電動ノコギリの甲高い駆動音が、休日の昼下がりに響き渡る。
「……ちょっと、あんた。これ本当に『日曜大工』の範疇なの?」
庭先で腕組みをして作業を見守っていたミサトさんが、呆れを通り越して感心した声を上げた。
無理もない。俺がやっているのは、ホームセンターで買ったカラーボックスを組み立てるレベルじゃない。
基礎を打ち、柱を立て、梁を渡し、屋根を拭く。
完全な「増築工事」だ。
「高校は工業科の建築コースだったんですよ。昔取った杵柄ってやつです」
俺は額の汗をタオルで拭いながら、組み木工法で柱と梁をガッチリと組み合わせる。
釘や金具に頼りすぎない伝統的な工法は、強度はもちろんだが、何より「作っている」という実感が湧く。
壁材には調湿効果のある漆喰を塗り、断熱材もしっかり仕込む。
そして仕上げは──。
ドカァァン!!
ハンマーをフルスイングして、元々あった「物置部屋」の壁をぶち抜く。
埃が舞う中、既存の小部屋と、新しく作った増築部分が繋がり、広々とした一つの空間が生まれた。
「ゲホッ、ゲホッ……! 随分と豪快ね」
埃を払いつつ顔を出したリツコさんが、生まれ変わった部屋を見渡して目を細めた。
PC機材やサーバーラック、それに彼女がこれから必要とするであろう専門書や資料。それらを置いても十分な広さがある。
簡易的とはいえ、防音と空調も完備した、リツコさん専用の「
「……既存の物置と増築部分を直列に繋いで、拡張性を確保する。合理的かつ、私のニーズを完璧に把握した設計ね。それにこの構造……組み木の精度も高い。素人の仕事じゃないわ」
リツコさんは壁の漆喰に触れ、満足げに頷いた。
「これなら、MAGIの再構築……とまではいかないけど、快適な解析室として使わせてもらえるわ。ありがとう、エンジニア君」
「気に入ってもらえて何よりです。これでリツコさんも、気兼ねなく研究に没頭できるでしょ?」
「ええ。……で?」
リツコさんはニヤリと意味深な笑みを浮かべ、俺とミサトさんを交互に見た。
「私がこの個室に移るということは、元の寝室が『空く』ということよね?」
その言葉に、ミサトさんが「あッ!」と声を上げ、それから見る見るうちに顔を赤くした。
リツコさんの指摘する通り、俺が居間での雑魚寝生活から脱却し、再びミサトさんと二人きりの寝室に戻ることになる。
「……というわけで、ミサトさん。今夜からはまた、一緒の布団で寝てもらいますからね?」
俺がニカっと笑うと、ミサトさんは「もぉ~! あんたってば、ホントに手が早いんだから!」と俺の背中をバシバシ叩いてきたが、その表情はどう見ても嬉しそうだった。
自分たちの家を、自分の手で作り、愛する人たちの居場所を作る。
男の甲斐性を見せつけつつ、夜の平穏もしっかり確保する。
工業高校時代の俺よ、見てるか。お前の学んだ技術は今、最高の幸せのために役立ってるぞ。
◇◇◇
『ミサトの作戦会議室』、配信開始から数ヶ月。
画面の構成に、ある「異変」が起きていた。
メイン画面でヱビスビールを片手に熱弁を振るうミサトさん。
その背景、ピントがボケた奥のデスク。
俺の隣に、もう一人の人物が座っているのだ。
金色の髪。白衣。そして手にはブラックコーヒー。
顔こそモニターの影で見えないものの、その凛とした背中と、時折マイクが拾う「冷静すぎるツッコミ」が、視聴者の間で爆発的な人気を博していた。
「……だからね! そこで引いちゃダメなのよ!相手がどう思ってるか不安? そんなの関係ないわ!『好き』って気持ちは、ATフィールドを中和する一番の武器なんだから!ガンガン攻めて、相手の心の壁をこじ開けなさい!」
ミサトさんが画面越しに拳を握りしめ、相談者(片思い中の大学生)に熱いエールを送る。
コメント欄は『ミサトさんかっけえ!』『攻めるわ!』と盛り上がっている。
……が、そこで背後から、氷のように冷徹な声が響いた。
「……やめなさい、ミサト。その相手の行動パターン、統計的に見て『脈ナシ』よ。無謀な特攻は玉砕するだけ。リソースの無駄遣いね」
ミサトさんが「ぐえっ」と変な声を上げて振り返る。
「ちょ、リツコぉ! 今いいとこだったのに! 夢がないわねぇ!」
「夢で飯は食えないわ。希望的観測は人が生きていくための必需品だけど、今の彼に必要なのは現実的な勝算よ。エンジニア君、過去の類似ケースの成約率──カップル成立率を提示して」
俺は苦笑しながら、リツコさんの指示通りにチャット欄にデータを貼り付ける。
リツコさんは満足げにコーヒーを啜り、ボソリと付け加えた。
「……男なんてね、押せば引く生き物なのよ。少し泳がせて、焦らして、向こうから来るように仕向けるのが『大人の戦術』よ」
コメント欄が一気に沸き立つ。
『博士キターーー!!』
『正論パンチwww』
『背中しか見えないのにこの威圧感よ』
『感情のミサト、論理のリツコ』
『このバランス最高かよ』
『リツコさんの恋愛講座もっと聞きたい』
そう、このチャンネルは今や、二人の掛け合いがメインコンテンツ化していた。
情熱的で直感型のミサトさんがアクセルを踏み込み、論理的で現実的なリツコさんがブレーキ(あるいはハンドル)を操作する。
そして、その間で俺が調整する。
この「トリオ漫才」のような構図が、予想外の化学反応を生んでいたのだ。
「むぅ……! みんなリツコばっかり持ち上げて!主役は私よ!?……ま、いいわ。リツコの言う『大人の戦術』とやら、詳しく聞かせてもらいましょーか!というわけで、スパチャ投げてくれたら、後ろの『博士』が答えてくれる……かも?」
ミサトさんが不貞腐れつつも上手く誘導すると、画面には虹色のスパチャが滝のように流れ始めた。
俺の隣で、リツコさんがフッと口元を緩める気配がした。
キーボードを叩く俺の手に、彼女の白衣の裾が触れる。
「……フフ。他人の恋愛沙汰に口を出すのが、こんなに面白いなんてね。エンジニア君、コーヒーのおかわり。……あと、報酬の交渉も忘れないでね?」
マイクに乗らない小声で囁かれ、俺は「イエス・マム」と小さく敬礼した。
どうやら、我が家の家計は盤石どころか、うなぎ登りになりそうだ。
◇◇◇
モニターの明かりだけが灯る静寂の中で、私はコーヒーカップを片手に、猛烈な勢いでキーボードを叩く彼の背中を眺めていた。
(……驚いたわね。まさかここまでとは)
正直、最初は期待していなかった。
この世界での生活基盤を整えるため、彼に私の技術の基礎を叩き込んだのは、単なる必要に迫られてのこと。
けれど、彼はスポンジが水を吸うように私の知識を吸収していった。
その真摯で貪欲な姿勢は、かつての伊吹マヤを彷彿とさせる。いや、大局的な視点を持っている分、マヤ以上に扱いやすいかもしれない。
情報処理能力は及第点。プログラミングのセンスも悪くない。
これなら、私が不在の時にマヤと組ませてMAGIの管理を任せても、システムダウンを起こすことはないでしょうね。
ミサトが「ネルフに欲しい」と言ったのは、あながち酔った勢いのお世辞ではなかったわけね。
それに何より、彼という存在の特異性。
NERVの最深部、ゼーレのシナリオ、そして私たちの「末路」までを知り尽くしている情報量。
もし……もしも、あっちの世界にいた頃、私の隣に彼がいてくれたら。
私はあの忌々しい男──碇ゲンドウとの腐れ縁を、もっと早く、綺麗さっぱり断ち切れていたかもしれない。
あの泥沼に嵌まることなく、彼に「乗り換え」ていたかもしれない。
「……ふふ」
思い出し笑いが漏れる。
彼が教えてくれた、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』での私の行動。
別の可能性の私は、あの男の頭に躊躇なく鉛玉を数発プレゼントしてやったという。
それを聞いた時の爽快感といったら。長年の胸のつかえが取れるようだった。
「観てみますか?」と彼は勧めてくれたけれど、私は丁重に断った。
映像を見てスッキリしてしまうのは勿体ない。
私の想像の中で、あの男が驚愕と恐怖に歪む顔を何度も反芻する方が、今の私には甘美な愉しみだから。
そんな私の仄暗い、ドス黒い情念さえも、彼は「リツコさんらしい」と苦笑して受け入れた。
……本当に、末恐ろしい男。
カタッ、とタイピングの音が止まる。
彼が大きく背伸びをして、振り返った。
「博士、課題のコード、書き上がりました。チェックお願いします」
少し充血した目。けれど、達成感に満ちた少年のごとき眼差し。
私はデスクに近づき、画面を覗き込む。
……完璧ね。美しいコードだわ。
「合格よ。……よく頑張ったわね、エンジニア君」
私は彼の肩に手を置き、その耳元に顔を近づけた。
ミサトは隣の寝室で、高いびきをかいて寝ている。
この背徳感もまた、私という女を構成する要素の一つ。
「頑張った生徒には、ご褒美が必要かしら?」
彼の肩がビクリと跳ねて固まる。
私が教えるのは、デジタルな技術だけじゃない。
このどうしようもない程に可愛げがあってウブな彼に、大人の女の「火遊び」を教え込むこと。
かつては満たされぬ心を埋めるための自傷行為のようだった情事が、今は違う。
私の全てを受け入れ、学び、成長する彼を「教育」する喜び。
科学者としての知的好奇心と、女としての所有欲が同時に満たされていく。
「……さあ、今夜の『補習』を始めましょうか。ミサトには内緒で……ね?」
私は彼の唇を塞ぎながら、かつてない充実感に浸っていた。
この世界に来て、私はようやく、本当の意味で「生きている」のかもしれない。
◇◇◇
ミサトさんに愛を囁きながら、リツコさんとも肌を重ねる。
端から見れば、ただの二股、不誠実極まりない男だ。
けれど、この歪な三角関係は、俺の中にある巨大な「恐怖」に対する、俺なりの防衛本能であり、エゴの塊だった。
『エヴァンゲリオン』という物語は、繰り返す。
テレビ版、旧劇場版、貞本エヴァ、ANIMA、そして新劇場版。
円環の理、あるいは「ガフの扉」の向こう側にある理屈。
あの魂の輪廻から外れ、人間であることを辞めたはずの碇ゲンドウでさえ、世界が書き換わるたびに「シンジの父」として再定義され、登場し続けている。
ならば、今ここにいるミサトさんとリツコさんは?
この「平和な日本」という観測世界は、あくまで一時的な避難所に過ぎないのではないか?
いつか突然、世界が補正力を働かせ、二人をあの「エヴァの呪縛」の中へと引き戻してしまうのではないか?
そんな最悪のシナリオが、考察班として鍛え上げた脳裏をよぎって離れない。
「……だから、備えるしかないんです」
増築したラボの中、モニターの蒼い光に照らされながら、俺はリツコさんに語りかけた。
「二人をこの世界に強引に『楔』として打ち込み、繋ぎ止める方法。あるいは……もし二人があっちに引き戻される時、俺も一緒に魂の形を変えて、ついて行く方法」
本来なら、形而上生物学の権威である冬月先生か、ユイさんがいれば話は早いだろう。
だが、無い物ねだりをしても始まらない。
俺の手元にあるのは、過去のあらゆるエヴァ媒体から得た知識だけ。
その中でも、特異点とも言えるのが『冬月コウゾウ』という存在だ。
『新世紀エヴァンゲリオン2』の冬月シナリオ。
あそこで彼は、科学の果てに、自らの意思だけで「魂の解脱」──肉体から魂を遊離させ、自在に操る領域に到達している。
さらに『シン・エヴァ』のラストでも、彼はLCL化を技術と意志の力だけで耐え、形を保ってみせた。
「……京都大学の教授ってのは、どいつもこいつも化け物か何かなんですかね」
「あの冬月副司令よ? 何があっても不思議じゃないわ」
リツコさんは呆れたように、しかし真剣な眼差しで俺が集めた資料──ゲームのスクショや設定資料集の記述を読み込んでいる。
普通の人間なら「オカルトだ」と鼻で笑うだろう。
しかし、彼女は目の前で「魂の再構成」という自分自身の実例を体験している。否定はできない。
「……非科学的の極みね。『気合』で魂を定着させる? 自我境界を精神力だけでコントロールする? ……でも、理論上の可能性はゼロじゃない。魂が量子的な波動であるなら、観測者であるあなたの強い意志が、私たちをここに固定する『重り』になり得る」
リツコさんは白衣のポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
彼女もまた、恐怖しているのだ。
この幸せな夢が覚めて、またあの孤独なネルフの一室に戻されることを。
「やりましょう、エンジニア君。あなたと私で、この世界の理をハッキングして、運命を改竄するのよ」
「……ええ。共犯者になりましょう」
俺たちは夜な夜な、この「生存戦略」の研究に没頭した。
それは、終わりのない恐怖から逃れるための祈りにも似た行為。
もちろん、ミサトさんには内緒だ。
彼女はきっと、怒る。
「そんな地獄に、あんたまで付き合う必要はない」と。
「私たちが消えたら、あんたはここで幸せになりなさい」と、悲しい笑顔で突き放すだろう。
でも、それは違うんだ、ミサトさん。
貴女がいない世界で生きるくらいなら、俺は貴女と共に地獄を歩きたい。
それが使徒の闊歩する第三新東京市だろうが、真っ赤に染まったコア化された大地だろうが構わない。
俺はその覚悟を決めている。
だから、この不誠実な「研究」と「火遊び」は、決して彼女には悟らせない。
それが、俺ができる精一杯の、歪んだ愛の形だった。