私は、昨日ぶりに人里へと足を運んでいた。
昨日も歩いた道だというのに、今日の空気はどこか違って感じられる。
朝と昼の境目、里はほどよく賑わいながらも、どこか気の抜けた穏やかさに包まれていた。
昨日の店――あのフライドポテトとビールを出す、外の世界の匂いがする店。
そこへ向かっているのだろうかと思うかもしれないが、今日は違う。
ああいう楽しみというのは、時々味わうからこそいいのだ。
頻繁に通ってしまえば、感動は薄れ、ありがたみも失せる。
――慣れてしまっては、勿体ない。
だから今日は、あの店の前を通りかかっても、きっと暖簾をくぐらない。
そう心に決めて、私は人里の通りを歩いていた。
とはいえ、暇なものは暇だ。
やることがあるわけでもなく、目的があるわけでもない。
結局、今日も今日とて、人里をぶらついている。
理由はそれだけだ。
「さて……どうしようかね」
私は独りごちた。
昨日は食事をした。
今日は、何か別のことをしてみたい。
そう思いながら、昨日とは違う道へと足を向ける。
細い通りに入ると、景色はがらりと変わった。
人形劇の一座が、小さな舞台を組み立てている。
紙芝居屋が、子供たちを集めて声を張り上げている。
飴売り、玩具売り、手品師まがいの男。
それぞれが、それぞれの生き方で、人里の隅を賑わせていた。
だが――
「……うーん」
私は、どれもいまひとつ食指が動かなかった。
面白くないわけじゃない。
だが、今の気分とは、どこか噛み合わない。
人形劇は少し子供向けすぎる。
紙芝居は、話の先が見えてしまう。
手品は、種があると分かってしまえば、どうにも白ける。
「なんか、違うんだよなぁ……」
私は顎に手を当て、歩きながらぼんやりと考える。
何かこう、いい感じにお手軽で。
なおかつ、ある程度は面白くて。
それでいて、深く考えずに済むもの。
そんな都合のいい娯楽が、そう簡単に転がっているはずもないのだが。
私は、道の両脇をちらちらと見回しながら歩いた。
店先、屋台、人の流れ。
期待と落胆を、何度も繰り返す。
そのときだった。
「そこの方、少し宜しいですかな?」
背後から、落ち着いた男の声がかかった。
私は足を止め、振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
背丈は中くらい。
肩幅も広すぎず、狭すぎず。
顔つきは四角めで、鼻が高く、彫りが深い。
全体的におとなしい顔立ちだが、どこか胡散臭さが滲んでいる。
目が、妙に人を観察する目だ。
緑色の袈裟を身にまとい、下は質素な着物。
いかにも庶民、といった風体だ。
「なんだい?」
私は、警戒を隠さずに言った。
「わたしに用か?」
「ええ。いえね」
男は、にこりともせず、しかし敵意も見せずに続ける。
「さっきから、あなたが里を歩いている様子を拝見していたのですが……どうにも、楽しそうではない」
私は、片眉を上げた。
「人の顔を観察するとは、趣味が悪いね」
「これは失礼」
男は軽く頭を下げる。
「ですが、あちらを見ては首を振り、こちらを見ては溜息をつく。
そういった様子を何度も繰り返しておられましたので」
観察されていた、と気づき、少しだけ居心地が悪くなる。
「何か、悩み事でもあるのではないかと思いまして」
「悩み事、ねぇ……」
私は、少し考える素振りを見せた。
「あるにはあるが、だからどうしたっていうんだ?」
「いえいえ」
男は、両手を軽く振る。
「無理に聞き出そうというわけではありません。ただ、もしよろしければ、わたしが力になれるかもしれない、と思いまして」
「力?」
私が訝しげに見ると、男は、待ってましたと言わんばかりに言った。
「ええ。実はわたし、占いを生業にしておりまして」
「占い?」
思わず、鼻で笑ってしまう。
「占いっていったら、手相を見たり、干支を聞いたりして、未来を当てるっていう……あの、胡散臭い商売かい?」
男は、少しだけ苦笑した。
「おお、まあ……否定はしません。
しかし、ずいぶんと占いに当たりが強いですね」
「別に、過去に嫌な目にあったわけじゃあないんだが」
私は腕を組む。
「どうにも気に入らなくてな。
占いってのは、大抵、巫女のお告げや神の予言とは違って、霊力も神力もない人間がやってるイメージがある」
男は、黙って聞いている。
「だから、信じる気になれない。
胡散臭い、としか思えないんだ」
言い切ると、男は少し目を細めた。
「胡散臭い、というのは……よく言われます」
男は、穏やかな声で言った。
「ですが、占いとは必ずしも『こうなる』と断言するものではありません。
あくまで、信じるかどうかは、その人次第」
「信じなくてもいいって?」
私は首を傾げる。
「それじゃあ、占っている意味があるのかねぇ?」
「そこも含めて、占いなのです」
男は、静かに言った。
「占いは、予知や予言とは違い、具体的な未来を提示するものではありません。
あくまで、助言に留まる」
私は、黙って聞く。
「助言を信じるかどうかは、本人次第。
占いもまた、同じなのです」
「……ふーん」
私は、顎をさすった。
妙に理屈は通っている。
それが余計に、胡散臭さを増している気もするが。
「その助言とやらは、一体いくらかかるんだい?」
少しの興味が、勝ってしまった。
「わたしの場合は」
男は、指を一本立てた。
「一回、七十文になります」
「七十文……」
私は、周囲の里の喧騒を感じながら、考えた。
暇つぶしには、ちょうどいい。
胡散臭いのも、まあ一興だ。
「……一回、やってみようか」
そう言うと、男の目が、わずかに輝いた。
「ありがとうございます」
男は、深く頭を下げる。
「では、わたしの店までご案内しましょう」
男は踵を返し、道を歩き出した。
私は、その後ろについていく。
少し行った先、通りから外れた場所に、小さな店があった。
看板は控えめで、派手さはない。
だが、妙に目を引く、不思議な店だった。
男は、戸を開ける。
「どうぞ」
そう言って、店の中へと入っていった。
私は、一瞬だけ立ち止まり――
そして、その後に続いた。
最初に感じたのは、鉄の匂いだった。
戸をくぐった瞬間、鼻の奥にじん、と重たい感覚が走る。
血の匂いに似ているが、それよりも乾いていて、冷たい。
建物に打ち込まれている釘が、長い年月のあいだ錆びたまま放置されているのか。
あるいは、錆びた金具や古い道具がどこかに積まれているのか。
いずれにせよ、鼻につく、はっきりとした鉄の匂いだった。
人里の店にしては、妙に湿り気のある空気。
陽の光も弱く、障子越しに入る光は白く濁っている。
「さあさあ、こちらへ」
男の声に促され、私は靴を脱ぎ、座敷へと上がった。
畳は年季が入っているが、手入れはされているらしく、踏んだ感触はしっかりとしている。
男は、座敷の中央に置かれた座椅子を指し示した。
「どうぞ、楽な姿勢で」
「……ああ」
私は腰を下ろした。
座椅子は低く、少し背もたれが反っている。
体を預けると、自然と視線が男の胸元あたりに向く高さだ。
男は私が座ったのを確認すると、軽く一礼し、奥へと引っ込んでいった。
襖の向こうで、木箱を扱うような音がする。
コト、コト、と乾いた音。
私はその間、室内を見回した。
飾り気はほとんどない。
壁に掛けられた古い紙札が数枚。
意味の分からない図形や文字が描かれている。
そして、やはり匂いだ。
鉄の匂いが、薄く、しかし確かに、この部屋全体に染みついている。
やがて、男が戻ってきた。
両手に抱えているのは、黒塗りの箱。
年季は入っているが、傷は少なく、丁寧に扱われてきたことがわかる。
「お待たせしました」
男はそう言って、箱を座卓の上に置いた。
箱の蓋を開けると、中から現れたのは、色鮮やかな札だった。
「これは……花札、かい?」
思わず声に出る。
「ええ、そうです」
男は頷いた。
「賭博に使われる、あの花札でございます」
「占いに、花札?」
私は、少し意外そうに眉を上げた。
「はい。わたしの占いは、手相でも干支でも顔相でもありません。この花札を用いるんです」
男はそう言いながら、札を一枚ずつ、丁寧に並べていく。
その動きに、無駄がない。
まるで、長年繰り返してきた儀式のようだ。
そして気づく。
この花札――やけに綺麗だ。
角は揃い、色も鮮やか。
汚れも、折れもない。
この店の雰囲気には、正直言って似つかわしくない。
むしろ、どこか高級さすら感じさせる。
「ずいぶん、立派な花札だね」
「ありがとうございます」
男は微笑む。
「これは、長く使っておりますが、大切にしているものですから」
男は札をすべて揃えると、一度、手を止めた。
「さて」
そう前置きしてから、私を見る。
「早速、占いを始めたいところですが、その前に一つ、お聞きしたいことがございます」
「なんだい?」
「お客様が、占ってほしいことは何でしょう?」
男は、柔らかい声で言った。
「大まかで構いません。具体的でなくとも結構です」
私は、少し考えた。
占い、か。
未来を知りたいわけでも、運勢を気にしているわけでもない。
だが、せっかくここまで来たのだ。
「そうだねぇ……」
私は、麦傘の縁に手をやり、ツノが見えない位置を意識しながら腕を動かす。
「わたしは最近、どうにも暇を持て余していてね」
男は、静かに頷く。
「昔みたいに、活気のある揉め事だとか、戦だの、謀反だの……そういうものが、最近はめっきりなくなってしまった」
言葉にしながら、少しだけ懐かしさが滲む。
「だから、何かこう……わたしの気を紛らわせてくれるものを探しているんだ」
私は、正直に続けた。
「いってしまえば、暇つぶしがしたい。それだけだよ」
男は、少し目を丸くした。
「ほう……」
そして、苦笑する。
「揉め事、戦、謀反がなくて暇、ですか。
随分と活力がおありのようで」
「普通は、望まないかい?」
「ええ、まあ」
男は肩をすくめた。
「大抵の方は、平穏を望みます。
ですが、それが退屈になる方も、確かにおられますな」
男は、札を手に取り、混ぜ始めた。
「人それぞれ、です。
それが悪いとは、わたしは思いませんよ」
札が、シャラシャラと音を立てる。
「では」
男は札を混ぜ終えると、それらをすべて裏向きにし、扇状に並べた。
「この中から、どれか一枚を選んでください」
「それで?」
「あなたの現状が、どうなっているのかを見てみます」
私は、少しだけ迷ったが、深く考えるのも馬鹿らしい。
適当に、一枚。
指先で札をつまみ、引き寄せた。
「……出てきたのは」
男は札を表にする。
「桜の赤短ですね」
鮮やかな赤。
桜の絵柄が、目に入る。
「非常に、いいですよ」
「いい、ねぇ」
私は、半信半疑で言った。
男は、札を卓上に置き、解説を始める。
「今、引いていただいた札は、あなたの現状を示すものです」
男は、札を指で軽く叩く。
「この札の意味は、三つ。
純潔、気まぐれ、そして非常にいい*1」
「ずいぶん、抽象的だな」
「ええ」
男は頷いた。
「この場合、純潔は外します」
「なんで?」
「あなたからは、そういった印象を受けませんので」
私は、思わず鼻で笑った。
「率直だね」
「占い師ですから」
男は、淡々と続ける。
「残るは、気まぐれと非常にいい。
これが、あなたの現状を表しています」
「気まぐれ、ねぇ……」
私は、腕を組む。
「どういう意味だい?」
「気まぐれ、というのは、あなた自身です」
男は、私を真っ直ぐに見た。
「あれやこれやと決められず、良さそうなものが見つかっても、すぐに飽きて離れてしまう」
少し、胸がちくりとする。
「今のあなたは、何か暇を潰せるものを求めています。
ですが、それに人生を賭けるほどの情熱はない」
男は、淡々と語る。
「気軽に楽しめて、気軽に離れられる。
そういうものを、無意識に探している」
「……確かに、そうだな」
私は、苦笑した。
「別に、現状が変わるほどの何かを求めているわけじゃない」
「ええ」
男は頷く。
「そして、もう一つ。非常にいい」
男は、札を軽く撫でた。
「これは、解釈の幅が広い意味ですが……
現状を示す札に出ている、という点が重要です」
「どういうことだ?」
「つまり」
男は、少し声を落とす。
「あなたはすでに、問題を解決しかかっている」
私は、目を細めた。
「自覚は、ありませんか?」
その言葉で、脳裏に浮かんだのは――
昨日の、フライドポテト専門店。
油の匂い。
塩の味。
ビールの苦味。
あれは、確かに、悪くなかった。
「あなたが気づいていないだけで」
男は続ける。
「問題を解決する糸口は、すでに掴んでいるのです」
「……なるほどね」
私は、小さく息を吐いた。
「まとめますと」
男は、札を整えながら言った。
「あなたは今、様々な角度から暇つぶしの種を探しています」
札が、卓の上で揃えられる。
「重いものではなく、気軽に楽しめるもの。
そして、あなたにとって最適な何かの糸口は、すでに手中にある」
男は、そこで一度、言葉を切った。
静寂。
私は、頭の中で、今聞いたことを反芻する。
思い当たる節が、ありすぎる。
「……思ってたより、ちゃんと言ってくれるんだな」
私は、正直に言った。
「もっと、こう……曖昧な言い方をするもんだと思ってた」
男は、微かに口角を上げた。
「占い師が、自分の占いに疑いを持つことはありませんので」
そう言って、男は再び花札を手に取った。
そして、また私の前に、静かに札を並べ始めた。
「次に引いていただくのが――」
男は、並べられた花札の上に、ゆっくりと指を滑らせた。
「障害の札でございます」
その声は、先ほどまでよりもわずかに低く、落ち着いている。
座敷の空気が、ほんの少しだけ引き締まったように感じられた。
「あなたの目的が成就するまでに、どのような障害が待ち受けているのか。
あるいは、障害が存在するのかどうか――それを示す札でございます」
私は、軽く肩をすくめた。
「障害、ねぇ。
まあ、何事もそううまくはいかないもんだ」
男は、小さく頷き、再び札をすべて裏返す。
卓の上に扇状に広がる花札は、色を隠した途端、どこか無機質に見えた。
「どうぞ。先ほどと同じように、直感で一枚」
「直感ね」
私は、ほんの一瞬だけ指を止めたが、深く考えるのはやめた。
どうせ、考えたところで意味はないのだ。
指先で、ひとつ。
引き寄せる。
男は、それを受け取り、表にした。
「……出てきたのは」
男の視線が、札に落ちる。
「萩のカスでございますね」
地味な札だ。
赤もなく、派手さもない。
どこか、余白のような印象を受ける。
「意味合いとしては、非常にシンプルで」
男は、淡々と続ける。
「不要なもの*2、という意味でございます」
「不要、か」
私は、鼻で小さく息を吐いた。
「どういうことだい?」
「はい」
男は、萩の札を指で軽く叩いた。
「あなたは、この先、一見すると面白そうな物事に、数多く出会うでしょう」
男の言葉に、私は思わず口角を上げる。
「それは、まあ……そうだろうね」
「ですが」
男は、そこで一拍置いた。
「その中のほとんどは、あなたの望む条件には当てはまらない」
静かな断言。
「それらを、不要と見極め、手を引くことができなければ」
男は、私を見る。
「あなたは、無駄に時間を過ごすことになるかもしれません」
座敷の中に、言葉が落ちる。
「それが、あなたにとっての障害となります」
私は、少し考え込んだ。
確かに、心当たりがある。
いや、ありすぎる。
「一見面白そうなもの、か」
私は、ゆっくりと頷いた。
「確かに、わたしはそういうものに、真っ先に飛びつくタイプだ」
男は、何も言わず、聞いている。
「で、その中のほとんどが、わたしに合わないときた」
私は、苦笑した。
「……それは、確かに厄介だね」
「ええ」
男は静かに同意する。
「興味を持つこと自体は、決して悪いことではありません。
ですが、引き際を誤ると、ただの消耗になります」
「なるほどな」
私は、腕を組んだ。
「気に留めておこう。
不要なものを、ちゃんと不要だと切り捨てる、か」
「そうなさいますよう」
男は、丁寧に札を脇へと寄せた。
「さて」
そう言って、また別の札を手に取る。
「どんどん、いきましょうか」
男の指先が、再び花札を整える。
「次は――自覚の札でございます」
「自覚?」
「はい」
男は頷いた。
「あなたが、この問題について、どこまで自覚をしているかを示すものです」
「なるほどね」
私は、少しだけ背筋を伸ばした。
「自分のことを、どれだけ分かっているか、ってわけか」
「その通りです」
男は札を裏返し、また私の前に並べる。
「では、こちらも一枚」
私は、今度は迷わなかった。
さっと手を伸ばし、札を引く。
男がそれを受け取り、表にする。
「……出てきたのは」
男の表情が、わずかに和らぐ。
「菊に盃、ですね」
絵柄には、盃と菊。
どこか、雅な印象を受ける札だ。
「五節句のひとつ、重陽の節句をご存じでしょうか」
「九月九日、だったか?」
「ええ」
男は、頷いて説明を始める。
「この札は、その重陽の節句に行われる、菊酒の風習がモチーフになっています」
男の声は、どこか講釈めいているが、不思議と耳障りではない。
「蒸した菊の花びらを器に入れ、冷酒を注ぎ、一晩置く。
そうして香りを移した酒を、菊を鑑賞しながら飲む」
私は、ぼんやりとその光景を思い浮かべる。
「それを飲むと、長生きができると信じられていました」
「ほう」
「ですが」
男は、そこで少し間を置いた。
「今回、注目していただきたいのは、菊酒の“作り方”です」
男の指が、札の盃をなぞる。
「蒸した花びらを入れ、酒を注ぎ、一晩置く」
「……待ち、だね」
思わず、私が口にした。
男は、満足そうに頷いた。
「その通りです。
この札が示しているのは、“待つこと”」
男は、私を見据える。
「あなたは、おそらく、自分の満足いく現状を手に入れるには、かなりの時間がかかると考えているでしょう」
胸の奥を、指で突かれたような気分になる。
「先ほど、現状の札で“気まぐれ”が出ていましたね」
男は、淡々と続ける。
「それを踏まえると、あなたは、時間をかけて、様々なことに挑戦し、その中で気に入ったものを探すつもりなのでしょう」
「……ああ」
私は、小さく頷いた。
「それは、試みとしては、非常に素晴らしい」
男は、はっきりと言った。
「焦らず、手広くやる。
それは、成功の秘訣でもあります」
だが、と男は続ける。
「その分、不要なものが増えるという障害を抱えることになる」
私は、先ほどの萩の札を思い出す。
「これは、避けられないことです」
男は、静かに言った。
「ですから――」
少し、声を柔らかくする。
「時間がかかる、というその気持ちを持ち続けること。
失敗があっても、焦らず、ゆったりと挑戦し続けることを、お勧めします」
男は、そこで言葉を止めた。
私は、しばらく黙っていた。
占いだ。
ただの花札占いだ。
そう思っていたはずなのに。
「……はへぇ」
思わず、間の抜けた声が出た。
「確かに」
私は、頭を掻く。
「言ってることが、やけに当たってるのが、面白いな」
男は、微笑むだけだ。
「占い師は、当てにいきますからね」
「いやいや」
私は、苦笑した。
「それにしたって、だ」
私は、正直に言う。
「あんたの言った通り、わたしは時間をかけて、ゆっくりやるつもりだった」
暇つぶしだ。
大それた目的なんて、最初からない。
「……花札占い、か」
私は、卓の上の札を眺めた。
「案外、おもしろいかもしれないな」
そう呟いた自分の声は、思っていたよりも、少しだけ弾んでいた。
「では」
男は、花札を一度きれいに揃え、軽く息を整えた。
「最後に、未来の札を引いていただきましょう」
その言葉には、先ほどまでとは違う、わずかな重みがあった。
占いの締め。
これ以上は掘り下げない、という線引きの響き。
「未来、ね」
私は、曖昧に笑った。
未来なんてものは、鬼である私にとっては、ずいぶんと長く、ずいぶんと移ろいやすい。
だが、それでも“これから”と言われると、耳を傾けてしまうのは、性分なのだろう。
男は、札を裏返し、再び扇状に並べる。
「これが最後です。
同じように、直感で」
「了解」
私は、今度はほんの一瞬だけ、札の上に手をかざした。
何かを感じ取ろうとしたわけではない。
ただ、区切りとして、そうしたくなっただけだ。
そして、一枚。
引く。
男は、静かに札を受け取り、ゆっくりと表にした。
「……これは」
一瞬、男の視線が札の上で止まる。
「桐のカス、ですね」
桐。
地味な札だ。
だが、どこか特別な気配を感じさせる。
「こちらは、少し特殊な札でございます」
男は、そう前置きしてから、言葉を選ぶように語り始めた。
「普通、カス札というのは、多かれ少なかれ、よくない結果が出やすい。
あるいは、恩恵が少なく、地味で終わる札であることが多いのですが」
男は、桐の札を、卓の中央に置く。
「この桐のカスは、違います」
「ほう?」
「桐とは」
男は、静かに言った。
「鳳凰がとまる木」
その言葉に、私はわずかに眉を上げた。
「他のカス札とは、一線を画す存在です」
男は続ける。
「意味としては、宿木。
そして、締めくくり」
「……悪くはなさそうだね」
正直な感想だった。
宿木。
締めくくり。
少なくとも、破滅や失敗といった言葉ではない。
男は、小さく頷いた。
「ええ。決して、悪い札ではありません」
男は、桐の札から視線を上げ、私を見る。
「宿木、という意味から読み解くなら」
男の声は、穏やかだ。
「あなたが、しっくりくるものを見つける、という未来が考えられます」
「ほう」
「ですが」
男は、そこで言葉を切った。
「その宿木が“桐の木”である、という点が重要です」
私は、黙って聞いている。
「つまり」
男は、少し言葉を慎重に選ぶ。
「あなたを、鳳凰として見る解釈もできる」
「鳳凰、か」
私は、鼻で小さく笑った。
「ずいぶんと大層だね」
「いえ」
男は、否定も肯定もしない。
「鳳凰は、燃え盛る火の鳥」
男の声が、少し低くなる。
「たとえ、自ら宿木を選び、とまったとしても」
男は、桐の札を指でなぞる。
「やがて、その木は、鳳凰の炎によって燃えてしまうでしょう」
座敷の空気が、わずかに張り詰める。
「つまり」
男は続ける。
「あなたは、自分で納得のいく暇つぶしを見つけられるかもしれません」
私の脳裏に、いくつかの光景が浮かぶ。
人里。
店。
酒。
占い。
「ですが」
男は、淡々と言った。
「それは、長くは続かない可能性が高い」
「……なるほど」
私は、ゆっくりと頷いた。
「それが、あなたが鳳凰であるからなのか」
男は言葉を重ねる。
「それとも、別の原因があるのかは、分かりません」
男は、ほんの少しだけ、視線を和らげた。
「鳳凰とは、定住せず、空を舞い、自らの炎を掲げる存在」
その言葉は、妙に耳に残った。
「あなたの性根が、そもそも定住に向かない可能性もありますね」
私は、思わず苦笑した。
「言われてみれば、否定できない」
男は、桐の札をもう一度、軽く叩く。
「そして、もうひとつの意味――締めくくり」
男の声は、再び落ち着きを取り戻す。
「あなたは、その桐の木を最後に、暇がなくなる可能性があります」
「暇が、なくなる?」
「ええ」
男は頷く。
「あなたの焦がれている、謀反や戦が起きるのかもしれません」
私は、少しだけ口角を上げた。
「……それは、少し楽しそうだ」
「あるいは」
男は、淡々と続ける。
「桐の木が燃えたことで、あなた自身の気質が変わるのかもしれません」
「変わる、か」
「どちらにせよ」
男は、はっきりと言った。
「あなたの“暇”は、なくなるでしょう」
その言葉は、不思議と重くはなかった。
むしろ、静かな確信のように感じられた。
男は、そこまで話すと、ゆっくりと背筋を伸ばし、私の方を向いた。
「以上で」
男は、深く一礼する。
「占いは、これにて終わりです」
座敷に、静けさが戻る。
「今回、わたしが語ったのは、あくまで占い。
助言でございます」
男の声は、柔らかい。
「確実に、その道を辿るとも言いません。
あなたの選択が、何かを変えることもあるでしょう」
男は、穏やかな目で、私を見る。
「ですから」
少し、微笑む。
「頭の片隅にでも置いておいて、時折、思い出す程度で構いません」
そう語る男の目つきは、先ほどまでとは違っていた。
どこか、柔らかく。
やけに、緩やかだった。
私は、卓の上に並ぶ花札を眺めながら、小さく息を吐いた。
未来、か。
占いにしては、ずいぶんと、悪くない締めくくりだ。
そう思った自分に、少しだけ驚きながら、私は何も言わずに、そこに座っていた。
わたしは、少し――いや、正直に言えば、かなり面食らっていた。
胸の奥に、得体の知れないものが残っている。
それは不安とも、恐怖とも違う。
かといって、はっきりとした喜びでもなかった。
ただ、今まで感じたことのない感覚だった。
目の前に座る男を、もう一度、まじまじと見る。
……大きい。
いや、体格の話ではない。
背丈も、肩幅も、ごく普通だ。
霊力の気配も薄いし、神力の揺らぎも感じない。
妖怪としての本能で測れば、脅威と判断する要素はほとんどない。
それなのに。
今のわたしには、男の存在そのものが、妙に大きく見えた。
輪郭がはっきりしているわけではない。
むしろ、掴みどころがない。
なのに、確かにそこに「重さ」がある。
わたしの行く末。
わたしの心象。
わたし自身ですら、明確に言葉にできずにいた部分に、踏み込んできた存在。
――未だかつて、いなかった。
わたしを、わたし以上に理解しているのではないか。
そんな錯覚すら覚える。
理屈では、理解できる。
これは占いだ。
誰にでも当てはまる言葉を、それらしく並べただけのものかもしれない。
心理誘導の類だと切り捨てることもできる。
目の前の男は、霊力も神力も、単純な腕力でさえ、ろくに持ち合わせていなさそうだ。
力の世界で生きてきたわたしからすれば、取るに足らない存在のはずだった。
その男の助言。
胡散臭い花札占い。
――そのはずなのに。
どうしてか、わたしの胸の奥に、深く、深く響いている。
言葉の一つ一つが、表面をなぞるのではなく、芯を叩いてくる。
まるで、ずっと蓋をしていた箱を、勝手に開けられたような気分だ。
余命を宣告されたときのような、どうしようもない絶望ではない。
かといって、未来を約束されたような、分かりやすい喜びでもない。
ただ。
何か、とても素晴らしいものの一端を、ほんの一瞬だけ覗き見た。
そんな感覚だった。
わたしは、無意識のうちに、深く息を吸い込んでいた。
胸いっぱいに空気が入る。
それでも、足りない気がして、もう一度。
深呼吸。
心臓が、やけに早鐘を打っている。
どくん。
どくん。
自分の鼓動が、こんなにはっきりと聞こえるのは、いつ以来だろう。
――なぜ、こんなにも動揺している?
答えは、薄々分かっていた。
占い、というものに、ここまで踏み込まれたのが初めてだったからだ。
「占いなんて、所詮は遊びだろ」
そう思っていた。
最初は、完全に。
胡散臭いと、はっきり口にしたのは、強がりでも何でもない。
本心だった。
それなのに。
途中から、わたしは疑うことをやめていた。
男の言葉を、一つも取りこぼすまいと、耳を傾けていた。
まるで、自分の人生を、丁寧に分解され、説明されているような感覚。
「ああ、そうだ」
「確かに、そうかもしれない」
心のどこかで、何度も頷いていた。
それが悔しいのか。
それとも、嬉しいのか。
自分でも、うまく整理できない。
わたしは、ゆっくりと立ち上がった。
畳が、わずかに軋む。
足の裏に伝わる感触が、妙に現実的だ。
数歩進み、男の横に立つ。
男は、こちらを見上げることもなく、静かに座ったままだった。
まるで、こうなることが分かっていたかのように。
わたしは、一瞬だけ、どう声をかけるか迷った。
そして。
男の背中を、軽く――しかし、はっきりとした音が鳴る程度に――パン、と叩いた。
「いい経験ができたよ」
短く、率直に。
それ以上、言葉を飾る気にはなれなかった。
男は、少し驚いたように肩を揺らし、それから、ゆっくりと振り返った。
「それは、よかったです」
口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「では、満足していただけたようですので、お会計をいたします」
事務的な言葉。
だが、その声音には、どこか柔らかさが残っていた。
男は、慣れた動作で手を差し出す。
わたしは、懐に手を入れ、銭を取り出した。
数える。
一枚、二枚――。
そして、差し出された手のひらに、140文をのせた。
男が、一瞬だけ目を瞬かせる。
「……お客さん、多いですよ?」
「多くのせたんだよ」
わたしは、肩をすくめた。
「あんたの占いに対する、敬意だと思ってくれ」
男の視線が、静かにわたしに向く。
「それに」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「また、新しい世界を見た気がした」
占い一つで、世界が変わるわけじゃない。
分かっている。
でも、見え方が変わることは、確かにある。
「そのことへの、感謝だ」
男は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと、銭を受け取る。
「……ありがとうございます」
その声は、占い師としてのものではなく、ただの一人の男の声だった。
わたしは、それを確認すると、軽く腕を振った。
「じゃあな」
それだけ言って、店の戸に手をかける。
戸を開けると、夜の空気が流れ込んできた。
ひんやりとしていて、少し湿り気がある。
一歩、外に出る。
戸を閉める音が、背後で静かに響く。
歩き出すと、足取りは自然と軽くなっていた。
空を見上げる。
――高い。
いつもと変わらない夜空のはずなのに、やけに高く感じる。
それとも。
自分が、少し小さくなったのだろうか。
そんな錯覚を覚えながら、わたしは、夜の道を歩いていった。
本作で用いた占いは、わたし自身が花札をルーレットで引き、その結果をそのまま反映させたものです。いわば完全に運任せ。作為も必然もなく、巡ってきた札との一期一会で物語を書き進めました。
もっとも、花札占いというものは本来もう少し複雑で、調べれば調べるほど奥深く、なかなか一筋縄ではいきません。そこで今回は、タロット占いに近い感覚で札の意味を調べつつ、自分なりの解釈を重ねながら物語に落とし込んでみました。
占いとして、そして物語として、少しでも「なるほど」と思っていただける説得力が生まれていたなら幸いです。
もし本作を楽しんでいただけましたら、感想やお気に入りなどを残していただけると、作者はたいへん喜びます。是非ともよこしてやってください。
ここまで呼んでくださり大変ありがとうございます。ぜひ次話も快くお待ちください。