シンジ君と世界を見送って、しんみりとした空気が部屋に沈殿していた、その時だった。
ミサトさんがパンッ! と景気よく手を叩いて立ち上がったのは。
「んじゃ、湿っぽいのは終わり! 酔い冷ましにお風呂入りましょ♪ 風呂は命の洗濯、今ならサービスしちゃうわよん?」
その言葉が脳内で処理された瞬間、俺の身体は金縛りにあったようにビクッと跳ねた。
「お風呂入りましょ」?
「今ならサービス」?
それって、つまり……そういうこと、なの、か?
思考がショートし、全身の血液が一気に顔面に集まるのが自分でも分かった。頬が、耳が、火がついたように熱い。
さっきまでの涙なんて瞬時に蒸発して、代わりに心臓が早鐘を打ち始める。
俺が口をパクパクさせて固まっていると、ミサトさんはその反応が予想通りだったと言わんばかりに、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。
「あーらら? 顔真っ赤にしちゃって。なーに想像したのかなぁ~?」
「……っ!」
「もしかして、お姉さんと『混浴』とか期待しちゃった? ん? ん?」
小悪魔的な、いや、完全に獲物を弄ぶ捕食者の目で突っ込んでくる。
悔しい。
さっきまであんなに格好いい指揮官だったのに、今は完全にただの「悪い大人」だ。
図星を突かれた恥ずかしさと、からかわれた悔しさで、俺は半ばヤケクソ気味に叫んでいた。
「そーですよ、どうせこの歳で経験なんてないですよ! 悪いですか!?」
「あらあら、開き直った」
「うるさいなぁもう! ずっと二次元ばっかり追いかけてきたんだから仕方ないでしょ!?」
俺が顔を背けて叫ぶと、ミサトさんは「あははは!」と豪快に笑い飛ばした。
そして、拗ねる俺の背中をバシバシと叩く。
「いーじゃないの、ウブで! すっれてない男の子、お姉さんは嫌いじゃないわよ?」
「……どうせからかってるんでしょ」
「さあね? ……ま、とりあえずお湯入れてきてよ。サービスの内容は、お風呂が沸いてからのお楽しみってことで♪」
ミサトさんはウインクを一つ残すと、鼻歌交じりにタオルを探し始めた。
俺はまだ熱い頬をさすりながら、浴室へと向かう。
……本当に、この人には敵わない。
憧れで、雲の上の存在で、最高の「お姉さん」だ。
(……サービスって、結局なんだったんだろう……)
期待と不安と、やっぱりちょっとした期待を胸に、俺は給湯ボタンを押し込んだ。
◇◇◇
「で、結局どうする? 一緒に入っちゃう?」
悪戯っぽく笑い、上目遣いで覗き込んでくるミサトさん。
その軽口が、俺の中で何かのスイッチを切り替えた。
羞恥心よりも、理性よりも、もっと根源的な衝動──恐怖だ。
目を離したら、ふっと煙のように消えてしまうんじゃないか。
また俺を置いて、あの爆炎の中に還ってしまうんじゃないか。
「……っ!」
俺は彼女の言葉に答える代わりに、その体を正面から強く抱きしめた。
華奢な背中に腕を回し、自分の胸板に彼女を押し付ける。
温かい。柔らかい。ここにいる。
「ちょ、ちょっと……?」
ミサトさんの驚いた声が聞こえるが、もう離せなかった。
俺は震える声で、ずっと胸につっかえていた言葉を吐き出した。
「加持さんみたいに……上手く出来ないと思いますけど……」
あの飄々として、全てを包み込む大人の男にはなれない。
俺は図体ばかりデカくなった、ただのエヴァオタクの子供だ。
それでも、今、目の前にいる貴方に触れたい。
俺は意を決して、ミサトさんの唇を塞いだ。
不器用で、余裕のないキス。
心臓が破裂しそうで、何をしているのか自分でも分からなくなる。
ただ必死に、彼女の存在を確かめるように唇を押し付け、そして離した瞬間──情けないことに、俺の視界はまた涙で滲んでいた。
「……あ」
目の前のミサトさんが、少しだけ目を見開き、それからふわりと、聖母のような慈愛に満ちた瞳を向けた。
俺の涙を指先で拭うと、今度は彼女の方から顔を近づけてきた。
さっきの俺とは違う、柔らかく、それでいて深い口づけ。
俺の思考が真っ白に染まる。
唇が離れると、彼女は俺の頭をその豊かな胸に抱き寄せた。
トクトクと脈打つ鼓動が、ダイレクトに耳に響く。
そして、彼女は俺の耳元で、あの懐かしくも新しい、甘い響きを囁いた。
「……大人のキスよ。お風呂出たら、続きをしましょ?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で旧劇場版の「呪い」が解け、新たな「約束」へと変わった気がした。
あの時は別れの言葉だったそれが、今はこれからの愛おしい時間を約束する言葉になっている。
「……ズルいですよ、ミサトさん」
俺が赤い顔で呟くと、彼女は「大人はズルいものなのよ」と楽しげに笑った。
浴室のドアを開けると、湯気が白く立ち込めている。
俺たちは互いに視線を逸らさず、一枚、また一枚と衣服を脱ぎ捨てていく。
憧れだった人が、今、俺と同じ場所で、同じ時間を刻んでいる。
それはどんな映画のラストシーンよりも鮮烈で、そして何よりも幸せな現実だった。
◇◇◇
昼過ぎの気怠い日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいる。
昨夜の余韻というか、あの後何度も求めて、求められて……結局、朝チュンどころか昼チュンまで雪崩れ込んだ甘い疲労感が身体に残っている。
「ん~! このハンバーグ、冷食なの? 結構イケるじゃない!」
目の前では、俺のTシャツをダボッと着ただけのミサトさんが、デミグラスソースのかかったハンバーグを白米にバウンドさせて頬張っている。
昨夜の妖艶な「大人の女性」はどこへやら、今はすっかり「いつものミサトさん」だ。
俺は箸を動かしながら、急速に現実的な問題に頭を悩ませていた。
(……冷静に考えて、詰んでないか?)
戸籍がない。住民票がない。マイナンバーもない。
現代日本において、それは「存在しない」に等しい。
まともな企業への就職は絶望的。銀行口座も作れないし、携帯の契約だって俺名義で貸すしかない。
「ねえ、ミサトさん」
「んぐ、なによぅ?」
「今後のことなんですけど……正直、ミサトさんが外で働くのってハードル高すぎる気がして」
俺が懸念点を並べ立てると、ミサトさんはスプーンを咥えたまま「ふむ」と唸った。
「確かにねぇ。私のスキルって言ったら『使徒殲滅』『作戦立案』『射撃』『危険運転』……あとなんだっけ?」
「……それ、平和な日本では全部『テロリスト予備軍』ですよ」
コンビニやスーパーのレジ打ち?
いや、ミサトさんだぞ。客に理不尽なクレームつけられたら、笑顔で対応するより先にロッカー蹴っ飛ばすか、最悪の場合、関節技を極めかねない。
それに、あのガサツさだ。品出しや在庫管理なんて繊細な作業ができるとは到底思えない。
「じゃあ、自衛隊とか? 傭兵?」
「自衛隊こそ身元調査で一発アウトですよ。それに……」
俺は少し言い淀んでから、茶碗のご飯をつついた。
「……やっと会えたのに、寮生活とか遠征とかで会えなくなるのは、俺が嫌です」
俺の言葉に、ミサトさんはニッと口角を上げた。
テーブルの向こうから身を乗り出し、ソースのついた唇で、俺の頬にチュッとする。
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。……ま、私もあんた以外知らないこの世界で、離れ離れになるのは御免だわ」
彼女は満足そうに席に戻ると、残りのハンバーグを平らげた。
「となると、選択肢は一つね」
ミサトさんはビシッと指を立てて宣言した。
「私が『専業主婦』になって、あんたを支える! 家のことは任せて!」
その瞬間、俺の脳裏に、ゴミ屋敷と化したマンションの一室と、レトルトカレーのみの食卓、そして洗濯機の前で呆然とするミサトさんの姿が鮮明に浮かんだ。
「……いや、ミサトさん」
「なによ、その『一番ダメなやつだ』って顔は」
俺は深いため息をついて、覚悟を決めた。
「家のことは俺がやります。俺が稼ぎます。ミサトさんは……とりあえず、家でビール飲んで待っててくれれば、それでいいです」
結局、俺がかつてのシンジ君や加持さんのように、彼女の「生活」を丸ごと背負い込むことになる未来しか見えなかった。
でも不思議と、それは嫌な重さではなかった。
あの葛城ミサトを「養う」という、とんでもない非日常が、俺の日常になろうとしているのだから。
「ま、ミサトさんを養うっていうのは、もう何というか……心に決めてますから。男に二言はないです」
俺が食べ終えたハンバーグの皿を片付けながらボソリと宣言すると、ミサトさんは頬杖をついて、ニヤリと口角を吊り上げた。
その瞳は、昨夜の情事の最中に見せたものと同じ、獲物をからかうような妖艶な色を帯びている。
「なーんか、今の言い方……。まるで『一回抱かれたら彼女面する女の子』みたいね?」
「ぶふっ……!?」
核心を突く、というよりはあまりに意地悪なその例えに、俺は自分の唾でむせ返った。
図星だとかそういう次元じゃない。男のプライドをピンポイントでくすぐってくる破壊力。
顔が、また沸騰する。
「うっ、しょ、しょうがないじゃないですか……!」
「あら、図星?」
「だ、だって……は、はじめてって、と、特別だし……その……」
そこまで言って、俺は口をつぐんだ。
33歳にして「はじめて」の重みを語るなんて、客観的に見れば滑稽かもしれない。
でも、相手はずっと憧れ続けてきたミサトさんなのだ。身体の繋がり以上の意味を持ってしまうのは当然だろう。
「わ、悪いですか!? 笑わないでくださいよ!」
俺が真っ赤になって抗議すると、ミサトさんは「くくっ」と喉を鳴らして肩を震わせた。
「ごめんごめん。だってあんた、反応が分かりやすすぎて可愛いんだもん」
「むぅ……! もう! そんなんだからリツコさんか加持さんくらいしか、マトモに相手してくれないんですよ!」
痛いところを突き返してやると、ミサトさんは「痛っ、言うわねぇ」と苦笑しながらも、全く堪えていない様子でビールを煽った。
俺はため息をついて、テーブル越しに彼女を見つめた。
だらしない格好で、昼から酒を飲んで、俺をからかって遊んでいる。
それでも、やっぱり彼女は。
「……憧れのお姉さん相手にカッコつけることくらい、させてくださいよ」
俺が拗ねたように呟くと、ミサトさんは缶を置いて、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「はいはい。頼りにしてるわよ、私の『旦那様』?」
その一言で、俺の機嫌なんて一瞬で治ってしまうのだから、本当にこの人には一生勝てる気がしなかった。