酒呑童子の退屈   作:まったり愛好家

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第五話 大結界

どんな寝相をかいたのかは知らないが、目が覚めたとき、私は縁側の柱にツノを深々と刺したまま、妙な体勢で固まっていた。

 

朝の光が、障子越しに白く滲んでいる。

 

「うー……あ“あ”あ“ー……」

 

柱に額を押しつけたまま、間の抜けた呻き声が漏れた。

 

ゆっくりと体を起こそうとすると、ぐぐ、と鈍い抵抗がある。柱に食い込んだツノが抜けない。

 

「……はあ」

 

私は片手で柱を押さえ、もう片方で自分の額を押さえ、ぐい、と首をひねった。

 

ぎ、と木が鳴る。

 

次の瞬間、ぶすりと刺さっていたツノがようやく抜け、私はそのまま後ろに倒れ込んだ。

 

「いっ……たぁ……」

 

縁側の板が背中に当たり、乾いた音が響く。

 

しばらく仰向けのまま、天井を見つめた。梁の木目がやけにくっきりしている。昨日は、ありったけ酒を飲んだはずだ。瓢箪を何度も傾け、喉を焼き、酔いに身を任せた。

 

それなのに。

 

昨日の湿っぽい思考が、はっきりと残っている。

 

「私らしくもない……」

 

私は起き上がり、がしがしと頭を掻いた。乱れた髪が指に絡まる。脱げかけていた服を引き寄せ、帯を締め直す。

 

胸の奥がむかむかとする。

 

酒のせいではない。

 

飲んでも忘れぬ切なさと懐かしさが、脳裏に靄をかける。

 

あの森で出会った人間。核だの、戦争だの、平和だの。

そして、かつての外の光景。

 

活気。

 

それが、どうしても離れない。

 

親しくなった人間や妖怪との別れなど、とうの昔に慣れたと思っていた。寿命の違いなど、鬼にとっては季節の移ろいのようなものだ。

 

だが、活気というものとの別れは、どうやら別物らしい。

 

人間が燃えていた時代。

愚かで、野蛮で、しかし眩しかった。

 

今はどうだ。

 

私は縁側に腰を下ろし、膝を抱えた。

 

「……情けないねぇ」

 

人間らしく、うじうじと過去を懐かしむ。

それを酒で流そうとして、流れない。

 

楽しくもない。

 

鬼らしくもない。

 

こんなの、私ではない。

 

一時の感傷ではないと分かっている。

胸の奥に巣くったこの重さは、きっとこの先も続く。

 

「はぁ……」

 

私は重い腰を上げ、転がっていた瓢箪を手に取った。蓋を抜くと、かすかな酒の匂いが漂う。

 

くい、と傾ける。

 

喉を通る液体は、確かに酒のはずだ。

 

だが。

 

「……酒の味、しないねぇ」

 

舌が鈍いのか、心が鈍いのか。

 

私は瓢箪を揺らし、残りを確かめる。とぷん、と小さな音がする。

 

楽しめていない。現状を。

 

笑うことはできる。宴に出れば心は踊る。

だがそれは、表面だけだ。

 

底が、冷たい。

 

心の底から笑える場所。

心の底から楽しめる場所。

 

そんな場所――

 

私は空を見上げた。

 

「……もう、この世にはないかもしれないな」

 

呟きは、朝の空気に溶けた。

 

しばらく黙っていたが、やがて首を振る。

 

「いや」

 

ある。

 

見つけるのだ。

 

これまでだってそうしてきた。

退屈すれば暴れ、つまらなければ探し、飽きれば壊してきた。

 

鬼とは、そういうものだ。

 

幻想郷は確かに刺激的だ。

妖怪も神もいる。異変も起こる。退屈はしない。

 

だが、私には――静かすぎる。

 

木々のざわめき。人里の穏やかな笑い声。

平穏が、まるで薄い布のように世界を覆っている。

 

ならば。

 

「外だ」

 

私は立ち上がった。

 

縁側の柱に視線をやる。さきほど刺さっていた傷が、くっきりと残っている。

 

外の世界。

 

何十年ぶりかに、もう一度。

 

あの轟音を。

あの人間の熱を。

 

今は平和だという。治安が良いという。

それでも、どこかに熱はあるはずだ。

 

幸い、紫は冬眠中だ。

 

「今なら、うるさく言われることもない」

 

連れ戻されるとしても、四ヶ月後あたりか。

 

私は瓢箪を腰に提げ直し、軽く肩を回した。関節が小さく鳴る。

 

博麗大結界。

 

あれは確かに強固だ。常識と非常識を隔てる境界。

だが――

 

「……私なら、抜けられる」

 

小さく笑みが漏れた。

 

鬼の角に朝日が当たり、白く光る。

 

胸の奥のむかつきは、まだ消えない。

だがその代わりに、わずかな高揚が芽生えている。

 

久しく忘れていた、外へ踏み出す前のざわめき。

 

私は縁側から庭へと降り立った。

 

湿った土が足裏に触れる。

 

第結界も……私なら抜けられる。

 

ーーー

 

森を抜け、空気の質がわずかに変わる地点に立つ。

 

そこが、境界だ。

 

目に見える壁があるわけではない。だが、長く幻想郷に身を置いた者ならばわかる。空気の重なり方が違う。音の響きが違う。風が、どこかで折れ曲がっている。

 

私は、その“前”に立った。

 

しばし黙って、腰の瓢箪に手を伸ばす。

 

「……景気付けだ」

 

栓を抜き、喉へと流し込む。

ごく、ごく、と酒が落ちていく。

 

相変わらず味は薄い。だが、腹の底に熱が広がる感覚だけは確かだった。

 

ふう、と長く息を吐く。

肺の奥まで空気を入れ、ゆっくりと吐き出す。

 

「さて」

 

私は一歩、前に出た。

 

目を閉じる。

 

自分の能力を、意識する。

 

“密と素を操る程度の能力”。

 

物の密度を濃くもできれば、薄くもできる。

重くも、軽くも。詰めも、散らしも。

 

ならば――結界も同じだ。

 

「硬いなら、薄くすればいい」

 

私は右手をゆっくりと持ち上げ、空間に触れる。

 

触れているのは、空気だ。

だが、その向こうにある“層”を、私は感じている。

 

常識と非常識の境目。

内と外を隔てる膜。

 

指先に、じわりと抵抗が生まれる。

 

「……あるねぇ」

 

私は小さく笑った。

 

意識を集中する。

結界の“密”を探る。

 

濃く、重なり、押し返してくる層。

 

それを、ゆっくりと――薄める。

 

「よいしょ……と」

 

能力を流し込む。

 

ぐ、と空間が軋む感触があった。

音はしない。だが、骨の奥で何かが鳴ったような感覚。

 

結界の一部が、霧のように拡散していく。

 

濃密だった膜が、わずかに緩む。

 

「……まだだ」

 

もう少し。

 

私は歩みを進めながら、薄め続ける。

 

一歩。

 

足先が、膜に触れる。

 

通常ならば弾かれる。

だが今は、じわ、と沈み込む。

 

ぬるり、とした感触。

 

水でもなく、風でもない。

だが確かに、何かの中を歩いている。

 

「はは……面白い」

 

私は、笑った。

 

外の世界への期待が、胸をくすぐる。

 

高層の建物。

光る街。

人間たちの喧騒。

 

あの学者の言っていた、平和で楽しい国。

 

それを、この目で確かめる。

 

だが、足取りは速くない。

 

むしろ、ゆっくりだった。

 

一歩、また一歩。

 

結界の内部は、妙に静かだ。

音が遠い。風が薄い。

 

まるで、水の底を歩いているようだ。

 

酒の熱が、体の中心に灯っている。

鼓動が、どくん、と響く。

 

「……戻れなくなるわけじゃない」

 

自分に言い聞かせるように、呟く。

 

四ヶ月。

紫が目を覚ます頃には、戻る。

 

ただの気まぐれだ。

ただの散歩だ。

 

そう言い聞かせながらも、胸の奥は確かに高鳴っている。

 

私は、能力を維持し続ける。

 

結界の密度を、極限まで薄める。

 

薄く、薄く。

 

押し返してくる圧力を、力で抑え込む。

 

「……鬼を舐めるなよ」

 

小さく笑い、さらに一歩を踏み出す。

 

結界の向こう側の気配が、わずかに変わる。

 

空気の匂いが違う。

 

ほんのわずかに。

 

私は、ゆっくりと歩く。

 

外の世界への期待感を胸に抱きながら。

 

それでも、あゆみはゆっくりだった。

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