小鳥のさえずりと、温かい湯船。
昨夜の情事の余韻に浸りながら、これ以上ない幸福な朝……のはずだった。
頭上から降ってきた「それ」は、凄まじい水飛沫を上げて我が家の狭い浴槽にダイブしてきた。
「ぶはっ!? な、なに!?」
お湯が溢れ出し、洗い場に洪水が起きる。
パニックになりながらも、俺は湯船に沈みかけた物体を反射的に抱き起こした。
ずっしりとした人体の重み。
お湯を吸って張り付く白衣。
その下の鮮やかなブルーのシャツに、スリットの入った黒のタイトスカート。
そして、水に濡れて項に張り付いた金髪と、切れ長の目の下にある特徴的な泣きぼくろ。
見間違うはずがない。
ネルフの頭脳。E計画責任者。そして、ミサトさんの親友。
「あ、赤木……リツコ、博士……!?」
ぐったりとして意識のない彼女の頭を水面から出し、俺は喉が裂けんばかりに叫んだ。
「ミミ、ミサトさーーーん!!」
「なによ!? 敵襲!? 使徒!?」
ドタドタドタッ!! と廊下を走る足音がして、脱衣所のドアが勢いよく開け放たれた。
そこには、バスタオル一枚……いや、慌てすぎてそれすら手で持っただけの、あられもない姿のミサトさんが飛び込んできた。
「あんた何叫んで……って、え?」
ミサトさんの動きが止まる。
俺の腕の中で、白衣を濡らしてぐったりとしている金髪の女性を見て、彼女の瞳が見開かれる。
持っていたバスタオルが、ハラリと床に落ちた。
「嘘……リツコ……?」
震える声で親友の名を呼ぶと、ミサトさんは裸のまま洗い場に飛び込んできた。
「リツコ!! しっかりして!! リツコ!!」
ミサトさんがリツコさんの頬を叩く。反応はない。
俺の腕の中で、ミサトさんの親友が死んだように眠っている。
ミサトさんだけじゃなかった。彼女まで、この世界に来てしまったのか。
「ミサトさん、とりあえず引き上げましょう! ここじゃ処置もできない!」
「そ、そうね! 手伝って! ……生きてるわよね!? リツコぉ!!」
俺とミサトさんは、ずぶ濡れになりながら、意識のないリツコさんを狭い浴槽から引きずり出した。
平和な朝は一転、緊急救命の現場へと変貌していた。
◇◇◇
氷がカランと音を立てる。
震える手でグラスを受け取ったミサトさんは、琥珀色の液体を一気に喉に流し込んだ。
ウィスキーのロック。これくらいの度数がないと、今の彼女の動揺は鎮まらないだろう。
ソファには、タオルケットを掛けられたリツコさんが静かに寝息を立てている。
俺は濡れた床を拭き終わった後、改めて彼女の姿──セミロングの金髪、ネルフの制服に白衣という出で立ち、そして微かに漂っていた鉄錆のような血の匂いから導き出される「考察」をミサトさんに語った。
「……髪型、そしてあの服装。あれは俺たちがよく知る……2015年の赤木リツコ博士です」
「じゃあ、私があっちで死んだ時と同じ……?」
「ええ。もっと言えば、あの血の匂いと状況からして……おそらく旧劇の終盤。碇ゲンドウと対峙し、彼に撃たれた直後のリツコさん、だと思います」
ミサトさんが息を呑む。
親友が、かつて愛した男に撃ち殺されるという最悪の結末。
俺も言葉にするのは辛かったが、冷静に分析を続けた。
「彼女は撃たれて、LCLの海に落ちたはずです。……でも、見てください。今の彼女の身体には、銃創ひとつない」
俺は自分の胸に手を当て、ミサトさんを見つめた。
「これは俺の仮説ですけど……サードインパクト、あるいは人類補完計画の過程で、全人類は一度LCLに還元されました。肉体の檻を失い、魂だけの存在になった。そこからこっちの世界に来る際に、魂のカタチ……『自己イメージ』に沿って肉体が再構成されたんじゃないかと」
「再構成……?」
「はい。だから、あっちで爆発に巻き込まれて身体がバラバラになったはずのミサトさんも、こうして五体満足でここにいる。リツコさんも同じです。撃たれた事実は『匂い』として残っていても、肉体そのものは彼女の魂が記憶する『完全な状態』で復元された。……あくまで、オタクの妄想じみた考察ですけどね」
俺は少し肩をすくめて、眠るリツコさんに視線を戻した。
「ま、これ以上の小難しい理屈や、どうしてこの風呂場に繋がったのかという量子力学的な話は……目を覚ましたご本人が考えてくれますよ。なにせ、あの赤木リツコ博士なんですから。俺たちが頭をひねるより、よっぽど正確な答えを出してくれるはずです」
そう言って俺が苦笑すると、ミサトさんは張り詰めていた糸が少し緩んだように、大きく息を吐き出し、グラスに残った氷を愛おしそうに見つめた。
「……そうね。リツコなら、起きた瞬間に『非科学的だわ』って眉間に皺を寄せて、すぐに解明しちゃうでしょうね」
「ですね。……とりあえず、彼女が起きるまで、俺たちはここで飲みながら待機といきましょうか」
「ええ。……頼むわよ、私のエンジニア君」
そうして俺たちは、異世界から降ってきた天才科学者の目覚めを、静かに待つことにした。
◇◇◇
ソファに身を沈めたリツコさんは、差し出したブラックコーヒーを一口啜ると、トレードマークの金髪をかき上げ、冷静な瞳で俺を見据えた。
目覚めた直後の混乱は数秒で切り捨て、今は目の前の事象を解析する「科学者」の顔だ。
俺は努めて感情を排し、システムログを読み上げるようなフラットなトーンで説明を開始した。
「現状のパラメータと、推測される事象について報告します。まず、現在地はあなた方の世界を『虚構』──フィクションとして観測している、別位相の並行世界です」
「フィクション……。私たちが、作り話の登場人物だと言うの?」
「概念的にはそうなります。この世界にはアダムもリリスも存在しない。当然、使徒もエヴァも、NERVもゼーレも存在しません。物理法則は安定しており、ATフィールドによる事象改変も確認されていません」
リツコさんは眉ひとつ動かさず、タバコを探す素振りを見せた(俺はすかさず、自分の吸っているタバコを差し出した)。
火を点け、紫煙を吐き出しながら、彼女は小さく頷く。
「続けて」
「次に、あなた方の身体的状態について。ターミナル・ドグマでの被弾、及びサードインパクトによるLCLへの還元。本来なら肉体は消滅しているはずです。しかし、ここは『あなた方を観測していた世界』。私の仮説ですが、強力な自己イメージ……つまりATフィールドが、こちらの世界の物理法則に適合する形で、LCLから肉体を再構成したと考えられます」
俺はPCのモニターに、旧劇のラストシーンに関する資料と、人体構造の図面を表示させた。
「魂の形が肉体を形作る。故に、LCLに溶ける前の『五体満足な状態』がデフォルトとして定義された。ミサトさんに爆傷がなく、博士に銃創がないのはその為です」
「なるほどね……。自我境界の再定義が、別次元への転移のプロセスが肉体を再構成させた、という解釈もできるわね。非科学的だけど、私たちがここに生きているという『結果』が、その仮説を裏付けているわ」
「最後に、碇ゲンドウについて。彼はこちらには転移していないと推測されます。彼は自らの肉体にアダムの胎児を融合させ、リリスと禁断の融合を果たした。あれは人の範疇を超え、魂の輪廻のサイクルから逸脱した行為です。故に、人の形として再構成されるプロセスから除外された。この世界に彼が現れる確率は、限りなくゼロに近いでしょう」
俺が一通りの説明を終えると、リツコさんは長く煙を吐き出し、感心したように口元を緩めた。
「完璧なプレゼンテーションね。感情論を排し、少ない材料から論理的に最適解を導き出している。……MAGIでも、ここまで的確な推論は出せないかもしれないわ」
「恐縮です」
俺が頭を下げると、横でぽかんと口を開けていたミサトさんが、信じられないものを見る目で俺を凝視していた。
「……ちょ、ちょっち待って。あんた、何そのキャラ? 私と話してる時と全然違うじゃない。『自我境界』? 『再定義』? 『輪廻のサイクル』?……あんた、ただのオタクじゃなかったの? なんでリツコと対等に専門用語で会話できてんのよ」
ミサトさんの素朴な驚愕に、俺はいつもの調子に戻って肩をすくめた。
「いやだなぁ、ミサトさん。ミサトさんに同じ説明をしても、『要するに奇跡なんでしょ!』で片付けちゃうか、頭こんがらがって知恵熱出すのがオチでしょう?相手はあの赤木リツコ博士ですよ?これくらいのプロトコルで話さないと、納得してもらえないと思ったんで」
俺がそう言ってニヤリと笑うと、リツコさんは「あら、私の扱いをよく分かっているわね」とクスリと笑い、ミサトさんは「むぅ……!」と頬を膨らませた。
「なんか悔しい! 私だけ仲間外れにされた気分!」
「あはは、ミサトさんには『愛の言葉』で語り合いますから」
拗ねるミサトさんをなだめつつ、俺は安堵していた。
これで、ネルフきっての天才科学者も、この奇妙な共同生活を受け入れてもらえそうだ。
◇◇◇
タバコの煙が、換気扇に向かって真っ直ぐに吸い込まれていく。
リツコさんは細い指で灰を落としながら、俺の提案──『リツコさんのハッキング能力による戸籍の偽造』という、法治国家においてはあまりに危険な、しかし現状打破には最も有効なカードについて、値踏みするように目を細めた。
「……随分と大胆なことを言うのね。行政機関のデータベースへの侵入と改竄。普通に重罪よ? それに、確かにMAGIに比べれば、この世界のセキュリティなんて鍵の掛かっていないドア同然かもしれないけれど……」
彼女はそこで言葉を切り、煙の向こう側から、試すような視線を俺に突き刺した。
「あなた、本気? 戸籍がない今の状態なら、私たちはあなたがいなければ生きていけない。衣食住のすべてをあなたに依存するしかない『籠の鳥』よ。……男なら、そんな美人を2人も囲って、自分好みに管理できる状況に優越感を覚えるものじゃないの?」
その言葉には、明らかな刺があった。
かつて彼女を縛り付け、利用し、そして捨てた男──碇ゲンドウの影が、彼女の言葉の端々にこびりついている。
彼女は俺を通して、男という生き物の「支配欲」を見ているのだ。
俺はリツコさんの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……俺は、ミサトさんが好きです。心底惚れてます」
隣でミサトさんが「んぐっ」と変な声を上げたが、構わず続ける。
「それに、リツコさんのことも……生きることに不器用で、損ばかりしてしまう貴方のことも、人として好ましく思ってます。……だからこそ、立場の弱みに付け込んで、貴女たちを束縛するような真似はしたくない」
俺は言葉に力を込めた。
「俺は、2人に自由でいてほしい。俺に依存するんじゃなく、自分の足で立って、自分の意思で俺の隣にいてほしいんです。……自分の都合で女を縛り付けて、利用するだけ利用するような男……リツコさん、大っ嫌いでしょ?」
一瞬、リツコさんの時間が止まった。
彼女の瞳が揺らぎ、その奥にあった冷ややかな警戒心が、音を立てて崩れ落ちていく。
俺の言葉が、彼女の古傷──ゲンドウへの愛憎と、彼とは決定的に違う「男」の在り方を明確に区別させたのだ。
長い沈黙の後。
リツコさんは深く息を吐き出し、吸い終わったタバコを灰皿に押し付けた。
「……フフ。本当に、嫌になるくらい『あの人』とは真逆ね、あなたは」
彼女はパソコンに向き直ると、パキパキと指を鳴らした。
その横顔には、もう迷いも、俺を試すような色もなかった。
「いいわ。やりましょう。MAGIの防壁突破に比べれば、役所のデータベースなんて赤子の手をひねるようなものよ。……ミサト、あなたの分もついでに作ってあげる。エンジニア君の隣に、胸を張って並べるようにね」
「リツコ……!」
「それで、名前はどうするの? このまま『葛城』と『赤木』で通す?」
リツコさんがキーボードに手を置く。
その背中は、かつてネルフで孤独に戦っていた科学者のものではなく、信頼できる仲間を得た、頼もしい共犯者の背中だった。
◇◇◇
モニターのブルーライトが、リツコさんの横顔を青白く照らし出している。
彼女の細い指がキーボードの上を舞うたびに、信じられない速度で文字列が生成され、次々と堅牢なはずのセキュリティゲートが突破されていく。
俺は邪魔にならないよう息を殺しながら、けれどその光景を瞬き一つ惜しんで食い入るように見つめていた。
当然だ。かつて第3新東京市でスーパーコンピューター「MAGI」を操り、使徒イロウルと電子戦を繰り広げた、あの赤木リツコの手腕だぞ?
一介のエンジニアとして、これを見逃すなんて冒涜に等しい。
「……名前はどうするの? 偽名にする?」
リツコさんが手を止めずに尋ねてくる。
「いえ、そのままで行きましょう。『葛城ミサト』と『赤木リツコ』」
俺は即答した。
「生年月日だけ調整して、今の年齢が自然になるように年号を合わせればいい。この国には何千万人も人がいます。同姓同名なんて珍しくない」
俺がそう言うと、リツコさんは「……なるほどね」と口元を歪めた。
タターンッ! と小気味良い音が響き、決定キーが押される。
画面には、架空の、しかし公的に有効な戸籍データが生成された。
これで彼女たちは、幽霊ではなく、この社会の住人となった。
一仕事終えたリツコさんが、椅子をくるりと回してこちらに向き直る。
その鋭い視線が、俺の心底を見透かすように細められた。
「……それにしても。あなた、随分と正直ね」
「え?」
「『弱みにつけこむのが嫌い』と言ったことよ。……分かっているんでしょ? それが結局、別の形の『束縛』になるってこと」
リツコさんは組んだ足を組み替え、冷静に分析してみせた。
「暴力や恐怖で縛るのは三流。恩義や優しさ、誠実さで相手の心を縛るのが、より強固で逃れられない鎖になる。あなたは『自由にしていい』と言いながら、私たちがあなたを裏切れないような、一番居心地の良い籠を用意しているのよ」
彼女の指摘は的確だった。
俺は苦笑して、頭を掻いた。
「……お見通しですね、博士。ええ、そうです。健全か不健全かの違いでしかない。俺は貴方たちに恩を売って、恩義で縛って、傍にいてもらおうとしてるズルい男です」
俺はミサトさんとリツコさん、二人を交互に見つめた。
「俺には、エヴァのパイロットみたいな特別な力もないし、加持さんみたいな色気もない。提供できる面白味なんて、あんまりないとは思います。……でも、少なくとも、見てても良いくらいには飽きさせない努力はしますよ。この世界の『ガイド役』として、ね」
俺の言葉に、リツコさんは呆れたように息を吐き、それからふわりと笑った。
「……フフ。退屈は嫌いじゃないわ。それに、あの人の『不健全な束縛』にはもう飽き飽きしていたところよ」
「私もよー! あんたの作る『籠』なら、ビールも冷えてるし最高じゃない!」
ミサトさんが横から割り込み、俺の首に腕を回してくる。
リツコさんもまた、穏やかな目で頷いた。
「契約成立ね。よろしく頼むわ、私たちの共犯者さん」
こうして、俺と二人の「元」ネルフ職員による、奇妙で穏やかな共同生活の基盤が、法的にも心理的にも完成したのだった。