どんな寝相をかいたのかは知らないが、目が覚めたとき、私は縁側の柱にツノを深々と刺したまま、妙な体勢で固まっていた。
朝の光が、障子越しに白く滲んでいる。
「うー……あ“あ”あ“ー……」
柱に額を押しつけたまま、間の抜けた呻き声が漏れた。
ゆっくりと体を起こそうとすると、ぐぐ、と鈍い抵抗がある。柱に食い込んだツノが抜けない。
「……はあ」
私は片手で柱を押さえ、もう片方で自分の額を押さえ、ぐい、と首をひねった。
ぎ、と木が鳴る。
次の瞬間、ぶすりと刺さっていたツノがようやく抜け、私はそのまま後ろに倒れ込んだ。
「いっ……たぁ……」
縁側の板が背中に当たり、乾いた音が響く。
しばらく仰向けのまま、天井を見つめた。梁の木目がやけにくっきりしている。昨日は、ありったけ酒を飲んだはずだ。瓢箪を何度も傾け、喉を焼き、酔いに身を任せた。
それなのに。
昨日の湿っぽい思考が、はっきりと残っている。
「私らしくもない……」
私は起き上がり、がしがしと頭を掻いた。乱れた髪が指に絡まる。脱げかけていた服を引き寄せ、帯を締め直す。
胸の奥がむかむかとする。
酒のせいではない。
飲んでも忘れぬ切なさと懐かしさが、脳裏に靄をかける。
あの森で出会った人間。核だの、戦争だの、平和だの。
そして、かつての外の光景。
活気。
それが、どうしても離れない。
親しくなった人間や妖怪との別れなど、とうの昔に慣れたと思っていた。寿命の違いなど、鬼にとっては季節の移ろいのようなものだ。
だが、活気というものとの別れは、どうやら別物らしい。
人間が燃えていた時代。
愚かで、野蛮で、しかし眩しかった。
今はどうだ。
私は縁側に腰を下ろし、膝を抱えた。
「……情けないねぇ」
人間らしく、うじうじと過去を懐かしむ。
それを酒で流そうとして、流れない。
楽しくもない。
鬼らしくもない。
こんなの、私ではない。
一時の感傷ではないと分かっている。
胸の奥に巣くったこの重さは、きっとこの先も続く。
「はぁ……」
私は重い腰を上げ、転がっていた瓢箪を手に取った。蓋を抜くと、かすかな酒の匂いが漂う。
くい、と傾ける。
喉を通る液体は、確かに酒のはずだ。
だが。
「……酒の味、しないねぇ」
舌が鈍いのか、心が鈍いのか。
私は瓢箪を揺らし、残りを確かめる。とぷん、と小さな音がする。
楽しめていない。現状を。
笑うことはできる。宴に出れば心は踊る。
だがそれは、表面だけだ。
底が、冷たい。
心の底から笑える場所。
心の底から楽しめる場所。
そんな場所――
私は空を見上げた。
「……もう、この世にはないかもしれないな」
呟きは、朝の空気に溶けた。
しばらく黙っていたが、やがて首を振る。
「いや」
ある。
見つけるのだ。
これまでだってそうしてきた。
退屈すれば暴れ、つまらなければ探し、飽きれば壊してきた。
鬼とは、そういうものだ。
幻想郷は確かに刺激的だ。
妖怪も神もいる。異変も起こる。退屈はしない。
だが、私には――静かすぎる。
木々のざわめき。人里の穏やかな笑い声。
平穏が、まるで薄い布のように世界を覆っている。
ならば。
「外だ」
私は立ち上がった。
縁側の柱に視線をやる。さきほど刺さっていた傷が、くっきりと残っている。
外の世界。
何十年ぶりかに、もう一度。
あの轟音を。
あの人間の熱を。
今は平和だという。治安が良いという。
それでも、どこかに熱はあるはずだ。
幸い、紫は冬眠中だ。
「今なら、うるさく言われることもない」
連れ戻されるとしても、四ヶ月後あたりか。
私は瓢箪を腰に提げ直し、軽く肩を回した。関節が小さく鳴る。
博麗大結界。
あれは確かに強固だ。常識と非常識を隔てる境界。
だが――
「……私なら、抜けられる」
小さく笑みが漏れた。
鬼の角に朝日が当たり、白く光る。
胸の奥のむかつきは、まだ消えない。
だがその代わりに、わずかな高揚が芽生えている。
久しく忘れていた、外へ踏み出す前のざわめき。
私は縁側から庭へと降り立った。
湿った土が足裏に触れる。
第結界も……私なら抜けられる。
ーーー
森を抜け、空気の質がわずかに変わる地点に立つ。
そこが、境界だ。
目に見える壁があるわけではない。だが、長く幻想郷に身を置いた者ならばわかる。空気の重なり方が違う。音の響きが違う。風が、どこかで折れ曲がっている。
私は、その“前”に立った。
しばし黙って、腰の瓢箪に手を伸ばす。
「……景気付けだ」
栓を抜き、喉へと流し込む。
ごく、ごく、と酒が落ちていく。
相変わらず味は薄い。だが、腹の底に熱が広がる感覚だけは確かだった。
ふう、と長く息を吐く。
肺の奥まで空気を入れ、ゆっくりと吐き出す。
「さて」
私は一歩、前に出た。
目を閉じる。
自分の能力を、意識する。
“密と素を操る程度の能力”。
物の密度を濃くもできれば、薄くもできる。
重くも、軽くも。詰めも、散らしも。
ならば――結界も同じだ。
「硬いなら、薄くすればいい」
私は右手をゆっくりと持ち上げ、空間に触れる。
触れているのは、空気だ。
だが、その向こうにある“層”を、私は感じている。
常識と非常識の境目。
内と外を隔てる膜。
指先に、じわりと抵抗が生まれる。
「……あるねぇ」
私は小さく笑った。
意識を集中する。
結界の“密”を探る。
濃く、重なり、押し返してくる層。
それを、ゆっくりと――薄める。
「よいしょ……と」
能力を流し込む。
ぐ、と空間が軋む感触があった。
音はしない。だが、骨の奥で何かが鳴ったような感覚。
結界の一部が、霧のように拡散していく。
濃密だった膜が、わずかに緩む。
「……まだだ」
もう少し。
私は歩みを進めながら、薄め続ける。
一歩。
足先が、膜に触れる。
通常ならば弾かれる。
だが今は、じわ、と沈み込む。
ぬるり、とした感触。
水でもなく、風でもない。
だが確かに、何かの中を歩いている。
「はは……面白い」
私は、笑った。
外の世界への期待が、胸をくすぐる。
高層の建物。
光る街。
人間たちの喧騒。
あの学者の言っていた、平和で楽しい国。
それを、この目で確かめる。
だが、足取りは速くない。
むしろ、ゆっくりだった。
一歩、また一歩。
結界の内部は、妙に静かだ。
音が遠い。風が薄い。
まるで、水の底を歩いているようだ。
酒の熱が、体の中心に灯っている。
鼓動が、どくん、と響く。
「……戻れなくなるわけじゃない」
自分に言い聞かせるように、呟く。
四ヶ月。
紫が目を覚ます頃には、戻る。
ただの気まぐれだ。
ただの散歩だ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥は確かに高鳴っている。
私は、能力を維持し続ける。
結界の密度を、極限まで薄める。
薄く、薄く。
押し返してくる圧力を、力で抑え込む。
「……鬼を舐めるなよ」
小さく笑い、さらに一歩を踏み出す。
結界の向こう側の気配が、わずかに変わる。
空気の匂いが違う。
ほんのわずかに。
私は、ゆっくりと歩く。
外の世界への期待感を胸に抱きながら。
それでも、あゆみはゆっくりだった。