魂に触れる瞬間。
それは自我境界(ATフィールド)が最も希薄になる時。
少々下世話な話かもしれないが、愛し合い、快楽の果てに心身ともに脱力しきった後の深い眠り。
その瞬間にこそ、俺の意識は時空を超えて、彼女たちの「核」に触れてしまうのだと確信していた。
夢を見る。
そこは第2東京大学のキャンパスか、あるいは馴染みの居酒屋か。
まぶしい太陽の下、若いミサトとリツコがいる。
そして、その輪の中心には、加持リョウジがいた。
「もう、加持君ったら!」
ミサトが心底幸せそうに笑い、加持さんの肩を叩く。
リツコも呆れたように、けれど優しい目で二人を見守っている。
俺もその場にいた。
「共通の友人の結婚式」に出席した、その他大勢の友人の一人として。
違和感はない。俺は確かにそこにいて、彼女たちと会話をしている。
けれど、彼女たちの瞳に映る俺は、ただの「友人A」でしかない。
今のように、人生を背負い合うパートナーでもなければ、共犯者でもない。
世界が正しく回っている証拠。
ミサトの隣には加持がいるのが「正史」であり、そこに俺が入り込む余地なんて、本来の歴史には1ミリも存在しないのだ。
その事実が、夢の中の俺の胸を、万力で締め上げるように痛めつける。
(俺は、ここにはいないも同然なんだ──)
「……っ、はぁ……」
心臓が早鐘を打って、俺は弾かれたように目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄青い朝の光が漏れている。
見慣れた、俺の手で増築した我が家の寝室。
「……んぅ……?」
隣で、ミサトさんが寝返りを打ち、無防備な寝顔を俺に向けている。
今日は彼女が俺の隣で眠る当番の日だ。
温かい。柔らかい。生きている。
俺の心臓はまだ、夢の余韻で痛いほど脈打っている。
この幸せな現実は、砂上の楼閣なんじゃないか。
瞬き一つしたら、俺はまたあの「友人A」に戻り、彼女は加持さんの元へ、リツコさんはゲンドウの元へ還ってしまうんじゃないか。
「行かないで……」
俺は震える手で、眠っているミサトさんの背中を抱きしめた。
それは、愛しい女性を求める男の抱擁ではなかった。
大切な宝物を奪われることを恐れ、必死にしがみつく迷子の子供そのものだった。
「……ん……エンジニア君……? どうしたの……?」
寝ぼけ眼のミサトさんが、夢現の中で俺の腕に手を添える。
その温もりが消えないように、俺はただ強く、強く彼女の匂いを吸い込んだ。
この温もりが嘘になるなら、正史なんていらない。
俺は、この間違いだらけの優しい世界を、何としてでも守り抜かなければならない。
◇◇◇
「解脱プロトコルの解析と実証」。
冬月コウゾウ教授が成し遂げた、人の意志のみで魂の在り処を定義し、肉体の枷を外す神の御業。
その実験台は、当然ながら俺自身だ。
このプロトコルは、最悪の事態──二人があちらの世界へ強制送還される際に、俺という異物が同調してついていくための「裏口入学」の手続きだ。
ガフの部屋という、魂の故郷にして絶対的な領域。そこに、本来部外者である俺の魂を溶け込ませる。
ロンギヌスの槍を鍛造するよりも、カシウスの槍で世界を書き換えるよりも、遥かに繊細で困難な作業だということは、嫌というほど理解していた。
「……ッ、はぁ……!」
昼下がりのリビングで、俺はPCに向かったまま、強烈な目眩に襲われて突っ伏した。
最近、こういうことが増えた。
ただの睡眠不足じゃない。意識のブラックアウト。
抗えない睡魔が、俺の意識を強制的にシャットダウンし、そして気がつけば──俺は「あちら側」の夢を見ている。
第三新東京市の喧騒。セミの声。
夢の中の解像度が、日を追うごとに鮮明になっていく。
「……起きなさい、エンジニア君。バイタルが低下してるわ」
冷たい手が俺の額に触れ、俺はガバっと顔を上げた。
目の前には、険しい表情のリツコさんが立っている。
増築したラボで、俺の脳波と生体データをモニタリングしていた彼女が、溜息混じりにモニターを指差した。
「今の『気絶』……レム睡眠なんて生易しいものじゃないわ。あなたの自我境界の数値が、一時的に危険域まで希薄化していた。……あちら側のガフの部屋の引力に、あなたの魂が引っ張られ始めているのよ」
リツコさんは深刻な声で告げた。
「これ以上、無茶な同調を続ければ……あなたの肉体は構成を維持できなくなって、ここでLCLの水たまりになって終わるわよ。
本懐でしょうけど、私たちを置いて一人で逝くなんて、許さないわよ?」
「……分かってます。まだ、その時じゃない」
俺は震える手で顔を覆った。
成功率は上がっている。だが、制御が効かなくなってきている。
すると、リツコさんがふと視線を落とし、いつも吸っているタバコではなく、自身の指先をじっと見つめながら、静かに爆弾を投下した。
「……それにね。私も最近、見るようになったの」
「え……?」
「『あちら側』の夢よ。今までは過去の記憶として思い出していたものが……ここ数日、リアルタイムの『映像』として脳裏にフラッシュバックする。あの赤い海。崩壊したネルフ本部。……そこから、誰かが私を呼んでいるような感覚」
リツコさんの言葉に、俺の背筋が凍りついた。
俺が無理やりアクセスしようとしているから見えるだけじゃない。
あちら側が、彼女たちを呼び戻そうとしている。
この世界での「観測」の揺らぎが、限界に近づいている証拠だ。
「……いよいよ、時間がなくなってきたみたいね」
リツコさんは寂しげに笑い、俺の肩を抱いた。
猶予はもう、ないのかもしれない。
俺たちは覚悟を決めなければならなかった。この幸せな日常の終わりと、その先に待つ地獄への旅立ちを。
◇◇◇
魂の固定化プログラム、進捗率70%。
それは、試験飛行も済んでいない機体で成層圏へ飛び立つような、あるいは成功率の低い手術に挑むような、あまりに心許ない数値だった。
次に「深い眠り」に落ちれば、俺の自我境界は維持できず、魂は強制的にガフの部屋へと吸い上げられる。
リツコさんが弾き出したバイタルグラフの予測曲線は、明確な「死」、あるいは「消失」を示していた。
けれど、人間は眠らなければ生きられない。
浅い眠りで脳を騙し続けることも限界だった。ここ数日、ミサトさんの前で糸が切れたように意識を飛ばしたり、悪夢にうなされて飛び起きたりを繰り返していたのだから。
俺の顔色は、生きている人間というよりは、もはや幽霊のそれに近かっただろう。
だから、これが「こちらの世界」での最後の夜だと悟った。
「……お願いがあります。最後……ううん、今夜だけ、3人で川の字になって寝たいんです」
俺の唐突で、ともすれば子供じみたワガママを、ミサトさんは何も言わずに受け入れてくれた。
リツコさんも、呆れる素振りさえ見せず、静かに頷いてくれた。
俺があまりに憔悴しきっていて、今にも消えてしまいそうに見えたからかもしれない。
増築した広い寝室。
真ん中に俺。右手にミサトさん、左手にリツコさん。
俺は二人の手を、指と指を絡める「恋人繋ぎ」で、痛いくらいに強く握りしめた。
(……離さない。絶対に、離さない)
物理的な肉体がどうなろうと、この魂の繋がりだけは断ち切らせない。
その温もりを命綱にするように、俺はゆっくりと瞼を閉じた。
抗いようのない、深く、重い闇が俺を飲み込んでいく。
意識が、溶ける。
世界が、遠ざかる。
暗闇の先に、白い光があった。
そこに、「彼女」がいた。
白い巨人。あるいは、全ての母。リリス。
彼女は何も語らず、ただそこに在り、俺を見下ろしている。
けれど、恐怖はなかった。
俺は、ずっと昔からこうなることを知っていたような安らぎの中で、口を開いた。
「……ただいま」
その言葉は、声にはならず、直接イメージとして伝播した。
彼女──リリスからの返答もまた、言葉ではなかった。
ただ、温かい波のような肯定の意志が、俺の魂を包み込む。
『おかえりなさい』
遠くで、パシャリ、と水が跳ねる音がした。
LCLの海。生命のスープ。
俺の意識はその羊水の中へと、抵抗なく沈んでいった。
「……っ、はぁ!」
俺は弾かれたように目を覚まし、上体を起こした。
激しい動悸。全身にまとわりつく汗。
手探りで横を確認する。
「……いない」
右にも、左にも。
ついさっきまで握りしめていたはずの、ミサトさんとリツコさんの温もりがない。
それどころか、部屋の様子が違う。
あの手作りで増築した広い寝室ではない。
狭く、無機質で、生活感のないワンルーム。
俺は震える手で、枕元にあった見覚えのない、けれど懐かしい型番のノートパソコンを開いた。
起動音と共に、ディスプレイが青白く光る。
右下のタスクバーに表示された日付を見て、俺は息を呑んだ。
2015年。
現代ではない。
俺がいた「平和な世界」でもない。
ここは、物語の始まりの時。
「……成功、したのか」
70%の賭けに勝った。
俺は、彼女たちを追って、時空を超えたのだ。
あるいは、俺の見ていた「平和な夢」が終わり、本来あるべき残酷な現実へと戻ってきただけなのかもしれない。
どちらでもいい。
ここに、彼女たちがいる。
ミサトさんが、リツコさんが、この世界のどこかで戦っている。
「……行かなくちゃ」
俺は立ち上がり、椅子に掛けられていたジャケットを羽織った。
ポケットには財布と、身分証。
行き先は決まっている。
窓の外に広がる空は、どこまでも青く、そして不気味なほどに静かだった。
俺はドアを開け、一歩を踏み出す。
目指すは、神奈川県、箱根の地。
使徒迎撃専用要塞都市──第三新東京市。
俺たちの「本番」は、ここからだ。