世界の片隅で愛を紡いでいたケモノ   作:星乃 望夢

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第七話

 

魂に触れる瞬間。

 

それは自我境界(ATフィールド)が最も希薄になる時。

 

少々下世話な話かもしれないが、愛し合い、快楽の果てに心身ともに脱力しきった後の深い眠り。

 

その瞬間にこそ、俺の意識は時空を超えて、彼女たちの「核」に触れてしまうのだと確信していた。

 

夢を見る。

 

そこは第2東京大学のキャンパスか、あるいは馴染みの居酒屋か。

 

まぶしい太陽の下、若いミサトとリツコがいる。

 

そして、その輪の中心には、加持リョウジがいた。

 

「もう、加持君ったら!」

 

ミサトが心底幸せそうに笑い、加持さんの肩を叩く。

 

リツコも呆れたように、けれど優しい目で二人を見守っている。

 

俺もその場にいた。

 

「共通の友人の結婚式」に出席した、その他大勢の友人の一人として。

 

違和感はない。俺は確かにそこにいて、彼女たちと会話をしている。

 

けれど、彼女たちの瞳に映る俺は、ただの「友人A」でしかない。

 

今のように、人生を背負い合うパートナーでもなければ、共犯者でもない。

 

世界が正しく回っている証拠。

 

ミサトの隣には加持がいるのが「正史」であり、そこに俺が入り込む余地なんて、本来の歴史には1ミリも存在しないのだ。

 

その事実が、夢の中の俺の胸を、万力で締め上げるように痛めつける。

 

(俺は、ここにはいないも同然なんだ──)

 

「……っ、はぁ……」

 

心臓が早鐘を打って、俺は弾かれたように目を覚ました。

 

カーテンの隙間から、薄青い朝の光が漏れている。

 

見慣れた、俺の手で増築した我が家の寝室。

 

「……んぅ……?」

 

隣で、ミサトさんが寝返りを打ち、無防備な寝顔を俺に向けている。

 

今日は彼女が俺の隣で眠る当番の日だ。

 

温かい。柔らかい。生きている。

 

俺の心臓はまだ、夢の余韻で痛いほど脈打っている。

 

この幸せな現実は、砂上の楼閣なんじゃないか。

 

瞬き一つしたら、俺はまたあの「友人A」に戻り、彼女は加持さんの元へ、リツコさんはゲンドウの元へ還ってしまうんじゃないか。

 

「行かないで……」

 

俺は震える手で、眠っているミサトさんの背中を抱きしめた。

 

それは、愛しい女性を求める男の抱擁ではなかった。

 

大切な宝物を奪われることを恐れ、必死にしがみつく迷子の子供そのものだった。

 

「……ん……エンジニア君……? どうしたの……?」

 

寝ぼけ眼のミサトさんが、夢現の中で俺の腕に手を添える。

 

その温もりが消えないように、俺はただ強く、強く彼女の匂いを吸い込んだ。

 

この温もりが嘘になるなら、正史なんていらない。

 

俺は、この間違いだらけの優しい世界を、何としてでも守り抜かなければならない。

 

 

◇◇◇

 

 

「解脱プロトコルの解析と実証」。

 

冬月コウゾウ教授が成し遂げた、人の意志のみで魂の在り処を定義し、肉体の枷を外す神の御業。

 

その実験台は、当然ながら俺自身だ。

 

このプロトコルは、最悪の事態──二人があちらの世界へ強制送還される際に、俺という異物が同調してついていくための「裏口入学」の手続きだ。

 

ガフの部屋という、魂の故郷にして絶対的な領域。そこに、本来部外者である俺の魂を溶け込ませる。

 

ロンギヌスの槍を鍛造するよりも、カシウスの槍で世界を書き換えるよりも、遥かに繊細で困難な作業だということは、嫌というほど理解していた。

 

「……ッ、はぁ……!」

 

昼下がりのリビングで、俺はPCに向かったまま、強烈な目眩に襲われて突っ伏した。

 

最近、こういうことが増えた。

 

ただの睡眠不足じゃない。意識のブラックアウト。

 

抗えない睡魔が、俺の意識を強制的にシャットダウンし、そして気がつけば──俺は「あちら側」の夢を見ている。

 

第三新東京市の喧騒。セミの声。

 

夢の中の解像度が、日を追うごとに鮮明になっていく。

 

「……起きなさい、エンジニア君。バイタルが低下してるわ」

 

冷たい手が俺の額に触れ、俺はガバっと顔を上げた。

 

目の前には、険しい表情のリツコさんが立っている。

 

増築したラボで、俺の脳波と生体データをモニタリングしていた彼女が、溜息混じりにモニターを指差した。

 

「今の『気絶』……レム睡眠なんて生易しいものじゃないわ。あなたの自我境界の数値が、一時的に危険域まで希薄化していた。……あちら側のガフの部屋の引力に、あなたの魂が引っ張られ始めているのよ」

 

リツコさんは深刻な声で告げた。

 

「これ以上、無茶な同調を続ければ……あなたの肉体は構成を維持できなくなって、ここでLCLの水たまりになって終わるわよ。

 

本懐でしょうけど、私たちを置いて一人で逝くなんて、許さないわよ?」

 

「……分かってます。まだ、その時じゃない」

 

俺は震える手で顔を覆った。

 

成功率は上がっている。だが、制御が効かなくなってきている。

 

すると、リツコさんがふと視線を落とし、いつも吸っているタバコではなく、自身の指先をじっと見つめながら、静かに爆弾を投下した。

 

「……それにね。私も最近、見るようになったの」

 

「え……?」

 

「『あちら側』の夢よ。今までは過去の記憶として思い出していたものが……ここ数日、リアルタイムの『映像』として脳裏にフラッシュバックする。あの赤い海。崩壊したネルフ本部。……そこから、誰かが私を呼んでいるような感覚」

 

リツコさんの言葉に、俺の背筋が凍りついた。

 

俺が無理やりアクセスしようとしているから見えるだけじゃない。

 

あちら側が、彼女たちを呼び戻そうとしている。

 

この世界での「観測」の揺らぎが、限界に近づいている証拠だ。

 

「……いよいよ、時間がなくなってきたみたいね」

 

リツコさんは寂しげに笑い、俺の肩を抱いた。

 

猶予はもう、ないのかもしれない。

 

俺たちは覚悟を決めなければならなかった。この幸せな日常の終わりと、その先に待つ地獄への旅立ちを。

 

 

◇◇◇

 

 

魂の固定化プログラム、進捗率70%。

 

それは、試験飛行も済んでいない機体で成層圏へ飛び立つような、あるいは成功率の低い手術に挑むような、あまりに心許ない数値だった。

 

次に「深い眠り」に落ちれば、俺の自我境界は維持できず、魂は強制的にガフの部屋へと吸い上げられる。

 

リツコさんが弾き出したバイタルグラフの予測曲線は、明確な「死」、あるいは「消失」を示していた。

 

けれど、人間は眠らなければ生きられない。

 

浅い眠りで脳を騙し続けることも限界だった。ここ数日、ミサトさんの前で糸が切れたように意識を飛ばしたり、悪夢にうなされて飛び起きたりを繰り返していたのだから。

 

俺の顔色は、生きている人間というよりは、もはや幽霊のそれに近かっただろう。

 

だから、これが「こちらの世界」での最後の夜だと悟った。

 

「……お願いがあります。最後……ううん、今夜だけ、3人で川の字になって寝たいんです」

 

俺の唐突で、ともすれば子供じみたワガママを、ミサトさんは何も言わずに受け入れてくれた。

 

リツコさんも、呆れる素振りさえ見せず、静かに頷いてくれた。

 

俺があまりに憔悴しきっていて、今にも消えてしまいそうに見えたからかもしれない。

 

増築した広い寝室。

 

真ん中に俺。右手にミサトさん、左手にリツコさん。

 

俺は二人の手を、指と指を絡める「恋人繋ぎ」で、痛いくらいに強く握りしめた。

 

(……離さない。絶対に、離さない)

 

物理的な肉体がどうなろうと、この魂の繋がりだけは断ち切らせない。

 

その温もりを命綱にするように、俺はゆっくりと瞼を閉じた。

 

抗いようのない、深く、重い闇が俺を飲み込んでいく。

 

意識が、溶ける。

 

世界が、遠ざかる。

 

暗闇の先に、白い光があった。

 

そこに、「彼女」がいた。

 

白い巨人。あるいは、全ての母。リリス。

 

彼女は何も語らず、ただそこに在り、俺を見下ろしている。

けれど、恐怖はなかった。

 

俺は、ずっと昔からこうなることを知っていたような安らぎの中で、口を開いた。

 

「……ただいま」

 

その言葉は、声にはならず、直接イメージとして伝播した。

 

彼女──リリスからの返答もまた、言葉ではなかった。

ただ、温かい波のような肯定の意志が、俺の魂を包み込む。

 

『おかえりなさい』

 

遠くで、パシャリ、と水が跳ねる音がした。

 

LCLの海。生命のスープ。

 

俺の意識はその羊水の中へと、抵抗なく沈んでいった。

 

「……っ、はぁ!」

 

俺は弾かれたように目を覚まし、上体を起こした。

 

激しい動悸。全身にまとわりつく汗。

 

手探りで横を確認する。

 

「……いない」

 

右にも、左にも。

 

ついさっきまで握りしめていたはずの、ミサトさんとリツコさんの温もりがない。

 

それどころか、部屋の様子が違う。

 

あの手作りで増築した広い寝室ではない。

 

狭く、無機質で、生活感のないワンルーム。

 

俺は震える手で、枕元にあった見覚えのない、けれど懐かしい型番のノートパソコンを開いた。

 

起動音と共に、ディスプレイが青白く光る。

 

右下のタスクバーに表示された日付を見て、俺は息を呑んだ。

 

2015年。

 

現代ではない。

 

俺がいた「平和な世界」でもない。

 

ここは、物語の始まりの時。

 

「……成功、したのか」

 

70%の賭けに勝った。

 

俺は、彼女たちを追って、時空を超えたのだ。

 

あるいは、俺の見ていた「平和な夢」が終わり、本来あるべき残酷な現実へと戻ってきただけなのかもしれない。

 

どちらでもいい。

 

ここに、彼女たちがいる。

 

ミサトさんが、リツコさんが、この世界のどこかで戦っている。

 

「……行かなくちゃ」

 

俺は立ち上がり、椅子に掛けられていたジャケットを羽織った。

 

ポケットには財布と、身分証。

 

行き先は決まっている。

 

窓の外に広がる空は、どこまでも青く、そして不気味なほどに静かだった。

 

俺はドアを開け、一歩を踏み出す。

 

目指すは、神奈川県、箱根の地。

 

使徒迎撃専用要塞都市──第三新東京市。

 

俺たちの「本番」は、ここからだ。

 

 

 

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