グラン歴 762年
フリージの夏は、あまりに白く、眩しすぎる。
どこまでも続く平原を陽炎が揺らし、北の山脈から沸き立つ入道雲が、空の青を濃い灰色へと侵食していく。大気は湿った熱を孕み、肌にまとわりつく静電気は、間もなく訪れる激動の雷雨を予感させていた。
オレは掌を空にかざす。
この輝きが、やがて来る暗黒時代には望めぬ贅沢であることを、オレは知っている。
黄金色の麦の海が戦火に焼かれる未来を、幻視する。
そんなことより聞いてくれ。
先日、オルエンに半ズボンをすすめてみたんです。半ズボン。
そしたらなんか周囲に慌てて止められたんです。
で、よく聞いてみたらなんか膝が出るのがまずいらしくて。
半ズボンは淑女の着るものじゃない、とか言われたんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、胸の谷間だの太股だの、さらけ出してる女性いっぱいいるじゃねーか。
膝ごときで淑女を語って半ズボンをディスんじゃねーよ、ボケが。
膝だよ、膝。
なんか近くにいたエリウ経由で三姉妹の耳にも入って、ダメ出しされたし。
教え子たちにも、半ズボンはちょっと……って。オレの頭おめでてーな。
膝を隠すブーツやタイツを身につければなんとか……って言ってくれるの。
もう、気を使ってくれてるのがまるわかりで見てらんない。
女性の半ズボンは文化的にダメだって知らなかっただけなんだよ。
オレは本当に知らなかったんです。だから、イシュタル様への報告はやめて。
スカートなら膝が出ても良いってなんだよ。納得いかないよ。うそだろ条太郎。
ああ……そろそろ降ってくるな……
風が止み、世界から色が消えた。
次の瞬間、天の底が抜けたような衝撃と共に、暴力的なまでの水塊が大地を叩きつけた。
渇いた土が弾け、草木は一斉に頭を垂れる。
視界はまたたく間に白濁し、平原の果ては雨の帳に消えた。
オレの人生みてえな雨だな……イメージがボドボドのラインハルトだ。
無知だったことが、お茶目なエピソードのように受け取られたのは不幸中の幸いか。
まあ、悪感情を持たれなかったことを喜ぼう。
どうやら通り雨だったようで、しばらく降り続いたあと雨はピタリと止んだ。
あらためて、目の前に広がるまだ青さを残す麦畑を眺める。
そこには春先に思いつきで試してみた実験の驚くべき結果が。
その光景を前に、オレは思わず頭をかかえた。
なぁにこれぇ……?
左側の区画は、もう笑っちゃうくらいフッサフサだ。
前世の知識で知った「落雷でキノコが増える」理論を試してみようと思い、種をまく前の土壌に微弱なサンダーを「えいっ」とピリピリ流したのだ。
そうしたら今、麦たちが「待ってました!」と言わんばかりに爆増している。
どうやら魔法の雷は、肥料もびっくりな超絶ドーピング剤だったらしい。
一方、右側の区画。
……ここはもう、この世の終わりのようだ。
ダイムサンダならどうなるかな? なんて、ちょっとした好奇心の結果がこれだ。
わざわざ魔道書を持ち出して来て、その力を解き放ってみたところ、ペンペン草どころか、微生物すら一匹残らず蒸発したであろう不毛の地が出来上がってしまった。
念のため地面をならしてから種を植えさせてみたが、もちろん芽は出ていない。
これ、なんか黒焦げになってないか。
いや、やりすぎた。分かってはいたけれど、これはひどい。
言い訳をさせてもらいたい。
オレの『ダイムサンダ』は二連撃。
一撃目で土を耕し、二撃目で栄養を……なんて。
ごめんなのだ。そんな器用な真似ができるわけがなかったのだ。
自分の領地でいったい何をしているんだろう……。
実験の時、指示を出していた農民に、震え声で恐る恐ると行動の理由を尋ねられたが、いや、ちょっと土の性根を叩き直してみようと思ってね、と意味不明な供述しか出来なかった。
ダイムサンダで農業……うん、絶対ダメだ。これは国が滅ぶ。ラインハルト反省。
とりあえずこれからも検証を重ねようと思う。
ああ……次は来年の麦だ。
炭化した大地に踏み込むと、軍靴の底からジャリッと、ありえない硬質な音が響いた。
ダイムサンダを叩き込んだこの一画、もうダメそう……。
土中の珪素が熱で溶け、ガラス状に焼き固められた死の領域になっちまってるよ。
ラインハルトのせいです。あーあ。
何かないかと探しながら、焦げた畑の中央まで歩を進めた。
ふと、足元に違和感を覚える。
歩くたびに、靴の金具に何かが吸い寄せられるような、微かな抵抗がある。
なんだろ、これ?
腰を落とし、手袋を脱いで指先で触れてみる。
金具の縁に、黒い砂のような、極小の石粒のようなものが、まるで意志を持っているかのようにびっしりと付着していた。……あっ、これ磁石か?
指で払おうとしても、それは生き物のように金具にしがみつき、離れようとしない。
磁性。
そう、これは磁気を帯びた砂鉄、あるいは落雷の衝撃で磁化した鉱物の粒だ。
強力な雷撃――ダイムサンダの二連撃がもたらした超高電圧と極大の電流。
それが一瞬にしてこの地の鉄分を励起し、天然の磁石を作り出したのではないだろうか。
……ヨシ! 計画通り。
自分を誤魔化して、考えをめぐらせる。
電流が磁場を生み、磁場が力を生む。
もし、この雷の出力を精密に制御し、特定の方向へ指向性を持たせることができたなら。
以前に妄想した、磁場を利用したあれこれへと思考が加速していく。
この磁力を用いて、重い鎧を身軽に扱うことはできないだろうか。
剣を振るう速度を、磁場による反発と吸引で物理限界まで引き上げることは。
電磁加速――いわゆる「レールガン」の理屈を何かに応用できれば……。
そのための取っ掛かりが、今、オレの汚れた軍靴にへばりついているのだ。
磁場の操作……テンションあがるなぁ~!
既存の魔道体系に甘んじることはないのだ。世界観なんてポイだ。
ラインハルトのイメージを損なわないようにだけ気をつければいいよね!
明日からは、こういったことに協力してくれそうな人材も気にかけてみよう。
たしか聖戦の系譜の原作だと、修理屋っていう施設があったんだよな。
武器とか魔道書とか杖とか……神器まで修復してくれてた覚えがある。
そういった連中なら、なんかスゴい技術とか持ってそう。
世界は広いのだ、どこかに埋もれた人材がいるはず……たぶん!
金具にこびりついた黒い砂を愛おしく思いながら、焼け焦げた畑の真ん中で一人、愉快な夢に胸を膨らませる。嬉しくて踊り出したい気分だ。
やっべ、近くを通りかかった農民に怪訝な目で見られてる! 撤退! 撤退!
イシュタルの視界には、常に「騎士」としてのラインハルトの姿があった。
かつて彼に向かって「くさい」と口走った無知を、今の彼女は少しばかり恥じてはいる。
けれど、その言葉をきっかけに結ばれた奇妙で強固な信頼関係は、今や城内の誰もが認めるところとなっていた。
ある日の午後、ラインハルトがとりとめのない会話の中に、オルエンの話題を口にした。
彼の信頼する配下が、オルエンの淑女教育をそろそろしては……と進言してきたらしい。
どうやら少し悩んでいるようだ。
「オルエンが、ですか?」
イシュタルは、庭園のテーブルに用意された冷たい果実水を一口含み、小首をかしげた。
オルエン。ラインハルトの自慢の妹であり、イシュタルにとっても数少ない、年齢の近い友人のような存在だ。フリージの縁者に連なる彼女もまた、立派な貴族の子女である。
イシュタルの知るオルエンは、決して礼儀知らずな少女ではない。
フリージに仕える騎士の家系として、彼女は幼いながらも貴族としての立ち居振る舞いを普通にこなしていた。イシュタルと席を共にするときも、背筋をぴんと伸ばし、指先まで細心の注意を払っているのが見て取れた。
(……確かに、ほんの少しだけ、元気すぎるかもしれないけれど)
イシュタルは、自身の膝の上で静かに行儀よく揃えられた手を見つめる。
フリージの公女として、厳格な母ヒルダから一分の隙もない教育を施されている自分に比べれば、オルエンの振る舞いは確かに「淑女」の枠からはみ出しているのかもしれない。
脳裏に、短い髪をなびかせ、瞳を輝かせて庭を駆け回るオルエンの姿が浮かぶ。
彼女は、フリージという厳格な家風の環境にありながらも、どこか野に咲く花のような自由な生命力に満ちていた。
それは、イシュタルにとっては羨ましくさえある輝きだった。
ラインハルトが心配しているのはオルエンの不作法ではなく、その瑞々しい感性が、この窮屈な周囲の環境に触れて傷ついてしまうことなのかもしれない。
「ラインハルト。私は、オルエンのあのようなところ、嫌いではありませんよ。礼節は、時と場所を選べば良いものです。彼女の輝くような明るさは、フリージの厳しい空気には必要なものだわ」
イシュタルがそう告げると、ラインハルトは少し考えてから言葉をかえす。
「しかし、イシュタル様。騎士の家系として、最低限のたしなみというものが……」
「あら、それなら大丈夫。いざとなったら、私が教えますから」
イシュタルは目の前で眉を寄せる騎士を親しげに見つめた。
ラインハルトは、戦いでの采配や魔道の奥義については明晰だ。
けれど、最愛の妹のこととなると、途端に慎重さと、不器用な過保護さが顔を出す。
(ふふ、ラインハルトったら。オルエンはあなたが思っているよりずっと、自分の足でしっかり立っているのに)
イシュタルは、オルエンの瞳を思い浮かべる。
確かに彼女は、フリージの淑女としては少々元気が過ぎるかもしれない。
生垣を飛び越え、風のように駆け抜けるその姿は、周囲からは危うく映るのだろう。
けれど、イシュタルは知っている。
オルエンのあの素直で無邪気な振る舞いの裏には、物事の本質を見抜く、澄んだ知性が宿っていることを。
彼女は決して無作法なのではない。
ただ、自らの心に誠実であろうとする強さを持っているだけなのだ。
そんなに心配なようなら、私が確かめてあげればいい。
イシュタルの胸の内に、小さな計画が芽生えた。
(そうだわ、茶会を開きましょう。オルエンを招いて、ゆっくりとお話しするの)
ただの窮屈な礼儀作法の確認ではない。
女の子同士、お菓子を囲んで笑い合えるような、そんな時間。
そこには、ラインハルトが丁寧に指導している門下生たち――
ヴァンパ、フェトラ、エリウの三姉妹も呼ぶのがいいだろう。
彼女たちはいつも、ラインハルトの背中を追って魔道の訓練に明け暮れている。
けれど、彼女たちだってまだ幼い貴族の子女。
呪文の詠唱から離れ、たまには甘いお茶やお喋りを楽しんでも罰は当たらないはずだ。
(……見ていてね、ラインハルト)
イシュタルは心の中で小さくつぶやいた。
あなたが守ろうとしているその女の子たちは、あなたが思っているよりもずっと強く、そしてしっかりとしているのだから。
その日の午後、イシュタルはさっそく、自らの手で丁寧に招待状をしたため始めた。
それは、後に「雷神」と呼ばれる少女が、自らの意志で周りの人々を繋ぎ止めようとした、最初の一歩だったのかもしれない。
フリージ城の一角にある東屋は、今日、白磁のティーカップと皿が触れ合う軽やかな音と、少女たちの弾むような声に満たされていた。
イシュタルは、主としての気品を保ちながら、正面に座るオルエンへと視線を向けた。
オルエンはラインハルトが案じていた元気すぎる姿とは裏腹に、背筋を真っ直ぐに伸ばし、見事な手つきで紅茶を口に運んでいる。
その所作には一点の曇りもなく、兄譲りの聡明さが端々に宿っていた。
「……オルエン、今日の茶菓子はお口に合うかしら?」
「はい、イシュタル様。この木苺のタルト、酸味が利いていてとても美味しいです。お兄様にも食べさせてあげたいくらいです」
オルエンの屈託のない笑顔に、同席していたヴァンパ三姉妹も少し気を楽にした。
長女ヴァンパ、それに続くフェトラとエリウ。彼女たちはラインハルトの門下生として日々魔道の修練に励む身であり、家格もラインハルトの家と同等だ。
普段は厳しい訓練のための装束に身を包んでいる彼女たちも、今日はイシュタルの招きとあって、年相応に愛らしいドレスを纏っている。
「本当に。ラインハルト様はいつも根を詰めすぎですもの。たまにはオルエン様のように、羽を伸ばされればよろしいのに」
ヴァンパが少し大人びた口調で同意すると、次女のフェトラがクスクスと笑った。
「でも、ラインハルト様がここで私たちと一緒にタルトを召し上がっている姿なんて、想像できません。きっと、身の置き場がなくて困惑してしまってそう」
「そうね、フェトラ。エリウもそう思うでしょう?」
三女のエリウは、口にタルトを運ぼうとしていたが、姉に話を振られてそれを置く。
「そうですね。でも、ラインハルト様はきっと、イシュタル様がお勧めになれば、どんなに真面目な顔をしていても、お代わりまでされると思います」
その言葉に、少女たちの間で笑い声が弾けた。
立場こそ主君と臣下、あるいは師の妹と弟子という関係ではあったが、この場にあるのは確かな信頼と、同じ時代を生きる少女としての連帯感だった。
イシュタルは、その光景を眩しそうに見つめていた。
ラインハルトが心配していたオルエンの「元気」も、やはり礼節を損なうものではない。
むしろ、彼女の持つ天真爛漫さは、周囲の緊張を解きほぐし、ヴァンパたちのような年上の少女たちをも惹きつける、不思議な磁力を持っている。
「オルエン。あなたは、そのままでいいのよ」
イシュタルが静かに告げると、オルエンは少し驚いたように瞬きをした。
「ラインハルトが、あなたのことをとても心配していたわ。元気すぎて、淑女としての慎みを忘れてはいないかって。でも、今日のあなたを見たら安心するでしょう。あなたは、自分のすべきことをちゃんと分かっているもの」
オルエンは一瞬、照れたように視線を落としたが、すぐに顔を上げて微笑む。
「お兄様は、心配性すぎます。私はフリージの騎士の妹として、恥ずかしい振る舞いはいたしません。……たまに生垣を飛び越えるくらい、許してくださってもいいと思うのですけど」
その一言に、再び東屋は笑いに包まれた。
イシュタルは思う。
自分が成長し、いつか戦場や政の場で顔を合わせる日が来ても、今日この場所で共有した温かなお茶の味と、笑い声は、きっと自分の心に残り続けるだろう。
張り詰めていた空気が緩み、東屋に流れる風が一段と柔らかくなったように感じられた。
「……ごめんなさい、皆。少し思うところがあって、いろいろと確かめたかったの。試すような真似をしてしまったわ」
イシュタルが少しだけ眉を下げ、年相応の少女らしい照れを含んだ謝罪を口にすると、集まった少女たちの顔に一斉に和やかな笑みが浮かんだ。
主君としての仮面を脱いだイシュタルの素顔に、皆が安堵した証拠でもあった。
長女のヴァンパは、三姉妹のまとめ役としての凛とした佇まいは崩さないものの、その双眸には柔らかな光が宿っている。
「滅相もございません、イシュタル様。私共も、こうして正式な場を設けていただいたことで、改めて気を引き締めることができました」
そう言いながらも、彼女がカップを置く手つきには、先ほどまでの堅苦しさは消えていた。
「それより、ラインハルト様のお話を聞かせてくださいな!」
フェトラが弾んだ声で身を乗り出す。
彼女はラインハルトを師として仰ぎながらも、その一面に熱狂している節がある。
エリウは、もはや会話よりも目の前の皿に夢中だ。
もくもくと小さな口を動かし、幸せそうに頬を膨らませている。
「思うところ……? 私が、何か皆様を困らせるようなことを?」
オルエンが不思議そうに首をかしげる。
イシュタルが、そうではないのだけれどねと断り、実はラインハルトが「淑女教育」を心配していたことを打ち明けると、オルエンは合点がいったように小さく手を打った。
「ああ……それはきっと、フレッドが何かを言ったのですね。最近、遠征から帰ってきてから、なぜか少しばかり心配性になったところがありましたから」
守役である騎士の名を挙げ、オルエンは苦笑いをもらした。
そこからは、堰を切ったように少女たちの本音が飛び交い始めた。
話題は次から次へと変わり、華やかな社交場から、賑やかな秘密の会合へと姿を変える。
「……私は、心配させてしまうほど、不作法だったのでしょうか」
オルエンが少しだけ不安そうに呟くと、すかさずヴァンパが姉らしい落ち着いた声で返した。
「いいえ、オルエン。姉というものは、いつまでも妹が心配なものよ。きっと兄であるラインハルト様も、それと同じお気持ちなのだわ」
「そうですよ! でもラインハルト様ってば、時々感覚がズレていらっしゃいませんか?」
フェトラがここぞとばかりに、日頃の不満を可愛らしくぶちまける。
「この間なんて、『女の子も動きやすい方がいいだろう』って、私たちに半ズボンを勧めてきたんですから! 全然わかってないわ」
「……このお菓子、すごく美味しい」
熱を帯びる会話の傍らで、エリウがぽつりと、感嘆に満ちた声を漏らす。
そのあまりにマイペースな様子に、イシュタルはついこらえきれず、笑ってしまった。
イシュタルは、手元の紅茶を一口含んだ。
厳しい掟や、血筋に縛られた重苦しい運命。そんなものが、世界には確かに存在している。
けれど、今この瞬間、彼女たちの間にあるのは、地位も家柄も超えた、純粋な絆だった。
心配性の守役、兄の空気を読まないセンス、そして美味しいお菓子。
尽きることのない話題に耳を傾けながら、イシュタルは願わずにはいられなかった。
いつか彼女たちが成長し、それぞれの道へ進んだとしても。
今日ここで交わした、この他愛もない笑い声だけは、いつまでも彼女たちの心のどこかで、温かな光として灯り続けてほしい、と。
イシュタルは、自分の周りに集まった大切な友人たちの姿を、その瞳に深く刻み込んでいた。
賑やかな東屋の笑い声が、ふと遠く感じられた。
ティーカップの縁から立ち上る湯気の向こう、楽しげに語らうヴァンパ三姉妹と、兄への不満を漏らしつつも愛着を隠せないオルエンの姿。彼女たちの間にある兄弟姉妹という温かな絆の響きが、イシュタルの胸の奥に眠っていた小さな違和感を呼び覚ました。
(姉……妹……)
自分には兄のイシュトーがいる。彼はフリージの正当な後継者として厳しく育てられているが、妹であるイシュタルにはいつも誠実で、その関係は決して悪いものではない。
けれど、今この場で語られているような、もっと距離の近い、肌の温もりを感じるような家族の愛情を、自分は誰かと分かち合っているだろうか。
その時、脳裏に一人の少女の姿が、淡い影のように浮かび上がった。
(ティニー……)
叔母ティルテュの娘であり、自分にとっては従姉妹にあたる少女。
記憶の中の彼女は、いつも母であるヒルダの影を恐れるように、城の隅で俯いていた。
たしか自分より三歳年下の、まだ物心がつくかどうかも定かではない年齢だ。
同じ血を引き、同じ屋根の下に暮らしていながら、イシュタルは彼女と言葉を交わした記憶がほとんどない。
それは、母ヒルダの無言の圧力ゆえだった。
母がティルテュやその子供ティニーに向ける冷酷な眼差し。
それがあまりに鋭く、拒絶に満ちていたからこそ、幼いイシュタルは察していたのだ。
彼女たちに近づくことは、母の逆鱗に触れることであり、平穏を乱すことなのだと。
けれど、今日のこの茶会はどうだろう。
ラインハルトが心配し、フレッドが案じ、ヴァンパたちが笑い飛ばす。
誰かを想い、想われる関係がこれほどまでに眩しく、尊いものだと知ってしまった今。
城の冷たい回廊のどこかで、誰にも顧みられず、震えているかもしれない「妹」の存在を、どうして無視できようか。
(三歳年下というと今は四歳……。私がラインハルトと出会った頃よりも小さいのね……)
そう思うと、胸の奥がしめつけられるように痛んだ。
オルエンがこれほどまでに奔放に、健やかに笑っていられるのは、ラインハルトという盾があるからだ。では、あの孤独な少女にとっての盾は、一体誰なのだろう。
イシュタルは、静かにティーカップをソーサーに戻した。
カチリ、と小さな、けれど硬質な音が響く。
「……イシュタル様? どうかされましたか?」
オルエンが不思議そうに覗き込んできた。
イシュタルは瞬きをし、いつもの穏やかな、けれどどこか決意を秘めた微笑みを浮かべた。
「いいえ、なんでもないわ。ただ……少し、会いたい子ができただけ」
なお、半ズボンは男の子のものだという謎の勢力が上流階級に多いだけの模様。