。神の申し子のような若者でさえ、上には上がいる。世界はワシらが思っているよりも、ずっと広いのかもしれんな」
コーエン伯爵が、感嘆とも落胆ともつかぬ声で、静かに独白のように呟いた。
その言葉は、サイアスの耳に妙に重く残った。
サイアスは、敗北して砂舞台に膝をつくラインハルトの背中を見つめる。
圧倒的な才能を見せつけながら、その直後に敗北を知った少年。
彼は今、何を思ったのか。その表情は、遠目に見ることができなかったが、サイアスの心に小さく、しかし確かな波紋が広がっていた。
砂舞台の上で、膝をついたまま動かぬ一人の少年がいる。
そしてそれを見つめる、貴賓席の隣に座すもう一人の少年。
コーエンは、愛孫サイアスの横顔を盗み見た。
燃えるような真紅の髪の下、その双眸は静謐な湖面のように凪いでいるが、奥底には確実に知的好奇心と、同年代の才気に対する共鳴が灯っている。
サイアスという少年は、幼くしてあまりに聡明すぎた。己が置かれた複雑な立場を、誰に教わるともなく理解し、ヴェルトマーの「影」として振る舞うことを自らに課している。
アルヴィスの血を引きながら、それを公に口にすることすら許されぬ宿命。
コーエンにとって、目の前の孫は不憫でならなかった。これほどまでに優秀で、思慮深く、そして優しい心根を持つ少年が、なぜ日陰を歩まねばならぬのか。
その痛みを、サイアス本人が受け入れていることが、コーエンの胸を締め付けていた。
「サイアスよ」
コーエンは、細かな傷が刻まれた無骨な手で、孫の細い肩にそっと触れた。
サイアスが小さく肩を揺らし、我に返ったように祖父を見つめる。
その瞳に宿る戸惑いを、コーエンは穏やかな微笑みで包み込んだ。
「あの少年に……ラインハルト卿に興味があるのなら、言葉をかけてみるがよい」
「ですが、私は……」
遮るように、コーエンは首を振った。
「身分や立場など、今は忘れなさい。語り合うことこそが、相手を知り、同時に己への理解を深める鏡となる。彼ほどの才を持つ者であれば、お前の言葉を正しく受け止めるはずだ」
コーエン伯爵の瞳には、孫への深い慈しみと、一人の人間として羽ばたいてほしいという願いが込められていた。
「もし、友となれたならば……それは何物にも代えがたい、喜ばしいことなのだからな」
背中を優しく押すような祖父の言葉に、サイアスはしばし沈黙した。
そして彼は、貴賓席の縁から眼下の控室へと続く通路へと、じっと視線を向けるのだった。
陽光が西に傾き、闘技場の高い石壁が長い影を砂舞台に落とし始めた。
御前試合の全行程が終わり、閉幕を告げるファンファーレが喧騒の中に溶けていく。
観衆は興奮冷めやらぬ様子で席を立ち、勝者を称える声と敗者を惜しむ声が入り混じる。
コーエン伯爵は、隣でじっと眼下を見つめる孫の横顔を再び促すように見やった。
「行きなさい、サイアス。あのような才、そうはお目にかかれぬぞ」
その言葉に、サイアスは一度だけ深く、吸い込まれるような呼吸をした。
そして、静かに立ち上がると、祖父に対して音も立てずに会釈をし、貴賓席を後にした。
ひるがえる純白の法衣。その背中を見送りながら、コーエンは座席に深く背を預けた。
老伯爵の胸中には、孫への愛惜と、割り切れぬ苦さが渦巻いていた。
サイアスは賢者だ。弱冠十三歳にして、己を取り巻く情勢を冷徹なまでに俯瞰し、論理という名の仮面を被って生きている。父アルヴィスに公に認められることのない己の立場を、彼は理性で完璧に納得させているように見える。
異母弟妹たちの誕生を心から祝福し、自らは影に徹するという、その歪なまでの献身。
だが、果たしてそれだけだろうか。
「……あの子とて、一人の子供なのだ」
コーエンは、小さく独りごちた。
どれほど知略に長け、聖痕を隠し通そうとも、その胸の奥底には「父に認められたい」という、剥き出しの、あまりに純粋な欲求が疼いているはずだ。ヴェルトマーの嫡子として、誇り高く父の傍らに立ちたいという願い。それを論理的に殺し、自ら孤独という檻に閉じこもるその姿は、コーエンの目には、あまりに痛々しい孤独な賢者に映った。
仮面を被り、感情に蓋をして生きる少年。
その彼が、同年代の敗北した天才に何を見出し、何を語るのか。
「友を得よ、サイアス。お前の孤独を、少しでも分かち合える者を……」
老伯爵の祈りにも似た呟きは、祭りの終わりの冷ややかな風にさらわれ、消えていった。
「見事な試合でしたね。ラインハルト卿」
――うおっ、ビビった! 何いきなり話かけて来てるわけ?
あの黒い鎧の不思議な妖精について、いろいろと考えている時に声をかけられたものだから、つい体がビクッと震えそうになってしまった。決してビビりじゃないぞ。
へっ、負けたアタイを誰かが笑いにきたってわけかい……。
いや、妖精が相手なら負けてないから? オレのシマじゃ妖精はノーカンだから。
どうも、負けたのは確定的に明らかなラインハルトです。
顔をあげると、部屋の入口に赤い髪をした同じ年頃の少年が立っていた。
なんか雰囲気あるな、こいつ……。思わず姿勢を正して名前を問いかける。
誰だろう? オレのファンかな? 負けちゃってごめーんね、って……。
そういう君はサイアス……まさかサイアスなのかい?
「これは失礼しました。ヴェルトマーのサイアスと申します。今は、司祭の末席を汚す者です」
ほげええええええ!? やっぱりサイアスやないかい!!
急なネームドキャラとの接触に慌ててしまう。しかも、あのサイアスだ!
とりあえず、アイサツを返す。ドーモ、ラインハルトです。
相手のアイサツに対してアイサツを返さないのは大変なシツレイである。
目の前の少年について考えをめぐらせると、原作のことをいろいろ思い出してきた。
こいつの名はサイアス。今はオレと同じ少年だが、将来は軍神とも呼ばれる存在になる。
実はアルヴィスの隠し子で、色々と話題には事欠かないキャラクターだったのだ。
その能力は圧巻で、敵として出てきた時は指揮レベル最大という化物じみたやつだった。
具体的には、フィールドの全ユニットに命中と回避を+30%してくれるすごいやつだよ。
隣接するユニットにじゃない、エリアマップ全体のユニットにだぞ?
サイアスがひとりマップにいるだけで、高威力低命中率といったシューターもバカスカ攻撃を当ててくるし、雑魚敵が華麗に攻撃を避けるという地獄絵図が繰り広げられたのだ。
そういや、オレがチクチクされるステージマップだったな……うっ、久しぶりにトラウマが。
仲間になる場合、その都合上ナーフされてしまうのか、+10%ほどに数値が落ちてしまい、しかも仲間にするためには神器「フォルセティ」持ちのセティと二者択一なせいで……。
そう、彼もまた悲しき運命を背負う男だったのだ。すごい強キャラ感あるのにね。
「……あれほどの戦いを目の当たりにしたのは、初めてです。そして、あの漆黒の騎士。
あなたの剣と魔法を退けたあの者の存在、その『理』の外にあるような強さに、私もまた言葉を失いました」
そんなサイアスが、オレの健闘を称えてくれる。アタイ、負けたのに……トゥンク……。
やっぱりそう思うよね!? アイツ、ちょっとなんか変だったよね!?
サイアスほどの男がそういうのだから、やっぱりおかしかったんだ。解決ッ!!
もしよろしければ、癒しを。
そう言って、腰からライブの杖を手に取り出して、傷の回復までしようとしてくれた。
そんなことされたら惚れてまうやろーッ!
礼を言い、ありがたくライブの杖での回復を受ける。ホワンホワンホワン……。
あったけえ……ヴェルトマーの炎は……あったけえよぉ……。
ところで、YOUは何しにここへ?
オレの戦いを見て気にかけてくれたのは嬉しいけど、わざわざどうしてWHY?
サイアスは少し考えたあと、口を開く。
「あなたに助言をと……。負けを知らぬ強さよりも、敗北の淵で何を見出すか。それこそが、真の才を磨く砥石になるとは思いませんか?」
敗北の価値を問う、軍師らしい言葉。
単なる慰めではなく、敗北を成長の糧として論理的に提示する、彼らしい問いかけだ。
勝負の残酷さを理解した上での、冷徹かつ温かな励ましだよね。
オレはナルホドと納得し、ふんふんとうなずく。
だが、彼はすぐに首を振って自らの言葉を否定する。あれ、どったの?
「いいえ……違います。私は、こんな偉そうなことを言うつもりでは……ただ……」
なんだか違和感を感じて言葉に詰まった様子で、次に何を言おうか考えあぐねているようだ。
まあ、サイアスくんも色々と考えることが多いんだろう。
自分の立場とか、多感な時期に異母弟妹が生まれたりとか、きっと難しいお年頃なのだ。
そして、少し会話をしただけでわかる。こいつは良いやつなのだ。
まあまあまあ、言葉に出来ないこともあるさ!
励ましの気持ちはしっかり受け取ったし、回復までしてもらった。ありがとさん。
細かいことは気にせず、これから仲良くしていこうぜ!
そんな感じのことをサイアスに伝えると、彼は嬉しそうに笑った。
「天賦の才を持つ者は、得てして孤独な道を歩まねばなりません。……もし差し支えなければ、少しだけ、あなたと友誼を結ばせてもらってもよろしいでしょうか」
サイアスの言葉に喜んで答える。もちろんオッケーだ。
っていうかせっかくの出会いだ、将来的にも色々と頼らせてもらいたい。
オレには考えてくれる頭脳が必要だってはっきりわかんだね。
……逃さん……。……お前だけは……。
まだまだたくさん、オレには仲間が必要だ。
喜び、夢、思い出……まあ、いろいろ目指して頑張ろうぜ!
グラン歴 ???年
窓の外には、ヴェルトマーの夕映えを思わせる茜色の空が広がっていた。
かつてはその赤に、自らの血の象徴を見出しては考えにふけっていたサイアスだったが、今ではただ静かに、過ぎ去る時の一部としてそれを受け入れている。
司祭としての長い年月と、数多の戦場を渡り歩いた経験は、彼の洞察をより深く、より静謐なものへと変えていた。
ふと、机に置かれた古い羊皮紙から目を上げ、彼は遠い日の記憶を紐解く。
そこにはいつも、一人の騎士の姿があった。
若き日のラインハルト。
「雷神の右腕」と呼ばれ、まばゆいばかりの才気と忠誠を鎧に纏っていたあの男。
十三歳の頃のサイアスは、自分のことを、ラインハルトの放つ雷光のような輝きに目を奪われたのだと思っていた。影の中に生きることを自らに強いていた少年が、表舞台で正々堂々とその才を振るう同年代の騎士に、無意識の憧憬を抱くのは道理であったから。
だが、歳を重ねて様々なことを経験し、出会いと別れを繰り返した今なら、あの時に感じたわずかな違和感の正体がわかる気がする。
「……光でも、闇でもなかったのですね、あなたは」
独りごちる声が、静かな部屋に溶けていく。
当時のラインハルトが湛えていたもの。
それは、世界の理からわずかに浮き上がったような、奇妙な「外部性」だった。
彼はたしかにそこに存在し、誰よりも苛烈に運命と戦っていた。
しかしその瞳の奥には、まるで世界を一冊の書物として外側から眺めているような、虚ろで、どこか諦念の混じった色彩が宿っていた。
それは、サイアスが自らの中に見出していた闇とは違うものだ。
サイアス自身は、若くして自らの「役割」を悟り、個としての感情を押し殺して生きていた。
血筋という名の檻の中で、魂は常に乾き、誰にも触れられない空白を抱えていた。
だからこそ、引かれ合ったのだ。
一方は、定められた悲劇の結末を知り、そこから逃れられぬ虚空を見つめる異邦人として。
一方は、決して表に出ることを許されぬ影として、己の存在意義を索漠とした世界の中に探し求めた知恵者として。
形こそ違えど、二人の魂には同じ「空虚な渇き」があった。
世界という舞台において、自分たちが観客であり配役でしかないという孤独。
その寂寥感が、磁石が引き合うように二人をたぐり寄せたのだ。
「相棒、ですか」
サイアスは口元をわずかに綻ばせた。
あの日、祖父コーエンに背中を押され、おずおずと言葉を交わした少年たちは、やがて互いの空白を埋め合う唯一無二の存在となった。
世界という巨大な奔流、そこに書き込まれた残酷な脚本。
それ自体を完全に覆すことは叶わなかった。
ラインハルトは騎士としての矜持に殉じ、サイアスは軍師としての責務を果たした。
しかし、二人が「相棒」として歩んだ時間は、歴史の余白に確かに新しい色を付け加えた。
本来なら独りで絶望の淵に沈むはずだった夜に、肩を並べて語り明かした時間。
結末を知りながらも、次の一手を共に模索した盤上。
その積み重ねが、冷酷な運命をほんの少しだけ書き換えたのだ。
今、サイアスが手にする平穏は、あの時、友の手を取ったからこそ存在するものだ。
夕闇が部屋を満たし始める。
サイアスはゆっくりと目を閉じ、記憶の中のラインハルトへ、親愛を込めた祈りを捧げた。
あがき続けた日々も、分かち合った渇きも。
そのすべてが、今の自分を形作る、かけがえのない光の欠片であったと信じながら。
「おーい、サイアス! 闘技場にスコア稼ぎにいこうぜー?」
「うるさいですね……。思い出を美化してる最中なんです。向こうでじっとしていてください。」
後悔はない……今までの旅に……これから起こる事柄に……私は後悔はない……。はぁ……。
背後から聞こえてくる能天気な声に、サイアスは少し頭をかかえたい気分になった。
この時のコーエン伯爵には頭髪があった。後に、ライハルトは少し泣いた。