酒呑童子の退屈   作:まったり愛好家

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第四話 外の世界

私は、特に何かをするでもなく森を歩いていた。

 

昨夜まで降り続いた雨の名残が、地面にぬめりを残している。踏みしめるたびに、湿った土がわずかに沈み、靴裏にまとわりつく。腐葉土の匂いが濃い。湿気を含んだ空気は重く、だがどこか甘い。

 

葉の先から雫が落ちる音が、ぽつ、ぽつ、と静かに響く。

 

連日の雨のおかげで、木々は異様なほど生気に満ちていた。幹は水を吸って艶を帯び、若葉は重たげに揺れている。根は地中深くへと食い込み、我こそはと栄養を奪い合っているのだろう。

 

活気――というのか。

 

あるいは、露に似た、生命の膨張。

 

そんなものを肌で感じながら、私はあてもなく森を進む。

 

日課というわけではない。

何か目的があるわけでもない。

 

ただ、今日はこうして歩いていたかった。

 

理由はない。鬼にだって、理由のない衝動くらいある。

 

半刻ほど彷徨った頃だろうか。

 

景色は代わり映えしない。木、草、苔、岩。

だがなぜか、私は何かに近づいているような錯覚を覚えた。

 

鬼の勘か。

それとも樹海特有の錯覚か。

 

判断はつかない。

 

しかし次の瞬間、その錯覚は確信へと変わった。

 

前方に――気配。

 

妖怪ではない。

それほど強くない。むしろ、ひどく弱い。

 

揺らぐような、生身の気配。

 

私は足音を殺し、その気配へ向かった。

 

木々がわずかに開けた場所。

雨でぬかるんだ地面の中央に、それはあった。

 

人間だ。

 

色鮮やかな軽服。

幻想郷ではあまり見ない質の布。染色も妙に鮮明だ。

 

肌は不自然なほど綺麗で、日焼けの跡もなく、傷もない。肉はつきすぎず、かといってやせ細ってもいない。飢えとも無縁そうだ。

 

よほど整った環境で育ったのだろう。

 

その人間は、地面に横たわり、まるで自室の布団で眠るような顔をしていた。

 

鬼の私が、ここまで近づいているというのに。

 

逃げる気配も、目覚める気配もない。

 

「全くこれだから……最近の人間は危機感が足りん」

 

小さく呟きながら、私はその肩を軽く揺すった。

 

「……ん……あと五分だけ……」

 

寝返りを打ち、そう呟く。

 

私は思わず眉をひそめた。

 

呆れたやつだ。

 

よほどの馬鹿か、

よほどの強者か。

 

それとも、人間ではないのか。

 

だが、五分待つ義理はない。

 

私は近くの水たまりにしゃがみ、手で水をすくう。冷たい泥水だ。それを容赦なく、顔面へと浴びせた。

 

「うわぁ⁉︎ なになになに⁉︎」

 

跳ね起きる。

 

目を見開き、両手をばたつかせ、ぬかるみに尻をついた。

 

実に間抜けだ。

 

「ちょ……は⁉︎ 誰ですか⁉︎ なんでっ……は⁉︎」

 

視線が定まらない。状況が飲み込めていない顔。

 

「え……どこですかここ……?」

 

ぽかん、と呆けた声で言う。

 

「博麗神社近くの森だ。お前こんなところで何してるんだ?」

 

私は腕を組み、やや呆れ気味に言った。

 

「博麗……どこです?」

 

「あ?」

 

「博麗神社って……聞いたことないです」

 

私は思わず一歩近づく。

 

「知らないなんてことあるか? 普通」

 

「えっと……じゃあ、ここ何県ですか?」

 

「何県?」

 

「四十七都道府県の……」

 

「聞いたことのない地名形式だな……」

 

妙だ。

 

というか――こいつ、私の角に一切触れない。

 

視線が一度も向かない。

 

やはり、人間ではないのか?

 

「四十七都道府県を知らない……? え……ここってもしかして日本じゃないんですか?」

 

「日本ではあると思うがな……ん? お前もしかして人里の人間じゃないのか?」

 

「私の家は東京ですから、多分……人里なんじゃないですか?」

 

「……そういうことか。今の元号を言ってみろ」

 

「今ですか? 令和ですけど……」

 

「令和?」

 

私は小さく唸る。

 

「また元号が変わってるのか……前に来たやつは大正十五年って言ってたがな」

 

「……話についていけないんですが……ここって結局どこなんです?」

 

私は肩をすくめた。

 

「ああ、すまんすまん。ここはな、まず大前提としてお前の知る世界ではない」

 

「……?」

 

「場所的には日本の山奥なんだろうが……ここは幻想郷っていう。まあ、御伽の国だ」

 

「おとぎの……くに?」

 

「外の世界で存在を無かったことにされた奴らが流れ着く場所だ。妖怪、天狗、神。なんだっている」

 

「……現実の話ですよね?」

 

「ああ」

 

視線が、ゆっくりと私の頭へ向いた。

 

「その……角も?」

 

「本物だ」

 

沈黙。

 

湿った森の匂いと、遠くで鳴く鳥の声だけが流れる。

 

「……信じられないですけど……状況が状況ですし……ひとまず信じるとして……なんで私がここに?」

 

「たぶん運が悪かったんだろうな」

 

「運が悪い?」

 

「神隠しだ。幻想郷だって完璧じゃない。人間を食わなきゃ生きていけないやつもいる。そういう奴のために、時たま人間を連れてくる」

 

「人間を……食う⁉︎」

 

顔が青ざめる。

 

「聞いたことないか? 人喰い妖怪の逸話」

 

「……じゃあ私は食われるんですか?」

 

私は空を仰いだ。

 

「どうだろうな。生きて人里か博麗神社まで辿り着ければ、なんとかなる」

 

「それはどこにありますか」

 

「なんで私が教えないといけない?」

 

必死な目が向く。

 

「だって……あなたは今、私を食べてない。人間を食べない妖怪なんじゃ……」

 

私は一歩踏み出した。

 

「私は鬼だ。人を食うぞ? 今食ってないのは、腹が減ってないからだ」

 

喉がごくりと鳴る。

 

「……じゃあ腹が減ったら?」

 

「そうなるな」

 

「……どうやったら助けてくれますか?」

 

私は笑った。

 

「鬼に助けを求めるのか?」

 

「他に頼れる人がいないんです!」

 

必死だ。

目に涙すら浮かんでいる。

 

私は腕を組み、少し考えるふりをした。

 

「ふーん……別に私は何も求めてはいないが……」

 

ふと、思いつく。

 

「……いや、せっかくだ。外の世界のことでも聞くか」

 

「それを話せば……助けてくれるんですね?」

 

私はにやりと笑った。

 

「まあ、いいぞ。機嫌も悪くないしな」

 

森の湿気の中、

人間は震えながら息を整え、

私はその前にしゃがみ込んだ。

 

話を聞く準備はできている。

 

「そうだな……まず一番気になってることだ」

 

私は膝に肘を乗せ、顎を手の甲で支えながら、人間の顔を覗き込んだ。森の湿気が二人の間に重く垂れ込める。

 

「日本は戦争に勝ったか?」

 

人間は瞬きをした。

 

「……は?」

 

「ほら、あれだよ。アメリカとかいう国と戦争をやってただろう? 日本は。それに勝ったかと聞いてるんだ」

 

私の問いは単純だった。あの頃、外の世界がざわついていたのを覚えている。鉄の塊が空を飛び、海が燃え、国と国とが喰らい合っていた時代だ。

 

人間は唇を湿らせ、少し視線を落とした。

 

「……負けましたけど」

 

あっさりとした答えだった。

 

「負けたかー……」

 

私は肩を落とすでもなく、ただ空を仰いだ。木々の隙間から灰色の空が覗く。

 

「残念なことだ。案外、勝てると思ってたんだがな」

 

「……」

 

「んじゃあ今はどうなってる? アメリカへの報復は?」

 

私が当然のように言うと、人間は困ったように眉を寄せた。

 

「報復って……できるわけないじゃないですか」

 

「は? 何言ってるんだ?」

 

「日本は、もう軍隊を持ってませんよ」

 

一瞬、森の音が消えた気がした。

 

「……は?」

 

私は思わず身を乗り出した。

 

「ちょっと待て。は⁉︎ 軍隊を持ってない⁉︎ 日本が⁉︎」

 

「はい。もう何十年も前からです」

 

「嘘だろ……あの日本が……」

 

あの小さな島国が、牙を抜くなど想像もしていなかった。

 

人間は泥のついたズボンを払いながら、静かに続ける。

 

「今では、世界一治安のいい国って言われてますね」

 

「……」

 

私はしばらく黙った。

 

「なんでそんなに変わってしまったんだ……日本は」

 

「アメリカが原因なのか?」

 

「アメリカが、というよりは……国がそういう方向に方針を変えたって感じですね」

 

「国が? 国民の反発があったろう?」

 

「ありましたよ。でも……そもそも日本は、もう戦争を続けられる状態じゃなかったんです」

 

「そんなにめちゃくちゃにやられたのか?」

 

人間はゆっくりと頷く。

 

「それもありますが……まともな戦争ができなくなったんですよ」

 

「どういうことだ?」

 

人間は少し躊躇い、それから口を開いた。

 

「日本が負けた最も大きな要因は、アメリカが開発した爆弾にあります」

 

「爆弾?」

 

「核爆弾、と言います。この核爆弾を二発落とされて、日本は降伏しました」

 

「二発? たった二発か?」

 

私は思わず笑いそうになった。爆弾が二つで国が折れるなど。

 

「たった二発です。でも、その二発で数十万人が死にました」

 

「……は?」

 

笑いは消えた。

 

人間の声は低い。

 

「あなたが想像している爆弾とは桁が違うんです」

 

森を渡る風が、ひゅう、と鳴った。

 

「核爆弾とは……」

 

人間はそこで、原子だの、連鎖反応だのと説明を始めた。小石を拾い、地面に図を描く。丸を書き、矢印を書き、ぶつかる、割れる、と手振りを交えて語る。

 

私は腕を組み、黙って聞いていた。

 

正直、半分も理解できていない。

 

だが、その声の重さだけは伝わる。

 

「で?」

 

私は途中で遮った。

 

「結局その核爆弾ってのは、なんなんだい?」

 

人間は少し考え、言葉を選んだ。

 

「簡潔に言うと……小さな太陽を、一瞬だけ作り出す爆弾です」

 

「太陽、か」

 

その響きに、私は空を見上げる。雲の向こうにあるはずの光。

 

「その熱と衝撃波であらゆるものを消し飛ばし、放射能という毒まで撒き散らす兵器です。そんなものがあるなら、まともな戦争なんてできません」

 

「そりゃあ、えらいことだな」

 

私はぽつりと言った。

 

森の静けさがやけに濃い。

 

「でも、そのおかげで……今のところ、世界大戦と呼ばれる規模の戦争は起きていません。互いに撃てば終わるって、みんな分かってるから」

 

「なるほどね……」

 

私は地面に描かれた丸と矢印を、靴先で消した。

 

「そうか。日本が……」

 

頭の中で整理する。

 

核爆弾。小さな太陽。数十万人。

そして、世界一治安のいい国。

 

そちらの方が、よほど奇妙だ。

 

「世界一治安のいい国、か」

 

私は人間を見た。

 

「それは楽しい国か?」

 

唐突な問いに、人間は目を丸くした。

 

「楽しいですよ?」

 

少し笑う。

 

「私は学者をしていますが、技術も高いし、治安も良いし、食品の品質も高い。暮らしやすい国です」

 

「学者、ね」

 

細い体。綺麗な手。

確かに、戦場よりは書物の似合う人間だ。

 

「そうか。それは良かったな」

 

私は大きく背伸びをした。肩の骨が小さく鳴る。

 

湿った空気が肺に入る。

 

「面白い話が聞けたよ」

 

私は立ち上がった。

 

「約束通り、人里まで送ってやる。その後のことは勝手にしろ」

 

そう言って、人里の方角へと歩き出す。

 

背後で慌てて立ち上がる音。

 

「ありがとうございます」

 

人間は深く頭を下げ、それから小走りで私の後ろについた。

 

ぬかるみを踏む足音が、二つに増える。

 

しばらく歩く。

 

さきほどまであれほど濃かった恐怖の匂いが、いつの間にか薄れていることに気づいた。

 

人間は、もう震えていない。

 

私の背中を見ながら、ただ黙って歩いている。

 

私はそれに、ほんの少しだけ不満を覚えた。

 

もう少し、怯えていてもよかったのにな。

 

そんなことを思いながら、私は湿った森を進み続けた。

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