皿をすすぐ水の音が、夏の朝の静けさに溶けていった。
マティアス・ベッカーは、背伸びするようにして流し台に立ち、朝ごはんの皿をこすっていた。
泡が光を弾いて、ガラスの欠片みたいに見える。
外には、いつもどおりのゆるやかな丘が見えていた。
「――ねえ、マティアス」
母親――マルティナが、背後でパンくずを布巾に集めながら言った。
声は平静を装っていたが、やはりどこかで震えていた。
「――マティアスの学校、来年で閉まるんですって」
マティアスは手を止めて、濡れた皿を握ったまま振り返った。
閉まる? あの灰色の校舎が? 窓ガラスが割れかけてる、古びたあの教室が?
「……なんで?」マティアスは、無意識にそう聞いていた。
「教育の再統合、ですって――西のお役所さんが、そう言ってたわ」
東ドイツが地図から消えて、もう一年が経とうとしている。
東側の田舎の学校など、消えてしまって当然だった。
統一。崩壊。冷戦。
父親の読む新聞には、いつもその言葉が踊っていた。
だが――マティアスにとっては、どれもはじめから遠い世界の話に思えていた。
マティアスが皿を拭き終えると、リビングにいた父親――クラウスが言った。
「――なら、ドレスデンにでも引っ越すか?」
「え?」
マティアスはまた尋ねた。
まだ朝だというのに、続々とニュースが入ってくる。
「お前も、そろそろ中学生だからな――進路がどうあれ、アパートぐらいは借りれるだろ」
「そうね……都会なら、仕事もたくさんあるでしょうし」
ドレスデンといえば、最寄りの都会だ。
演劇やオペラで有名らしいけど、マティアスの周りでそんな話をする人はいない。
ざらついたブラウン管の向こう、遠い世界の出来事だった。
ちょっと真面目な話になりかけたところで――コン、コンと、ドアがためらいなくノックされた。
クラウスが新聞を置き、怪訝な瞳で玄関を見た。
「――俺が行く。マティアスは待ってろ」
▽ ▽ ▽
クラウスがドアを開けると、そこにはスーツ姿の男女がいた。
女の胸元で、黒・赤・金のバッジが光る。
――西の役人だ。
クラウスは息を呑む。
クラウスが警戒の目で役人を見ていると、男性の方が言った。
「失礼します。私ども、連邦魔法省の者です」
「魔法省? ……ああ、
「ええ」女性が答えた。
「――ご心配なく。
「――そうか」
納得はした。
だが――「別物」とだけ言われて、すぐ信じられるほど単純ではない。
そして、なぜ来たのか――そこが、やはりわからない。
クラウスの考えを読みとったのか、男性が言った。
「――私ども、息子さんに話があってきました」
息子に話がある――クラウスの警戒が、より一層鋭くなった。
(――ああ、やはり見つかったのか)
今すぐ出ていけ――そう言いたいところだが、なにせ相手は役人だ。
見つかった時点で、抵抗は無駄になる。
――結局、クラウスは抵抗を諦めた。
逃げ場など、最初からなかったのだ。
「――わかった」
▽ ▽ ▽
クラウスが役人を入れた時、マティアスはちょうど皿を片付け終えていた。
バタバタと音がして、ただ事じゃないことに気づく。
マルティナの表情が凍りつき、震える声でクラウスに尋ねた。
「……だれ? このひとたち」
クラウスは、低い声で答えた。
「――西の魔法省からだとよ……正直、違うとは思えん」
マティアスには、その言葉の重さがわからなかった。
ただ、両親の緊張だけが伝わってきた。
クラウスは役人を椅子に座らせ、自分は二人と向かい合うように座った。
「マティアス、お前も座れ」
言われるがまま、マティアスはクラウスの隣に座った。
マルティナが震える手で、棚の奥にしまってあったカップを出す。
ところどころ欠けたカップに、丁寧にお茶を注ぐ。
役人たちの前に置くと、湯気がかすかに揺れた。
「――どうぞ」
男性は柔らかい笑みを浮かべて「ありがとうございます」と言い、一口含んだ。
だが、女性は礼儀正しく頭を下げただけで、視線はカップよりクラウスを見ている。
礼儀作法も終わったところで、女性が言った。
「改めまして。私はクラウディア・シュミット、連邦魔法省のものです。こちらは同僚の――」
「――ペーター・ミュラーと申します」
自己紹介を終えた役人――ミュラーとシュミットは、早速本題に入った。
「――では、クラウスさん」
シュミットが鞄から取り出したのは、一枚の厚紙だった。
真っ白な紙に、整然とした文字が並んでいる。
上部には、
その下に、黒インクで押された連邦の鷲章の印がある。
クラウスはそれを受け取った。
そこに「マティアス・ベッカー」の名を見つけた瞬間、指先が小さく震えた。
「……マティアス」
ミュラーが柔らかく声を添える。
「ええ、息子さんです。これは正式な入学通知書です」
――正直、マティアスには状況がわからなかった。
マルティナが、彼の肩に手を添える。
「――とりあえず、本人に読ませます」
ミュラーがバッグから、同じ印のついた書類を取り出す。
そしてテーブルに置き、マティアスの前に差しだした。
そして――中を覗き込む。
「親愛なるベッカー夫妻殿
貴殿の子息 マティアス・ベッカー は、連邦魔法省の定める基準に合格し、
ブロッケン・ドイツ統一魔法学院への入学を許可されました。
つきましては、1991年8月1日付にて同校に登校するよう通知いたします。
必要な教材および準備事項については別紙の通り。
連邦魔法省 ブロッケン管理局」
マティアスの中で、疑問が泡のように弾けては消えていった。
でも、最初に思ったのは――これだった。
――僕が、魔法使い?
【あとがき】
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