コンビニの自動ドアが開き、入店音が軽快に鳴り響く。
冷え切った身体に、店内の暖房と真っ白な蛍光灯の光が優しく染み渡った。
俺たちはカゴを片手に、酒の棚とおつまみコーナーを物色する。
缶ビール、ハイボール、それにホットスナックの唐揚げ。酔っ払いの深夜の買い出しなんて、こんなもんだ。
ふと、スルメの袋を手に取って迷っているミサトさんの背中に、俺は声をかけた。
「……でもね、俺、『Q』でシンジ君を必死に守ろうとしてたミサトさんも、好きなんですよ」
ミサトさんの手が止まる。
俺は構わず、少し恥ずかしい本音を続けた。
「旧劇までのミサトさんは、作戦を立案して、あとは祈るしかなかった。モニター越しに叫ぶことしかできなかった。……でも、新劇場版には『ヴンダー』があった」
俺は棚に並ぶ缶の列を指でなぞりながら、あの巨大な戦艦を思い浮かべる。
「あれがあったから、ようやくミサトさんはシンジ君と同じ土俵で戦えたんです。シンジ君にばかり全部背負わせない、神殺しの力を持った戦艦で、彼の盾にも矛にもなれる。……『シン・エヴァ』の最後まで見て、ようやく分かったんですよ。今度は自分がシンジ君を守る番なんだって、あの背中が言ってたんだなって」
俺は視線をミサトさんに戻し、照れ隠しに笑ってみせた。
「俺が子供の頃に憧れたお姉さんは、やっぱり強くて格好良かった。……映画館でね、それに気づいた時、泣きすぎて目が腫れるくらい泣いたんですから」
ミサトさんは、スルメの袋を握ったまま、じっと俺を見つめていた。
彼女の瞳に映っているのは、間違いなく33歳の、くたびれた男の顔だ。目の下には隈もある。かつて彼女が愛した加持リョウジと同年代か、それより少し上になった大人の男。
けれど──。
今の彼女の目には、俺の姿が二重写しに見えていたに違いない。
内罰的で、傷つきやすくて、誰かに認めてほしくて。
そして、彼女自身が救おうとして救えなかった、あの14歳の少年の影が。
「……そっか」
ミサトさんは短く呟くと、どこか慈しむような、それでいて少し泣きそうな優しい目で微笑んだ。
「あんた……ほんと、バカね。いい歳した大人が、アニメのキャラに本気で泣いてんじゃないわよ」
そう言って彼女は、スルメの袋を俺のカゴに放り込んだ。
その乱暴な仕草とは裏腹に、彼女の声は震えるほどに柔らかかった。
◇◇◇
買ってきたばかりの缶ビールをプシュッと開ける音が、二重に重なった。
「んじゃ、仕切り直しってことで。乾杯!」
「乾杯」
冷たいビールを一口喉に流し込み、俺たちはコタツの定位置に戻った。
部屋の明かりを消し、再びブルーレイの再生ボタンを押す。
画面に映し出されたのは、真っ赤に染まったパリの街並みと、そこに強襲をかけるヴィレの面々だった。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の冒頭、通称「パリ・カチコミ作戦」。
『Q』で大破したエヴァ2号機と8号機を修復するため、敵地である旧ネルフ・ユーロ支部に封印された予備パーツを強奪しに行くという作戦だ。
画面の中では、リツコさんが現場指揮を執り、マリの乗る8号機がエッフェル塔を引っこ抜いて敵のエヴァを殴り倒している。
「ぶっ……! ちょ、エッフェル塔を鈍器にするなんて、いくらなんでも豪快すぎない!?」
ミサトさんが吹き出しそうになりながら画面を指差す。
俺は苦笑しながら、手元のビールを揺らした。
「いやほんと。これだけの戦力を動かして、敵のど真ん中にカチコミかけるなんて……。その大胆さは相変わらずですよね、ミサトさん」
俺がそう言うと、彼女は「相変わらず、ねぇ」と少し照れくさそうに鼻を擦った。
「ま、確かに。使えるものは何でも使う、一点突破で活路を開く。……いかにも私が考えそうなことだわ。リツコは胃に穴が空きそうな顔してるけど」
画面の中では、アンチLシステムが起動し、赤くコア化したパリの街が、美しい本来の姿へと戻っていく。
ただ敵を倒すだけじゃない。
失われた世界を取り戻す戦い。
それを指揮しているのが、未来の彼女なのだ。
「……やるじゃない、私」
ミサトさんはニヤリと不敵に笑い、満足げにビールを煽った。
その横顔は、俺が知っている「作戦部長」の顔そのものだった。
◇◇◇
画面の中の空気が、パリの喧騒から一転する。
赤い大地、廃墟と化した街、そしてそこにへばりつくようにして営まれる、人々の慎ましい暮らし。
第3村。
そこでボロボロのシンジ君を迎えたのは、かつてのクラスメイトたちだった。
「見てください、この男。……鈴原トウジですよ」
俺が指差した先には、医師として白衣を纏う逞しい男の姿があった。
「え……? トウジ? あのジャージの?」
「はい。この世界じゃ、彼は医者になってるんです」
ミサトさんが目を丸くする。
それも無理はない。彼女の知るトウジは、妹思いのただの熱血漢な中学生だったはずだ。
あるいは、エヴァのパイロットとして悲劇的な結末を迎えた少年として記憶に残っているかもしれない。
その彼が、今は命を救う側に立っている。
「それに、ほら。奥さんは委員長のヒカリですよ。子供も生まれてる」
画面には、赤ん坊をあやすヒカリの姿。トウジとヒカリ、二人は結ばれて、この荒廃した世界で新しい命を育んでいる。
ニア・サードインパクトで世界が茶色く染まっても、人は食べ、働き、愛し合い、子供を育てる。その「当たり前」を、彼らは必死に守り抜いていた。
「で、こっちのサバイバル慣れした男が相田ケンスケ。今は『何でも屋』として、村の技術的なことを一手に引き受けてます」
かつてはただのミリオタだったケンスケ。カメラを回してはしゃいでいた少年は、いまや最も頼れる大人の男になっていた。
親との確執や孤独を抱えたアスカの精神的な支柱となり、そして廃人のようになったシンジ君に対しても、無理に励ますことも、責めることもなく、ただそこに居場所を与えてくれている。
「すごいわね……」
ミサトさんが、しみじみと呟いた。
「あの子たち、ちゃんと『大人』になったのね。……私たちが、なれなかった分まで」
画面の中では、シンジ君だけが時の流れから取り残され、14歳の姿のまま立ち尽くしている。
けれど、その周りには確かに、彼を守り、支えようとするかつての友人たちがいた。
「エヴァに乗ることだけが戦いじゃない。彼らは彼らの戦場で、生きるために戦ってる。……俺、この村のシーンが本当に好きなんです。ミサトさんが命懸けで守ろうとした世界には、こういう未来も残ってたんだって思えるから」
俺の言葉に、ミサトさんは無言で頷き、愛おしそうに画面の中の「かつての子供たち」を見つめていた。
その瞳は、指揮官のものでも、上司のものでもなく、ただの優しい一人の女性の色をしていた。
◇◇◇
画面の中の時間は、穏やかに流れていた。
俺は何も解説しなかった。ただ黙って、グラスを置いたまま画面を見つめていた。
「そっくりさん」と呼ばれた、アヤナミシリーズの初期ロット。
本来なら、ネルフでただ命令を待つだけの、あるいはシンジ君の心を揺さぶるためだけに調整された紛い物の命。
けれど彼女は、第3村の陽だまりの中で「生きること」を学んでいく。
田植えをし、風呂に入り、言葉を覚え、「ありがとう」の意味を知る。
その姿は、痛々しいほどに無垢で、そして眩しかった。
「……変わるのね。人は、環境次第でどこまでも」
ミサトさんが独り言のように呟く。
しかし、その時間はあまりにも短かった。
ネルフの外では生きられない身体。
限界を迎えた彼女は、シンジ君の目の前で、スーツを白く染め上げ──パシャリ、と橙色の液体となって弾け飛んだ。
LCLへの還元。
遺されたのは服と、彼女が最後に覚えた「好きな人」への想いだけ。
俺の頬を、熱いものが伝い落ちた。
結末なんて分かりきっている。
それでも、涙は止まらなかった。
「……あんたってさ。図体は加持君みたいにデカくなったけど、中身はあの頃のシンジ君のまんまなのね」
ミサトさんが、呆れたような、それでいてどこか安心したような声で言った。
俺は涙を拭いもせず、小さく頷いた。
そうだ。その通りだ。
俺はずっと、エヴァという物語と共に生きてきた。
死にたい夜はいくつもあった。自殺を考えた日だって数え切れない。
それでも、「エヴァの完結を見届けるまでは死ねない」。
その一心だけで、地面に踵を突き立てて踏ん張ってきた。
この物語が終わるその瞬間を見るために、俺は命を繋いできたんだ。
『エヴァの呪縛』。
新劇場版で明かされた、パイロットが歳を取らない設定。
だが、それは俺自身にかかった呪いでもあった。
1998年。あの夏、旧劇場版を見てから、俺の時計はどこかで止まっていたのかもしれない。
身体だけが大人になり、社会の荒波に揉まれながらも、心の柔らかい部分はあの頃の少年のままで。
目の前のミサトさんもそうだ。永遠の29歳。
俺たちは、ある意味で似た者同士なのかもしれない。
でも、だからこそ。
こうして、ただ一人のクローンの少女の死に、心からの涙を流せる。
大人になって鈍感になったり、冷笑したりせず、ただ純粋に悲しむことができる。
「……心が子供のままでも、悪くないですよ」
鼻をすすりながら俺が言うと、ミサトさんは優しく俺の頭に手を置いた。
その掌の温かさは、画面の中の残酷さとは対照的に、どこまでもリアルだった。
◇◇◇
画面の中では、衝撃の事実が語られていた。
加持リョウジ。
ミサトさんと加持さんの間に、子供がいたということ。
そして、その父親である加持さんは、サードインパクトを止めるために自らを犠牲にし、もうこの世にはいないということ。
「……いつの間に、って感じですよね」
俺はポツリと呟いた。
画面には映らない、あの空白の14年の間に、彼女は母になり、そして愛する人を永遠に失っていたのだ。
「俺も……加持さんみたいな人に憧れてたんです。あんな風に飄々としてて、何でも知ってて、全部包み込んでくれそうな男の人に。……結局、なれませんでしたけど」
俺の言葉に、隣のミサトさんは何も言わず、ただ少し寂しげに目を細めて画面を見つめていた。
そして物語は、ヴンダーの甲板へ。
トウジの妹、鈴原サクラが銃を構える。
彼女の悲痛な叫び。それでも、シンジ君はエヴァに乗ると言った。落とし前をつけるために。
銃声が響く。
咄嗟にシンジ君を庇い、その身を盾にしたのは──やはり、ミサトさんだった。
腹部を朱に染めて倒れ込む彼女の姿が映し出された瞬間、俺の涙腺はまたしても決壊した。
「うっ……ぐすっ……」
「もう、なによ。なんでまた泣いちゃってるのよ」
呆れたような、それでいて温かい声と共に、ミサトさんの手が俺の頭に置かれた。
子供をあやすように、優しく、ゆっくりと撫でられる。
その手の温もりが、余計に涙を誘った。
「だって……仕方ないじゃないですか……!」
俺は鼻をすすり上げながら、涙で滲む視界のまま抗議した。
「映画館で初めて見た時もそうだったんです。シンジ君を庇って、お腹を撃たれて……。こんなの、旧劇の因果じゃないですか。あの時も、ミサトさんはお腹を撃たれて、血を流しながらシンジ君を送り出した」
エレベーターホールへ向かう通路での惨劇。
あの光景が、フラッシュバックする。
世界線が変わっても、物語が変わっても、彼女はまた傷つきながら子供を守ろうとする。
その「業」のような巡り合わせを察してしまった時、俺の感情は理屈を超えて溢れ出してしまったのだ。
「あんた……ほんと、よく見てるわね」
ミサトさんは苦笑交じりにそう言うと、俺の髪をくしゃりと掻き回した。
「でも、見て。……今の私は、まだ立ってるわ」
画面の中のミサトさんは、撃たれながらも毅然と、ヴィレのクルーたちに、そしてシンジ君に、最後の命令を下そうとしていた。
かつてのように床に崩れ落ちるのではなく、自らの足で踏ん張り、未来を掴み取るために。
◇◇◇
激しい艦隊戦のスペクタクルと、エヴァを使ったド派手な「親子喧嘩」。
そのあまりの熱量に、俺の涙も一時は引っ込んだかに思えた。
だが、画面の向こうでアディショナル・インパクトが発動し、現実と虚構の狭間から、あの白い巨人が──巨大なリリスのような姿をしたエヴァンゲリオン・イマジナリーがぬらりと現れた瞬間、俺の身体は硬直した。
あのトラウマだ。
世界を赤く染め上げ、すべてをLCLへと還元していったあの破滅の象徴。
俺は無意識のうちに、隣に座るミサトさんの手をぎゅっと握りしめていた。彼女は少し驚いたように俺を見たが、振りほどくことはせず、ただその手を握り返してくれた。
そして、物語はクライマックスへ。
新たな槍をシンジ君に届けるため、ミサトさんは覚悟を決める。
艦長帽を取り、サングラスを外し、結い上げていた髪を解く。
その背中が、指揮官「葛城艦長」から、一人の女性「ミサトさん」へと戻っていく。
特攻を仕掛けるミサトさんと、炎に包まれるヴンダー。
旧劇の、あの無念と絶望の中で冷たくなっていった最期とは違う。
未来を信じ、希望を託し、笑顔さえ浮かべて逝く、誇り高い最期。
それは確かに「救い」だったのかもしれない。
物語としては、これ以上ない幕引きなのかもしれない。
でも──。
「……嫌だ」
俺の中で、理屈を超えた感情が暴発した。
立派な最期なんていらない。希望を託して死ぬなんて美談で終わらせたくない。
ミサトさんには、生きていて欲しかった。
シンジ君たちが作る新しい世界で、酒を飲んで、笑っていて欲しかった。
画面の中の艦橋が爆散した瞬間、俺の目から再び涙が噴き出した。
もう、画面を見ていられなかった。
「ミサトさん……っ!」
俺は衝動のままに、隣にいるミサトさんを抱き寄せていた。
華奢な肩を腕の中に閉じ込め、その身体にすがりつくように強く抱きしめる。
「ちょ、ちょっとあんた……!?」
驚く彼女の声が頭上から降ってくる。
けれど、俺の耳に届いたのは、もっと確かな「音」だった。
トクトクと、規則正しく脈打つ心臓の音。
温かい体温。
微かに香る酒とシャンプーの匂い。
彼女はここにいる。
画面の中では炎となって消えてしまったけれど、俺の腕の中には、確かに生きているミサトさんがいる。
「……生きてて……よかった……」
嗚咽交じりにそう漏らすと、俺は子供のように彼女の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
物語の結末を受け入れられないわけじゃない。
ただ、この人が失われるという喪失感に、俺の心が耐えきれなかっただけだ。
しばらくして、硬直していたミサトさんの身体から力が抜けた。
彼女の腕が、俺の背中にゆっくりと回される。
「……よしよし。本当に、泣き虫なんだから」
ポンポン、と背中を叩くリズムが、俺の鼓動と重なった。
その優しさがまた痛くて、俺の涙はいつまでも止まることを知らなかった。
◇◇◇
画面の中では歌声と共に、長い長いエンドロールが流れていた。
シンジ君が書き換えた世界──「ネオンジェネシス」。
エヴァがなくなり、ゲンドウもユイも、誰もが補完された世界。
駅のホームで、大人になったシンジ君がマリの手を取り、実写の風景へと駆け出していくラストシーン。
俺はもう泣いてはいなかった。
憑き物が落ちたような、不思議な静けさが胸を満たしている。
俺はミサトさんの肩に頭を預けたまま、その温もりと、画面の余韻をただ感じていた。
「……ねえ、ミサトさん」
「ん?」
頭上から降ってくる声は、少し眠たげで、とても優しい。
「実は、『シン・エヴァ』見るの……これでまだ2回目なんですよ」
俺がそう告げると、肩の上のミサトさんが「あら?」と意外そうな顔をして俺を覗き込んだのが気配でわかった。
俺は苦笑して、正直な気持ちを吐き出した。
「怖かったんです。映画館で見たあの時の、胸を抉られるような感動と……『青春の終わり』を突きつけられた感覚が」
あれは、ただの映画体験じゃなかった。
25年間、人生の半分以上をかけて追いかけ続けた物語との決別。
それはまるで、ずっと付き合ってきた恋人に、ある日突然、笑顔で「サヨナラ」を言われたような感覚だった。
「あの鮮烈な記憶を、家で一人でダラダラ見返すことで上書きしたくなかった。日常の中に溶け込ませて、色褪せさせたくなかったんです。……だから、ずっと棚に仕舞ったままにしてました」
俺は、預けていた頭を上げ、ミサトさんの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「自分一人じゃ、見返せなかった。……今日、ミサトさんが隣にいてくれたから、やっと見ることができたんです」
ミサトさんは、少しだけ目を見開き、それからふわりと微笑んだ。
その笑顔は、かつてシンジ君に向けたものとも、リョウジに向けたものとも違う。
俺という一人の「大人になった少年」の痛みを、丸ごと受け止めるような慈愛に満ちていた。
「……そっか。あんたにとってのエヴァは、ただのアニメじゃなくて……人生そのものだったのね」
彼女は、空になった俺のグラスと、自分のグラスをテーブルに置くと、俺の手をそっと握った。
「その『2回目』の相手が私でよかったなら……光栄よ。もう大丈夫。サヨナラは終わり。これからは、思い出として、大切にしまっておきなさい」
テレビの画面は、もう真っ暗になっていた。
けれど、握られた手の温かさは、ここにある。
俺はようやく、本当の意味で「エヴァンゲリオン」に別れを告げ、そして新しい日常へと歩き出せる気がした。