私は、特に何かをするでもなく森を歩いていた。
昨夜まで降り続いた雨の名残が、地面にぬめりを残している。踏みしめるたびに、湿った土がわずかに沈み、靴裏にまとわりつく。腐葉土の匂いが濃い。湿気を含んだ空気は重く、だがどこか甘い。
葉の先から雫が落ちる音が、ぽつ、ぽつ、と静かに響く。
連日の雨のおかげで、木々は異様なほど生気に満ちていた。幹は水を吸って艶を帯び、若葉は重たげに揺れている。根は地中深くへと食い込み、我こそはと栄養を奪い合っているのだろう。
活気――というのか。
あるいは、露に似た、生命の膨張。
そんなものを肌で感じながら、私はあてもなく森を進む。
日課というわけではない。
何か目的があるわけでもない。
ただ、今日はこうして歩いていたかった。
理由はない。鬼にだって、理由のない衝動くらいある。
半刻ほど彷徨った頃だろうか。
景色は代わり映えしない。木、草、苔、岩。
だがなぜか、私は何かに近づいているような錯覚を覚えた。
鬼の勘か。
それとも樹海特有の錯覚か。
判断はつかない。
しかし次の瞬間、その錯覚は確信へと変わった。
前方に――気配。
妖怪ではない。
それほど強くない。むしろ、ひどく弱い。
揺らぐような、生身の気配。
私は足音を殺し、その気配へ向かった。
木々がわずかに開けた場所。
雨でぬかるんだ地面の中央に、それはあった。
人間だ。
色鮮やかな軽服。
幻想郷ではあまり見ない質の布。染色も妙に鮮明だ。
肌は不自然なほど綺麗で、日焼けの跡もなく、傷もない。肉はつきすぎず、かといってやせ細ってもいない。飢えとも無縁そうだ。
よほど整った環境で育ったのだろう。
その人間は、地面に横たわり、まるで自室の布団で眠るような顔をしていた。
鬼の私が、ここまで近づいているというのに。
逃げる気配も、目覚める気配もない。
「全くこれだから……最近の人間は危機感が足りん」
小さく呟きながら、私はその肩を軽く揺すった。
「……ん……あと五分だけ……」
寝返りを打ち、そう呟く。
私は思わず眉をひそめた。
呆れたやつだ。
よほどの馬鹿か、
よほどの強者か。
それとも、人間ではないのか。
だが、五分待つ義理はない。
私は近くの水たまりにしゃがみ、手で水をすくう。冷たい泥水だ。それを容赦なく、顔面へと浴びせた。
「うわぁ⁉︎ なになになに⁉︎」
跳ね起きる。
目を見開き、両手をばたつかせ、ぬかるみに尻をついた。
実に間抜けだ。
「ちょ……は⁉︎ 誰ですか⁉︎ なんでっ……は⁉︎」
視線が定まらない。状況が飲み込めていない顔。
「え……どこですかここ……?」
ぽかん、と呆けた声で言う。
「博麗神社近くの森だ。お前こんなところで何してるんだ?」
私は腕を組み、やや呆れ気味に言った。
「博麗……どこです?」
「あ?」
「博麗神社って……聞いたことないです」
私は思わず一歩近づく。
「知らないなんてことあるか? 普通」
「えっと……じゃあ、ここ何県ですか?」
「何県?」
「四十七都道府県の……」
「聞いたことのない地名形式だな……」
妙だ。
というか――こいつ、私の角に一切触れない。
視線が一度も向かない。
やはり、人間ではないのか?
「四十七都道府県を知らない……? え……ここってもしかして日本じゃないんですか?」
「日本ではあると思うがな……ん? お前もしかして人里の人間じゃないのか?」
「私の家は東京ですから、多分……人里なんじゃないですか?」
「……そういうことか。今の元号を言ってみろ」
「今ですか? 令和ですけど……」
「令和?」
私は小さく唸る。
「また元号が変わってるのか……前に来たやつは大正十五年って言ってたがな」
「……話についていけないんですが……ここって結局どこなんです?」
私は肩をすくめた。
「ああ、すまんすまん。ここはな、まず大前提としてお前の知る世界ではない」
「……?」
「場所的には日本の山奥なんだろうが……ここは幻想郷っていう。まあ、御伽の国だ」
「おとぎの……くに?」
「外の世界で存在を無かったことにされた奴らが流れ着く場所だ。妖怪、天狗、神。なんだっている」
「……現実の話ですよね?」
「ああ」
視線が、ゆっくりと私の頭へ向いた。
「その……角も?」
「本物だ」
沈黙。
湿った森の匂いと、遠くで鳴く鳥の声だけが流れる。
「……信じられないですけど……状況が状況ですし……ひとまず信じるとして……なんで私がここに?」
「たぶん運が悪かったんだろうな」
「運が悪い?」
「神隠しだ。幻想郷だって完璧じゃない。人間を食わなきゃ生きていけないやつもいる。そういう奴のために、時たま人間を連れてくる」
「人間を……食う⁉︎」
顔が青ざめる。
「聞いたことないか? 人喰い妖怪の逸話」
「……じゃあ私は食われるんですか?」
私は空を仰いだ。
「どうだろうな。生きて人里か博麗神社まで辿り着ければ、なんとかなる」
「それはどこにありますか」
「なんで私が教えないといけない?」
必死な目が向く。
「だって……あなたは今、私を食べてない。人間を食べない妖怪なんじゃ……」
私は一歩踏み出した。
「私は鬼だ。人を食うぞ? 今食ってないのは、腹が減ってないからだ」
喉がごくりと鳴る。
「……じゃあ腹が減ったら?」
「そうなるな」
「……どうやったら助けてくれますか?」
私は笑った。
「鬼に助けを求めるのか?」
「他に頼れる人がいないんです!」
必死だ。
目に涙すら浮かんでいる。
私は腕を組み、少し考えるふりをした。
「ふーん……別に私は何も求めてはいないが……」
ふと、思いつく。
「……いや、せっかくだ。外の世界のことでも聞くか」
「それを話せば……助けてくれるんですね?」
私はにやりと笑った。
「まあ、いいぞ。機嫌も悪くないしな」
森の湿気の中、
人間は震えながら息を整え、
私はその前にしゃがみ込んだ。
話を聞く準備はできている。
「そうだな……まず一番気になってることだ」
私は膝に肘を乗せ、顎を手の甲で支えながら、人間の顔を覗き込んだ。森の湿気が二人の間に重く垂れ込める。
「日本は戦争に勝ったか?」
人間は瞬きをした。
「……は?」
「ほら、あれだよ。アメリカとかいう国と戦争をやってただろう? 日本は。それに勝ったかと聞いてるんだ」
私の問いは単純だった。あの頃、外の世界がざわついていたのを覚えている。鉄の塊が空を飛び、海が燃え、国と国とが喰らい合っていた時代だ。
人間は唇を湿らせ、少し視線を落とした。
「……負けましたけど」
あっさりとした答えだった。
「負けたかー……」
私は肩を落とすでもなく、ただ空を仰いだ。木々の隙間から灰色の空が覗く。
「残念なことだ。案外、勝てると思ってたんだがな」
「……」
「んじゃあ今はどうなってる? アメリカへの報復は?」
私が当然のように言うと、人間は困ったように眉を寄せた。
「報復って……できるわけないじゃないですか」
「は? 何言ってるんだ?」
「日本は、もう軍隊を持ってませんよ」
一瞬、森の音が消えた気がした。
「……は?」
私は思わず身を乗り出した。
「ちょっと待て。は⁉︎ 軍隊を持ってない⁉︎ 日本が⁉︎」
「はい。もう何十年も前からです」
「嘘だろ……あの日本が……」
あの小さな島国が、牙を抜くなど想像もしていなかった。
人間は泥のついたズボンを払いながら、静かに続ける。
「今では、世界一治安のいい国って言われてますね」
「……」
私はしばらく黙った。
「なんでそんなに変わってしまったんだ……日本は」
「アメリカが原因なのか?」
「アメリカが、というよりは……国がそういう方向に方針を変えたって感じですね」
「国が? 国民の反発があったろう?」
「ありましたよ。でも……そもそも日本は、もう戦争を続けられる状態じゃなかったんです」
「そんなにめちゃくちゃにやられたのか?」
人間はゆっくりと頷く。
「それもありますが……まともな戦争ができなくなったんですよ」
「どういうことだ?」
人間は少し躊躇い、それから口を開いた。
「日本が負けた最も大きな要因は、アメリカが開発した爆弾にあります」
「爆弾?」
「核爆弾、と言います。この核爆弾を二発落とされて、日本は降伏しました」
「二発? たった二発か?」
私は思わず笑いそうになった。爆弾が二つで国が折れるなど。
「たった二発です。でも、その二発で数十万人が死にました」
「……は?」
笑いは消えた。
人間の声は低い。
「あなたが想像している爆弾とは桁が違うんです」
森を渡る風が、ひゅう、と鳴った。
「核爆弾とは……」
人間はそこで、原子だの、連鎖反応だのと説明を始めた。小石を拾い、地面に図を描く。丸を書き、矢印を書き、ぶつかる、割れる、と手振りを交えて語る。
私は腕を組み、黙って聞いていた。
正直、半分も理解できていない。
だが、その声の重さだけは伝わる。
「で?」
私は途中で遮った。
「結局その核爆弾ってのは、なんなんだい?」
人間は少し考え、言葉を選んだ。
「簡潔に言うと……小さな太陽を、一瞬だけ作り出す爆弾です」
「太陽、か」
その響きに、私は空を見上げる。雲の向こうにあるはずの光。
「その熱と衝撃波であらゆるものを消し飛ばし、放射能という毒まで撒き散らす兵器です。そんなものがあるなら、まともな戦争なんてできません」
「そりゃあ、えらいことだな」
私はぽつりと言った。
森の静けさがやけに濃い。
「でも、そのおかげで……今のところ、世界大戦と呼ばれる規模の戦争は起きていません。互いに撃てば終わるって、みんな分かってるから」
「なるほどね……」
私は地面に描かれた丸と矢印を、靴先で消した。
「そうか。日本が……」
頭の中で整理する。
核爆弾。小さな太陽。数十万人。
そして、世界一治安のいい国。
そちらの方が、よほど奇妙だ。
「世界一治安のいい国、か」
私は人間を見た。
「それは楽しい国か?」
唐突な問いに、人間は目を丸くした。
「楽しいですよ?」
少し笑う。
「私は学者をしていますが、技術も高いし、治安も良いし、食品の品質も高い。暮らしやすい国です」
「学者、ね」
細い体。綺麗な手。
確かに、戦場よりは書物の似合う人間だ。
「そうか。それは良かったな」
私は大きく背伸びをした。肩の骨が小さく鳴る。
湿った空気が肺に入る。
「面白い話が聞けたよ」
私は立ち上がった。
「約束通り、人里まで送ってやる。その後のことは勝手にしろ」
そう言って、人里の方角へと歩き出す。
背後で慌てて立ち上がる音。
「ありがとうございます」
人間は深く頭を下げ、それから小走りで私の後ろについた。
ぬかるみを踏む足音が、二つに増える。
しばらく歩く。
さきほどまであれほど濃かった恐怖の匂いが、いつの間にか薄れていることに気づいた。
人間は、もう震えていない。
私の背中を見ながら、ただ黙って歩いている。
私はそれに、ほんの少しだけ不満を覚えた。
もう少し、怯えていてもよかったのにな。
そんなことを思いながら、私は湿った森を進み続けた。