グラン歴 762年
王都バーハラからフリージへと帰還してからは、あっという間に月日が流れていった。
フリージの冬は厳しいが、家の暖炉に薪が贅沢にくべられる頃には、暦はいつのまにか新しい年を刻んでいた。
(……いやあ、昨年は激動の一年だったな)
オレは執務室の窓から、しんしんと降り積もる雪を眺めていた。
前世の記憶を持って転生してから十三年と、「ラインハルト」としての地盤を固める日々。
正直、神経を削ることも多いが、振り返って見れば、悪いことばかりじゃなかったと思える。
「お兄様、何をそんなに楽しそうに笑っているの?」
不意に、背後から澄んだ声がした。
振り向くと、そこには厚手の毛皮の外套に身を包んだオルエンが立っていた。
相変わらずかわいい。今日はモッコモコだな!
まだまだ子供だけど、どんどん成長しているのがわかるなあ……。
「いや、去年の御前試合のことを思い出してたんだよ。……負けてしまった私が言うのもなんだけど、あれはあれで、楽しい思い出になったからね」
優雅な笑みを浮かべて答える。嘘じゃない。
あの日、イシュタル様にも「貴方の戦う姿、立派だったわ」と、お褒めの言葉をいただいた。
その一言だけで、あの不思議な妖精に負けた屈辱なんて、お釣りが来るくらいだ。
……嘘をつきました。やっぱり悔しいです、ヴォルツ先生……!
まあ、それは別にいいんだ。
なにより、サイアス。
試合での敗北を通じて、あの天才と知り合えたのが、最大の収穫だったかもしれない。
最初はその才を当てにしてたんだが、まあ、他にも気づかされることの多いこと。
コーエン伯爵に紹介してもらったり、議論を交わしたり、時間を作って一緒に祭を回ったり、いろいろと楽しく交流させてもらった。
今後も、手紙などでのやり取りを続けようと思う。
(なんかエモかったんだよね、サイアスとのつきあいって。オレは対等に話せる友人が欲しかったんだろうか?……うん、まあ悪くないんじゃないかな。)
あの時交わした言葉は、今も胸の奥に温かく残っている。
「そうですか。……でも、お兄様が負けるなんて。バロンって強いんですね?」
少しだけ頬を膨らませて言うオルエンに、「そうだね」とあいづちをうつ。
あの「しっこくしっこく」と笑う漆黒のバロンに、オレがどう無残に負けたか。
椅子から立ち上がり、身ぶり手振りを交えてオルエンにおおげさに説明して見せる。
そうすると、オルエンは「お兄様が負けるなんて信じられません!」と目を丸くして驚き、最後には「次は私がお兄様の敵を討ちます!」と鼻息を荒くする。
その様子が面白くて、俺はついつい妹の頭を撫でまわしてしまった。
(負けたのだって、こうして家族との笑い話になる。……完璧な騎士でいなきゃならない日常の中で、あの敗北はいい『隙』になったのかもしれない)
そんなやり取りの最中、扉が勢いよく開いた。
「オルエーン。雪遊びしよう、雪遊び。」
雪を頭に乗せたまま、教え子の一人、エリウが突撃してくる。
俺は苦笑しながら、つまづきそうに駆け寄ってくる彼女を片腕で受け止めた。
頭の雪を払ってやり、声をかける。
「ほら、エリウ。走ると危ないよ。遊びに来たのかい?」
「うん。ラインハルトさま、こんにちは。……行こうオルエン」
教え子の三姉妹たちとの関係も上手くいっている。訓練も順調と言っていいだろう。
エリウなどオルエンと特に仲良くしてくれて、こうして遊びに来るほどだ。
オルエンは嬉しそうにうなずいて、二人で手を取り合って外へと駆け出して行く。
窓の外では、新しい年の光が雪原を照らしていた。
世界は止まることなく、少しずつ、少しずつ時を刻み続ける。
もうすぐアルヴィスは皇帝になり、教団の影はより濃くなっていくだろう。
だが、今の俺には守るべき光景があり、背中を預けられるかもしれない友がいる。
「さて、今年も忙しくなるのかな」
首をかたむけて、凝り固まったものをほぐす。
暖炉にくべられた薪が、パチリとはぜる音が部屋に響いた。
人は泣きながらこの世に生まれてくる。この残酷な世界に引き出されたことが悲しくて。
そんな感じのことを言ってた詩人が、昔にいた気がした。前世のね。
……ユリウスとユリアも、そうやって泣いて生まれてきたのだろうか。
本当はこっちも泣きたい、ラインハルトです。
まあ、ひどい場所に、わざわざ生まれてきてしまったのだ。
それなら、その運命を笑い飛ばすしかないよね。
それだけでオレは勝てるはずだ。
とりあえず年もあけたことだし、明日の勝利のために計画をたててみよう。
こういったものは、大目標と中目標と小目標に分けて考えると良いのだ。
自分の考えを整理するのにもちょうど良い、さっそくやってみることにする。
まずは大目標。
これはイシュタル様が笑い、妹のオルエンが自由を謳歌し、そしてオレ自身もこの愛すべき者たちと共に、幸せに過ごしていくことだ。
これは一見、誰もが抱く平凡な願望に見える。
しかし、ユグドラル大陸という血筋と宿命が支配する地獄において、そして未来の悲劇を知るオレにとっては、神の定めた運命に対する最も過激な反逆となるのだ。
先の見えない、退屈で平和な明日ってのが欲しいんだよね。
世界は暗雲に覆われようとしている。
運命という巨大な歯車が、本来なら俺たちを粉々に砕き、美しい悲劇として消費しようと待ち構えている。
オレは英雄になどならない。
世界を救う救世主にも、国に殉じる忠義の騎士にもなりはしない。
もし世界を少しばかりマシな方向に歪めることで、オレの周囲に落ちる火の粉を払えるなら、オレは喜んでその「歪み」の共犯者になる。
泣きながら生まれたからこそ、最後は笑って去れるようにと、世界の時を進めていくのだ。
ってなわけで、次に中目標。
これは大目標の「幸せな生涯」を実現するために、この世界の現実をどうしていくか。
安全な生存圏を確定させるための戦略的到達点をどこに定めるかだ。
これはいくつか考えておいた方がいい。
最善は、帝国が成立してからロプトの影響を切り捨て、仲間と共に平和な帝国の重鎮として生き残ることなんだけど……。これをプランAとしよう。
まあ、無理だよね。常識的に考えて。
自分がそれなりに優秀な騎士であることは自覚しているが、同時にそれが個人の範疇を出ないことも知っている。オレはフリージの単なる一人の騎士にすぎないのだ。
帝国の根幹を改革する権限も血筋も持っていない。強引に動けば、ロプト教団に察知され、中目標どころか、大目標が真っ先に火にかけられる。
ロプトの手は広く、覚醒したユリウスは、もはや人間の政治や軍略が通用する相手ではない。
アルヴィスという比類なき才覚と権力を持った男ですら、実の子であるユリウス……ロプトウスに実権を奪われ、操り人形にされた歴史を知っているのだ。
オレがひっくり返せると考えるのは、増長以外の何物でもないってばよ。
この世界は、セリスたち光の聖戦士たちの救済を待つ構造になっている。
オレにとって、無理な賭けに出ることは勇敢ではなく無責任だ。
オレは脇役で十分ですよ……頭の片隅にでも置いておこう。ああっ助けてナーガさまっ!
……プランBへ行こう。プランBはなんだ?
プランB……妥協案は、帝国が崩壊する前に、仲間たちを連れて解放軍側へと亡命する。
まあ、これが現実的な最善のラインになるのかな。
国を裏切ることになるが、騎士としての忠誠や誇りなんかは、この際おいておく。
大目標を達成するための最も生存率が高い戦略になるからね。
譲れないものが他にあるってだけなのだ。
帝国と解放軍の争いに乗じて亡命し、同盟軍として参加する形にするとかか?
しかし、いつ、どこで、どう動くか、コレガワカラナイ。
前世の知識があるからこそ、それが最大の悩みになるのだ。
帝国が盤石なうちに動けば、反逆者としてフリージ家からは切り離され、大目標を失う。
そして、イシュタル様とユリウスの関係が歴史通りになった場合。
帝国が暗黒に染まりきってからでは、イシュタル様をユリウスの手から引き剥がすことは物理的に不可能になる。
小目標として、イシュタル様にロプトの恐ろしさを教えたりはするつもりだが……。
たぶんオレには干渉できない。
最大の障壁は、イシュタル様本人の「責任感」と「ユリウスへの情」になる。
彼女が「私はここで運命を共にします」と言い出せば、この計画は破綻してしまうのだ。
イシュタル様を救うために、彼女の愛するフリージ家やユリウスを見捨てるという決断を迫ることが、彼女を絶望させることになるというジレンマ。
うまく誘導して、オレに依存させたりすることも、ちょこっとは考えたんだけど……。
やりたくないし、そもそも出来そうにないんだよなぁ。
小さいのにかしこい。英雄ってすごい。ラインハルトはそう思います。
あとは解放軍への接触の仕方や、帝国からの離脱のタイミング。
とにかく、非常に慎重なバランスが求められる作業になるのだ。
場合によっては、あらかじめ伝手を求められるように、オルエンが原作通りにリーフ軍側に身を置くことを容認しなければならないかも。ぽんぽん痛くなってきた……。
プランBはあったけど、茨の道だったよ……。
そしてプランC。
最終手段は、全てを捨て、オルエンを連れて逃げることだ。
名前を変えて市井に紛れ込み、隠棲する。これは生存の最低ラインであり、同時に敗北だ。
大目標である「幸せな生涯」の「幸せ」の部分が欠落してしまう。
この手から取りこぼすものも多くなるだろう。イシュタル様、そしてオレを信じた仲間たち。
それらすべてを「救いきれない」と判断し、切り捨てた後に残る生存。
生き延びたとして、オルエンに合わせる顔があるだろうか?
鏡に映る自分を、かつての自分と同じ名で果たして呼べるのだろうか?
自己嫌悪との戦いが一生続くことになる……ゾッとする話だな。
オルエンや少数の仲間と隠れ住んだとしても、そこには常に発覚と追跡の恐怖がある。
オルエンが「戦いたい」と言い出した時、オレは彼女を縛り付けるのか。
それとも死地へ送り出すのか。
結局、大目標がここで崩壊するリスクが極めて高いのだ。
この「最終手段」を定めたのには理由がある。
この恐ろしい存在があるからこそ、オレは生きるための執念を持つことができる。
これはオレにとっての「底」であり、そこへ落ちないための重圧として機能する。
心の奥底にでも置いておこう。
ああ、ひとつ忘れてはならなかった。
ロプトに賛同して、好き勝手に生きるってのは論外ね。
これは結局、誰も幸せに生きることが出来なくなる。
それに、まあオレはラインハルトですから?
カッコよく生きることしか出来ないのだ。
個別の中目標は、バラバラに見えて実は繋がっていたりする。
最悪のプランCを警戒することで、プランBに身を入れて堅実に進めることが出来る。
そしてそれが、あるかもしれないプランAのかすかな手がかりを見つけるかもしれない。
例えば、Bのための行動がCに対する準備にもなり、Aの機会を待つ時間を得る。
そんな相互作用が働くのだ。優先順位はケースバイケースで入れかえても良い。
リスク分散の効果もあるし、手札も増える。まあ、感覚的なものだ。
オレはこんなんでも既にいっぱいいっぱいだけど、サイアスなんかは、いつも10とか20とか同時に考えてるんじゃないかな? 知らんけど。
そして、最後は小目標。
それぞれの中目標を支えるための、具体的かつ日常的な作業や仕事のことだ。
自分を鍛えたり、仲間を見つけて鍛えたり、師匠を見つけて鍛えてもらったり……。
あれ、なんだか鍛えてばっかりだな?
やはり暴力……!! 暴力は全てを解決する……!!
まあそれは冗談としても、そういった行動のことだ。
……冗談ですまない感じのこの世界は、本当に残酷だ。……泣きそう。
結局は、ひとつひとつ積み重ねていくしかないってことだな。
考えがまとまったのでひといきつく。
庭に面した窓辺に近寄り、オルエンとエリウの姿を探す。
二人でなんか雪だるまみたいなものを作ってるな……なんだろうアレ?
オルエンがこちらに気づき手を振ったので、オレも手を振り返す。
この寒いのに元気なことだなあ。あ、今日はフレッドもついていてくれてるな。
それならオレが見てなくても安心だ。頭を使って少し疲れた……休もうかな……。
そうだ、もう少し季節が暖かくなったらオルエンに半ズボンをプレゼントしてあげよう。
これも重要な小目標の仕事だ……エリウもお揃いで送ってあげればきっと喜ぶ。
オルエンが庭を笑いがら駆け回っている。オレは暖炉の前で丸くなるとするか……。
フリージの冬は、すべてを白銀の静寂で塗りつぶす。
中庭を埋め尽くした雪は、踏みしめるたびに「ギュッ、ギュッ」と小気味よい音を立てて、オルエンの足元で弾けた。吐き出す息は真っ白な花のように空に溶け、冷たい風が頬を叩く。けれど、駆け回る彼女の体は、内側から溢れ出す生命の熱でぽかぽかと温かかった。
「見て、エリウ! ほら、こっちにたくさん固まってるわ!」
オルエンが声を弾ませて指し示した先では、同い年の友人、エリウが小さな手で一生懸命に雪を丸めていた。ラインハルトから共に魔道を学ぶ仲間であり、大切な遊び相手。
二人が作った雪の塊は、いびつながらも重なり合い、冬の陽光を浴びてダイヤモンドの粉を散らしたように輝いている。
「本当だ、オルエン。これなら、お城の塔よりも高く積めるかもしれないね」
エリウが控えめに、けれど楽しそうに笑う。
幼い二人の笑い声は、凍てついた空気を震わせ、冬の庭に柔らかな彩りを添えていた。
少し離れた場所では、騎士フレッドが彫像のように佇み、二人を見守っている。
まだ若さの残るその横顔には、守役としての厳格さと、幼い主たちを見つめる兄のような慈しみが同居していた。
彼がそこにいてくれるだけで、吹き付ける雪風もどこか遠い国の出来事のように感じられる。
フレッドの存在は、オルエンにとって安心という名の目に見えない盾だった。
ふと、オルエンは城の窓を見上げた。
高く、冷たい石壁の向こう。二階の窓辺に、見覚えのある人影が立っている。
逆光に縁取られたそのシルエットは、誰よりも凛々しく、誰よりも優しい、自慢の兄——
ラインハルトだった。
「お兄様!」
オルエンはちぎれんばかりに手を振った。
雪遊びに夢中になっていた手を高く上げ、精一杯の親愛を込めて。
すると、窓の向こうの兄が、ゆっくりとこちらへ向き直るのが分かった。
彼はわずかに目を細め、慈しむような微笑を浮かべると、こちらに応えるように静かに手を振り返してくれた。
ただそれだけのこと。
けれど、オルエンの胸には、春の陽だまりのような温かさが一気に広がった。
(お兄様が見ていてくれる。だから、私はもっと強くなれるし、もっと楽しくなれるんだわ)
銀世界の中で、兄と交わした静かな視線。
それは、これから訪れる激動の時代を知る由もない少女にとって、永遠に続いてほしいと願う、宝物のような冬のひとときだった。
冷たい風が一段と強まり、オルエンの小さな鼻の先が林檎のように赤く染まり始めた。
「……ふう、少し寒くなってきたわね、エリウ。今日はこれくらいにしましょうか」
オルエンが提案すると、少し体力の尽きかけていたエリウも、「そうだね」と頷いた。
二人が作ったいびつな雪の城をそのままに、付き添っていたフレッドが静かに歩み寄る。
彼は二人の服についた雪を丁寧に払い落とすと、温かな屋敷へと促した。
帰り道、雪を踏みしめる「ザクッ、ザクッ」という音を聞きながら、オルエンの頭にはある疑問が浮かんでいた。
(あんなに強くて、優しくて、すごいお兄様が負けちゃった相手……「バロン」)
お兄様は笑い話にして話してくれたけれど、その響きはどこか重々しく、不思議な響きを持っていた。確か、真っ黒な鎧を着ていて、なんだか変な笑い方をする人だったっけ。
「ねえ、フレッド。一つ聞いてもいい?」
オルエンが顔を見上げると、フレッドは歩調を緩めて彼女の視線に応えた。
「なんでしょう、オルエン様」
「お兄様が言ってた『バロン』って、なあに? 鎧を着たすごいヤツだって言ってたけど……フレッドなら知ってるでしょう?」
フレッドはわずかに表情を和らげ、教育者らしい真面目な口調で説明を始めた。
「バロンとは、重装歩兵の中でも最高位に位置する騎士の称号……兵種のことです。全身を隙間なく鋼鉄の鎧で固め、剣や槍、斧のみならず、時には魔道さえも使いこなすと言われています。文字通り、戦場にそびえ立つ『動く要塞』のような存在ですね」
「動く、ようさい……」
オルエンはその言葉を頭の中で反芻した。
重い鎧を着て、魔法まで跳ね返して、お兄様の電撃を耐え抜いた怪物。
想像するだけで、少し背筋がゾクっとするような、それでいてわくわくするような感覚。
「お兄様が負けたのは、そのバロンがとっても重かったからなのね。きっと、魔法が効かないくらい硬い鎧だったんだわ」
オルエンが納得したように頷いたその時、隣を歩いていたエリウが、少しはにかみながら小さな声を上げた。
「……あのね、オルエン。わたしのお父様も、『バロン』だよ」
オルエンは足を止め、弾かれたようにエリウの方を振り向いた。
「ええっ!? エリウのお父様がバロンなの!?」
「うん。いつもはとっても優しいけれど、お仕事の時はすごく重そうな鎧を着てるよ。」
オルエンの瞳に、パッと好奇心の火が灯った。
さっきまで遠いおとぎ話の怪物のように思えていた「バロン」という存在が、急に身近なものとして迫ってきたのだ。
エリウの家に行けば、その「動く要塞」に会えるかもしれない。
お兄様を倒した力の秘密が、そこにあるのかもしれない。
「すごいわ、エリウ! 今度、お父様に会わせて! バロンってどうやって戦うのか、わたしに教えてほしいの!」
「ふふ、いいよ。お父様もきっと喜ぶよ」
オルエンは寒さも忘れて、弾むような足取りで雪道を駆け出しそうになった。
最強の兄を破った謎の存在。
その正体を知るための新しい冒険が、小さな少女の心の中で今、始まろうとしていた。
そんなもの(半ズボン)じゃ、あこがれは止められねえんだ。