なんだか、ここ最近は妙に充実している。
朝でも夜でもない、時間の境目のような感覚の中で、ふとそう思った。
理由ははっきりしている。
刺激だ。
新しい文化。
新しい価値観。
新しい体験。
それらが、じわじわと、しかし確実に、わたしの日常へ染み込んできている。
例えば、街角の見世物。
人間が考え出した、奇妙な芝居や音楽。
あるいは、あの小さな占い屋で体験した、ほんのひと時の対話。
特に――あの占いは、良かった。
思い出すだけで、口元が僅かに緩む。
つい、その気になって、のめり込んでしまった。
今にして思えば、少し情けない気もするが、それでも否定する気にはなれない。
あの男の喋り方のせいなのか。
それとも、わたし自身が、そもそも占いと相性の良い性格だったのか。
どちらなのかは分からない。
だが、はっきりしていることが一つある。
――あの時間は、強く記憶に残っている。
それは、良いことだ。
わたしは別に、単なる暇つぶしを求めているわけではない。
退屈を紛らわすだけなら、もっと粗雑な方法はいくらでもある。
適当な演劇を眺めるでもいい。
人里で酒を飲んで、騒ぐ人間を観察するだけでも、それなりに時間は潰れる。
それでも、わたしは“刺激”や“充実”を求めてしまう。
なぜか。
理由は、単純で、そして救いがない。
――わたしが、妖怪であるからだ。
妖怪は、生きているように見えて、その実、生きてなどいない。
血が流れ、心臓が動き、呼吸をする。
外見だけを見れば、人間と大差はないものも多い。
だが、根本が違う。
妖怪とは、概念の具現化だ。
恐れ。
怒り。
不可思議。
理解不能なものへのざわめき。
そういった、人間の感情や認識が形を持った存在。
人間や動物のような、有機生命とは、最初から別の系譜にある。
だから、わたしたちは“自己”が曖昧だ。
個としての輪郭を保っているように見えても、油断すれば、すぐに溶ける。
例え、どれだけ個性を持とうと、
どれだけ名前や姿を得ようと、
放っておけば、混ざり合い、薄まり、やがては――個ではなくなる。
早い話が、離散して消えてしまうのだ。
霧のように。
朝露のように。
では、どうするか。
答えは、驚くほど簡単だ。
――自分という概念を、強くする。
言い換えれば、理性ある生物に、自分の存在を“認識”させ続ける。
さらに言えば、人間だ。
人間に、自分の存在を知らしめる。
恐れさせる。
あるいは、崇めさせる。
それだけで、妖怪は、確固たる形を保てる。
数百年前までは、それで良かった。
夜道に現れて、人を脅かす。
山に迷い込んだ者を、さらう。
あるいは、はっきりと姿を現し、喰らう。
日本中の妖怪が、そうやって名を轟かせてきた。
人間は、妖怪を恐れた。
恐れ、噂し、語り継いだ。
それだけで、わたしたちは“在り続ける”ことができた。
だが。
時代は、変わった。
江戸の終わり頃から、流れが一気に加速する。
人間の技術が、異様な速度で進化し始めたのだ。
エンジン。
電気。
蒸気。
計算機。
わけの分からないものが、次々と世に現れた。
夜の暗闇は、もはや頼りない松明や行灯ではなく、
ギラギラと輝く電球によって、昼のように照らされるようになった。
闇は、恐怖の象徴ではなくなった。
街は膨張し、建物は空へと伸び、
人間は、森の奥へ入らずとも生きていけるようになった。
いつしか、人間は森を“恐れる場所”ではなく、“資源”として見るようになった。
船は、より硬く、より大きくなった。
波や嵐は、克服すべき障害になった。
海は、恐怖の象徴ではなくなった。
そして。
科学。
あらゆる現象に、名前がつけられ、数式が与えられ、説明がなされた。
不可思議は、不可思議であることを許されなくなった。
「わからないから怖い」
その、人間の根源的な恐怖は、少しずつ、確実に削り取られていった。
結果として。
――人間は、不可思議に対する恐怖を、忘れた。
恐れられなくなった妖怪は、存在が薄れる。
わたしたちは、気づかぬうちに、静かに追い詰められていった。
では、妖怪は滅びゆくのみなのか。
かつて、わたしもそう考えたことがある。
夜の縁側に腰を下ろし、虫の音を聞きながら、ぼんやりと月を見上げていたときだった。
白く、丸い月は、昔と何一つ変わらない。
それなのに、その月を見上げる者たちは、確実に変わってしまった。
――ならば、我々は。
その問いに対する答えは、意外なほど明確だった。
滅びるのではない。
適応するのだ。
山奥の、外界から隔絶された地。
人間と妖怪が共に暮らす、奇妙な土地。
幻想郷。
かつてその地を形作ったのは、当時の日本にその名を轟かせていた大妖怪、
八雲紫。
そして、彼女と手を取り合った、人間側の代表者――
博麗の巫女。
彼女たちは、外の世界と幻想郷を切り離した。
常識と非常識を隔てる、巨大な境界。
世界そのものを二つに分かつ、結界。
博麗大結界。
それは、外の世界から追い出された我々のための檻であり、
同時に、最後の楽園でもあった。
結界が張られてからというもの、幻想郷は変わった。
否定された存在。
忘れ去られた概念。
居場所を失った怪異。
そういったものたちが、川の流れに引き寄せられる落ち葉のように、ここへと集まってきた。
外の世界では「存在しない」とされたものが、
幻想郷では「確かに在る」と認められる。
それは、妖怪にとって救いであり、同時に、終わりの始まりでもあった。
では、外の世界にはもう妖怪はいないのか。
それは、違う。
人間という生き物は、実に都合がいい。
理解できないものが減れば減るほど、
逆に、想像力を暴走させる。
わからないものがなければ、自分たちで作り出すのだ。
怪談。
都市伝説。
噂話。
夜の学校。
使われなくなったトンネル。
理由もなく曰く付きとされた廃屋。
それらは、最初はただの話に過ぎない。
だが、人から人へと語られ、尾ひれが付き、意味を持つ。
やがて、それは「概念」になる。
恐れられ、語られ、共有されることで、
怪異は完成する。
外の世界では今も、新しく生まれた妖怪たちが闊歩している。
人間が、自らの手で生み出した、現代型の怪物たちだ。
一方で。
幻想郷の妖怪は、同じことができない。
幻想郷の中で、人間を襲う――
それは、できない。
理由は単純だ。
幻想郷に存在する人間は、たった一つの人里分しかいない。
その数は、有限で、脆い。
もし、人里の人間を減らせばどうなるか。
妖怪は、人間の認識によって存在を保つ。
ならば、人間が減ることは、そのまま我々の死を意味する。
だから、人里の人間を襲うことは、タブーだ。
誰が決めたわけでもない。
だが、暗黙の了解として、幻想郷全体に浸透している。
では、何もしなければいいのか。
それも違う。
何もせず、何も語られず、何も刺激を得なければ、
妖怪は衰弱し、いずれは消える。
だから、我々は“脅かす”。
襲わない。
食わない。
だが、姿を見せる。
噂を流す。
存在を匂わせる。
人里の子どもたちが、夜道で早足になる程度に。
大人たちが、酒の席で眉をひそめる程度に。
それだけで、どうにか均衡は保たれる。
だが、それは延命に過ぎない。
長くは、もたない。
だからこそ。
幻想郷の妖怪は、自分自身を豊かにすることを選んだ。
我々は、肉体を持つ存在ではない。
本質は、精神体だ。
ならば、心を満たすしかない。
楽しむ。
学ぶ。
刺激を得る。
宴を開き、演劇を見て、音楽を奏で、占いに耳を傾ける。
それらは、ただの娯楽ではない。
生存戦略だ。
楽しむことは、生きること。
心を揺らすことは、存在を保つこと。
それが理解できなかった妖怪たちは、
この数百年で、静かに消えていった。
「妖怪の矜持がどうの」
「昔はこうだった」
そんなことを叫びながら、力を失っていった。
哀れなものだ。
だが、その犠牲の上に、幻想郷は成り立っている。
皮肉なことに、幻想郷は今、平和そのものだ。
殺し合いはない。
大規模な争いもない。
わたしとしては、昔の殺伐とした雰囲気も、決して嫌いではない。
血の匂いと恐怖が混じる、あの張り詰めた空気。
あれはあれで、悪くなかった。
だが。
今の、この穏やかな幻想郷も、これはこれで気に入っている。
月は静かに輝き、
人里には灯りがともり、
妖怪たちは、それぞれの形で“生き続けている”。
それで、いいのだ。
少なくとも、今は。
ーーーーー
しんみりしてしまった。
まったく、どうしてこうも簡単に昔を思い返してしまうのだろう。
少し考え事を始めただけで、気づけば記憶の底を指でなぞるように過去を掘り返している。
私は、縁側に腰を下ろしたまま、片膝を抱えて小さく息を吐いた。
夕暮れ時の風は、昼間の熱をすっかり失っていて、どこか湿り気を帯びている。
草の匂いと、土の匂い。それから、遠くで焚かれている薪の煙。
――ああ、まただ。
私は苦笑する。
なんやかんや言っても、私は昔が恋しいのだ。
だが、それは決して「人間を襲えた時代が懐かしい」という単純な話ではない。
血の味が忘れられないとか、恐怖に震える顔を見たいとか、そういう下世話な感傷ではない。
私が恋しいのは、人間そのものだった。
昔の人間は、実に活気に満ちていた。
集まっては声を荒げ、
拳を振り上げ、
目を血走らせて、未来を語っていた。
「鬼を討伐してやろう」
「隣国を攻め落としてやろう」
「気に入らぬ朝廷など、叩き潰してやる」
そんな言葉が、日常の中に溢れていた。
人間は常に何かと戦っていた。
外敵と。
隣人と。
権力と。
そして、自分自身と。
その姿は、滑稽で、愚かで、しかしどうしようもなく眩しかった。
今はどうだろう。
私は、外の世界を直接には知らない。
幻想郷の外に出ることは、基本的に許されていないからだ。
だが、外の世界から流れ着いた者たち――
忘れ去られた怪異や、境界を越えてきた人間、あるいはその成れの果てから、話を聞く機会は何度かあった。
断片的ではあるが、概要くらいは知っている。
その中で、最も衝撃的だった話。
日本は、戦争に負けたのだという。
その話を聞いたとき、私は思わず鼻で笑ってしまった。
「負けた? なら、また力を蓄えて仕返しすればいいじゃないか」
そう言った私に、外から来た男は、困ったような顔で首を横に振った。
「それが……もう、そういう話じゃないんです」
「どういうことだ?」
「日本は、軍隊を持つことをやめたんです」
その瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。
私は、言葉を失った。
耳を疑った。
いや、耳の問題ではない。
頭が、理解を拒否したのだ。
日本が、軍隊を持たない?
冗談にしては、質が悪すぎる。
私の中での日本という国は、戦争の国だった。
戦いによって形を変え、
戦いによって歴史を刻んできた国。
千年以上の歴史の中で、日本が完全に平和だった期間など、数えるほどしかない。
一回か、二回か。
それくらいだ。
それ以外は、すべて戦乱だ。
特に安土桃山の頃など、凄まじかった。
何千という武将が、
「我こそが天下一だ」と名乗りを上げ、
軍を率い、
城を築き、
国を焼いた。
空気は常に張り詰め、
どこかで必ず血が流れ、
誰かが笑い、
誰かが死んでいた。
あれは、実に人間らしい時代だった。
そして、第二次世界大戦とやらが起きていた頃。
私は、衝動を抑えきれず、外の世界へ出向いた。
夜空を裂く、爆音。
火の雨。
街を飲み込む、赤い光。
空襲を、ただ黙って眺めていた。
――もちろん、すぐに引き戻された。
境界の向こうから、鋭い視線と共に手を引かれ、
「駄目でしょう、勝手に出てきては」と、呆れた声が降ってきた。
八雲紫。
あのときの彼女の顔を、私は今でも覚えている。
だが、それでも。
あの光景は、忘れられない。
轟音を立てて、猛スピードで空を駆ける戦闘機。
大地を唸らせながら進む、重戦車。
寸分の乱れもなく行進する、幾万もの兵士。
人間が、妖怪の領分だと思っていたものを、技術と意志で踏み越えていく姿。
あれは、衝撃だった。
正直に言えば――惚れ惚れした。
「人間に、妖怪が敵うはずがない」
そんな固定概念を、真正面から叩き壊された。
私は、その場に混ざりたいとさえ思った。
人間に、憧れを抱いた。
それほどまでに、日本という国は、狂気じみた熱を持っていた。
だからこそ。
そんな日本が、軍隊を持たなくなったなど、信じられようか。
しかし――現実は、私の感傷など気にも留めぬほど非情だった。
日本は、確かに軍隊を持たぬ国になっていた。
それは比喩でも、誇張でもない。
外の世界から流れ着いた者たちの話は皆、同じ結論を指し示していた。
軍を解き、武を捨て、戦わぬことを国の在り方とした――
そんな国が、今の日本なのだという。
理由は単純だ、と彼らは言った。
天皇とかいう存在が、それを宣言したからだ、と。
天皇。
日本という国が生まれた当初から、連綿と続く存在。
神の子孫を名乗る、象徴。
私は、その名を思い浮かべながら、鼻で小さく笑った。
神の子孫、とはよく言ったものだ。
確か――
記憶を辿るまでもない。
月の都に住まう 綿月依姫。
あれの血を引く者が、初代の天皇だったはずだ。
つまり、正確に言えば天皇とは、
宇宙人と人間の混血である。
まったく、笑えない冗談だ。
月の都 だの、
かぐや姫だの、
織姫と彦星だの。
どうして人間は、こうも宇宙人をありがたがるのか。
わからないものを崇め奉り、
勝手に神格化して、
安心したいだけなのだろう。
まったくもって、けしからん性質だ。
だが――それも、仕方のないことなのかもしれない。
私が深く息を吐いたのは、
次に聞かされた話を思い出したからだ。
日本が戦争に負けた理由。
それは、たった二発の爆弾だったという。
核。
そう、呼ばれていた。
外の世界から来たそいつは、学者だと名乗っていた。
眼鏡を押し上げながら、身振り手振りを交えて、
その恐るべき兵器について語ってくれた。
正直、細かい理屈はほとんど覚えていない。
エネルギーがどうだとか、
連鎖反応がどうだとか、
物質がどう変わるとか。
そんな話よりも、
一言だけ、妙に印象に残った説明があった。
「核というのはですね、太陽と同じものを、一瞬だけ作り出すんです」
太陽。
その言葉を聞いた瞬間、
私の背筋に、ぞわりとしたものが走った。
天照大神。
日本の神の中の神。
最高神。
光そのもの。
それを――
人間が、擬似的に生み出す。
それが可能になってしまったのだとしたら。
私は、思わず苦笑した。
ああ、なるほど。
それなら、戦争どころの話ではない。
人間が扱うには、あまりにも大きすぎる力。
個の勇や、
戦略や、
統率や、
そういったものが、すべて意味を失う。
ボタンひとつで、国が消える。
そんな世界で、
まともな戦争など、できるはずがない。
私は、縁側に置いていた徳利を手に取り、
盃に酒を注いだ。
とぽ、と、
静かな音が夜に溶ける。
人間は、今後――
少なくとも当分の間、
もう二度と、大戦など起こさないだろう。
起こせない、と言った方が正しいか。
私は、縁側にそのまま寝そべり、
夜空を見上げた。
月は、変わらずそこにあった。
静かで、冷たく、
すべてを見下ろす光。
外の世界は、どうやら相当に愉快な場所らしい。
紙芝居は、
「アニメーション」とやらに進化し。
双六や賭場遊びは、
「ビデオゲーム」とやらになった。
指先ひとつで、
剣を振るい、
魔法を放ち、
世界を救うことができるのだという。
娯楽は溢れ、
退屈する暇もない。
平和で、
楽しく、
充実した世界。
私は、盃を傾けながら、
小さく鼻を鳴らした。
――甘ったるい。
胸焼けを起こしそうなほど、
甘い。
無垢で、
綺麗で、
整えられすぎた世界。
だが、私は知っている。
光あるところに、影があることを。
平和の裏には、必ず犠牲がある。
表に出ない痛みがある。
踏み潰された何かが、必ずある。
そういうものは、
長くは続かない。
持って、せいぜい二百年。
それ以上続いてしまっては、
――困るのだ。
妖怪や神の住まうこの地よりも、
外の世界の方が楽しいなどと。
私が一時、抱いていた妄想は、
もうすっかり、跡形もなく砕け散っていた。
私は、ため息をひとつ吐き、
盃の酒を一気に煽った。
小さな私の体を、
酒が熱を伴って伝い、
静かに、腹の底へと落ちていく。
夜は、短い。
その事実だけが、
やけに確かなものとして、
私の中に残っていた。
酒を飲み、遊び呆け、人外と飯を食っていつの間にやら寿命を迎える。
幻想である。