カラン、と氷がグラスに当たる音が、静まり返ったリビングにやけに響いた。
「ぷはぁーっ! くぅ~、効くわねぇこれ! なになに、ウーロン割りって言うの? ビールとはまた違った喉越しで、こりゃイケるわ!」
目の前の人物が、豪快にグラスを空ける。
俺が正月に開けて、ちびちびと楽しむつもりだったそこそこ良い値段のウィスキー。それが、まるで砂漠に撒かれた水のように、彼女の喉の奥へと消えていく。
俺は自分の頬を、もう一度つねった。
……痛い。夢じゃない。
無造作にかき上げられた紫がかった黒髪。
ラフな部屋着……ではなく、あの日、俺たちが画面越しに見届けた「最期の瞬間」と同じ、血と煤で汚れかけたネルフの制服。
そして、人懐っこい笑顔の奥で鋭く光る瞳。
葛城ミサト三佐。特務機関NERV、戦術作戦部作戦局第一課課長。
俺が25年間、画面の向こうで憧れ続け、その生き様に涙した女性が、なぜか俺の家の安っぽいちゃぶ台を挟んで座っている。
「ちょっとぉ、どしたの辛気臭い顔して。せっかくの美人の手酌よ? もっと嬉しそうな顔しなさいっての」
「……いや、状況が飲み込めなくてですね」
「あらそ? ま、細かいことはいいじゃない。生きてりゃなんとかなる、ってね。それよりおかわり! 濃い目で!」
彼女は笑い飛ばしているが、俺の背筋には冷たいものが走っていた。
この人は、ただの「酒好きの愉快なお姉さん」じゃない。
数々の修羅場を潜り抜け、戦略自衛隊の特殊部隊を単身ハンドガン一丁で制圧できる戦闘のエキスパートだ。
俺が下手な嘘をついたり、敵対的な素振りを見せたりすれば、酔っているように見えても瞬時にその手刀が俺の頸動脈を刈り取るだろう。この笑顔の下で、彼女は間違いなく俺を「査定」している。これは、腹の探り合いだ。
けれど──。
(……ミサトさん、生きてるんだな)
俺の脳裏には、あの旧劇場版のラストや、シン・エヴァの最期が焼き付いている。
腹に銃弾を受け、あるいは爆炎の中に消え、シンジ君にすべてを託して散ったはずの命。
もしここが死後の世界でもなく、彼女が転生してきたのだとしたら、その身体にはどれだけの痛みが刻まれているんだろう。
ふと、自分の年齢を思う。
俺は今年で33歳。目の前のミサトさんは、戸籍上はおそらく29歳か30歳。
いつの間にか、俺はあの「大人の女性」の象徴だったミサトさんより、年上になってしまっていた。
あの頃、シンジ君に感情移入して、「ミサトさんみたいな美人に甘えられたら」なんて妄想した少年は、もういない。
今はただ、同年代の男として、傷だらけの英雄に酒を注ぐことしかできない。
「……はい、濃い目ですよ」
「ん~! 気が利くじゃない! あんた、いいお嫁さんになれるわよ?」
ケラケラと笑う彼女の目尻に、ふと疲れのようなものが見えた気がした。
俺はウィスキーのボトルを傾けながら、腹を括ることにした。
理由なんてどうでもいい。今はただ、この奇跡のような、幻のような時間を、彼女のペースに巻き込まれて過ごそう。
それが、33歳になった俺ができる、精一杯の「サービス」だろうから。
「……んぐ、んぐ、んぐ……ぷはぁっ!!やっぱこれがないと始まんないわよねぇ~!……って、なに? さっきから私の顔ジロジロ見て。あー、分かった。私の飲みっぷりに惚れちゃった? ま、無理もないわね。で? あんた、なかなかいい顔つきしてんじゃん。33歳? ……ふーん。今の私より年上、か。じゃあさ、今日は『お姉さん』じゃなくて、同年代の飲み友達として愚痴らせてもらっちゃおうかしら。……ねぇ、まだそのボトル、残ってるわよね?」
「愚痴って、一体何に対してです?」
俺がそう尋ねながら空いたグラスにウィスキーを注ぎ足してやると、ミサトさんは「んー、全部!」とテーブルに突っ伏した。
「上の頭の固い連中も、予算の少なさも、リツコの小言も全部よ! あーもう、たまにはパーッとやらないとやってらんないわよ。あんたもそう思うでしょ? 大人の世界ってのは理不尽の塊なんだから」
彼女はそう言うと、また美味そうに酒を呷る。俺は適当に相槌を打ちながら、彼女のペースに合わせて烏龍茶割りをチビチビと啜った。
ミサトさんの愚痴は、NERVという特務機関の特殊性を除けば、どこにでもいる中間管理職のそれだった。部下の心配、上司への不満、友人への劣等感。
かつて画面の向こうで見ていた「完璧な指揮官」も、こうして差し向かいで飲めば、俺たちと同じ泥臭い悩みを抱えた一人の人間なのだと痛感する。
ひとしきり彼女が吐き出し、少し落ち着いた空気が流れた頃合いを見計らって、俺は切り出した。
「……じゃあ、今度はこっちの番、いいですか」
「ん? なによ、改まって」
「最後に……シンジ君とは、どんな話をしたんですか?」
カラン。
ミサトさんの手元で、グラスの中の氷が音を立てた。
先ほどまでの赤ら顔から、ふっと酔いが引いていくのが見て取れる。楽しげだった表情筋が凍りつき、その双眸に、隠しきれない悔恨の色が滲んだ。
「……シンジ君、か」
彼女は視線をグラスの底に落とし、まるでそこにある琥珀色の液体の中に、あの日の光景を探すかのようにポツリポツリと語り始めた。
「あの子、もう何も耳に入らないって顔しててね……。無理やり引っ張り上げて、怒鳴りつけて……酷いことしちゃったわ」
その声は震えていた。
「戦略自衛隊の連中が攻め込んできて、時間もなくて。あの子をエヴァに乗せるには、もう言葉じゃ届かないと思った。だから……」
ミサトさんは無意識なのか、自分の胸元に手をやった。そこにあるはずの十字架のペンダントがないことに気づき、寂しげに苦笑する。
「私のペンダント、あの子に押し付けちゃった。……『帰ってきたら続きをしましょう』なんて、大人のキスまでしてね。……本当に、バカな女よ。あんな、怯えきった子供に、自分の夢も希望も、全部背負わせて……逃げ道塞いで、戦場に送り出したんだから」
彼女はグラスを強く握りしめた。
「『他人の為じゃない、あなた自身の為に』……そう言ってあげられれば良かったのに。私は最期まで、あの子の母親にはなれなかった。ただの上司で……ただの、自分勝手な女だったわ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で全てのピースがカチリと嵌った。
『行きなさい! あなた自身の願いのために!』と叫び、シンジ君の背中を押した「新劇場版」のミサトさんではない。
心を閉ざしたシンジ君を叱咤し、傷ついた身体を引きずりながらエヴァへの道を作り、エレベーターホールで彼に「大人のキス」をして別れたミサトさん。
あの絶望的な状況下で、命が尽きる最期の瞬間まで、シンジ君を信じて送り出した彼女だ。
目の前にいるのは、旧世紀版──『Air/まごころを、君に』の葛城ミサトだ。
俺は言葉を失ったまま、静かに彼女の横顔を見つめることしかできなかった。
その腹部には、きっと今も、消えることのない銃撃の痕が刻まれているはずだ。
◇◇◇
リビングの照明を少し落とし、俺はとっておきの白ワインをミサトさんのグラスに注いだ。
モニターに映し出されるのは、彼女が知らない「もうひとつの可能性」。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の世界だ。
「……アスカが、3号機に?」
『破』の惨劇。トウジではなく、アスカが乗った3号機。
ダミーシステムに制御を奪われた初号機が、エントリープラグを噛み砕く音。
旧劇のあの時以上の絶望的な音響が部屋に響くと、ミサトさんは眉を顰め、痛ましそうに顔を歪めた。
だが、それ以上に彼女を驚かせたのは、その後のシンジ君だった。
「あの子が……ここまで怒りを露わにするなんてね」
本部を半壊させる勢いでゲンドウに食ってかかるシンジ君。
そして、第10の使徒戦。
『綾波を……返せ!!』
画面の中のシンジ君は、誰の命令でもなく、己の意志で、己の願いのために世界を終わらせる覚悟で力を振るった。
そして、画面の中のミサトさんが叫ぶ。『行きなさい! シンジ君!』と。
「……私、言ったのね。あの子の背中を、押しちゃったのね」
世界が光に包まれ、ニア・サードインパクトが起きる様を、ミサトさんは呆然と見つめていた。自分の激励がトリガーとなった事実に、持つグラスの手が震えている。
そして物語は『Q』へ。
14年の時が過ぎ、目覚めたシンジ君を待っていたのは、冷徹なヴィレの艦長となった43歳のミサトさんと、「何もしないで」という拒絶の言葉だった。
「キっツイわね……。自分でもわかるわ。これ、精一杯の虚勢よ」
首にDSSチョーカーを嵌められたシンジ君を見て、ミサトさんは自嘲気味にワインを呷った。
俺は横から補足する。この「何もしないで」は、突き放したんじゃない。これ以上エヴァに乗って、罪を重ねて、傷ついて欲しくないという、不器用すぎる「親心」だったんだと。
現実の俺たちが『Q』から『シン』まで何年も待たされてようやく理解したその真意を伝えると、彼女は少しだけ救われたような、それでいて泣きそうな顔をした。
「……でも、あの子には届かないわよ。そんなの」
案の定、シンジ君はカヲル君に縋り、そしてまた目の前で友人の死を目撃する。
カヲル君の首が飛び、絶望の底に叩き落とされたところで──俺の手元のボトルが空になった。
「……はぁ。なんて救いのない展開なの」
「でも、次は『シン・エヴァ』です。ここからが、本当の終わりと始まりですから」
「そう……。でも、素面じゃとても見られそうにないわね」
ミサトさんがグラスを逆さまにして振ってみせる。一滴も落ちてこない。
「買いに行きましょうか。すぐそこにコンビニがあるんで」
「付き合うわよ。……ひとりにしないで」
俺が立ち上がると、ミサトさんもよろりと立ち上がった。
二人とも、ウィスキーとワインのちゃんぽんで足元がおぼつかない。
玄関を出ると、冬の夜風が火照った頬に心地よかった。
「おっと……」
「ちょ、しっかりしなさいよぉ……なんて、あたしも人のこと言えないか」
千鳥足でふらついた俺の腕を、ミサトさんがガシッと掴む。
彼女の体温と、微かな酒の匂い、そしてラベンダーのような残り香がふわりと鼻をかすめた。
「ねえ、あんた。……この道の先に、あの子の『幸せ』はあるの?」
ミサトさんの重みを肩に感じながら、俺たちは深夜の住宅街を歩く。
アスファルトに二人の影が長く伸びていた。
「ありますよ。……ミサトさんの『願い』も、ちゃんと届きます」
「そ。……なら、いいわ。……信じるわよ」
互いに支え合い、時折よろめきながら、俺たちは光の灯るコンビニへと向かった。
まるで、長く苦しい戦いの果てに、ようやく見つけた休息所に向かう戦友のように。
ミーアの息抜きに貞本エヴァ読んでたら唐突に降って湧いてしまったのを書き上げてみました。
登場人物が全体的にチョロいかもしれないけれども、そこは御愛嬌としてお許しください。