もしかしたら続きがあるかもしれません。
第一話 フライドポテトとの遭遇
私は、人里を歩いていた。
理由らしい理由は、特にない。
ただ、なんとなく足が向いた。それだけのことだ。
人里は、今日も変わらずそこにあった。
何百年という時間が積み重なっているはずなのに、風景はまるで色褪せない。瓦屋根の家屋が肩を寄せ合い、土の道には人の往来で踏み固められた跡が幾重にも重なっている。軒先に吊るされた木札や布の暖簾が、風に揺れて小さく音を立てた。
文明が停滞している――そう表現することもできるだろう。
人里の暮らしは、おおよそ鎌倉時代あたりで時間が止まったままだ。鍛冶屋の金槌の音、米を研ぐ水音、遠くで子供が駆け回る足音。どれもが、過去から切り取ってきたかのように変わらない。
だが、別にそれが悪いとは思わない。
むしろ、私にとっては心地いい空気だ。
せわしなく変化する外の世界の話を、天狗の連中から聞かされるたびに思う。便利で、効率的で、無駄のない世界――それはそれで立派なのだろうが、どうにも息が詰まる。ここには、そういう窮屈さがない。
とはいえ。
いつ来ても同じ景色、同じ匂い、同じ音。
それが何度も続けば、さすがに退屈にもなる。
「さて……今日は、何か面白いものでもあるといいんだが」
独り言を小さく呟きながら、私は人里の通りを歩いた。
行き交う人間たちは、私のことをちらりと見る程度で、特別な反応は示さない。藁傘を深く被り、角を隠していれば、見た目はせいぜい小柄な旅の娘だ。鬼だと気づかれれば大騒ぎになるが、その気配はない。
店先を一つひとつ眺めていく。
米屋、酒屋、布屋、道具屋。
どれも知っている。どれも、何度も見てきた。
――やっぱり、変わり映えしないな。
そう思った、その時だった。
ふと、鼻先をかすめる匂いがあった。
香ばしい。
油の熱を含んだ、重たくも食欲を刺激する匂い。
それでいて、どこか甘みがあり、焦げたような苦さも混じっている。
「……なんだ、これは」
思わず足を止め、鼻を鳴らす。
嗅いだことがない。少なくとも、人里では覚えのない匂いだ。
匂いを辿ると、古い木造の建物の前に行き着いた。外観は他の店と大差ない。年季の入った柱に、少しくすんだ暖簾。だが、その奥から、例の匂いが確かに漂ってきている。
「暇つぶしには、ちょうどいいか」
私はそう呟いて、暖簾をくぐった。
店内は、思った以上に質素だった。
中央に長いカウンターが一本あり、椅子が数脚並んでいるだけ。壁には装飾らしいものはほとんどなく、使い込まれた木の色だけが残っている。だが、不思議と薄暗さや陰気さはなく、油の匂いと相まって、どこか落ち着く空間だった。
「いらっしゃい。席は空いてるから、好きなところに座ってくれ」
奥から声がかかる。
声の主は、カウンターの向こうに立つ男だった。
私は軽く手を上げて応えながら、彼の正面の席に腰を下ろす。
「ああ、それじゃあ、あんたの正面に座らせてもらうよ」
椅子は、少しきしんだ音を立てた。
肘をついて、改めて男を観察する。
若い。
と言っても、青臭い若者ではない。三十代後半から四十代に差し掛かるくらいだろうか。この古臭い店構えにしては、ずいぶんと年が若く見える。
体つきは華奢で、肌も白い。長時間火の前に立つ仕事にしては、日に焼けた様子もない。だが、背はそれなりに高く、姿勢もいい。無駄のない、すらりとした立ち姿だった。
私は一度、カウンターの上に視線を落とす。
そして、店内をもう一度見渡した。
――品書きがない。
壁にも、カウンターにも、どこにもそれらしいものが見当たらない。
そもそも、なんの店なのかすら分からない。私はただ、匂いに釣られて入ってきただけだ。
「なあ」
私は、男に声をかけた。
「ここは、なんの店だい?」
男は一瞬だけ目を瞬かせ、それから、にこやかに笑った。
「ここは、フライドポテト専門店ですよ」
「……ふらいど、ぽてと?」
聞き慣れない言葉に、思わず首を傾げる。
舌の上で転がしてみても、意味が掴めない。
「なんだいそれは。聞いたことがない」
正直にそう言うと、男は少しだけ嬉しそうに眉を上げた。
「そうでしょうね。これは、外の世界で人気の食べ物なんです」
そう前置きしてから、彼は続ける。
「フライドポテトというのは、ジャガイモを油で揚げた料理ですよ」
外の世界。
ジャガイモ。
油で揚げる。
私は黙って、その言葉を頭の中で反芻した。
なるほど。
だから、この匂いなのか。
香ばしくて、重くて、それでいて妙に惹かれる匂い。
知らないはずなのに、どこか懐かしさすら覚える。
「へえ……」
私は、思わずそんな声を漏らしていた。
鬼である私が、知らない食べ物。
外の世界の料理を、人里の片隅で出す、古臭い店。
――どうやら、今日は退屈せずに済みそうだ。
私は、藁傘の奥で小さく笑った。
「ってことは、お前さん――外来人かい?」
私は、藁傘の縁を指で軽く弾きながら、少しだけ口元を緩めてそう聞いた。
問い詰めるというよりは、世間話の延長だ。人里でこうして店を構えている以上、隠す気もなさそうだし、何よりこの男からは妙な落ち着きが漂っている。
「そうです」
男は、あっさりと頷いた。
「ついこの間、外の世界から迷い込みましてね。最初こそ――まあ、正直に言えば、驚きの連続でしたよ」
そう言って、少し遠い目をする。
過去を思い出しているというよりは、出来事を一つずつ棚卸ししているような、そんな表情だった。
「空は違うし、建物も違う。言葉は通じるのに、常識が噛み合わない。人里の外には妖怪が当たり前に歩いている。……最初は、寝ている間に変な夢を見ているんじゃないかと、本気で思いました」
「はは、それはご愁傷さま」
私は、くすりと笑った。
外の世界の人間が幻想郷に迷い込んだ時の反応など、想像に難くない。
「最初のうちは、おどろ……驚きが二個も三個も重なって、毎日が精一杯でした。でも、それもだんだん薄れてきましてね」
男は肩をすくめる。
「そのうち、考えるようになったんです。この地で、何か自分にできることはないものか、と」
そう前置きしてから、少しだけ胸を張った。
「それで行き着いた結論が、外の世界の食べ物――フライドポテトの店を出すことでした。せっかくなら、ただ生き延びるだけじゃなくて、美味しいものを知ってもらいたいと思いまして」
語り口は穏やかだが、その言葉には確かな手応えが滲んでいる。
自分の選択を、きちんと気に入っている顔だ。
「ふーん……」
私は、相槌を打ちながら、カウンターに肘をついた。
「いいじゃないか。環境の違いに腐らず、自分でやりたいことを見つける。なかなかできることじゃないよ」
鬼の私が言うのも妙な話だが、本心だった。
流されるまま生きる人間は多い。ましてや、幻想郷のような場所に迷い込んでなお、自分から何かを始める者は少ない。
「ありがとうございます」
男は、少し照れたように笑った。
私は、自然と機嫌が良くなっている自分に気づく。
何より――話を聞いているうちに、腹の虫が静かに騒ぎ始めていた。
「それじゃあさ」
私は、カウンターを指でとんと叩いた。
「早速、そのフライドポテトってやつを食べさせておくれよ。うまい芋が食えるってんなら、なおさらだ」
「ええ、もちろん」
男は、待ってましたとばかりに頷いた。
「少々お待ちください。すぐに作りますから」
そう言って、棚の下からジャガイモを二つ、三つ取り出す。
土の匂いが、ほのかに漂った。
男は、それを水を張った樽の中に沈め、両手で転がすように洗い始めた。
ざらりとした皮に付いた泥が、水の中でふわりと浮き、やがて底に沈んでいく。
水音が、店内に静かに響く。
あらかた泥が落ちたところで、男はジャガイモを取り出し、布で軽く水気を拭き取った。
それから、まな板の上に置き、包丁を手に取る。
トン、トン、と一定のリズムで刃が落ちる。
太すぎず、細すぎない、揃った棒状に切られていくジャガイモ。
手際がいい――と言うほど派手ではない。
だが、迷いがない。包丁の進む道が、最初から決まっているような動きだ。
切り終えたジャガイモを、男は再び水の入った器に入れた。
「……なんだい、それ」
私は、思わず口を挟んだ。
「切った後でもう一回洗うのか?」
「ええ」
男は、作業を続けながら答える。
「これは、ジャガイモのデンプンを抜いているんです」
「デンプン?」
また知らない言葉だ。
私は、眉をひそめる。
「デンプンというのは、ジャガイモに含まれる糖分のようなものです。これが多いと、うまく揚がらないんですよ」
男は、水の中でジャガイモを軽くかき混ぜながら説明を続ける。
「水に浸すことで、表面の澱粉が抜けて、揚げた時にカラッと仕上がります」
「へえ……」
私は、腕を組んで唸った。
「なるほどな。玉ねぎの灰汁抜きみたいなもんか」
「そうそう、まさにそれです」
男は、納得したように笑った。
知識というものは、世界が違ってもどこかで繋がるものらしい。
私は、少しだけ感心した。
男は、ジャガイモを水につけたまま、今度は鍋を取り出した。
ずっしりとした鉄鍋だ。
そこに油を注ぎ、かまどに火を入れる。
薪がぱちりと弾け、火の色が揺らめく。
しばらくすると、鍋の底に残っていた水分が、ぱちぱちと小さな音を立て始めた。
空気が、じわりと変わる。
揚げ油特有の、重く香ばしい匂いが店内に広がっていく。
先ほど嗅いだ匂いよりも、さらに濃い。
私は、思わず鼻を鳴らした。
「……いい匂いだねぇ」
男は、鍋から目を離さず、薪の位置を少しずつ調整している。
火が強すぎず、弱すぎず、一定になるように。
「油の温度を、やけに気にするんだねぇ」
私がそう言うと、男は小さく頷いた。
「揚げ物は、油の温度が命なんです」
真剣な声だった。
「低すぎれば、油を吸ってベタっとした仕上がりになりますし、高すぎれば焦げて苦味が出ます。たった十度違うだけでも、全然違う」
そう言いながら、薪を一本抜き、また一本足す。
「ですから、ここは慎重にいきます」
「へえ……」
私は、素直に感心した。
揚げ物が、ここまで繊細な料理だとは思っていなかった。
男は、油の具合に満足したのか、一度火元から離れ、ジャガイモの入った器の元へ戻った。
水から取り出し、清潔そうな布で一本一本、丁寧に水気を拭き取っていく。
おそらく、油が跳ねないようにするためだろう。
細かな気遣いが、動作の端々に現れている。
拭き終えたジャガイモを、今度は新聞紙の上に並べる。
鍋のすぐ横だ。
「準備は、こんなところですね」
男は、そう言って一息ついた。
カウンター越しに見える鍋の中では、油が静かに揺れている。
火の音、油の匂い、男の落ち着いた背中。
私は、知らず知らずのうちに、前のめりになっていた。
どうやら――いよいよ、揚げる段階らしい。
男は、布で水気を拭き取ったジャガイモをひとつ掴むと、躊躇なく鍋へと落とした。
その瞬間。
シュワリ、と控えめな音が立つ。
油が跳ね上がることもなく、鍋の中で白い泡が静かに立ちのぼった。
激しく弾けるでもなく、ただ、じわじわと油が芋を包み込んでいく。
「……おや?」
私は、思わず身を乗り出した。
普段、人里で目にする揚げ物――天ぷらやら、魚の揚げ物やらは、もっと派手だ。
鍋に放り込んだ瞬間、ジュワッと音を立て、油が暴れ、泡が一気に溢れ出す。
だが、これは違う。
静かすぎるほど、落ち着いた揚がり方だった。
「ふむ……」
私は、腕を組んで鍋の中を覗き込む。
「いつも見てる揚げ物より、ずいぶん大人しいねぇ」
男は、次々とジャガイモを鍋へ入れながら、落ち着いた声で答えた。
「今は、油の温度を低めにしてありますから」
「なるほど。これが、さっき言ってた温度の調整ってやつか」
私は、納得して頷く。
油の中で、棒状のジャガイモがゆっくりと色を変えていく。
最初は白かったそれが、次第に淡い黄色へと移ろい、表面が少しずつ締まっていくのが分かる。
香ばしい匂いが、さらに濃くなった。
鼻の奥をくすぐる、芋と油の混じった匂い。
重たいはずなのに、不思議としつこさはない。
芋は棒状に切られているから、火が通るのは早そうだ。
だが、油の温度が低いせいか、全体に熱が回るのはゆっくりで、時間が引き伸ばされているように感じる。
鍋の中の様子を、男はじっと見つめている。
箸を動かすでもなく、ただ、揚がり具合を確かめるように。
数分が経った頃。
ジャガイモが、ほんの少し縮んだように見えた。
「……よし」
男は小さく呟くと、箸を手に取り、一本ずつ丁寧にジャガイモを引き上げていった。
油を切りながら、横に用意してあった金網の上へと並べていく。
揚げたての芋から、ほわりと湯気が立ちのぼる。
匂いは香ばしく、それでいて、どこか落ち着いている。
天ぷらとも、唐揚げとも違う、重厚な匂いだ。
「……ほう」
私は、思わず喉を鳴らした。
まだ食べてもいないというのに、口の中に唾液が溜まってくる。
腹の虫が、期待に満ちた音を立て始めた。
――出来上がり、か?
そう思った、その時だった。
男は、網の横に置いてあったうちわを手に取ると、フライドポテトに向かって仰ぎ始めた。
パタ、パタ、と、規則正しい音。
「……おいおい」
私は、思わず声を上げた。
「何してるんだい。そんなことしたら、せっかくの揚げたてが冷めちまうだろ」
せっかく、今が一番うまそうな時だというのに。
私は、少し抗議するように言った。
だが、男は慌てる様子もなく、手を止めずに答えた。
「冷ましているんですよ」
「……冷ましてる?」
「ええ。フライドポテトは、これで完成じゃありません」
男は、淡々と、だがどこか誇らしげに続ける。
「一度冷ましてから、もう一度揚げます」
「……はあ?」
私は、思わず間の抜けた声を出してしまった。
揚げ物を、わざわざ冷まして、もう一度揚げる?
聞いたことがない。
男は、うちわで仰ぎながら説明を続ける。
「低温の油で揚げただけだと、どうしても食感が良くならないんです。中は火が通っていても、表面がふにゃっとしてしまう」
「ほう……」
「そこで、一度冷ましてから、今度は高い温度の油で揚げ直す。そうすると、表面だけが一気に締まって、サクサクになるんですよ」
私は、しばらく黙り込んだ。
「……それならさ」
ややあって、私は疑問を口にする。
「最初から高い温度で揚げればいいじゃないか」
男は、少しだけ困ったように笑った。
「それだと、中のジャガイモが硬いままなんです」
そう言って、指で棒状の芋を示す。
「ジャガイモは、火を通すだけなら簡単ですが、柔らかくなるまでには時間がかかる。最初から高温だと、表面だけが先に焦げてしまいます」
「なるほどな……」
「だから、まず低温でじっくり中まで火を通してから、最後に高温で表面を仕上げる。これが、一番いいやり方なんです」
私は、思わず感心の息を吐いた。
「……へえ。芋を揚げるだけで、そこまで考えるもんかね」
一見すれば、ただの単純な料理だ。
だが、その裏には、こんなにも細かな工夫と理屈が詰まっている。
鬼として長く生きてきたが、知らないことはまだまだあるらしい。
男は、芋が十分に冷めたことを確かめると、今度はかまどへと向かった。
薪を数本追加し、火を強める。
炎が勢いを増し、鍋の中の油が、先ほどとは違う気配を帯び始めた。
表面が細かく揺れ、熱が立ち上ってくるのが分かる。
男は、油の様子を慎重に見極めている。
しばらくして、小さく頷いた。
「……今ですね」
そう呟くと、先ほど冷ましておいたジャガイモを、再び鍋へと入れた。
今度は違った。
ジュワッ――!
派手な音とともに、泡が一気に立ち上る。
油が勢いよく弾け、鍋の中でジャガイモが踊るように動き回る。
「おお……」
私は、思わず声を漏らした。
さっきとは明らかに違う。
これぞ、揚げ物といった光景だ。
油の中で、芋の表面がみるみるうちに色づいていく。
淡い黄金色が、次第に濃く、力強い色合いへと変わっていく。
音、匂い、熱気。
すべてが一気に押し寄せてくる。
男は、箸で軽く混ぜながら、揚がり具合を確認している。
時間にして、ほんの三十秒ほど。
「……はい」
男は、迷いなくジャガイモを引き上げた。
新聞紙の上で油を切り、素早く器に盛り付ける。
湯気が、もくもくと立ち上った。
その上から、塩をひとつまみ。
さらに、小さな小皿に入った赤いタレを添える。
男は、それらをまとめて、カウンター越しに私の前へと差し出した。
「お待たせしました。フライドポテトです」
皿の上で、黄金色の芋が輝いている。
香ばしい匂いが、鼻腔を満たす。
湯気の向こうに、外の世界の気配が、ほんの少しだけ見えた気がした。
――どうやら、いよいよ食べられるらしい。
「まずは、そのまま食べてみてください」
男はそう言って、皿の中央に盛られたフライドポテトを、控えめに指差した。
まるで格式の高い料理屋で出される一言のようで、私は思わず小さく苦笑する。
こんな古びた店で、藁傘を被った鬼相手に言う台詞じゃない。
「ずいぶん改まってるじゃないか」
そう言いながらも、私は素直に従った。
指先で一本つまみ上げる。
熱はあるが、火傷するほどではない。表面は乾いていて、油のぬめりは感じない。
ほんのりと立ち上る湯気と、鼻をくすぐる香ばしさ。
期待が、自然と喉の奥に溜まっていく。
私は、迷わず口へと運んだ。
――ザクリ。
小気味のいい音が、確かに鳴った。
歯が触れた瞬間、表面が心地よく砕け、次いで中の柔らかさが追いかけてくる。
軽いのに、頼りないわけじゃない。
この食感だけで、今までに食べてきた揚げ物とは一線を画しているのが分かる。
そして。
次の瞬間、口の中に広がったのは――旨味だった。
「……っ」
思わず、声にならない息が漏れる。
芋だ。
確かに、ジャガイモだ。
だが、私の知っているジャガイモじゃない。
噛みしめるたびに、ずっしりとした、芯のある旨味が溢れ出す。
それは、ただ甘いだけでも、淡白なだけでもない。
その奥に、ジャガイモ本来の、ほのかな甘みが確かにある。
芋の中に閉じ込められていたものが、油と熱によって引き出されたような味だ。
そこへ、少し遅れて塩味が流れ込んでくる。
先ほど振りかけられた、あのひとつまみの塩。
それが、この芋の旨味と甘みを、刺々しく、はっきりとした輪郭へと変えている。
ガツン、と来る。
だが、乱暴じゃない。
そして、そのすべてを包み込むのが、油の存在感だった。
重厚で、深く、それでいて不思議とくどくない。
味が、ばらばらに主張するのではなく、ひとつの塊としてまとまっている。
完成された一体感。
「……はは」
私は、思わず笑ってしまった。
「うまい!」
声が、自然と大きくなる。
「こりゃあ、うまいねぇ!」
もう一本、迷わず手が伸びる。
――ザクッ。
今度は、音を楽しむ余裕があった。
噛むたびに、同じ音、同じ感触、同じ旨味が返ってくる。
「ザクっとしてて、食べた時の食感がいい。表面の揚がったジャガイモの香ばしさも、旨みも、塩味も、甘みも……全部、ちゃんと感じられるよ」
私は、早口になりながら、感想を並べ立てていた。
「それでいて、どれかが勝ちすぎない。全部が、ちゃんと一緒にいる」
飲み込んだ後も、口の中に余韻が残る。
旨味が、ゆっくりと引いていく。
私は、また一本取った。
そして、もう一本。
気づけば、皿の上の量が、少しずつ減っている。
数えたわけではないが、十本目あたりに手が伸びた頃だろうか。
「……」
その時、男が静かに、赤いタレの入った小皿を指した。
「こちらも、試してみてください」
その声音には、押しつけがましさがない。
自信と期待が、程よく混じっている。
「ふむ?」
私は一瞬だけ首を傾げ、それから素直にポテトをソースへと沈めた。
赤い液体が、芋の先に絡みつく。
そのまま、口へ。
――今度は。
先ほどとは、まったく違う世界が広がった。
「……おや」
まず来たのは、酸味だった。
キュッと引き締まるような、爽やかな酸味。
だが、鋭すぎない。
続いて、ほんのりとした甘みと、塩気が追いかけてくる。
さっきまで口の中を支配していた油の重さが、すっと引く。
むしろ、軽くなる。
「こりゃ……」
私は、目を細めた。
「さっぱりしてるねぇ。さっきのコッテリした感じとは、まるで別物だ」
油を感じない。
いや、正確には、油が嫌な形で残らない。
爽やかで、甘塩っぱくて、後味がいい。
「このソースも、うまいね」
私は、正直な感想を口にした。
「これは、なんだい?これも外の世界のもんか」
男は、嬉しそうに頷いた。
「はい。これはケチャップと言います」
「けちゃっぷ?」
「トマトを使ったソースです。フライドポテトにつける、定番の組み合わせなんですよ」
なるほど、と私は頷いた。
確かに、完成された組み合わせだ。
天ぷらに柚子。
脂の強いものに、酸味のあるもの。
昔からある理屈だが、これはその中でも、群を抜いて相性がいい。
まるで、この芋のために生まれてきたかのようだ。
「……はあ」
私は、深く息を吐いた。
「これは、飲みたくなるね」
塩気の効いた食べ物。
しかも、これほど旨いとなれば、酒を欲しがらない方がおかしい。
「でしょう?」
男は、待ってましたと言わんばかりに笑った。
「そう言うと思って、用意してありますよ」
そう言って、カウンターの下から、一本の瓶を取り出した。
淡い色の液体。
中で、小さな泡が立ち上っている。
「これは……」
私は、目を細める。
「見たことがあるかもしれませんね」
男は、そう前置きしてから言った。
「これはビールと言います。麦の発泡酒です」
――ああ。
確かに、見覚えがある。
幻想郷が、今ほど閉ざされる前。
外の世界から来た連中が、夜な夜な集まって、楽しそうに飲んでいた。
私は、まだ飲んだことはない。
だが、彼らがやたらとうまそうに飲んでいた光景だけは、妙に記憶に残っている。
男が、瓶をカウンターに置く。
泡の音が、かすかに聞こえた。
私は、フライドポテトと、その向こうの瓶を見比べながら、自然と口元を緩めていた。
私は、瓶を手に取った。
冷えている。
手のひらに伝わるひんやりとした感触が、さっきまで油と熱に包まれていた口の感覚を、少しずつ現実に引き戻していく。
「……じゃあ、いただくとするか」
男にそう言ってから、瓶の口を軽く傾けた。
――ごく。
一口、喉に流し込んだ瞬間、思わず目を見開く。
「……っ」
最初に来たのは、苦味だった。
だが、嫌な苦さじゃない。舌の奥をきゅっと掴むような、鋭いがどこか爽快な苦味だ。
次いで、泡が弾ける感覚。
舌の上で細かな泡が踊り、そのまま喉へと滑り落ちていく。
炭酸の刺激が、さっきまでフライドポテトの旨味で満たされていた口の中を、一気に洗い流していく。
「……はぁ」
自然と、息が漏れた。
冷たい。
とにかく、冷たい。
喉を通る瞬間、体の芯にまで冷気が染み込むような感覚がある。
だが、不思議と寒くはならない。むしろ、火照った内側が、ちょうどいい具合に落ち着いていく。
もう一口、飲む。
――ごく、ごく。
今度は、苦味の奥に、ほんのりとした甘みを感じた。
麦の味、というのだろうか。
穀物らしい、素朴で丸い甘さが、遅れて舌に残る。
「なるほどねぇ……」
私は、瓶を少し離して、しみじみと呟いた。
「こりゃあ……うまい酒だ」
味わうというよりも、安物の焼酎みたいにグビグビ飲むタイプの酒だ。
しかし、それは安っぽいというわけではなく、ほどよう喉越しと、飲みやすさがあるということだった。
何より――
「この酒もまた、フライドポテトと相性がいいね」
私は、苦笑しながら言った。
塩気と油で満たされた口に、この苦味と冷たさ。
さっきまで重く感じていたはずの油が、嘘のように引いていく。
一口ポテトを食べて、すぐにビールを流し込む。
すると、また次の一本が欲しくなる。
延々と、終わらない。
「これは……危ないねぇ」
私は、鬼としての長い経験から来る直感でそう思った。
気づいた時には、いくらでも飲んでしまう類の酒だ。
「外の世界の連中が、これを好んで飲んでた理由が分かったよ」
男は、私の様子を見て、満足そうに微笑んでいる。
私は、もう一度ビールを口に運びながら、皿の上のフライドポテトを見た。
黄金色の芋。
その隣に置かれた、泡立つ発泡酒。
人里の古びた店の中で、外の世界の味と酒を楽しんでいるという、この妙な状況。
だが、不思議と違和感はなかった。
「……悪くない」
私は、静かにそう呟いた。
「いや、かなりいい」
私の手は、一つ、また一つとフライドポテトへと伸びていった。
ーーー
気づけば、私はビールを飲みきり、フライドポテトをすべて平らげていた。
瓶の底を覗き込み、皿の上を見渡して、そこでようやく気づく。
あれほど山盛りだった黄金色の芋も、泡を立てていた麦の酒も、もうどこにも残っていない。
「……ふう」
小さく息を吐くと、腹の奥から、じんわりとした温かさが込み上げてきた。
満腹というより、満たされている、という感覚だ。
考えてみれば、こうして食事そのものに夢中になるのは、ずいぶん久しぶりかもしれない。
鬼という種族柄、食べること自体は日常の一部だ。
だが、ここまで一口一口を楽しみ、味わい、気づけば時間を忘れていたという経験は、そう多くない。
口の中には、まだフライドポテトの塩味が残っている。
それに混じって、ビールのほろ苦さが、じわりと舌の奥に居座っている。
嫌な後味ではない。
むしろ、その二つが混ざり合って、なんとも言えない心地よさを作り出していた。
体の芯が、ふわりと軽い。
胸の内側から、理由もなく笑みがこぼれそうになる。
――ああ、これは確かに、多幸感というやつだな。
私は、カウンターの端に置かれていた手拭いを取り、ゆっくりと手を拭いた。
指先に残っていた、かすかな油の感触が、布に吸い取られていく。
「ご馳走様」
自然と、そう口にしていた。
形式ばった挨拶というより、素直な気持ちだった。
腹が満ちただけではない。
心のどこかも、同時に満たされたような感覚があった。
男は、その言葉を聞いて、ふっと表情を緩めた。
派手に喜ぶでもなく、声を上げるでもない。
だが、その目には、はっきりと満足の色が浮かんでいる。
「うまかったよ」
私は、正面の男を見て、改めて言った。
「フライドポテトも、ビールも。どっちも文句なしだ。満足した」
少しだけ胸を張って、そう告げると、男は一瞬きょとんとした顔をしてから、すぐに笑顔になった。
それは、作り物じゃない。
自分の作ったものが、ちゃんと相手に届いたと分かった時の、正直な笑顔だ。
「ありがとうございます」
男は、軽く頭を下げた。
「そう言っていただけると、やってきた甲斐があります」
私は、くすりと笑った。
外の世界から来て、見知らぬ土地で店を開き、慣れない客を相手に料理を振る舞う。
その苦労は、私が想像するよりも、きっと大きい。
「それじゃあ……」
男は、手元の帳面をちらりと見てから言った。
「お会計は、120文(3500円くらい)になります」
「120文、か」
私は、軽く頷いた。
ビールを一升近く飲み、これだけ手間のかかった料理を食べたのだ。
高いとは思わない。むしろ、安いくらいだ。
私は、懐に手を入れ、紐でまとめてあった銭を取り出した。
その中から、数を確かめるようにして、120文を抜き取る。
チャリン、と乾いた音を立てて、カウンターの上に置いた。
「確かに」
男は、銭を手に取り、一つずつ数える。
その動作も、どこか落ち着いていて、無駄がない。
「……はい。確かに受け取りました」
そう言って、男は再び顔を上げた。
「またのご来店を、お待ちしています」
深すぎず、浅すぎず。
ちょうどいい具合の礼だった。
「ああ」
私は、藁傘を手に取りながら答える。
「また来るよ」
社交辞令ではない。
本当に、そう思った。
この店は、人里の片隅にひっそりとある。
だが、ここには、外の世界の味と、この地に馴染もうとする一人の人間の覚悟がある。
それは、鬼の私から見ても、なかなか悪くない。
私は、暖簾をくぐった。
外に出ると、夕方の人里の空気が、ひんやりと頬を撫でた。
遠くから、子供の笑い声が聞こえる。
どこかの家から、夕餉の支度の匂いが漂ってくる。
足取りは、自然と軽くなっていた。
腹は満ち、喉にはまだビールの余韻が残っている。
胸の奥には、説明のつかない満足感がある。
「……いい日だ」
誰に聞かせるでもなく、私はそう呟いた。
藁傘を被り直し、人里の道を歩き出す。
背後で、店の戸が静かに閉まる音がした。
私は振り返らず、そのまま、いつもの幻想郷の風景の中へと溶け込んでいった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。